3-2





 昼休み、社内の自動販売機で飲み物を買って、風吹はロビーチェアに腰を下ろした。休憩所とは別に喫煙ルームができてから、ここで休む人の数も減った。風吹が入社した当時はおじさまたちで溢れかえり、近寄ることもできなかったのに、今はせいぜい二、三人が休んでいる程度だ。おかげさまでゆっくりできる。


「はー」


 冷房の効いた屋内では、温かい飲み物が美味しい。あまりエコではないのかもしれないが。風吹はミルクティーの缶のプルトップを開けて、一口飲んだ。いつの間にか冷えていた体に甘いお茶がゆったりと染みて、自然、ため息が漏れる。

 ――どうも最近、同居人との関係がおかしい。

 風吹が、自分とは肌や髪、目の色の異なる、美しいあの男を自宅に連れ帰ったのに、深い意味はなかった。ただの親切心だったのだ。

 イズー。彼が困っていたから、助けてあげたかっただけ。

 そしてイズーは風吹に懐いてくれて、放り出すのも酷だろうから家に置いてやり、現在に至る。

 彼から好意を持たれているのは分かっていた。風吹だって、イズーのことは好きだ。可愛い人だと思う。だが――。


 ――愛してる、とか言われるとねえ……。


 正直、しらけてしまうのだ。

 愛とはもっと真面目なもので、軽々しく口にするような気持ちではないのではないか。少なくとも、たった一週間とちょっと共に過ごしただけの相手に言うようなことではないと、風吹は思っている。


 ――私が古くさいだけ?


 風吹は首を傾げた。

 そもそもイズーは外国の人だ。自分とは異なる文化のもとで育った彼からしたら、「愛してる」なんてただのリップサービス、もしくは挨拶代わりだとか、もっと軽い意味合いのものだったのかもしれない。だとしたら、過剰反応してしまったことになるが。


 ――うわ、恥ずかしい……。


 自己嫌悪に、風吹の顔は赤くなる。

 現状では、イズーとこれ以上深い関係になることは不可能だ。そんなことは、彼だって分かっているはずである。

 なぜならイズーは、身元が明らかになっていない。今の彼は「謎の外国人」。はっきり言って、怪しい。

 その辺のことを、あまり突っ込んで聞いていいものかどうか。逆に知ってしまったら、こちらがマズイ立場になるような……。だから二の足を踏んでいたが、風吹はイズーの正体が段々気になってきた。


