水の上の国―ファンタジア―

河野章

 

 王は年若かった。


 強く美しく、聡明だった。


 そして少しばかり間違っておられた。


 老人は言った。


「王よ。お泣きになることはない」


 強く優しい王を見上げ、病の床から老人は微笑む。


「やるべきことは多くある。そのために、あなたは若い」


 老人の静かな声音に、年若い王は泣いた。






第1章




 国の北、最も貧しい街の一隅。壊れ欠けた石畳の上で、老人は蹲った。ボロ靴のつま先はとうに剥がれ、爪がむき出しになっていた。そこを拾ったボロ布できつく縛る。衣服は上下関係なく、温かいものから順に着込んでいた。もう何日、屋根のあるところで寝ていないだろうか。このあたりは雪をしのげる場所が少なかった。郷里を追われ北へ北へと逃げてきたが、はたして明日まで生きていられるのかとぼんやりと老人は思った。


 声は、その頭上から響いた。


「お前、いつ頃死ぬ予定だ?」


 冷ややかな口調。


 老人は薄汚れた衣服の中で身じろぎ、病にやつれた頬をわずかに傾けた。それだけの動作がひどく辛く、視界もかすれていた。


「……」


 若く、光り輝くほどに美しい男が見えた。


 漆黒の髪を白い額に落とし、その下から覗く闇色の瞳が、無感動に自分を見下ろしていた。幾重にも重ねられた仕立ての良い服。毛皮をふんだんに使ったコートに、背へと羽織るマントは銀糸の縁取りも美しい。老人の倒れ込んだ路地の一角に立つその足元は、銀の留め具に金銀宝石が散りばめられた分厚い革の靴だった。


 老人は微笑んだ。


「……もう少し、かかり……ましょうか」


「……」


 男は老人の答えに眉値を寄せた。眇めた瞳に浮かぶのは嫌悪。


「ならば良い」


 男は老人へ吐き捨てるように告げ、くるりと背を返した。老人の目の前で翻ったマントの裾、その内側に張られた絹の色を老人は見た。鮮やかな青。


 老人は静かに問うた。


「なにか……何かありましたか、王よ」


「何……? 」


 年若い男は瞬時に老人を振り返った。その困惑の表情に老人は穏やかに言った。


「青は国の色。衣服へ身につける習慣は、民にはありません」


 平伏しなければと老人は身じろいだ。指で路面をつかみどうにか上体を起こすと、一度王を見上げた。老人の瞳は、この国のものには珍しい薄く青い瞳だった。老人はゆっくりと王の前へ身を投げ出す。額を、凍るように冷たい路面へ擦り付ける老人の姿を、王はひどく冷たい眼差しで眺めた。


「……この男を、王宮へ運べ」


 老人を見つめたまま、王は背後にそう命じた。老人には息を呑む幾人かの気配が感じられた。意識が朦朧としていた。美しく若い男の後ろから屈強な兵隊が数人現れ、老人を抱え上げた。老人は何も言わず、されるがままにただその青い瞳を閉じた。


 名もない老人と年若い王は、こうして出会った。






第2章




 国は湖の上にあった。


 国というにはあまりに小さな浮島の上。


 ひどく寒いその国では、冬になると湖は凍った。




 王宮の奥深く。王は老人に手厚い看護を与え、一つの部屋を与えた。王は夜毎、執務の終わりに底を訪れ、老人に尋ねる。


「もう死ねるか?」


 たった一言、病床の老人に声をかける。老人は力ない青い瞳で王を見上げ、


「……まだ、……もう少しかかりましょうか……」


 同じ言葉を繰り返す。


 王は眉値を寄せて、冷たい眼差しを老人に向けた。


 それが、二十日と七日もの間続いた。




 ――老人は一人、王宮の中心に座っていた。そばには誰もいなかった。しんとした空気だけがあった。王宮にも都にも、国中探しても。老人以外は誰もそこにはいなかった――




 毎夜毎夜、王は老人を一人訪れる。王は時に豹変し、激高する。美しい顔を悪鬼の形相に歪め、老人に己の顔を近づける。


「なぜ死なん!」


 老人の襟元をつかみ、血ばしった瞳で老人を睨みつける。


「これほどまでに待っているのに、どうして、お前は死んでくれないんだ!」


 どれだけ歪めようと、なおもどこか美しい王の顔に、老人は穏やかに答えた。


「もう少し、かかりましょうか……」


 その答えに、王は老人を突き放す。なおも怒声を張り上げかけた王の耳に、静かな老人の声がぽつりと響いた。


「私が死ぬと、何か起こるのですか」


「っ……」


 王はきつく眉値を寄せ、老人を睨んだ。口を開きかけては首を振り、結局、乱れた衣服もそのままに老人のもとを去った。老人は体を起こせもせずに、ただ瞼を閉じた。






 第3章




 ――遠くで鳥の鳴き声がした。老人は王座から高い窓を見上げた。


「春が来るな……」


 呟くと、己の声だけが響いた。青い宝石が散りばめられた王冠を頭上に、青灰色のマントを背に、老人は王座に座る。先程より更に遠くで、何かが聞こえた。砲声に思えた、老人が王座に座り、半日。


