第2話 飼い犬の憂鬱

2-1

 小鳥の囀りで目を覚ました。柔らかな朝の光に包まれた長い手足を、イズーはもぞもぞと動かす。指先に、横で眠る風吹の体が当たった。

 ――温かい。愛しさが募り、我慢できなくなって、イズーは風吹に抱きつく。狭い、本来ならば一人で眠るためのベッドが、苦しそうに軋んだ。


 ――風吹。大好きな、風吹。


 すうすうと寝息を立てている風吹の華奢な肩に、頬ずりする。甘く爽やかな香りが鼻腔に満ちて、生理現象で既に固くなっていた股間に、ますます血液が流れていく。噛みきってしまえるのではないかと思うほど頼りなく、細い首筋に、後ろから口づけると、風吹は小さく呻いた。


「ん……」

「風吹……!」


 イズーは息を乱しながら、腕に抱いた愛しい女の体をまさぐり、肌を何度も吸った。未だ夢の中にいる風吹は、くすぐったそうに身を捩るが、子供じみたその反応すら愛しい。風吹が寝巻き代わりに着ているTシャツを捲り上げると、寝るときはブラジャーをつけないという彼女の習慣のおかげで、胸の膨らみに直に触れることができた。

 すぐ隣に無防備で美味しそうな女体が、「いつでも食べてください」とばかりにごろんと転がっている。こんな生活に、イズーはまだ慣れないでいる。ついこの間まで童貞だったせいもあって、ちょっとしたきっかけで、すぐに臨戦態勢に入ってしまうのだ。

 はっきり言えば、余裕がない。覚えたての快感をもっとたくさん欲しいし、この恵まれた環境をいつ取り上げられてしまうかと気が気でなく、ついついがっついてしまう。


「ああ……柔らかい……」

「うー……」


 ゆるやかに揺さぶられて、とうとう風吹は目を覚ましたようだ。長い睫毛に覆われた目を、いかにも眠たそうに半分だけ開き、のろのろとつぶやく。


「いま、なんじ?」


 風吹は腕を伸ばし、枕元に置いてあったスマートフォンを取った。イズーは引き続き、彼女の尻を揉んでいる。


「こら。くすぐったいよ」


 風吹はくすくす笑っているが、どことなく素っ気ない。


「七時半か……。そろそろ起きないと」


 後ろ手で自分を押しのけようとする風吹に、イズーは体を寄せた。


「したい」

「ダメだよ、こんな朝っぱらから。時間ないし、疲れちゃうし」

「ささっとマッハで終わらせるから」

「そんなの、余計やだって」


 風吹はイズーの腕の中から魚のようにするりと抜け出すと、ベッドから下りて、うーんと大きな伸びをした。まんまと獲物を逃したイズーは、未練たらしく、つい先ほどまで彼女がいた空間を抱き締めるようなポーズで固まっている。