 ――今度「愛してる」だのなんだの迫ってきたら、「あなたのことを教えて!」って問い詰めてみようかな~。


 それにしても――。

 歳を取ると、気持ちや本能ではなく、頭で恋をするのだということがよく分かって、風吹は少し落ち込んでしまう。

 男に愛を囁かれたとしても、それを素直に受け入れるどころか、疑ってばかりいるのだ。

 それでも、イズーの告白が、嬉しくなかったわけではない。

「愛してる」なんて、実は初めて言われた。思い出すだけで、耳がカッと熱くなる。

 イズーの一連の言動が不快なのか、本当は喜んでいるのか、風吹は自分でもよく分からなかった。

 ただ胸の内がザワザワして、落ち着かない。こんなことは久しぶりだ。

 異性に対してドキドキするとか、恋をしてワクワクするとか――。錆びついていた心に油をさされて、ようやく動き出したような、そんな感じである。

 でもあまり浮かれないように、と自らを戒めながら紅茶の缶の残りを飲んでいると、廊下の向こうから部下の一人が歩いてきた。

 問題児、D太だ。


「あ、おつかれさまー」

「……………………」


 D太は声を掛けても答えず、風吹の前を通り過ぎた。そのまま行ってしまうのかと思えば、近くの自販機で缶コーヒーを買って戻ってきて、風吹の隣にどっかりと座る。

 コーヒーを飲みながら、D太は片手でスマートフォンを操作し始めた。


「なに見てるの?」

「興味なんてないくせに。――俺のことなんか」


 愛想なく、D太は答える。相変わらず子供っぽい返しをするな、と風吹は笑ってしまった。


「そこはまあ、ほら、大人のつき合いだからね? わざわざ隣に来て携帯いじってたら、例え興味がなくても聞いてあげるのが、礼儀だと思ってるよ」


 D太が自分の部下になってからしばらく、風吹は彼の不遜な態度にいちいちイライラしたものだ。しかしいつの間にか、すっかり慣れてしまった。

 されたことはそのまま返すのが風吹のモットーだから、気を使わず適当なことを言えるこの部下は、今は逆に楽な相手になっている。

 D太は小さく舌打ちしたあと、ボソボソ答えた。


「知り合いが昨日、SNSで悩みごとの相談をしてきたから……。なにか進展があったかと思って、見てたんです」

「へー。意外と面倒見がいいんだね」

「そいつの悩み、俺とちょっと似てたから。俺からすると、贅沢なんですけど」


 しばらくスマホの画面を眺めてから、D太はちらっと風吹の横顔を覗いた。


「そういえば……。主任、前に猫だか犬だか拾ったって言ってましたよね?」


 なぜいきなり、そんなことを聞くのだろう。

 猫だか犬だかのように拾ってきたのは実は男で、今もその彼と暮らしている。人様に胸を張って言えるようなことではないから、風吹は思わず口ごもった。


「あ、そんなこと、言ったかな……?」

「ええ、言いましたね」


 D太は断言する。なぜかD太は風吹の言ったことややったことを、記録でもしているのではないかと思うくらい、正確に覚えているのだ。


「……まさかね」

「……?」


 なにかは分からないが、自分の考えを自分で否定して、D太は苦笑している。風吹はこれ以上突っ込まれたらどうしようかと、気が気ではない。

 D太は手元のスマートフォンから顔を上げ、いきなり話題を変えた。


「今夜、空いてます? 仕事のことで、相談に乗って欲しいんですけど」

「え? いや、えーと、今日は帰りたいんだけど……」

「猫だか犬だかの世話をするために、ですか?」


 D太は唇の端を上げ、意地悪な笑みを浮かべている。


「あなたは俺の上司でしょう? 犬猫だけじゃなく、部下のこともちゃんと面倒見てくださいよ。どっちが大事なんです?」

「りょ、両方とも、大事にしたいと思ってますけど……」


 さて、どうしたものか。風吹は困った。

 誤解のもとだから、D太と退社後に二人きりになることは避けたい。うまい断り方はないものかと頭を悩ませていると、いつからいたのか、背後から女子の群れがにょっきり姿を現した。


「えー、主任とD太、飲むんですかー? うちらも行く行くー!」


 同じチームのA子、B子、C子だ。

 突然の奇襲に、D太は焦っている。


「お前ら、勝手に……!」

「えーまさか、主任とサシで飲むつもりだったの? それまずくなーい?」

「セクハラだよねー!」


 女子軍団の加勢に、風吹はいいぞ! と、拳を握り締めた。


「じゃあ、みんなでご飯食べに行こうか。でも給料日前だから、割り勘にしてね」

「もちろんです!」

「……………………」


 苦虫を噛み潰したような顔のD太の横で、A子、B子、C子が不敵に笑っている。

 風吹はいそいそと立ち上がり、部下たちから少し距離を取ると、自宅に電話をかけた。





「風吹です。今夜は会社の人たちとご飯を食べに行くことになったので、夕食はいりません。急にごめんね。よろしくお願いします」


 留守録に切り替わった電話機から、風吹の声が聞こえてくる。今すぐ駆け寄って受話器を取れば、少しだけでも彼女と話せたかもしれないが、そんな気力もなく、イズーはソファにぐったりと横たわったままだ。


 ――そうか、晩飯はいらないのか。


 なにもする気がしないから、丁度良かったかもしれない。

 浴室の頑固なカビやシミと戦おうと、洗剤類を買い込んであるのに、イズーは朝からずっとソファで横になっている。

 風吹のために、この家を清潔に、過ごしやすく保とう。そんな決意も、たった一日で萎えてしまった。


 ――俺は本当にダメな奴だ。


 重たくだるい体を、イズー自身も最初は風邪でも引いたのかと思った。しかし熱もなければ、咳も出ない。

 だとすれば、原因はひとつだろう。昨日の風吹の言葉に、ショックを受けたのだ。


 ――ああ、いやだ。こんなことで不調になるなんて、バカバカしい。


 やっぱり魔王を探し、用を済ませて、とっとと元の世界に帰ったほうがいいのではないか。

 そもそも自分がこんなにも風吹のことで頭を悩ますのは、魅了の術のせいだ。そしてその魔法は、いつ解けるか分からない。ならばいっそ、強制的に風吹と距離を取って、魅了の術の影響をなくすのが、解呪の早道なのではないか。


