第7話 決断のとき
7-1
まだ夜の明けきらぬ薄暗い町を、猫耳少女はひた走った。
すれ違う人の数は極端に少なく、そのうえ皆ぐったりとしていて、生気を欠いている。だからフードをすっぽりかぶり、俯きがちに進む少女に、気を留める者はいない。
つい先ほどまで滞在していた家から、少女は二つのものを拝借した。
ひとつは半袖のジップパーカー。これは早速、着させてもらっている。
もうひとつは、印台型の指輪である。指輪は黒檀のように光る金属で作られており、横に長い小判型のトップには、精緻な幾何学模様が彫り込まれていた。
少女は指輪を、故郷で何度も見掛けたことがあった。魔王を描いた数々の絵の中で、必ずその指を飾っているのだ。
つまり、魔王の指輪。なぜそんなものが異世界の、自分を助けてくれた男の家にあったのかは分からない。理由に思い至る前に体が動き、こっそりそれを盗んでいた。
猫耳少女の旅の目的は、魔王である。
魔王を探し出し、倒す――。
しかし「異界の扉」をくぐったまでは良かったが、この世界に潜伏しているはずの肝心の魔王とは、未だ対面できていなかった。
――近くにいるのは、確かなんだ。
神の道具といわれている、あの「異界の扉」が運んでくれたのだ。間違いはないはず。
しかしひとつ誤算があった。魔王は「魔王」というくらいなのだから、会えばすぐ分かるだろう。そう思い込んでいたが、しかしもし奴がこちらの世界の一般人に擬態しているならば、見破ることは難しいのではないか――。
数日前、猫耳少女が「異界の扉」に吐き出された先は、オフィス街のど真ん中だった。
ビルの谷間に身を潜めながら、少女は道行くビジネスマンたちに目を凝らした。
しかし平べったい目鼻立ちに、似たような服装をしているこちら側の人々は、全員同じ顔に見える。見分けがつかないのだ。
――もしかしたらあの中に魔王がいたかもしれないのに、みすみす見逃してしまっていたかもしれない……!
どうやったら魔王を見つけられるのか。ここで頼りになるのが、こっそり持ち出してきた魔王の指輪である。
猫耳少女は歩道の端に寄ると、周りに人がいないことを確かめて、魔王の指輪を手のひらに乗せた。そして目を閉じ、指輪に宿った魔力を探る。魔王の持ち物なのだから強大な力が残っていると思ったのに、かけらもない。だが、かの王が使役していた、精霊の気配を感じる。
――なんだ、これは……!
指輪を乗せた手が、ガクガクと震えた。火に、水に、風に、土に――。全ての属性を兼ね備え、尚且つこれほど大きな力を持つ精霊のことを、少女は今まで見たことも聞いたこともなかった。
さすが魔王と称えるべきか。指輪に残された超高位精霊の強烈な魔力に怯えながら、呪文を唱える。
「精霊の主のもとへ、導け!」
次の瞬間、魔王の指輪からは一筋の光が放たれた。光が指し示すその方向へ、猫耳少女は歩き出す。
走ったり飛び跳ねたり、幼い頃から体を動かすことが好きだった猫耳少女は、しかしよく机に縛りつけられたものだ。家族から、魔法を覚えることを、強要されたのである。
発端は高祖母だ。自身は一切素養がなかったくせに、なんでも恩人が魔法使いだったとかで、「魔法こそ最強!」との持論を振りかざす人だったらしい。
高祖母は、だから自分の子供たちや孫に、無理にでも魔法を習得させた。その流れで玄孫に当たる少女も、魔法を学ばされる羽目になったのだ。
そのような家族の教育方針について、猫耳少女は「自分のやりたいようにやらせてくれないなんて」と反発も覚えた。しかし今、実際に役に立っていることを考えると、無駄ではなかったのだろう。先ほどは人探しの呪文を唱えることができたし、遡れば「異界の扉」を開くこともできたし、いざこちらの世界に着いたときも、既知の知識を走査することができた。そう、猫耳少女が異界の言葉に困らないのは、こちらで知り合った男の記憶を魔法で読み取ったからだ。
――礼も言わず、飛び出してきてしまったな……。
早水 大祐。自分を助けてくれた彼のことを思うと、胸が痛む。
あんなに親切にしてくれたのに、なんの恩返しもせず、逃げるように出てきてしまった。
――でもどうして大祐は、魔王の指輪なんて持ってたんだろう……?
