3-4(完)

 ――だが、そんなに怒らなくたっていいじゃないか。


「よいしょっと……」


 ソファからフローリングの床に降りると、風吹は捲り上がったスカートを元に戻した。そのまま汚れていないか、変なシワが寄っていないか、下半身を一通り点検していると、イズーの反抗的なつぶやきが聞こえてきた。


「子供ができたって、いいだろ……」

「え?」


 イズーは俯いたままだったが、風吹の目が自分に向いたのを察したのか、びくっと体を強張らせた。叱られることに怯える幼子のようだ。

 イズーは避妊に積極的ではない。風吹がどうしてもと命令するから、セックスするときはいつもあの窮屈な避妊具をつけているだけだ。

 でも本当は、自然のまま風吹を抱きたい。その理由は快楽を追いたいだとか身勝手なものではなく、もっと純粋だった。

 愛しているからこそ抱きたいし、子供を産んで欲しい。そして二人の愛の結晶を一緒に育てていく。そんな素晴らしいことを、どうして風吹は避けようとするんだろう。

 一方、風吹は絶句していた。

 無職の居候のくせに、いっちょまえに女を孕ませようなんて。どこまで無責任で、鬼畜なんだろう。

 ――いや。

 イズーはそんな男ではないはずだ。たった一週間やそこらでなにが分かると笑われるかもしれないが、しかし彼が正真正銘のクズならば、自ら家事を引き受けようとか、そういった気遣いすら見せないのではないか。

 イズーは自分を労ってくれている。だから余計、風吹には彼の真意が分からない。


「イズー。そんな簡単に言わないでよ……」


 風吹は困ったように諌めるが、イズーも負けじと言い返した。


「俺の子を産むのが嫌なのか?」

「そういう問題じゃないでしょう?」

「愛しい女に自分の子供を産んでもらいたいと思うのは、こちらの世界ではそんなに変なことなのか?」


 ――「愛しい女」。また、愛、だ。


 風吹は唇を噛み、イズーの顔を見上げた。まっすぐ視線を返してくるイズーの青い瞳は濁りなく澄んでおり、なんの邪心も潜んでいない。あまりの清々しさに正視できず、風吹は眩しそうに目を逸らした。


 ――私がすごくひどい女みたいじゃない……。


 確かにそうかもしれない。イズーを拾ったはいいが、先のことなんてなにも考えていなかったのだから。

 ちょっと好みの男を家に置いて、楽しく過ごせれば、自分にとっても彼にとっても利はあるのではないか。その程度の思いつきだったのだ。それがイズーは、いつの間にか一途に、自分に恋してくれていたようで……。

 しかし。

 正体不明の、無職の男の、子供を産む。そんな波も風も立ちまくるだろう波乱万丈の人生を、風吹は歩むつもりはなかった。


「そうか……。お前は別に、俺のことが好きではないんだな……」


 風吹の表情を見てなにかを悟ったのか、イズーは下を向いてしまった。


 ――出て行ってもらったほうがいいんだろうか……。


 風吹は迷った。

 見捨てたりしたくはないが、イズーの気持ちに応えてあげることはできない。せめて彼が何者か分かれば、もうちょっと理解できるのかもしれないが。


『今度「愛してる」だのなんだの迫ってきたら、「あなたのことを教えて!」って問い詰めてみようかな~』


 そういえば、昼間そんなことを考えていた。風吹は思い出し、尋ねてみることにした。


「ねえ、イズー。あなたはどういう人なの?」

「どういうとは、どういう……? どんな仕事をしてた、とかか?」


 仕事なんて言葉が出てくるくらいだから、故郷では働いていたのだろうか。「働いたら負け」が信念の、筋金入りのニートだったらどうしようと思っていたから、風吹は少しホッとした。


「うん、そう。どんな職業に就いてたとか、どこの国の生まれとか……。もちろん嫌なら言わなくてもいいんだけど、良かったら教えて」


 風吹はもう、怒っていないのだろうか。イズーは彼女の優しそうな笑顔に見惚れながら、妙に下半身が寒いことに気づいた。そういえば事後そのままで、フルチンだった……。


「パンツを履いてもいいか?」

「あ、うん」


 風吹に尻を向けて、もそもそと陰部を拭き清める。虚しい作業に勤しみながら、イズーは思案に暮れた。

 元々、自らについて、詳らかに語るつもりはなかった。

 こちらの世界には魔法使いという職業はないし、魔王や勇者だっていない。魔法は一般的なものではなく、使える者は皆無のようだ。しかも魔法の存在を信じる人々は「オタク」と呼ばれ、異端者として扱われているらしい。

