1-6(完)
――どうして、なんで、どうして……!?
自分の術が効かないなんて。そのような人間がいるという事実は、魔法が全てであり、向かうところ敵なしの人生を歩んできたイズーにとっては、大変な恐怖だ。
足元がガラガラと崩れていくような不安と戦いながら、イズーは必死に考えた。
自惚れや奢りではなく、ありとあらゆる敵を討ち破ってきた自分の呪力に屈しない者がいるとしたら、それはきっと唯一人。
まだ相まみえたことのない無敵の存在、つまり、魔王ではないだろうか。
それではこの女が――。自分がわざわざ探しに来た、魔王だというのだろうか?
いや、それはあり得ない。魔王は男だったというし、風吹のこれまでの態度は、同胞に対するものとは思えない。全て演技だとしたら、たいしたものだが。
「ねえ、本当に大丈夫なの? 吐き気とかしない?」
風吹は気遣わしげにしゃがみ込むと、青ざめたイズーの顔を覗き込んだ。
魔法使いの呪文を損なうことなく、そのままの威力で反射させるというのは、実は至難の技だ。風吹からは少しも魔力の匂いがしないのに、しかし彼女はあっさりそれを成した。
どういうことなのか……。
得体の知れない相手に弱みを見せるのも怖くて、イズーはなんとか立ち上がった。
頭痛はますますひどく、視界はぐらぐらと揺れる。自らの魔法を食らったわけだが、その効力の確かさに、イズーは感心してしまう。
――さすが、俺。
しかしそんな優越感に、浸っている場合ではない。
「それとも逆に一日中エアコンの効いた部屋にいて、体が冷え過ぎちゃったのかなあ……」
『どうして……』
イズーは混乱のあまり、元の世界で使っていた言葉を口にした。
「え?」
『どうして……。どうして、お前には魔法が効かないんだ。魔王でないにしても、もしやお前は魔王の縁者なのか……?』
「……?」
風吹はもちろんなにを聞かれているのか理解できず、困った顔をしている。
「ごめんね。なにを言ってるか、分からないよ……。つらいの……?」
風吹の小さな手に肩や腕を擦られると、イズーの頭の痛みは薄れ、楽になっていく。だがこれも実は、魅了の術が効いている証なのだ。
対象の相手とのスキンシップや会話。それらを交わすだけで、術に落ちた者たちは多幸感に包まれ、慕情の沼にはまっていく。
そのうえ厄介なことに、魅了の術は即時に解く方法がない。時間の経過だけが、唯一の解呪法なのだ。
「……………………」
ますます囚われてしまうと分かっているのに、見えない力に引っ張られるように、イズーは風吹を見詰めてしまう。
――ん?
風吹の黒い瞳に、不思議な模様が浮かんでいた。すぐに消えたそれは虹彩か、それとも自分の姿が映っているのを見間違えただけなのだろうか。
しかしあの模様は、どこかで見たことがあるような気もする……。
――でも今は、どうでもいいか……。
記憶をたどる前に、イズーは気を逸らしてしまった。本来ならばそんな失敗は犯さないのだが、それだけ重症だということだろう。
そう、イズーの明敏な頭脳は恋に侵食され、ボロボロになりつつあった。
出会ったときから、イズーは風吹のことを好みのタイプだとは思っていた。それが今や、この世にこれ以上素晴らしく、美しい女はいないと断言するに至るまで、その想いは突き抜けてしまっている。
――この女が愛しい。誰にも渡したくない。自分だけのものにしたい。そのためなら、なんだってする。
イズーは、熱を計ろうと自分の額に置かれた風吹の手を掴み、口づけた。風吹は目を丸くしている。
吸った肌は甘く、だがこれだけでは足りない。もっと欲しい。
イズーは風吹を引き寄せると、唇同士を重ねた。
「えっ……!?」
驚いた顔の風吹が可愛らしくて、深く抱く。彼女の体はとてもいい匂いがして、このままずっとこうしていたかった。
「あっ……」
いやいや、昨晩会ったばかりの女に、なんてことをしているのだ。なんとか理性が働いたイズーは、断腸の想いで風吹を自分から離した。
――嫌われたくない……。
気まずくなって、イズーは風吹に背中を向けた。すると存外落ち着いた声に、話しかけられる。
「ねえ、そういえば、まだ名前も聞いてなかったよね。私、友良 風吹っていうの。あなたは?」
「呪いに悪用されてしまうこともあるから、絶対に本名を名乗ってはいけない」。それが魔法使いのルールだ。
しかし――。