「……氷が割れたか」


 老人はマントの裾を掴み立ち上がる。その両手と両足はかすかに震えていた――




 二十と七日目の晩。


 王宮は騒がしく、王は日付が変わる頃に老人を訪ねた。


 いつものように寝台へ横たわる老人を前に、王は一言のみ尋ねる。


「もう死ねるか」


 疲れ果てた声だった。老人は答えようと、その青い両目を開いた。王はゆるくカーブした黒髪を額に落とし、その奥から老人を見つめていた。


「なぜ……」


 小さなつぶやきが、王の美しい造りの唇から漏れた。


「どうして、お前は死んでくれないんだ」


 声を震わせて、王は老人の前へ膝をついた。肩と背が一度大きく引き連れ、王は両手で顔を覆った。嗚咽をこらえる苦しさに何度も息を詰め、それでも耐えきれないというふうに、ついにはその指の間から涙をこぼした。


 老人は震える腕を伸ばし、もったいなくも王の髪に僅か触れた。髪の先は冷たかった。


「何か、ありましたか……」


 俯いたまま王は頭を振った。


「何かありましたか」


 老人の、変わらぬ声の穏やかさに王はのろのろと顔を上げた。老人と視線が交わったその一瞬に、


「隣国がここに攻めると報告が入った……」


 王は絶望の声でそう告げた。




 二十と七日の晩が終わろうとしていた。老人はうなずき、王へ告げた。


「お逃げなさい」


「……」


「お逃げなさい、王よ」


 老人は再度王へ告げた。王はゆらりと立ち上がり、涙に濡れた眼差しで老人を見た。


「……この国に、隣国のような大国と渡り合えるだけの軍事力はない」


「存じております」


「守り切る術はないように思う……」


「おそらくは」


「国を、……国を捨てよと皆が言う」


 土地を捨て蓄えを捨て、僅かな武器兵器まで捨てて、国の民だけ連れて行く。民にもすべてを捨てさせる。家族以外のすべてを。逃げ、生きのびるために。


 王は語った。何も知らぬ老人に次々語った。前々から勧めていた国民全体を退避させる準備のこと。逃げた後のこと。新しい国作りのこと。それはすべて実現可能なように思えた。綿密に計画的に考えられた新しい国の指針。


「だが、……」


 震える王の指先を、老人だけがただ見ていた。


「だが、私に言えるだろうか。……すべてを捨てて私に従えと、民に」


 独白は小さく、消え入るようだった。老人は見ていた。弱い王の姿を一人で見ていた。


「王よ」


 老人は言った。初めて見る強い意志が、老人の目には宿っていた。


「あなたは賢く、強く美しい。だが少しばかり間違っておられる」


 息を呑む王へ老人は言う。


「あなたは、私の死など待つべきではなかった。一刻も早く民を連れ、この地から離れるのです。今日にも今にも湖の氷が割れ、この国は滅ぼされてしまうかもしれない」


「だが!」


「王よ。あなたは強く、賢く美しい」


 老人は自分の言葉を繰り返す。


「そして、脆く、弱い、若い王だ」


 言い聞かせるように、老人は王の黒い瞳を見据える。


「あなたに従わぬ民などおらぬ。さぁ、なぜ私をここへ連れてきたかお聞かせください」






第4章




――今度ははっきりと砲声が聞こえた。


 大勢の怒鳴り声と靴音。鎧や甲が擦れ合う硬質な音、老人の耳にも届く。老人は背筋を伸ばし、豪奢な衣服とマントを整えた。青い瞳と同じ色の宝石で彩られた王冠をかぶり直す。老人は呼吸をゆっくりと繰り返し、正面に遠く見える扉が開くのを待った――




「……身代わりを作れと、家臣に言われた」


 王は苦しげに語った。二十七日目は終わり、しらじらと夜が明けようとしている頃だった。王と老人が出会って二十八日目の朝。


「我が国は、湖に浮かぶ小国だ。資源は湖底から採掘される青い宝石のみ。加工の技術も随一だが、周りに内情をそう知られているわけでもない。特に冬季は……氷に覆われ、鎖国状態になる」


 老人はうなずく。


「他国へは、王家の存在も詳しくは知られていないはずだと皆が言う。先王から私に、早く代替わりをしたと知られてないはずだと」


 王は自身の手を握り込み、床へ言葉を吐き出した。


「だから、誰かを私の身代わりに王として連れて来ようと……」


 声を絞り出した王の背に、老人は何でもない口調で答えた。


「私が、国に残りましょう」


 王は困惑の表情で振り返った。嫌悪とも苦悩とも言える表情に、老人は初めて王に会った時を思い出していた。


「あの時と同じでございますね。王は、あなたは、自分自身を嫌悪していらっしゃった……」


「何を、」


「そうであれば、私はあなたの身代わりに王としてこの国に残りましょう」


 王は何度も首を降った。首を振って、しかし最後には頷いた。最初からそういう話だったのだ。自分の身代わりを彼に。


 自分からではなく、老人の申し出に頷いたことを恥じながら、王はその部屋を後にした。




 国民と王の退去は速やかに行われた。半日もあれば、国からは誰もいなくなった。二人はほんの一言を交わして別れた。


 老人は言った。


「王よ。お泣きになることはない」


 弱く優しい王を見上げ、病の床から老人は微笑む。


「やるべきことは多くある。そのために、あなたは若い」


 死を間近にした老人の静かな声音に、年若い王は泣いた。




【end】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水の上の国―ファンタジア― 河野章 @konoakira

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