番外編3

 まだ夜は明けきらない。遠慮がちに輝く朝日に向かって、青年は歩く。

 いつもならば眠くて、安宿の固いベッドから出られず、うだうだと無為に時を過ごしていただろう。しかし今日はいてもたってもいられず、飛び出してきてしまった。

 なんの手掛かりもなく暗中模索していたある面倒ごとが、ようやく解決しそうなのだ。

 ――早く試したい。気が逸って、抑えることができなかった。身に着けている、いつもは重く感じる立派な鎧も、今日は背中に羽が生えているかのように、軽く感じられた。

 結局いつもより二時間も早く、青年は町外れの空き家へ着いた。この家の二階に、目的の場所――魔王城へ繋がる魔法陣を隠してあるのだ。

 家の中へ入ると、真横で影が動いた気がした。驚いて目をやれば、そこにあったのは鏡だ。マヌケなことに自分は、鏡に映った己の姿にびっくりしたらしい。壁に立て掛けられた、全身が映るほどの大きな鏡を、青年はまじまじと眺めた。

 あまりに冴えない……。青年は気まずそうに、髪などいじってみた。

 床屋にはずっと行っていない。伸びっぱなしの真っ黒な剛毛が、もこもこ膨らんでいる。顔には無精髭が伸びていて汚らしい。目にも生気がなく、口元はたるみ、我ながら不細工極まりなかった。


 ――こんなツラして、勇者なんて名乗ってるんだからなあ……。


 一度気になってしまうとどうしようもなくて、青年はしつこく髪や髭に触れながら、二階へ上った。





 生まれたときから、青年は勇者として育てられた。ただ泣いて眠る赤ん坊の時分から、既に彼は世界を救う英雄として、その定めを背負っていたのである。

 青年が勇者に選ばれた理由は、単純にして明快だった。

「そういう家に生まれたから」だ。

 青年の住む世界において、勇者とは、優れた人格または能力を有するといったような条件で成るものではない。その家系に生まれた者が優性遺伝として代々受け継ぐ、ある特殊な体質が備わった男子が選ばれるのだ。

 周囲は選ばれし者だなんだと褒めそやしてくれるが、実際は勇者の家に生まれた健康な男ならなんでもいいと、そういうわけである。


 ――だったら、俺じゃなくたって。


 心が弱ったとき、勇者はいつもちらりとそんなことを思う。


 ――いや、それはただの「逃げ」だ……。


 勇者の役目は、魔物の王「魔王」を倒すこと。勇者の一族はその対価として、世界各国から長い間、莫大な恩賞金を受け取り続けている。それをなかったことにして、逃げ出すことなんてできない。面目を潰した自分の身内を含め、世界中の人間から、恨まれてしまうだろうから……。


 勇者は魔王の住まい「真紅城」の地下へと続く階段を下った。

「開扉の間」へ降り立つが、人の気配はない。

 なにしろまだ朝は早く、仲間たちもさすがに集まっていなかった。


「もう百年も消えたままの魔王を、異世界へ迎えに行くなどと、余計なことを企てた魔法使いがいる」。

 そのようなタレコミがあってから、勇者は速やかに仲間を集め、魔法使いの追跡を始めた。

 問題の魔法使いの素性は、すぐに判明した。世界で唯一人、「魔導師」の称号を持つ男。名は、イズー。大物権力者たちが先を争い助力を乞う、大変な有名人である。

 イズーを探索した勇者たちは、しかしあと一歩のところで逃げられてしまった。

 当然あとを追わなければならないが、イズーの逃亡先である異世界へは、どうやって行ったらいいのか分からなかった。魔王城地下の「開扉の間」にて呪文を唱え、出現した取っ手を動かす。そこまでは判明しているのだが、取っ手の動かし方にも手順があるようで、闇雲に試してみてもなにも起こらないのだ。

 だからひとつひとつ確かめて――おかげで勇者は魔王城の地下で、数ヶ月もの間、焦燥の日々を送る羽目となった。

 早くしなければ、魔王が戻ってきてしまう。ストレスのあまり胃は痛めるわ、眠れなくなるわと、勇者は心も体もボロボロになった。そんな彼を助け、支えてくれたのは、頼もしい仲間たちだ。

 僧侶、魔法使い、盗賊。

 三人はそれぞれの道のエキスパートであり、個性的ではあるが、優秀だった。

 ただし盗賊の少年だけは、家庭の事情とかで既に故郷に帰ってしまったのだが。当時勇者は過労のため臥せっていたため、別れの挨拶ができなかった。それが今でも心残りである。

 そしてとうとう残った仲間のうち、魔法使いが、「異界の扉」の開き方を探し当ててくれた。うまくすれば今日ようやく、魔導師イズーを追うために、異世界へ旅立てるだろう。


 ――それにしてもまさか、目に見えないボタンが、二つもあるとは思わなかった……!


 魔法使いが調べた「異界の扉」の開き方によると、魔法の取っ手の下には透明の突起が二つあり、右を「Aボタン」、左を「Bボタン」と呼ぶそうだ。そして、取っ手を「上上下下左右左右」の順で動かしてから、素早く「Bボタン」と「Aボタン」を押す。これが正解だったのだ……!


 ――そんなもん、分かるか!


 そのあまりに複雑怪奇な解呪方法は、自力では到底解けなかっただろう。だからこそ、謎を突き止めてくれた魔法使いに、勇者は大いに感謝している。


 そう、仲間。魔法使いと僧侶。彼らには、随分気を使わせてしまった。大人だから表向きはなにごともないように接しているが、勇者はとっくに気づいているのだ。

 つまり。


 ――魔法使いと僧侶は、ものすごく仲が悪い!