本当は問い質したかったが、指輪を取り上げられては困るので聞けなかった。
「……………………」
猫耳少女は辺りを見回した。背の高い頑丈そうな家々が建ち並び、自分の影が映る地面は、歩きやすいように平たく整備されている。往来は人だけではなく、二輪車や四足の鉄の塊も行き交う。
――骸が転がっているなんて、物騒なことはない。気を抜けば襲われ、火を放たれる、自分の故郷とは違うのだ。
しかしこんなにも平和で文化水準の高い国に暮らしながら、大祐は幸せそうに見えなかった。
贅沢だ、甘ったれだ。そう思えて憤慨し、猫耳少女は大祐にひどいことを言ってしまった。だが冷静になって考えてみれば、彼にだって複雑な事情があったのかもしれない。
少し太り気味だったが健康そうで、知能が足りないわけでもない。いくらでも学べるだろうし働けるだろうに、大祐は家に閉じこもり、別の世界へ逃げ出したいと言っていた――。
背を丸めて、大きいのから小さいの、様々な光る画面を眺めていた彼の寂しそうな姿を思い出して、もう一度目をやれば、周囲の景色が歪んで見える。
夏の朝は蒸し暑いはずなのに、寒気がして、猫耳少女は両腕をそっとさすった。
――早く帰りたい。
少女のいた世界は地獄のようであったが、もしかしたらここだって、負けず劣らず暮らしにくいのかもしれない。
――魔王を見つけなければ。
猫耳少女の足取りは早くなる。
その日の太陽は落ちて、夕刻のことである。
料理が美味しいと評判のイタリアンバルで、風吹たちは盛り上がっていた。来月結婚するA子の、お祝い会である。
「ねえねえ、どんな人なのよ、相手は~?」
「ふつーの会社員。営業と販売やってる人だよ~」
「お給料は?」
「私よりちょっともらってるくらいかな~」
酒が回り、ほどほど賑やかに、女たちは盛り上がっている。
唯一の男性であるD太は、同僚たちの会話にも興味がなさそうだ。酒が苦手だからほとんど飲まず、箸を活発に動かしている。
D太はこのような場では、いつも傍観者だ。周りの空気に馴染もうとしない。
「いいなーいいなー、結婚」
一分間に一度は歌うように言い、B子とC子はさりげなくD太の反応を探る。この女子二人は、D太が好きなのだ。
D太はといえば、店自慢の和牛のタタキにちまちまとわさびを乗せては、口に運んでいる。女たちの視線に気づいているのかいないのか、時折うるさそうに眉をひそめるだけだ。
一方風吹は、ひたすらグラスを傾けている。伝票にずらりと並ぶアルコール類の七割は、彼女が消費したものだ。
「ねーねー、プロポーズはどんな感じだったの?」
「俺の味噌汁を作ってください的なへりくだった感じ? 黙って俺について来い的な俺様な感じ?」
「ふふふ」
本日の主役であるA子は意味ありげに間を溜め、そして答えた。
「――フラッシュモブ」
一拍置いてから一同は目を剥き、爆笑した。
「ふふふフラッシュモブ! なにそれ、なにそれ! なつかしーーー!」
「あんな恥ずかしいこと、本当にやってる人がイターーー!」
「あっはっはっは!」
A子は眦を吊り上げ、ヤケ気味に笑っている。
「そうだよ! 公園のベンチでお茶飲んでたら、周りの人たちがいきなり歌い出してさ! みんな、彼の同僚とか友達だったんだけどね! もうびっくりだよ! あんな風に歌って踊られたら、断れないよね! 卑怯!」
ひとしきり笑ってから、女たちはプロポーズを話題に各々語り出した。
「そういう賑やかなのも思い出に残りそうだけどさあ、私はもっと地味なのがいいなあ。さりげなく通帳を見せてくれて、これだけ貯まったから結婚しようって」
「あからさま過ぎ! 私だったら、そうだなー、二人の思い出の場所に行ってさあ……」
部下たちの会話に耳を預けながら、風吹は爽やかな風味のイタリアンワインを楽しんだ。
――プロポーズかー。
風吹だって昔は、映画やドラマに出てくる素敵な求婚のシーンに、胸をときめかせたものだ。特に心を奪われたのは、男性が跪き、前に突き出した両手を貝のように上下に開くと、そこには指輪のケースがあって――などと、うっとりと妄想に浸っているところへ、部下たちから話を振られた。