自分のことをもっと知ってほしい。その欲求に耐えられず、イズーはまんまと口を割ってしまう。
「イズルゥ・フェレスタ・アズロマーカイト」
成人してから名乗るようになった、親すら知らない真実の名だ。イズーの世界の言葉で「永遠に探究心を忘れない、イズルゥ」という意味である。
「いず……。えーと、長い名前だね」
馴染みのない響きのため覚えられなかったのか、風吹は苦笑いしている。
「イズーでいい」
「イズー」
愛しい人が口にした自分の名が、甘美な響きを伴って耳に届き、イズーの体は震えた。
もっと呼んで欲しい。もっと、もっと……。
「じゃあ、イズー。ともかく休んだほうがいいよ。ベッド貸してあげるから」
イズーの手を引き、風吹は自分の寝室へ彼を案内した。
昨晩は居間のソファで寝たので、風吹の寝室へ入れてもらうのはこれが初めてだ。促されるままイズーは、彼には小さく感じるシングルベッドに腰を下ろし、その前には風吹が立った。
「遠慮しないで、寝転んでいいよ。楽にしてね」
「いや、俺は病気じゃない。その……ちょっと立ち眩みがして」
「そうなの? 本当に大丈夫?」
「ああ……」
まさかあなたに恋焦がれています、なんて恥ずかしいことも言えず、イズーは目を泳がせる。そんな彼に、風吹は身を屈め、顔を近づけた。
「元気なら、じゃあ、しようか?」
「……え?」
なにをするというのか。
肩をトンと押されて、それは大した力ではなかったのだが、無言の空気というか圧力のようなものを感じ取って、イズーは後ろに倒れた。
正直に言えば――あったのかもしれない。期待というか、スケベ心が。
ベッドに仰向けに倒れたイズーに、風吹は伸し掛かった。細い背を丸くしならせて、口づけてくる。
「ん……っ」
なにが起こっているのか、把握はしているが、ついていけない。
女性に押し倒されて、キスされている、なんて。
「な、なにを……! 風吹! こんなこと、してはいけない……!」
なるほど、このようにお堅い魔導師様だからこそ、昨晩風吹の貞操は守られたわけだ。
それにしても、女性の側から性的なアプローチを行うなんて、なんてはしたないのだろう。
だが、嬉しい。
いや、やっぱりいけないことだろう。
でも、もっとして欲しい……。
様々な想いが交差し、イズーの頭は爆発しそうだった。そんな葛藤を知る由もなく、風吹はマイペースである。獲物を食む肉食獣のようにゆるく、だが強引なくちづけを繰り返す。
イズーの顔を抱え込むようにして、風吹は半ば硬直している彼の口内から舌で舌を引きずり出し、よく味わってから、甘く噛んだ。そうしてからイズーの形良い唇を、ぺろぺろと舐める。
「うっ、あ……っ。ひぃんっ……!」
イズーの口からは、情けない声がこぼれた。背筋がゾクゾクして、腰が上がる。キスだけで、意識が遠のきそうだ。そのうえ股間を、ハーフパンツの上から擦られている。
「な、ななな……! だ、ダメだ、それは! 女の人がそんなことをしたらいかん!」
「えー?」
こんな、商売女のようなことをするなんて。
イズーは風吹に幻滅しかけ、だがすぐに可愛くて綺麗で、しかもいやらしいなんて最高じゃないか……と、意識が上書きされる。魅了の術のせいか、それともただの男の性なのか。
イズーの足元に移動した風吹はにっこり笑い、彼の履いているパンツのウエストに手を掛けた。
「さっきはいきなりキスしておいて、しかもここをこんなにパンパンに膨らませておきながら、『そんなことをしたらいけない』なんてお説教? 説得力ないよ?」
「う……」
返す言葉がない。
魅了の術を被った直後から、イズーの性器はずっと臨戦態勢だ。風吹と同じ部屋にいて、同じ空気を吸っていると思うだけで興奮してしまう。バレていないと思ったが、そんなわけはなかったのだ。
「……………………」
観念したイズーは、素直に尻を上げて、風吹の手助けをする。風吹はふふっと笑いながら、ハーフパンツと下着を一度に下ろしてしまった。
「私も、セックスは嫌いじゃないんだよね。今はフリーだし。君となら、してみたいって思うし」
「……!」
こんな都合のいい話があっていいのか。なにかの罠ではないのか。
しかしそんな警戒する気持ちよりも、嬉しさが勝ってしまう。
――風吹になら、騙されてもいい! あとでなにか高額な請求をされても、腎臓を一個寄越せと言われても!
