第3話 魔導師殿は愛を叫ぶ

3-1


 グラタン皿の底に白飯を敷き、二日目のカレーをかける。その上に玉子と大量のチーズを乗せて、オーブントースターで焼く。だいたい二十分ほどで完成だ。

 ほどよく焦げたチーズが香ばしいし、半熟の玉子を絡めて食べれば口当たりも柔らかい。

 本日の食卓に出したカレーは、刺激的な辛さを楽しんだ昨晩とは、また違った味わいだった。


「うーん、自分で作っておきながらなんだが、これは最高だな……!」

「うん、本当に美味しいね。イズーは料理の天才だよ」


 イズーは唸り、風吹はニコニコしながら彼を褒め称える。

 二人の皿が空になると、イズーは切って冷やしておいた桃を持って来た。共にそれを摘む。


「そうだ。昨日も聞こうと思ってたんだけど、お料理の材料費はどこから出したの?」


 熟れた桃は柔らかく、歯を立てずとも口の中で溶けていくようだ。甘く濃厚な果汁に溺れそうになりながら、イズーは答えた。


「小遣いから出したが……」


 イズーは風吹から毎日千円ずつ、小遣いとして受け取っているのだ。


「やっぱりそうだよね。もっと早く聞けば良かった。ごめんね」


 風吹はまだ桃が二つ三つ残っているデザートボウルを、イズーのほうに押しやって譲ると、ソファから立ち上がった。

 二人がくつろぐ居間の脇には、電話機を乗せた台がある。風吹はその下の引き出しをごそごそ漁り、なにか小さなものを持って戻ってきた。


「イズーの国にもあるかな、こういうの。お財布で、がま口っていうんだけど」


 説明しながら、風吹がテーブルに置いたのは――彼女の言葉どおりならば「財布」らしいのだが、イズーには馴染みのない形をしていた。

 青地の布で、手のひらほどの大きさに作られており、上部には特徴的な留め金がついている。


「ここをこうやると、開くんだよ」


 よく見えるようイズーのほうに向けて、風吹は財布の上の、互いに食い合っている留め金を解いた。たいして力を入れた風ではなかったが、意外なくらいパチンと大きな音がする。


「可愛いから買ったんだけど使う機会がなくて、しまいっぱなしだったんだよね。丁度いいや」


 風吹は自分の財布から一万円札を二枚取り出し、軽く折り畳んで、がま口へ入れた。またパチンと小気味良い音を立てて、今度は閉める。


「とりあえず二万円入れておくから、家のものを買うときはこれを使ってね。なくなったら言って」


 がま口を受け取ったイズーは、何度も留め金を開いたり閉じたりしてみた。なるほど「がま口」というだけあって、この財布の口は大きく、中身の出し入れもしやすそうだ。


「でも毎日、金を貰ってるのに」

「あれはイズーのお小遣いでしょ? 好きなものを買っていいんだよ」

「うーん……。とりあえず、これは受け取っておく」


 女に生活費を出させている。イズーの胸は痛んだが、風吹は特に気にした様子もなく微笑んでいる。


「それ、男の人が使ってもおかしくない色合いだし、なかなかいいでしょ? うちの実家の近くの、小物屋さんで買ったんだよ。手作りなんだって」


 がま口は柔らかな、青と黒の市松模様の布でできている。イズーがじっとそれを眺めていると、「その布、ちりめんっていうんだよ」と風吹が教えてくれた。

 イズーはふと、風吹の口から出た「実家」という言葉に興味を惹かれた。


「お前の実家はここから遠いのか? 家族は息災か?」

「実家はY県にあるの。果物作ってるんだよ。両親と兄と弟と、みんな元気」


 家族のことを思い出したのか、風吹の目尻が少し下がる。彼女がそんな優しげな顔つきになるのは珍しい。心が温かくなって、イズーはつい調子に乗ってしまった。


「お前の生まれ故郷を、いつか見てみたいな……」


 途端、風吹の顔から笑みが消える。

 二人の間に、妙な沈黙が降りた。


「……そうだね、機会があったらね」


 風吹は笑顔を作るが、その表情も台詞も事務的だった。イズーの背に嫌な汗が伝っていく。

 これは明らかに。

 明らかに――。





『警戒されてますね』

『さすが腐れまんこだな!』


 オカルト系のマイナーSNS「漆黒と混沌」のチャット機能を使い、イズーは自らの恋路について、仲間たちに相談中だ。


「彼女のまんこは腐っていないが、だがやっぱり警戒されているのか……」


 居間のローテーブルの上にどっかりとノートパソコンを置き、イズーは生真面目にキーボードを打っている。最初はポツポツと一本指でしかできなかった文字入力も今やすっかり慣れ、手元を見ず、両手でこなせるようになった。その速度は、一分間に六十文字。なかなかのタイピングスキルである。

 本当ならパソコンではなくて、もっと手軽にスマートフォンを使いたいものだが、イズーは残念ながら携帯電話を持っていない。というより、持てる状況になかった。異世界の人間である彼は、契約に必要な身元確認ができないからだ。

 夜、二十二時。現在オンラインになっているのは、「運命を調律せし悪魔」と「絶対零度の死神」だけだった。ちなみに礼儀正しく、穏やかな言葉遣いなのが「悪魔」。乱暴な物言いが目立つのが「死神」である。


