1-5
空に向かって上昇する風には、嗅いだことのない匂いが混じっている。
男はベランダの柵から身を乗り出し、飽きることなく下界を眺めた。
「なんなのだ、この高さは……」
遥か下の地面を行き交う人々が、指人形のように小さく見える。男のいる場所は「賃貸マンション」という建物の「五階」だそうだから、地上からはおおよそ十二、三mほど離れているだろうか。
五階……。最先端の技術を用いて建てられたという魔王の城だって、そこまで高くはなかった。しかもこちらの世界では、このマンションとやらよりももっと大きな建築物が、にょきにょきと数多くそびえ立っているのだ。驚愕である。
地上では、人を乗せた四角い鉄の塊が、馬よりもずっと早いスピードで行き来していた。
かと思えばその脇を、母親と思しき女が子供の手を引き、のんびり歩いていたりもする。男がいた世界でそんな暢気なことをしていれば、あっという間に身ぐるみを剥がされ、おぞましい暴力の犠牲になっているはずだ。
「『平和』というやつか、これが……」
知ってはいたが、使ったことのない単語を、男はつぶやいた。
「う……」
ずっと下を向いていたせいか頭に血が上ってしまい、男はようやく体を引っ込めた。ベランダのコンクリートの床に尻をつき、柵に背中を預ける。
――昨日もこんなことをしていて、拾われたんだったな……。
この男の名は、イズーという。故郷では「魔導師」という称号を持つ彼は、己の欲望のためならばその強大な魔力を無慈悲に行使し、人々に大いに恐れられた人物であった。
イズーは昨晩、魔王城地下に封印されていた扉を開き、異界――こちら側へやってきた。名目は一応、「魔王を探すため」だ。
魔王とは、神と等しい力を持つと謳われた、その名のとおり魔物の王である。
魔王は人間たちに干渉することはなかったが、しかし逆に人間たちは魔王が支配する広大で肥沃な土地を狙い、幾度となく戦いを挑んだ。百万の人の兵とたった一人の魔王の戦いは、しかし常に魔王の勝利という結果に終わるのだった。
ところが百年ほど前、魔王は突然姿を消した。側近の者によれば、魔王は城の地下に異界へ繋がるという不思議な魔法の扉を築き、そこを通ってお隠れになったという。
動機は不明だ。力が衰え始めたからだとか、覇王の座に飽きたからだとか、異界に住む恋人に会いに行ったのだとか等々、今でも諸説囁かれている。
さて、魔王という強固な盾を失った魔族たちは、勢いづいた人間たちによって住み慣れた土地を追われ、その数を減らすこととなった。
イズーは人間だったが、凶暴凶悪な魔物たちと共存していた一族「魔の民」の出であったために、迫害を受けて育った。奴隷として売られ、食うにも困る貧しい暮らしの中、しかし彼は生まれつき持っていた優れた魔力を磨き上げ、遂に魔法使いの頂点へと上り詰めたのである。
そのイズーが、なぜ今、魔王を探しに出たのか。
魔族や「魔の民」の復興を計るため? いや、そんなことに興味はない。――身体能力だけならば勝っていたはずの人間に駆逐された、愚かな魔物どもに、など。
イズーの望みは、「もっと強くなりたい」。それだけだった。
だから唯一、自分を越えるだろう能力の魔王に会い、その技を盗む。更なる高みへ、上り詰めてやるのだ。
野望を滾らし、片っ端から各種文献を調べた結果、イズーは魔王が用いたという「異界の扉」と強制解呪呪文について知り、それらを蘇らせることに成功した。
――そして、現在に至る。
誤算だったのは、扉を開ければ魔王に会えるなどと、そんな安易な話ではなかったことだ。
いきなり、よく分からない、不思議な世界へ放り出された――。今、自分は魔王から近いところにいるのか、それとも遠いところにいるのか、イズーはそれすら把握できていなかった。
――もしかしたら、あの質問に適当に答えたから、こんなところへ放り出されたのだろうか……。
一日の盛りは過ぎたが、それでもまだ強く照りつける夏の日差しにうんざりしながら、イズーは目を閉じた。
思い出すのは、「異界の扉」をくぐったあのとき、どこからともなく聞こえてきた透き通った声のことだ。
『どこへ行きたい?』
本来ならば、「魔王のところへ」と願うべきだったのだろう。だがなぜかイズーは、魔王とは全く関係のないことを口にした――ようだ。
不確かなのは、自分がなんと答えたのか覚えていないからだ。不可解なことに、そこだけ切り取られたかのように、記憶が抜け落ちている。
問いに答えた直後、眩い光りに包まれ、気づけばイズーは大きな橋の上に立っていた。
見上げた夜空には仄かに霞がかかり、わずかな数の星しか瞬いていない。月は赤かった。
見慣れぬ風景を前に、イズーは自分が異界にいることを悟った。そして物珍しさに橋の下を覗いているうちにくらくらと目眩に襲われ、休んでいたところを、通りかかった女に助けられたのだ。
「よっこらしょ……」
だいぶ気分も良くなってきたので、イズーはゆっくり立ち上がると、ベランダのガラス戸を開けた。室内へ戻れば、ひんやりと冷えた空気が迎えてくれて、外でかいた汗が一気に引いていく。
夏に涼しい想いをするなんて大変な贅沢だと思うが、風を送っている「エアコン」なる箱について、この部屋の主のあの女からは「止めてはならない」と厳命されている。下手に風を止めれば、体の水分が失われて、死んでしまうかもしれないのだそうだ。大げさな話だとは思うが、このままのほうが快適ではあるので、イズーは女の命令に従うことにした。
――あの女は何者なのだ……?