 そんな状況だ。本当のことを言ったって、信じてもらえるかどうか――。

 しかしこのまま黙っていれば、かえって怪しまれるだろうか。もしかしたら、この部屋を追い出されてしまうかもしれない。


 ――どうするか……。


 下着とハーフパンツを腰まで上げて、イズーは風吹を振り返った。風吹は穏やかな微笑を湛えたままだ。

 イズーの心は決まった。


 ――これ以上、隠してはおけない。正直に言ってしまおう……!


 イズーは颯爽と姿勢を正した。


「驚かないで聞いて欲しい。実は俺は――」


 正体を明かすことに不安もあったが、同時に誇らしくもあった。この世界ではただの穀潰しだが、元いたところでは皆に賞賛され、大いに尊敬を集めた――。


「――魔法使いなんだ」

「えっ」


 風吹は目を見開いたかと思うと、やがてゆるゆるとそれを細めた。同時に彼女の黒い瞳には、微妙な温度の光が宿った。冷たくもなく、かといって温かくもない、中途半端な……。


「なんだ、その目は」


 もっと驚くとか、騒ぐとかあるだろうに。風吹の反応に納得いかず、イズーは問いただす。しかし風吹はなにかを噛み締めるように、ゆっくり頷くだけだ。


「うん。……うん」

「お前、信じてないだろ」


 イズーは腹を立てた。しかしこれも、魔法が公に認知されていないせいだろう。やすやすと信じてもらえないのは、想定内のことだ。だが証拠を見せれば、風吹だって信じざるを得ないはずである。


「よし、見てろよ」


 イズーは腕を突き出し、素早く呪文を唱えた。昼間、難なく手のひらに出現させた炎を――しかし、なにも起こらない。


「……うん」


 風吹は大きくこっくりと顎を下げた。イズーは焦る。


「なんでだ!?」


 もう一度呪文を唱えてみても、やはりうんともすんとも言わない。何度試してみても、結果は同じだった。

 歯磨き粉だとかマヨネーズだとか、先が詰まってしまったチューブを必死に絞る感覚に似ている。中身があるのは分かっているのに、どうしても出てきてくれないのだ。


「くそっ! ちょ、ちょっと待ってくれ!」


 イズーは呪文の詠唱を続けたが、風吹はもう興味を失ったらしく、床に落ちた下着やストッキングを拾っている。


「ゆっくりやってていいよ。私、着替えてくるね」


 そう言い残して、風吹は寝室へ消えた。


「この……! 出ろっ!」


 ひとりきりになった居間で、イズーは力いっぱい呪文を唱える。その絶叫に応えるかのように、突然、炎が噴き出た。


「うわっ!?」


 さっきまでは、煙のひとつも出なかったのに。イズーは間一髪、自分の手のひらから高く上がった炎を避けた。このままでは火災報知機が鳴りかねないので、一旦引っ込める。


 ――危うく自分の魔法で死ぬところだった……。


 そんなことになっていたら、末代までの語り草である。

 しかし、まあ、良かった。魔力が消え失せてしまったわけではないようだ。


 ――でも、どうして、さっきは……?


 考え込んでいるうちに、ラフな部屋着に着替えた風吹が戻ってくる。


「風吹、見てくれ! 今度こそ……! ほら!」


 イズーは意気揚々と風吹の前へ手のひらを置き、再び呪文を唱えた。

 しかし今度はなにも出ない。


「なんでだ!」


 イズーは怒鳴った。風吹はそんなイズーを見て、不審がるのを通り越し、気の毒そうな顔つきになった。


 ――そういえば、それっぽい格好してたなあ。


 初めて出会ったとき、イズーは隣の駅の歩道橋の上で、途方に暮れたように佇んでいた。彼がそのとき着ていたのは、頭からくるぶしまでをすっぽりと覆うボロ布のような服で、ゲームやマンガの登場人物が着ているコスチュームに似ていた。