「俺はなにか変なことを言ってしまったのだろうか?」


 イズーの嘆きに、「悪魔」と「死神」は素早く答えてくれた。


『実家のことを聞かれて、結婚を意識していると誤解されたんじゃないですか? 重たいっていうか』

『つまり遊ばれてるんだよ、お前』


 ――遊ばれている。

 指摘されて、イズーの目の前は真っ暗になった。


『でも魔導師さんの彼女さんって、すごく素晴らしい人だと思いますけど。魔導師さんを家に置いて養いつつ、お小遣いもくれるんでしょう? それなのに、見返りを要求しない。普通、結婚を迫るのは、女性のほうですよ』


 ここでの「素晴らしい」は、「男にとって都合がいい」という意味である。これには女に厳しい「死神」も同意した。


『確かに。てか魔導師、ヒモじゃねーか。羨ましい!』


 なにが素晴らしいのか、羨ましいのか。「悪魔」と「死神」は、本気でそんなことを思っているのか。イズーには理解できなかった。異世界の男は、こうも自分と考え方が違うのか。

 なにも期待されていない。必要とされていない。風吹の生活になんの影響も与えず、根づいていない自分は、つまりいつ簡単に切り捨てられてしまっても、おかしくはないということだ。

 そうだ。風吹は男に優しくて甘くて、そして冷酷だ。イズーをどれだけ可愛がっていても、決して心は許さない。それは彼女が賢いからだろう。

 得体の知れない男のことは、絶対に信じないのだ。おかげで道を誤ることがない。

 若い女が一人で生きていくなら、きっとそのほうがいいのだろう。

 理解はできる。できるが――。

 あれだけ体を重ね、とろけるような時を共に過ごしておきながら、「愛する」――その最後の一線を越えようとしない風吹を、イズーは恨めしく思ってしまう。

 いやまあ、こちらの世界にやって来た当初は、イズーだって風吹を利用しようとしたのだからおあいこというか、彼女を責める資格などないのだが。

 勝手に風吹に夢中になって、勝手に文句を言っている。とどのつまり、イズーの自業自得である。


「簡単にヤラせてくれるくせに、恋人にはなってくれない……」


 女々しいイズーのつぶやきに、「悪魔」が反応する。


『そういうのって、一番手強い女性ですよね(笑)。ま、割り切るしかないんじゃないでしょうか。お互い後腐れなく、今を楽しめばいいんですよ』


 そのとおりだろう。分かっているのに、そういった考え方を受け入れられないでいるイズーの隣で、風吹は呑気にテレビを見て笑っている。

 電話が鳴った。風吹はテレビの音量を絞ると、居間の脇に置いてある電話機を取った。


「はい。あ、お母さん」

「……!」


 どうやら電話をかけてきたのは、風吹の母親のようだ。イズーは耳をそばだてた。

 丁度良いというべきか、チャットでは「絶対零度の死神」が独自の女性論をぶちかましている。


『だいたい女っていうのは、生まれながらにして男より劣った生き物で、その差はどうしたって覆ることはないんだ! そんな愚かな奴らの存在理由は子供を産み、男を支えることだけ。出しゃばるのはもちろん、男をないがしろにするのは万死に値するぞ! クソマンコどもが!』


――「死神」のこのご高説は偏見というよりも、そう思わねば生きていけないんだろうなあ……と、彼の置かれている境遇が垣間見られ、哀れすら感じさせた。

「運命を調律せし悪魔」などは、返事すらしない。

 イズーもまた「死神」の書き込みを読みもせず、適当な相槌を入力しながら、意識は電話中の風吹に集中していた。


「うんうん。えーっ、SNS? 人気あるの!? すごいね、お父さん! でもいいね、新しいことに興味持つって。じゃあ、こっちに来るとき、寄ってって言っといて。記事のネタになりそうな、なにか美味しいもの、用意しておくから」


 風吹は楽しそうに会話を続けている。


「え、お見合い~?」


 ――え、お見合い!?


 イズーは硬直した。

 彼のいた世界でも、そのようなイベントはあった。結婚を希望する男女が第三者を介して知り合い、条件が一致すればゴールインするという――。


「ヵjltリアjpdが;sgあ。、g:あ;あ:s;dl:らpうぇ」


 衝撃のあまり、イズーはキーボードを連打した。


『故障ですか?』

『どうした?』


「悪魔」と「死神」が驚いてリプライを寄越す。


「いいっていいって! しないってば、お見合いなんて!」


 母親からのお見合いの誘いを、風吹は断っている。イズーはホッと胸を撫で下ろした。


「すまん、なんでもない」


 イズーはチャットの仲間たちに詫びた。しかし、その直後――。


「え、恋人? いないいない! ていうかさー、結婚とかつき合いたいとか、そんな気持ちになるようないい男、ここしばらく見てないよ。あはは」

「さktねあlんlsだlt;あ:え;、:;g,」

『魔導師さん!? 魔導師さああああん!』

『これはあれだ、きっと政府の奴らが、秘密を知り過ぎた魔導師を急襲し」


 なんの悪気もないのだろう、風吹はあっけらかんと笑っている。

「恋人はいない。結婚や恋愛対象になり得るような男も、ここしばらく見ていない」。

 ――だとしたら、彼女のことを想いながら、一緒に暮らしている自分は、なんなのだろう。

 キーボードからなんとか手を離して、イズーはうなだれる。風吹と彼女の母親との会話を聞き続ける気力は、既になくなっていた。



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