番外編1


 ベッドに腹這いになって、細心の注意と共にページをめくる。女が抱え込むようにして読んでいる本は古く、紙はボロボロで、力の入れ方を間違えれば簡単に破れてしまいそうだった。


「んーと……へえ」


 女は慎重にページを繰り、内容を吟味していく。半ばまで読み終えたところで部屋の扉が開き、男が一人、入ってきた。


「ただいま戻りました。うーん、気持ち良かった」


 口髭の似合うその男は、ほんのり赤くなった顔をうちわで扇いだ。身につけている薄手の浴衣が、男の逞しい体の輪郭を強調していた。


「そうでしょう? やっぱり一日の終わりは、お風呂と冷たいお酒。これに限るわ」


 女は顔だけ男に向けて、部屋の中央にあるテーブルを顎で指した。テーブルの上には一杯のグラスが置かれており、その周囲では羽の生えた小人がくるくる舞っていた。体が透き通ったその小人は氷の精霊で、グラスを冷やすためだけに召喚されたのだった。

 王都で最も上等な宿に泊まって、大浴場を利用し、冷えた飲み物で喉を潤す。これらの行為は、一握りの裕福な者にのみ許される特権であった。


「都とは名ばかりでなんにもないけど、お酒だけは美味しいわね」


 ベッドに寝転んでいるこの女は占いが得意で、有力貴族を数多く顧客に持っている。そして彼女の鑑定料は、桁外れに高い。それだけ客に精度の高い結果を提供しているのだが、ともかくそのようにして女はかなりの金を稼いでいた。


「勇者の言いたいことも分かります。心が痛むくらい、実に贅沢だ」


 男はわざとらしくしかめっ面を作りながら、グラスの中の冷えた酒を飲んだ。女はシーツに頬杖をつき、笑う。


「勇者は『清貧こそが正義』みたいな考え方だけど、それじゃあ世の中は決して豊かにならないわ。富める者はどんどんお金を使わなければ」

「あなたの言っていることは正しいと思います。ですがまあ、私は職業柄、質素倹約の暮らしに身を置かざるを得ないわけでして、勇者の味方をしないわけにもいきませんが」

「政治も宗教も正義も、愚かね。民が潤えば潤うほど美味しい汁を吸えるのに、取り上げることしか考えていない」


 意見を戦わせるのも悪くないが、今はそのときではない。眠る前のひとときは、甘くくつろぎたいものだ。

 男はベッドに腰かけ、うつ伏せに横たわっている女の、金色の髪を梳いた。女は尖りつつあった唇をほどき、うっとりと目を細めた。

 この男女は勇者の三人の仲間のうちの、僧侶と魔法使いである。同じ部屋で眠る、つまり二人は夫婦であった。ちなみに彼らは自分たちの関係を公にしていないため、このことは勇者も知らないはずである。二人が夫婦だと知れば、「一緒に雇ってやるんだから安くしろ」と図々しい値引きを持ち掛けてくる者が後を絶たず、だから秘密にしてあるのだ。

 ところで、勇者一行が昼間詰めていた魔王の住み家「真紅城」は、絶海の孤島に佇んでいる。僧侶と魔法使いの夫婦が滞在しているこの王都からは、三つの国を越え、凶悪な魔物が出没する大海を命からがら進んで、おおよそ三月はかかる道のりのはずだ。

 しかし僧侶たちは「真紅城」への訪問から間もない現在、王都の豪華な宿のフカフカなベッドにのんびりと寝そべっているわけだが……。

 これがどういうカラクリかというと、魔法である。

 任意の場所同士を結ぶ魔法陣を用い、勇者たちは「真紅城」と王都を繋げたのだ。おかげで彼らは二つの地点を一瞬で行き来できるようになり、ハイキングに赴くような軽い気構えで魔王の住まいにアタックすることが可能となった。


「そういや、勇者様はなにやってんの?」

「まだ『真紅城』に残って、なんとか『異界の扉』を開こうと悪戦苦闘していますよ。勇者も私がいたら休めないでしょうから、早々に引き上げてきてしまいました」

「勇者様は人の目がある限り、勇者様でいないといけないものねえ。もうちょっと気楽にいけばいいのに。それにあの人、わざわざグレードの低い安宿取ってるんでしょ? ベッドは固いし、ノミだっているだろうし、大丈夫なのかしら。いくら贅沢は敵だって考えに凝り固まってても、しっかり休まなきゃ疲れは取れないのにね」

「宿を皆バラバラに取ったからこそ、私はあなたの部屋に忍んでこれるんですけどね。ま、勇者様のあの極端さは、若さゆえですよ。歳を取れば、嫌でも生活の質を上げざるを得ない。てきめんに体に堪えますからね」

「ちょっと。それじゃ私が若くないみたいじゃない?」

「いえいえ、うちの奥さんは少し大人なだけですとも」


 夫を睨んだ魔法使いは、だが口元は笑っている。


「盗賊の坊やはどうしたの?」

「すやすやと気持ち良さそうに眠っていたので、残してきました。魔導師が連れていた半獣の少女も、その横でぐっすり。二人が並んで寝ている姿は子犬のようで、なかなか微笑ましかったですよ」


