第75話 噂

「本当に大丈夫かしら?」


 ローズは王城へと向かう馬車に揺られながらそう呟く。

 あれから急いで登城の準備して何とか指定時間に間に合うように出発する事が出来たのだが、不安の色は隠せないでいた。

 フレデリカの言う通り、今回の招待状が贈られて来た理由は自身への断罪では無いかもしれないと、ローズも思いだしてはいる。

 それに馬車の窓から街並みを眺めると、確かにそうなのかと実感する事が出来た。

 なぜならば、馬車に掲げられた紋章よりこの馬車がシュタインベルク家の物だと気付いた者達が立ち止まりこちらを窺っている姿が見えるからだ。


 とは言え、この市民達の態度に関して現ローズの中の人である野江 水流は知らない事であるが、シュタインベルク家の馬車に関して市民達が立ち止まり様子を窺う事について、なにも今に限った事ではない。

 それは前大戦よりも遥か昔の頃から続くもので、時代と共にその意味合いは変わっていたがシュタインベルク家の馬車は王都にて注目の的だった。

 始まりはシュタインベルク家の始祖に始まる。

 大国からの侵略を五度に渡り退け救国の英雄として伯爵家を興したローデリヒ=フォン=シュタインベルク。

 彼が領地より王城に参上する際には、大通りの側道には彼を一目見ようとする人でごった返す賑わいであった。

 それ以降もシュタインベルク家は代々護国の英雄を時代と共に輩出しており、王都市民にとってはその紋章を掲げられた馬車は憧れの象徴として称えられている。

 勿論ローズの父であるバルモアが前大戦の折に若き英雄、そして四英雄として称えられた時も人々は最大の称賛を以ってこの馬車を迎えた。

 それは、慈愛の聖女アンネリーゼと婚姻を結んだ時も変わらなかった。


 しかしながら、その人々の想いもやがて色が変わり出す。

 アンネリーゼの死後、悪女の道を走り出したローズに対して人々は激しい落胆とかつての憧れる思いを裏切られたと言う憤りから、シュタインベルク家の馬車は侮蔑の色が浮かんだ瞳で人々より見られる事となった。

 その功績や人柄をよく知る王侯貴族や軍関係者は別として、市民達はバルモアに対しても『子供の教育を間違った馬鹿親』と陰で笑っており、今やシュタインベルク家の紋章と馬車は嘲笑の的となっていたのだ。


 但し、ここに来て市民達の目に宿す色は別の変化を見せる事となる。

 切っ掛けは貴族が集う高級レストランのウェイターだった。

 テーブルお付のウェイターとして控えていると、応対している貴族達が何やら興奮して喋っている。

 貴族の癖にレストランでの食事中こんな大声で話すなど、なんてマナーのなっていない奴なんだと眉を顰めたが、耳に入ってくる言葉を通行止めなんて出来やしない。

 それによると、どうやらその貴族が今日体験した事を話しているようだ。


 最近貴族がここまで興奮する様な珍しい事など何かあっただろうか? あぁ、そう言えば娘の教育を失敗した親バカ伯爵が隣国へと使者として旅立つとか言う噂を耳にしたな? なんて事を思いながらも、それ如きに何を興奮する事が有るのだ? と、少しばかり興味が湧いたウェイターはお客様のプライバシーに踏み入るのは立場的に不味いとは思いながらも耳を峙たせて盗み聞きをした。


 それによると、確かに伯爵の出立の際の話の様だ。

 しかし、そこから聞こえてくる話はにわかに信じられない事ばかり。

 驚く事に噂の悪女は、どうやらいつもと様子が違ったらしい。

 その立ち振る舞いはまるで王国歌劇団の一幕の如き壮麗さで、その場にいる者は皆夢幻かの如くバカ女に目を奪われたのだと言う。

 そんな馬鹿な、こいつらは本当に夢を見たのだと、ウェイターは心の中で笑った。


 仕事上がりに仲間内でこの話で盛り上がったのだが、そのあまりにもおかしいバカ女の生まれ変わり話は、次の日には口伝てに市民の間へと笑い話の噂とした形で広がって行く事となる。