イズーは改めて室内をまじまじと眺め回した。
多少面積は狭いが、それでも女が単身で住まいを構えるなど、イズーのいた世界ではあり得ないことだった。
台所に居間に寝室。しかも厠や小さな浴場まで、この居住地には付いている。
イズーはここに来てからの驚きと感動を、忘れることはできないだろう。
例えば、浴場。ツマミを捻れば、調度良い温度の湯が、好きなだけ出てくる。
そして、テレビ。平たい画面に、小さな魔法の杖を向けてボタンを押せば、様々な動く絵が映るのだ。
イズーの世界にも似たような魔法はある。精霊の宿る泉や鏡を繋げて、互いの状況を映し出すのだ。しかしそれは術者の集中力が切れるまでの、正味五分程度しか続けることができない。
それに引き換えこのテレビとやらは、二十四時間休むことなく大量の情報を流し続けている。その脅威のバイタリティと情熱は、いったいどこから来るのか。誰の役にも立っていないような気がするが……。
そのほかにもこの部屋は、中に入れたものを冷やしてくれる冷蔵庫だとか、逆に温めてくれる電子レンジだとか、便利な道具で溢れ返っている。
これらの宝具のひとつでも手に入れたなら、イズーなら誰にも盗まれないよう、金庫に大切にしまっておく。しかしこの部屋の主のあの女は、昨日会ったばかりのイズーに対し、「好きに使っていい」などと言い放ったのだ。
――なんと豪気なことか。あの女はどうやら、この素晴らしき品々の価値に、頓着していないらしい。
今朝、女は仕事に行くと言って、家を出た。働いているということは、女は労働者階級に属するのだろうか。
こんな宝の山に囲まれて暮らしているくせに、王侯貴族ではないなんて。その事実はイズーにとって驚きを通り越し、恐ろしいくらいだった。
――庶民にまで宝物が行き渡っているなんて、なんて豊かで、恵まれているのか。さすが、魔王に選ばれた世界だけのことはある……!
――魔王。
そういえば、こちらの世界もきっと牛耳っているに違いないだろう、かの王の気配を、イズーは感じることができなかった。
昼間テレビに、この国の施政者たちが一堂に介し、議論している様子が映っていたが、お互いやかましく罵り合っているだけだった。覇王のオーラなきあそこには、絶対に魔王はいないだろう。
だとしたら、どこにいるのか――などと脳みそを使っていると、イズーの腹はきゅうと鳴った。
「腹減った……」
食事をしたのは、何年ぶりだったろうか。
イズーをはじめ優れた魔法使いは、体調の維持と管理のために、自身に精霊を宿らせていることが多い。
精霊は大気に満ちたエネルギーを吸収し、栄養に変換して、宿主である魔法使いに供給してくれる。また同時に、宿主の体内に発生する様々な疲労物質も除去する。だから「精霊憑き」たる魔法使いは、食べたり休んだりという動物的な営みをせずとも良かったのだ。
しかしイズーの飼っていた五、六匹ほどの精霊たちも、異界まではついて来られなかったらしく、消え失せてしまったようだ。
今のイズーは腹も減るし、適度な休息も必要な、普通の人間である。そうなってみれば、考えるのは食べもののことばかりだった。
――昨日の炒飯と、今日の昼に食べたおにぎり、美味かったな……。
思い出せば出すほど、イズーの腹は切なげに鳴った。炒飯もおにぎりも、部屋の主の女が作ってくれたものだ。
――あの女、早く帰ってこないかな……。
空腹のあまりふらふらと危うい足取りでソファに向かうと、昨晩からベッド代わりにしているそこへ、イズーは倒れ込んだ。
メガネを掛けたあの女は、長い髪をきっちり縛って、テキパキと無駄なく動いていた。少々大雑把なところはあったが、面倒見も良く、親切だった。
理知的な顔だちに、さっぱりした話し方。そして――。
――おっぱいも大きい……。
いや、そんなことはどうでもいい。イズーは首を振り、雑念を振り払った。
これからどうすればいいのか。魔王を探すにしても、とりあえずは不慣れなこの土地について、詳しく教えてくれる案内役が必要だろう。
――だとしたら、あの女が適任じゃないか?