 僧侶はくすくすと笑いを漏らすが、妻の魔法使いは浮かない顔だ。


「あの猫ちゃんも、どうしたものかしらね。野に放っていいものかどうか……。オスならどうとでもすればいいと思うけど、女の子だから……。心配だわ」

「うちの奥さんは優しいですね」


 僧侶はそれこそ猫の子にするように、魔法使いの頭を撫でた。しかし魔法使いは不満げに、ふんと鼻を鳴らす。


「今頃気づいたの? 私は優しく慈悲深いからこそ、あなたと結婚してあげたんじゃない」

「そうでしたね。私は世界一の幸せ者です。――ところでそれは?」


 妻の妄言をあっさり認めておいて、僧侶は彼女が先ほどから熱心に読んでいる本を覗き込んだ。


「帰る前に『真紅城』を一周りして、見つけたのよ」


 魔法使いはうつ伏せに寝そべったまま、夫にもよく見えるよう本を立てた。


「え? 私が城の中を見て回ったときは、それらしき資料はなかったんですが……」

「ガッツリ封印されてたわ。かなり高位の魔法使いじゃないと、気づかないはずよ」


 魔法使いは得意気に顎を上げ、だがすぐに視線を落とす。


「でも、中身はねえ……。読み物としては面白いけど、『異界の扉』について、手がかりになるようなことは載ってないわ。これはね、歴代の魔王のことを綴った本だったみたい」


 脆くなったページをそろりそろりと慎重にめくりながら、魔法使いは説明する。


「これが始祖王でしょ。それから、二代目、三代目……」


 魔法使いが「真紅城」から拝借してきた本には、初代から現在に至る魔王たちの姿かたちが描かれていた。

 代々の魔王たちはバラエティーに富んでおり、むくつけき大男がいたかと思えば、せむしの小男や、まるっきり獣にしか見えない者もいたようだ。

 伝説や言い伝えでしか知らなかった彼らが、こうして形を纏っているのを目にするのはなかなか新鮮で、僧侶と魔法使いは熱心に紙面を眺めた。


「で、これが姿を消している、今の魔王。なんつーか、覇気がないわよね」

「そうですねえ。教室の隅っこでマンガでも描いていそうなキャラですね。まあ彼が改築したという『真紅城』は素晴らしい出来でしたから、見た目度外視で、賢さや器用さで売っていくタイプなんじゃないですかね?」


 百年前に異界へ旅立ってしまった現魔王は、やや背が低く、暗い目をした、痩せ型の青年として描かれている。その辺を歩いていても気づかないだろうほど平凡で目立ったところがなく、普通の人間にしか見えない彼は、本当に「魔物の王」なのだろうか。


「そういえば、魔王の地位の継承は、どのようになされるんですか?」

「基本的にバトルね。挑戦者が力づくで、魔王の座を奪い取るの」

「なるほど。しかし継承者が定まらないうちに、現魔王は異界へ隠れてしまった……。現魔王は超強力な精霊を使役しており、無敵だったそうですからね。彼を倒す者はとうとう現れなかった」

「そしてこのまま魔王が帰ってこなければ、魔王という存在は消滅することになる。魔王がいなければ、魔物たちを滅ぼすことはそう難しくないわ。人類全盛の時代が訪れるってわけ」

「だからあの魔導師イズーが、魔王を連れて帰ってきたら、困るわけですよね……」


 魔法使いは頷き、またページをめくった。


「それでね、この本を書いたのは大昔、かつての魔王の側近だった人物よ。この人は占術を学んだ者なら誰でもその名を知っている、優れた予言者でもあるの。だからかしら、未来の魔王についても記述があるのよ。ほら見て」


 魔法使いが指差す内容を目にした僧侶は、反応に困ったように首を傾げた。


「これは……。うーん、新しい時代がやってきたと言うべきなんですかね……?」

「そうポジティブなもんじゃないみたいよ。ほら、『かの王により、全ての人の子は生命を断たれ、以降復活はしない』。つまり新魔王によって、人類は滅亡させられるってことらしいわ」

「……………………」


 新しい魔王について記された箇所から以降は、白紙だった。

 魔法使いは本を閉じて枕元に追いやると、仰向けに寝直し、寄り添う僧侶の首に腕を巻きつけた。


「なかなか悲しい結末のようですが……。私はね、あなたとの子供が欲しいんです。その子たちが安心して暮らせるように、不幸な未来は変えなければいけませんね」


 僧侶は魔法使いに覆いかぶさり、彼女の美しい肢体を愛撫し始めた。シミひとつない白い肌にキスが落ちるたび、だが魔法使いはくすくす笑う。


「もう、なんですか。ムードのない……」


 僧侶は顔を上げて、魔法使いの肩まで伸びた髪を優しく引っ張った。


「ごめんなさい。だって、くすぐったい……。あなたのそのお髭、似合ってるけど、ちょっと実用的じゃないわ」


 魔法使いは手を伸ばし、夫の口髭に触れた。


「そうですか? 気に入ってるんですがねえ」


 言いながら、僧侶は妻の髪からなかなか手を離そうとしない。魔法使いは訝しげに尋ねた。


「どうしたの? 今日はやけに私の髪に構うわね」

「いえね……。あなたの使ってるシャンプー、今度貸してくれませんか? その、最近抜け毛が……」

「……………………」


 夫の嘆きを聞いた途端、魔法使いは彼からそっと目を逸らした。


「ちょ、その反応! えっ!? まさか相当キてます!?」


 僧侶は勢い良く体を起こすと、ガシガシと頭を擦った。

 そう、人は己の頂きや後頭部の変容について、なかなか気づかないものだ……。

 魔法使いもまた起き上がり、苦笑を浮かべる。


「薄くなってきたって、とっくに気づいてると思ったから、言わないでおいたんだけど……」

「薄いって言わないでください! ああー……」


 僧侶はがっくりとうなだれた。


「いっそツルッと、さっぱりさせますかねえ……」

「あら、潔い。あなた、頭の形がいいから、きっととても似合うわよ」


 微笑みながら、魔法使いは傷心中の夫の頬に口づけた。彼女が慈悲深いというのは、まんざら嘘ではないようだ。





~ 終 ~





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