「黒き賢者」と称えられた魔導師も、こうしてただのバカな男に成り下がってしまった。
甘いやりとりを幾度か繰り返したのち、不意に風吹の手が止まる。一方的に愛撫を受け止めてたイズーが、どうしたのかと薄目を開ければ、風吹はじーっと観察するかのように彼を見ていた。
「あの、もしかして君、童貞かな?」
「!」
イズーはびくっと体をこわばらせた。――図星である。
やられるだけで、やり返さない。なぜならば、その
「わ、わ、悪いか!? 女にうつつを抜かす、そんなのは時間の無駄だから! だから……!」
ただの強がりである。イズーはズバリ、モテなかったのだ。
「魔の民」だったからというのもある。そのうえ、いわゆる魔法オタク。
生活の全てを魔法に注力していたため、異性を喜ばせるような話題も知らず、気遣いもできず。
結果、女たちから避けられるようになって、臆病になり……。
そして二十六歳になった今も、清らかな人生を貫いている。
「んー」
「あ……」
風吹はイズーから離れ、頭をかいた。温かく柔らかい感触が去っていってしまい、イズーは怯えた表情になる。
「やっぱ、やめとこうか。初めては大事にしないとね。こんな行きずりみたいな感じで失ったら、勿体ないよ」
なにをのたまっているのだろう、この女は。こんな生殺しの状態で、男をほっぽり出そうというのか。
イズーは風吹の両腕を力任せに掴み、怒鳴った。
「いやだ! やめるな! 最後まで責任をもって、しろ!」
「ええー……。だって……」
乗り気でない風吹の目と鼻の先に顔を近づけて、イズーは思いの丈をぶつけた。
「お前がいい! 俺は、最初も最後も、お前がいい!」
これも魅了の術に言わされた台詞なのだろうか。それでも、イズーの偽らざる気持ちに間違いない。
――風吹しか見えないのだ。
イズーの剣幕を目の当たりにして、風吹はぱちぱちと瞬きを繰り返し、やがて仕方ないという風に微笑んだ。
「ま、君がいいなら、いいけどね……。後悔しても知らないよ? でも、意外だなあ。童貞だなんて、君みたいな素敵な子が」
「素敵……? 俺がか? まさか……」
「え、すごく素敵じゃない、イズー」
「……!」
驚きのあまり、イズーは言葉が出てこなかった。
素敵だなんて、そんなこと初めて言われた。じわじわと胸が温かくなってくる。
色の濃い肌に銀髪は「魔の民」の特徴で、だからけなされることはあっても、褒めてくれる女なんていなかった。同族同士ですら、互いの姿形を嫌っていたのに。
――この女は魔王なんかじゃない。きっと女神なんだ。
イズーは目に浮かんだ涙を、そっと拭った。
「起きて、イズー」
名前を呼ばれて、イズーは目を覚ました。
どうやら眠ってしまったらしい。――それもそうだろう。先ほどは、今までの人生の中で一番大量に精液を吐き出したと、断言できる。疲れて当然だ。
まるで、夢のようなひとときだった。ただし、キラキラと輝かしいものではなく、ズバリ悪夢の類のものだが。
思い出せば、風吹が動くたび、彼女の後ろで束ねた髪がゆったりと揺れていた。
「ねえ、イズー。見て? あなたの、入ってるでしょう? 奥にも届いてるよ……」
「……!」
「頑張ってるみたいだけど、どれだけもつかなあ? 数えてみようか。いーち、にーい……」