 二人はどこかよそよそしいかと思えば、ふとしたきっかけで本音をぶつけ合う。その激しさと遠慮のなさは、勇者でも呆気に取られるほどだ。

 当然かもしれない。ちょっと考えれば分かる話だ。聖職者でカタブツの僧侶と、享楽的で派手な女魔法使い。そんな二人が仲良くなれるわけがないのだ。犬猿の仲だろう彼らのためにも、とっととこの旅を終わらせてやらなければ。


 ――二人が来る前に、ちょっと予行練習をしておこうか。


 勇者は「異界の扉」が封印されているはずの、石壁の前に立った。呪文を唱えると、取っ手が現れる。それを握った。


「上上下下左右左右BA……と」


 ひとつずつ間違いなく操作し終えると、今までなんの変化もなかった石壁が、忽然と消えた。


「おお……!」


 目の前にぽっかり現れた巨大な空間に、勇者は感嘆の声を上げた。

 あとはこの中に入ればいいだけのはずだ。

 もちろん、仲間たちを待つつもりだった。しかしなぜか石壁が消えた先に現れた真っ暗な穴を眺めていると、足が勝手に動く。

 誰かに呼ばれているような――。

 引き寄せられるようにふらふらと、勇者はそこ――すなわち「異界の扉」をくぐってしまった。

 数歩進むと、音もなく背後が塞がり、辺りは完全な闇に包まれた。勇者はようやく正気に戻った。


 ――しまった!


「異界の扉」の中は、自分の体すら見えないほど暗い。先に進むことも後ろに戻ることもできず、勇者は立ち尽くした。するとどこかから、声が聞こえてくる。


「どこへ行きたい?」


 そんなの決まっている。

 魔王を探しに行った、あの愚かな魔法使いのもとへ。魔導師イズーを捕まえて、ふんじばって、連れ帰ってこなければ。

 そう思うのに、なぜか勇者の頭の中で、その決意は溶けてしまった。

 それだけではない。あらゆる思考に霞がかり、ぐにゃぐにゃと歪む。

 勇者は自分が誰で、なにを考えているのか、分からなくなった。

 ただ、口だけが動く。


「おれがゆうしゃになれるところへ」


 その答えに応じるように、辺りは眩い光で満ち、勇者は堪え切れず瞼を閉じた。





 剣も魔法も、旅に必要な知識も、幼い頃から叩き込まれた。だがどれもそこそこしか、身につかなかったのだ。

 当たり前だろう。自分は平凡な人間だ。ひとつを極めるのだって難しいのに、なにもかも全部会得しようなんて、無理に決まっている。

 優秀な仲間たちと共に過ごせば、自分の中途半端さが身に染みて、いつもつらかった。


 勇者のつとめ。それは魔王と戦い、勝てずとも、彼奴の力を少しでも削ぐことだ。

 魔王を弱らせ、人類の繁栄のために、しばらく表舞台から消えてもらう。

 魔王は当然、強力な敵だから、戦えば倒れるのは勇者のほうだ。その命が絶えようとも、同じ家系の誰かが新たな勇者となって、再び立つ。そしてまた、魔王と戦って――。

 現在の勇者には弟が二人いるし、親戚にも何人か勇者の特徴を受け継ぐ男子がいる。

 そう、代わりならいくらでもいるのだ。ならば――。


 ――半端者の俺じゃなくてもいいじゃないか……。


 死ぬのが怖いのではない。

 自分の人生に、意味を見出せないのだ。


 ――俺だけにできることがしたい……。





 ちょろちょろと、小さなせせらぎの音が聞こえる。

 心地いい。このまま眠っていたい。

 だが急にけたたましく吠え立てられ、耳がガンガンした。仕方なく、勇者は体を起こす。

 眼前では、小川が流れている。周囲はなぜか暗い。勇者が「異界の門」をくぐったのは、早朝だったはずなのに。

 寝起きのせいでぼーっとしながら、勇者は空を見上げた。

 太陽の姿はなく、代わりに星々が瞬いている。だがその数は、勇者が知っているよりもかなり少なかった。

 見慣れない風景。空。もしかしたらここは、異世界なのだろうか。


「わんわんわん!」


 すぐ近くで獣が吠えている。勇者はそちらに顔を向けた。

 勇者の安眠を妨げたのは、一匹の犬だったようだ。恐らく雑種の、中型犬だろう。

 犬は前足を踏ん張り、力いっぱい吠え続けている。追い払おうとしたところで、誰かがその犬の頭を撫でた。

 薄暗いから気づかなかったが、犬の隣には人がいたらしい。若い女性のようだ。


『こら。いい子だから、静かにしなさい』


 聞いたことのない言葉だ。なにを言っているのか分からなかったが、とても優しい声だった。

 犬は立てた耳をへにゃりと倒し、鳴くのをやめた。


『あの、大丈夫ですか……? 倒れていたようだけど、どこかお体の具合でも……』


 犬の引き綱を握った女性が、近づいてくる。月明かりに照らされて、彼女の姿が浮かび上がった。

 おかっぱの髪に丈の長いジャンパー、膝下まであるスカートを履いて、下はソックスとスニーカー。格好は地味だったが、しかし――。


 ――美しい……!


 女性の顔を見上げた勇者の胸は、ドキンと高らかに鳴った。ほったらかしだった髪が気になり、慌てて頭を押さえる。

 勇者と飼い主を交互に見比べてから、犬は退屈そうに欠伸をした。





~ 終 ~





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