「イズーもそろそろ起きたら?」


 風吹は、シーツの上で股間を膨らませたまま、だらんと横たわっている哀れな男の頭を、ぽんぽんと叩いた。


「もう三日してない……」


 上目遣いに睨みながら、イズーは風吹を責めるようなことを言った。


「だってほら、ここんとこ疲れてたから。今日帰ってきたら、しようね。さー、朝ごはん食べようかな」


 軽い口調でイズーに言い聞かせると、風吹は寝室を出て行ってしまった。

 ――この温度差がつらい、憎い。イズーはすぐに起きる気がせず、ごろごろと寝返りを打った。

 それから少しうとうとしてしまったようだ。しばらくしてからイズーが居間へ向かうと、いつものとおり朝食が用意されていた。

 風吹は出掛ける時間が迫っているのか、服を着替えに寝室へ戻ったり、身だしなみを整えに洗面所へ行ったりと、パタパタ歩き回っている。

 忙しそうな家主をよそに、イズーはハムの乗ったトーストを優雅にのんびりかじりながら、テレビのチャンネルを変えた。


「さてと。忘れ物はないかな」


 メガネを上げ直して、風吹はカバンの中身をチェックしている。イズーはそんな彼女を、しげしげと眺めた。

 風吹は美しい。髪を結い上げ、化粧をし、よそ行きの格好をした出勤前は特に、だ。凛々しく、魅力的で――ムラムラする。

 押し倒して無茶なことをしてやりたいが、できない。数日前にそのようなことをしようとしたら、本気で抵抗されたからだ。

「仕事に遅れるでしょ!」と風吹は出会ってから初めて怒り、イズーのことを叱咤した。

 毎日のように「仕事行きたくない、休みたい」と愚痴っているくせに、実際に出勤を妨げられたら、怒る。――理不尽だ。

 しかしまるで戦場へ赴く騎士のような勤勉さではないかとも、イズーは感心する。


「じゃあ、お小遣い、ここに置くね。行ってきます」


 風吹は財布から千円札を抜くと、居間のローテーブルに置き、慌ただしく玄関に向かった。見送ろうとイズーがソファから立つと、風吹は食事中の彼に気を使ったのか「いいよいいよ」と押し留め、ドアの向こうへさっさと消えた。

 ――行ってしまった。イズーの胸はきゅっと痛んだが、それもすぐに消える。風吹のいない時間は寂しいが、退屈はしないからだ。

 イズーはいそいそとソファに座り直すと、トーストの残りを口に運びながら、毎日欠かさず見ているテレビドラマを堪能し始めた。こちらの世界の文化を知るために視聴している……というのは建前で、恋に仕事にと頑張るヒロインを描いたそれは、普通に面白いのだ。


「うーん、これからどうなるんだろう……」


 たった十五分の放送が終わると、イズーはテーブルに置いてあったお札をつまみ上げ、ハーフパンツの尻ポケットにしまった。

 この家に「好きなだけいていい」と言われてから、もう一週間が経つ。その間イズーは毎日欠かさず、風吹から小遣いを受け取っている。

 一日千円。ねだれば、もっとくれるかもしれない。だが実際は足りないどころか、余るほどだ。

 ずっと家にいて、テレビや雑誌、WEBサイトを眺めているうちに、毎日が終わる。出掛けるといえば、せいぜい近所のコンビニくらいだ。そして夜帰ってきた風吹が掃除や洗濯をし、そのあと晩御飯を作ってくれて……。それを食べてから風呂に入り、またダラダラと過ごして、寝室に向かう。

 疲れているのか、風吹はベッドに入った途端眠ってしまい、本当ならば毎晩セックスをしたいが、その望みが叶わないのが目下唯一の不満だろうか。

 以上が、イズーの近況である。

 しかしこうして振り返ってみると……。


 ――もしかして、俺はクズなんだろうか。


 風吹が淹れておいてくれたコーヒーを啜りながら、イズーは緊張感のない間の抜けた顔をして、そんなことを思う。

 これまでの人生のほとんどを魔法の研究に捧げ、血で血を洗う闘いに身を投じてきた。

 しかしこの世界に来てからは一気にたるんだ生活を送るようになり、これでは研ぎ澄ました牙を、自ら抜いているようなものだ。

 だが、どうしようもない。

 楽だ。楽なのだ。

 働くこともなく学ぶこともなく、衣食住に事欠かず、遊んでいられる今が、楽ちん過ぎるのだ。

 いわゆる、ニート。寝転んだまま、口に運んでもらった蜜を吸うような、そんな生活に慣れてしまえば、なかなか元には戻れない。


 ――それに俺は、そこら辺の無職無能な輩とは違うしな。


 イズーは目に見えない誰かに、そう言い訳する。


 ――その気になれば、この町を燃やし尽くすことだって……!


 ただの引きこもりの妄想と違い、イズーのそれは実現できてしまうあたり、たちが悪いだろうか。とはいえ、この男が破壊活動に勤しむ可能性は、限りなく低い。前述のとおり、彼は今満ち足りているからだ。


 ――だいたい俺は特別な、選ばれし人間なのだ。


 だからこんな贅沢な暮らしも、相応なのではないか。イズーはそうも思う。彼は元の世界では「魔導師」なる称号を得るほどの、比類なき力を持つ魔法使いだったのだから。

 しかしその魔導師殿が言うところの、「贅沢な暮らし」……。一日千円しか使えない今の生活が、そこまで恵まれているだろうかというのは、意見の分かれるところではあるが。


「そういえば、ここのところ魔法を使ってないな。精霊でも呼び出してみるか」


 元の世界では相棒ともいえる「精霊」の存在を思い出し、イズーは目を閉じた。意識を集中して耳を澄ますが、しかし聞こえてくるのはテレビ、エアコン、その他なにかのモーターが回る音くらいだった。

 ――イズーの生まれ育った世界ならば、うるさいほど溢れかえった精霊の声を聞くことができるのに。

 こちらの世界に、精霊はいないのだろうか?