「ねえねえ、次はきっと主任の番ですよ!」
「そうですよ! この中で彼氏がいるの、あとは主任だけですし」
「いや、まあ、はは……」
風吹は笑って誤魔化すが、部下たちの追及の手は緩まなかった。
「主任の彼氏、どんな人なんです? 年齢は? どんなお仕事してるんですか?」
「……………………」
こんな簡単な質問にも答えられないなんて、やっぱりイズーとの関係には問題があるのかもしれない……。というか、アレを彼氏としてしまっていいのだろうか。まず、そこからである。
風吹は顔を引きつらせながら答えた。
「えーと、年下で……多分」
「年下!」
部下たちは色めきたった。
「ありですよ、あり! 年下あり!」
「やっぱり~! 主任みたいな大人の女性には、年下の男の子のほうがいいですよね! お似合い!」
「そうかなあ……?」
女性陣がきゃっきゃっとはしゃいでいる横で、D太だけは鋭く、刺すような視線を向けてくる。が、風吹は気づかない。
「そういえば、主任がどんな男の人が好みか、知らなかったな~」
「聞きたい、聞きたい!」
「んー……。あんまりこれ! っていうのがないんだよね」
「そうなんですかあ?」
そのとおり、風吹には好みのタイプというものがない。とんでもなくだらしないとか、不潔だとかはお断りしたいが、それ以外で気が合えば、大体OKなのだ。
「もっと聞かせてくださいよ~! 彼氏さんのこと!」
「そうそう、彼氏さんのどこが好きですか?」
「うーん……。優しいところかなあ」
つき合っていると言っていいのかどうかはともかく、風吹と身元不明無職のイズーの関係が続いている理由は、その辺にあるのかもしれない。
イズーは風吹のことを想って、尽くしてくれる。だから怪しくても、許してしまう。
「優しいかあ~……」
部下たちからは賛否両論だったようで、頷いている者もいれば、少し不満そうな顔をしている者もいる。後者の気持ちも、風吹は理解できた。
男性に対し、優しさよりも力強さを求める女性は多い。自分を引っ張っていってくれるような男が理想であり、そしてそんな男を支えることが女の役目だと。古風な考えではあるが、そういった関係に憧れる女性も未だ多いのだろう。
「あ、じゃあじゃあ、嫌いなタイプは?」
「私はケチくさいのがダメかも。セコい男ね」
「分かる分かる! おごってくれとは言わないけど、一円単位で割り勘とか、そういうのは嫌だ」
「主任は?」
水を向けられて、風吹の記憶は再び過去に飛んだ。
「えーと……。元カレみたいな男かな~」
「えー、元カレさん、なにやらかしたんです?」
「いやーそれがさあ。大学時代の彼なんだけど。私、一人暮らししてたんだけどね」
空になったグラスをぶらぶらと振りながら、風吹は思い出したことをそのまま話した。
「私の部屋に女連れ込んで、まあ、そーいうことを致してたんだよね。いやー、あれはショックというか、気持ち悪かった」
しばし場が静まり返る。
少々酔っていたせいか、生々しいことをうっかりぶち撒けてしまったか。風吹が焦っていると、火が点いたように猛然と部下たちが怒り出した。
「なにそれ! さいてい! 元カレ、ド屑ですね!」
「人として終わってる!」
「主任、つらかったですね。それ、ひど過ぎる~!」
A子B子C子が叫ぶ合間に、D太がぽつりと発言する。
「でも、そういう男を選んだのも、主任でしょ? ある意味、自業自得じゃないんですか?」
「またあんたはそういうことを……!」
「いるよねー! いじめはいじめられるほうも悪い的な、頭悪いこと言う奴ー!」
火に油を注がれたように、女子たちはますます猛った。
「まあまあ。そのとおりだよ。私も若かったし、男を見る目がなかったんだよ~」
部下たちをなだめながら、風吹は思った。
じゃあ歳を取った今なら、少しは男を見る目も養われただろうか。
イズーなら大丈夫だと――彼を信じてもいいのだろうか……。
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