そうだ。女の持ち物であるこの部屋も居心地がいいし、ここを乗っ取り、魔王捜索の拠点にしてやろう。
恩を仇で返すとはこのことか。イズーが邪悪な笑みを浮かべていると、玄関で物音がした。なにごとかと見に行けば、ちょうど女が帰ってきたところだった。
「あ、やっぱりいた。まだ早いけど、フレックス使って、帰ってきちゃった」
この世界での恩人である女、友良 風吹は微笑んでいる。ほんの少しの間離れていただけなのに、イズーは彼女の笑顔を見て、ほっとした。心細かったのか、それとも寂しかったのか。
――魔導師ともあろうものが、情けない。
イズーは自身を叱咤した。
「どこにも出なかったの? 退屈じゃなかった? 今日はね、奮発して、いいお肉買ってきたんだ。和牛だよー。外は暑いけど、すき焼きにしようと思って。一人だと、なかなかできないからさー」
風吹は廊下に突っ立っているイズーの脇をすり抜けると、ぎっしりものが詰まったレジ袋を持って、冷蔵庫の前に立った。扉を開き、中から吹き出てきた冷気を気持ち良さそうに顔に当ててから、食料をしまう。
「お腹減ってる? ご飯、ちょっと休憩してからでいい? シャワーも浴びたいし」
風吹は冷やしてあった麦茶をコップに注ぎ、美味しそうに飲んだ。ごくごくと音を鳴らし上下する細い喉と、形の良い横顔から、イズーは目が離せない。
風吹は薄手のジャケットを着ていた。下は膝までのタイトスカートで、その裾からはきゅっと引き締まったふくらはぎが伸びている。清潔感のあるストイックな格好は、しかしどうにも男心をそそる。例え異国の衣装だとしても、ビジネススーツの持つ魔力に、魔導師様もイチコロだった。
――あのきちっとした服を脱がせて、いや、でも、全部はダメだぞ。いやらしいところだけ肌蹴させるんだ。荒々しく襲いかかって、あの足に履いている薄い布を破ってやりたい……。
イズーは生唾を飲んだ。
――やっぱり、この女を、俺の下僕にしよう。
橋の上で風吹に話し掛けられたとき、イズーは彼女の腕に触れ、脳内を一瞬のうちに走査した。そしてとりあえずこの国の言葉と文字を学び取り、自在に読み書きができるようになった。
他人の頭や心の中に入り込み、知識や記憶を盗んだり、意思を操る魔法を、総じて精神魔法という。ある程度の位にある魔法使いたちであれば、容易く使える魔法だ。
近づいてくるイズーに、風吹は無邪気に笑いかける。
「どうしたの? やっぱりおなか減った? じゃあ、早めに……」
空になったコップをシンクに置いて、風吹はイズーに向き直る。邪な魔導師の大きな手が肩に置かれても、風吹はきょとんとするだけだった。
イズーは風吹の目をじっと見詰めた。彼女の瞳には、ほんのわずかな疑いも浮かんでいない。
どれだけお人好しなのだろう。心配になってくるほどだが、しかしこれならば、術をかけるのは簡単だ。
『我が虜となりて、その身と心を捧げよ』
妙に自分の声が響く。――おかしい。不思議に思った次の瞬間、イズーの頭は誰かに殴られたかのように痛み出した。
「うっ……!」
よろめくイズーの腕を、風吹が咄嗟に掴む。
「どうしたの!? あっ、もしかして熱中症!? エアコン消してないよね!? 水分取った!?」
イズーをしっかり支える風吹は、見当違いな心配をしているものの、変わった様子は見られない。術は効いていないようだ。
――なんだ、どういうことだ……!?
イズーは萎えそうになる足を踏ん張り、再度呪文を唱えた。
『我が虜となりて、その身と心を捧げよ』
風吹に変化はない。
『我が虜となりて、その身と心を捧げよ』
やはり、風吹に変化はない。
「それ、どこの国の言葉?」
風吹は首を傾げている。イズーの頭痛は更にひどくなり、ついに堪え切れず、頭を抱えて床に崩れ落ちた。
「ぐう……っ!」
「だ、大丈夫? ねえ、救急車呼ぼうか!?」
イズーの髪に、頬に触れる手が、温かい。
――そういえばこいつ、昨日も風呂で俺の体に触った……。
元の世界では、忌み嫌われた彼に触れようとする人間などいなかった。
イズーは顔を上げ、風吹の瞳を覗いた。深く濃い漆黒のそれに、飲み込まれてしまいそうだ。目が合った瞬間、イズーの鼓動は跳ね上がった。
――なんて美しいんだ……!
直後、全てを理解して、血の気が引く。
なぜそうなったのかは分からない。だが、間違いなかった。
風吹に放った「魅了」の呪文は、どういうわけか跳ね返され、イズーの元へ戻った。
つまり――。
イズーは、風吹の虜となってしまったのだ。
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