 鉄から作られ、電気で動く、便利な機械たち。あんなものがあるから、不要なのだろうか?

 まあ、別に構わない。魔王を見つけて、元の世界に帰れば、また嫌というほど精霊には会えるだろうから。

 だが今はまだ帰れない。風吹にかけるつもりが自分に跳ね返った「魅了の術」のせいで、イズーは彼女から離れることができないからだ。

 風吹と別れるくらいならば、イズーは地上五階にあるこの部屋のベランダから飛び下りてしまうだろう。この魔導師様にかかっているのは、それくらい厄介でしつこい魔法だった。

 そう。この甘ったれた生活も、「魅了の術」が解けるまでのこと。しかしそれはあと一週間続くのか、それとも一ヶ月続くのか。術者であるイズー自身にも、皆目見当がつかなかった。


 イズーは手についたパンくずを皿の上で払ってから、テレビのリモコンをいじった。

 平日の午前中というこの時間帯に放送されている番組は、どの局も似たり寄ったりだ。この日イズーがなんとなく見始めた番組には、年配の女優が出演していた。


『わんちゃんを飼っていらっしゃると伺ったんですが~』

『そうなんですよ~! 今日はね、写真をいっぱい持って来てるんですう~!』


 女優は得意気に、たくさんの犬の写真が貼られたボードを指し示した。

 こちらの世界では、ペットを飼う人間が多いようだ。イズーの暮らしていた世界では、食料にならない動物を飼うのは、貴族以上の裕福な者たちが嗜む、変わった趣味でしかなかったのだが。


『こっちがトイプードルで、こっちはミニチュアダックスフンドで~』

『まあ~! 可愛いですねえ~!』


 テレビ画面の向こう側で和気あいあいと続くお喋りを聞いているうちに、イズーはなんだか胸がムカムカしてきた。

 腹が立ち、そのあと寒気に包まれる。

 ここのところ身の内に巣食っていたモヤモヤしたなにかが、形を成した気がした。





 その日風吹は、八時前に帰ってきた。


「ただいまー! すぐご飯作るね」

「……おかえり」


 イズーはほんの少し汗の匂いをさせて帰ってきた風吹を抱き締め、軽く口づけた。風吹は照れたように笑うと、買ってきた食材を冷蔵庫にしまい出した。その背中に、イズーは今日一日ずっと抱えていた疑問をぶつけてみる。


「風吹」

「なーに? おなか減った? 一時間くらいかかるけど……。あ、クッキー買ってきたから、食べる?」


 ニコニコしながら振り返る風吹に、イズーは真顔で尋ねた。


「お前、俺のこと、ペットだって思っていないか?」

「……!」


 風吹の表情も体も、凍りついたように動かなくなった。ややあって、彼女はもごもごと聞き取りづらい、小さな声で答えた。


「だ、だって、君、セバスチャンに似てるから……」

「セバスチャン? 誰だ、それは」

「あ、先に着替えてこようかな!」


 風吹はイズーから目を逸らすと、そそくさと寝室へ引っ込んでしまった。


「……………………」


 イズーは眉を吊り上げ、居間に仁王立ちになった。脳裏には、朝テレビで見た美貌の衰えた女優と、飼い犬の姿が浮かんでいる。


 ――俺は、あの犬っころと同じ扱いなのか……!


 人々に恐れ、称えられた、大魔法使いの自分が、尻尾を振り、媚びるだけの生き物と同等とは――。

 あまりに侮られているではないか。怒りのあまり、腹の底がグラグラと煮えるようだ。

 しかしそれでもイズーは、その後、風吹の作った夕食をしっかり平らげ、風呂に入り、彼女と同じベッドで眠った。


「あの……する?」

「……………………」


 寝起きのことを覚えていたのか、そしてイズーの機嫌が悪いのを気遣ったのか、風吹が声をかけてくる。しかしイズーは無視した。


 ――でも、もう一回誘われたら、抱いてやってもいい。


 そう思っていたのに、たった三分で健やかな寝息が聞こえてきて――。それもまた魔導師様の怒りを、大いに煽るのであった。





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