 つまり――。


 ――こじらせちゃったんだなあ。


 中二病。その名のとおり、一種の病なのだ。

 イズーはきいきい喚いている。


「本当なんだ! 本当なんだってば!」

「うんうん。えーと、魔法使い? だっけ?」

「信じてないだろ! 俺は泣く子も黙る、魔導師様で……!」

「なるほどー。でももうそれはいいから、あなたの故郷について聞かせてくれる? どこから来たの?」


 風吹の新たな問いに、イズーは即答した。


「こことは異なる世界だ! 魔王の支配から解き放たれた、七つの王国の……! 俺は『魔の民』と呼ばれし、呪われた一族で……!」

「……………………そうなんだ」


 風吹は曖昧に笑っている。イズーは激しく首を振った。


「違う! お前は誤解している! 俺は本物なんだ! 本当に本物の魔法使いなんだ!」


 地団駄を踏みながら、イズーは懸命に考えた。

 魔法が成功したときと、失敗したときの、違いはなんだ。


 ――風吹だ。


 風吹がいたか、いないか……。

 イズーは口をぴたりと閉じ、風吹を凝視した。彼女の瞳の奥に一瞬だけ奇妙な、だがどこかで見たことのある模様が浮かび、そして消えた。


 ――魅了の術を跳ね返されたときと、同じだ……!


 イズーは風吹の肩を掴んだ。


「お前はいったいなんだ!? 何者なんだ!?」

「やだなー! それは私が君に聞いてるんじゃない!」


 風吹は唇を尖らせている。別に演技をしているでも、なにかを隠している様子もなく、ごくごく普通。いつもどおりの風吹だった。


 ――無意識なのか。


 しかし魔導師と呼ばれた自分の術を跳ね返しただけでなく、そのほかの呪文すら封じるなんて、いったい――。

 意識した途端恐ろしくなり、イズーは動けなくなった。


 ――もしかしたら俺は、とんでもないバケモノと暮らしているのかもしれない……!


 イズーの狼狽をよそに、風吹はぱっと顔をほころばせた。


「あっ! じゃあ、さっきの幽霊の話もそう? 君の妄想なのかな?」

「ち、が、う! 妄想じゃない! 魔法の話も、幽霊の話も、全部本当のことだ!」

「うんうん、そうだね。あー、良かった。びっくりした」


 風吹はすっかりイズーの話を、ホラか妄言だと決めつけている。悔しさのあまり、イズーは台所の方角を向き、しばらく目を瞑った。集中すれば、か細い声が聞こえてくる。どうやら人ならざるものを見る、声を聞く、その能力は封じられていないようだ。


「――お前がこの部屋に入るまで、立て続けに引っ越しが四回。三十代男性が一ヶ月、四十代男性が二ヶ月、二十代の夫婦が二週間、最後が五十代の男性が三ヶ月。入居してはすぐ、逃げるように退去している」

「えっ……?」

「ここを出て行ったそいつらも、俺と同じものが見えたんじゃないのか?」


 イズーは腕を組み、得意げに笑った。風吹は顔を青くし、探るようにこわごわと辺りを見回している。


「あの、本当なの……? 本当に見えてるの? ていうか、まだいるの?」

「いる」

「さっきそこで、アレしたのに!?」


 つまり幽霊たちが見ている前で、二人は交わったわけだ。


「気にすることはないだろう。相手は生きている人間じゃないんだから」

「……!」


 風吹は目を白黒させたかと思うと、最後はふにゃっと眉と目尻を下げ、泣き出した。


「やだよー! 怖いよ!」

「お前には見えてないんだろ? なら、いいじゃないか」

「良くない! むしろ、見えないから怖い!」


 風吹はイズーの胸に抱きついた。いつもしっかりしている女性だから、こんなに怯えた、弱々しいところを見るのは初めてで、イズーの顔は思わず緩む。


「よしよし。俺がついていれば大丈夫だ。あいつらがなにかしようとしても、追い払ってやるから」

「……うん」

「さ、そろそろ寝よう。夜中にトイレに行きたくなっても、ついて行ってやるからな」

「……うん」


 イズーは風吹の肩を抱き、寝室へ向かった。

 こうして、直前にまで迫っていたかもしれない二人の別れは、うやむやのまま回避されたのだった。





~ 終 ~


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