「あっ、あっ、ダメ、ダメだ……っ! 動かないで……っ!」
扇情的な光景を見せつけながら、唸り、悶えるイズーをあざ笑うように、無情なカウントを始めた風吹は――。
彼女は魔王ではないだろうが、女神でもなかった。
悪魔だ。紛うことなき、悪魔である。
イズーは寝ぼけ眼で起き上がると、すっかり身だしなみを整え、涼しい顔で微笑む風吹を見詰めた。
なんだかもう、欲望や羞恥や、泣いたり甘えたり、ありとあらゆる汚いもの、みっともないもの、全てを出しきった、そんな気分だった。疲れてはいるが、心は軽い。
「お前は、鬼畜だ……」
「はは、ごめんね」
風吹はちっとも申し訳なくなさそうな顔をして、口先だけで謝る。
イズーは腹が立った。
ひどい女だと思う。しかし――ますます離れ難くなってしまったのは、なぜなのだろうか。
「晩御飯、もうじきできるから、先にシャワー浴びておいでよ」
差し出された新しいトランクスを受け取り、イズーはのそのそと浴室に向かった。
熱いシャワーを浴びながら、好きなときに入浴できるのはいいなあと、改めて感動する。
服を着て、居間に向かうと、美味しそうな匂いに鼻腔をくすぐられた。そういえば、ずっと腹が減っていたのだ。
ソファに座ったところで、風吹が現れる。彼女が持っていたお盆の上には、丼と汁椀が二つずつ載っていた。
「この時間からすき焼きはさすがに遅すぎるから、牛丼にしてみたの。食べたことある?」
「ない」
「そっか。気に入ってくれるといいんだけど」
風吹は丼と、外国人である――正確には異世界人だが、イズーを気遣ったのか、スプーンを渡してくれた。
遅い夕食を食べ始めると同時に、イズーは唸った。
「――美味い」
「良かった! おかわりもあるから、いっぱい食べてね」
風吹は嬉しそうだ。彼女がソファに腰掛けるのを見計らって、イズーは持っていた丼を目の前のローテーブルに置いた。
「どうしたの?」
「俺、この家に、もうちょっといてもいいか? ――お願いします」
イズーは深々と頭を下げた。そういえば、誰かになにかを頼むのは、随分久しぶりだ。
「……………………」
頭を垂れたままのイズーを前に、風吹は同僚との会話を思い出した。
『飼う気がないなら、気安く拾ったりしないほうがいいんじゃないですか?』
確かにそのとおりで、しかし風吹はもうイズーを拾ってしまった。
家に上げて、体を洗ってやって、ご飯も食べさせて。ここまでしてしまったのなら、無責任に放り出してはいけない。だったら、取るべき道はひとつだ。
「――うん。好きなだけ、いていいよ」
「本当か!」
風吹が頷くと、イズーの瞳は輝き出した。
――こんなのは、魅了の術が解けるまでの、ほんの茶番だ。
しかし風吹に側にいていいと許してもらったこのときは、初めて精霊を呼び出せたときよりも、魔導師の称号を得たときよりもずっと嬉しく、イズーの胸は弾んだ。
「さ、食べて食べて」
「ああ」
イズーは再び丼を手に取ると、ガツガツと貪り食べた。その様を風吹は、慈愛に満ちた目で見守るのだった。
~ 終 ~
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