 ――だが、風吹と離れて、俺は生きていけるのだろうか……。


 近くにあったクッションを抱き締め、イズーはふるふると身を捩った。百九十cmもある巨体の、いい歳をした男が……色々な意味で重症である。


 ――俺は、こんな弱い人間ではなかったはずなんだが。


 イズーの脳裏に過去の栄光が蘇る。それはあまりに遠い時代のことに思えた。

 元の世界では、稀代の魔法使いと称された。戦時ともなれば、イズーさえ自分の陣営に引き入れれば勝利は約束されたものだと、権力者たちはこぞって彼の前に跪いたものだ。一国の王に、頭を下げられたことだってある。

 望むものはなんでも手に入った。金、名誉、女。

 ただし金や名誉は遠慮なく頂戴したが、女だけはお断りしていた。当時、イズーは精霊を数匹体内に飼っており、そのおかげで身体的な欲求、性欲などとも無縁だったからだ。聖人君子のような清らかな状態で、かつイズーはもともと他人に対して無関心だったから、女など邪魔としか思えなかった。


 ――あそこでガツガツ女をつまみ食いして、経験を積んでおけば、風吹の心が掴めるようになっていたのだろうか。


 風吹がなにを望んでいるのか、分からない。風吹にどうすれば好いてもらえるのか、分からない。

 なんでもできてしまう風吹の、助けになりたい。どうすれば必要としてもらえる? 頼ってもらえる? 「あなたがいなければダメなの」と、甘えてもらえるんだろう――?


 ――どうせ俺にできることなんて、魔法くらいだ。


 寝そべったまま呪文を唱え、イズーは自らの手のひらの上に、小さな炎を宿らせた。

 いっそこの力を使って、世界征服でもしてみせれば、風吹に尊敬してもらえるのだろうか。

 ――いや。

 この世界は平和で豊かだ。きっと風吹の親や、彼女に連なる先人たちが、苦労して築き上げたに違いない。そんな貴重なものをぶち壊せば、風吹は怒り狂うだろう。そして軽蔑される。嫌われる……。

 つまり風吹の生きるこの世界において、イズーの唯一の取り柄である魔法など、無用の長物なのだ。


 ――俺ってなんのために生きてるんだろう……。


 涙がこぼれそうになって、イズーは瞼を閉じた。

 なにもできない、グズでのろまな、生きている価値なんてない男。


 ――そうだ、死んでしまえ……!


 畳み掛けるように次々と、負の感情が押し寄せてくる。それらに流されそうになって、イズーははっと我に返った。


「いやいやいやいや! ちょっと待て!」


 いくら気分が落ちていても、「死んでしまえ」って、それはない。

 イズーは体を起こし、辺りを見回した。すると居間と台所との境目に見知らぬ人々がずらりと立ち並び、こちらを見ている。

 ――人々。いや正しくは、かつて人だった者たちだ。

 真っ黒な洞のような目をイズーに向け、切り裂かれたような大きな口を開き、皆ニタニタと笑っている。イズーが彼らのがわへ逝くのが、さぞ楽しみなのだろう。


「あいにくだが、俺はまだそっちにはいかん。さっさと出て行け」


 虫でも追い払うように、イズーがしっしっと手を振ると、亡者の一群はつまらなそうに顔を歪め、のろのろと歩き出した。彼らが一斉に向かった先は、台所の脇にある窓である。

 イズーが見守る中、亡者たちは次々と窓ガラスをすり抜け、外へと消えていった。

 朝からずっと体調が優れなかったのは、気鬱のせいばかりではなかったようだ。どうやら彼らの影響を受けていたらしい。

 イズーは亡者が出口に使った窓へ歩み寄り、そこを開けた。淀んだ空気を入れ替えているうちに、頭に痛みが走る。


「いててて……」


 こめかみの辺りを、イズーは手でさすった。

 この痛みには覚えがある。先日、台所で不思議な声を聞いたときと同じだ。


 ――この部屋に来てからずっと気配は感じていたが、姿を見たのはこれが初めてだな……。


 亡者。――幽霊。





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