 勿論他の貴族達から漏れた別のルートの伝聞も有ったのだが、全て似た様な顛末だ。

 こうして、生まれ変わったバカ女の噂は市民達の間で認知されていった。

 暫く娯楽らしい娯楽も無く退屈していた市民達は降って湧いたそんなふざけた噂を面白可笑しく語り合い楽しんだ。


 しかし、暫くするとそんな有り得ない噂話を肯定するかの様な新たな噂話がちらほら流れ出す。

 噂とは形を変えていく物だ。

 誰かが面白がって作ったホラ話だろうと皆は思った。

 貴族の事など一般市民には分からない物なのだからと。


 だが、市民の中から直接悪女と会った者が出始めた。

 それは出入り商人達だ。

 実は悪女の噂を市民達に広めたのも彼らである。

 欲望のまま物を買い漁る卑しい女。

 上客では有るが、その人を人と思わぬ横柄な態度。

 無恥で無知な馬鹿女。

 あの聖女からなぜこんな愚鈍が生まれたのかと、数々の悪女に対する噂話を彼らは知り合いに語ったのだ。

 それなのに、今や彼らは悪女の事を悪女だなんて呼ばない。


 『何が有ったのかは分からないが、以前流れた心を入れ替えたと言う話は真であった』


 そう彼らは語るのだ。

 まず、今までの非礼を謝って来たのだと言う、そして貴族でもない自分達にも丁寧に応対してくれるだけでなく、かつて見た聖女の笑みを思わせる微笑みで優しく笑い掛けてくれる。

 さすがに知識不足は否めないが知らない事は知らぬと言い、素直に教えを乞う事を恥としない。

 そしてその立ち振る舞いはまさしく貴族令嬢の最高峰と言っても過言ではないと力説した。

 まさしく王国中の皆が恋焦がれたあの慈愛の聖女アンネリーゼのご息女がそこに居たのだと。


 ここに来て市民達の意識が変わり出した。

 商人達の話も半信半疑である事には変わらない。

 だが、ただの嘲笑ではなくかつて裏切られた憧れへの悔恨の念が心の底より沸き立ってきたのであろう。

 いつしかその生まれ変わったと言う噂話を、本当にそうであって欲しいと願うようになったのだ。

 あの聖女アンネリーゼ様と四英雄のバルモア様の娘として相応しい貴族令嬢の誕生を。


 その人々の願いはすぐに現実のものとなった。

 迎賓館としても有名な公爵家の大ホールで執り行われたサーシャ様の新ブランド事業発表会。

 その切っ掛けとなったベルナルド派閥の夫人達による暴動未遂事件とそれを見事に治めた聖女の奇跡は、その時大ホールの外で入場を控えていた王都中の女性達が証人となっている。

 それだけではない、もう一人の悪女として知られていたビスマルク家令嬢との和解。

 どうやらビスマルク家の令嬢も英雄達の娘に感化されたようで、それ以降悪い噂は聞かなくなった。

 極め付けは、つい最近聖女アンネリーゼ様が創立なさった孤児院を来訪されたとの事。

 その様はかつての聖女を思わせるだけでなく、まさしく伝説に残る子供達の守護天使の様だったと職員達は語ったらしい。

 これらの事は号外として王都中の市民達全てに知れ渡った。


 だから、今ローズの乗るこの馬車を見る市民の目に浮かぶ色は、たった一ヶ月前に浮かんでいた物とは明らかに異なっている。

 と言っても、その事を野江 水流であるローズは知らないのだが。

 今ローズが初めて目にした市民達の眼差しには、かつてこの馬車とシュタインベルク家に向けられていた……いや、それ以上の敬意と羨望の色が浮かんでいるのだった。


 ローズはそんな市民達に馬車の中から微笑みかけた。

 その笑顔を見た市民達は皆幸せそうな顔をしている。

 子供達が手を振っているのが見えた。

 ローズは少し恥ずかしく思いながらもその子達に手を振り返す。



「はぁ~、知らなかったわ。貴族って市民達にこんなに愛されてる物なのね」


 ローズは市民達の歓迎ぶりに思わずそう零した。

 封建社会の貴族など嫌われていてなんぼだと勝手に想像していたローズには、この皆の態度に驚きの色を隠せないでいる。

 『これではまるで芸能人みたいじゃない。そうだ! サインの練習でもしようかしら?』 など的外れな事を考えていた。


 馬車の中、ローズの向かい側に座っているフレデリカは呆れた顔でその呟きを聞いている。

 『それはお嬢様だからですよ』と言い掛けたが止めておいた。

 実はフレデリカだけでなく何人かは今のローズが以前のローズと違う事に気付いている。

 とは言え、中の人が野江 水流となったと言う事まではさすがに分かっておらず、何らかの記憶障害によって昔の事を忘れてしまっていると認識していた。

 元より小説などに感化されやすい性格だった事から、おそらく記憶障害の際に何かの小説の主人公の人格が固着して、今の様になったのだろう考えている。

 しかしそれで良いのだと、気付いている皆は思っていた。


 悪女なんて蔑まれるよりずっと良い。

 それになにより今の立ち振る舞いやその言動。

 まさにアンネリーゼの優しさとバルモアの強き心を受け継いだ理想の姿なのだから。

 アンネリーゼの死によって変わる前のローズは、幼いながらもその成長の先に今の姿の到来を予期させる片鱗を伺わせていた。

 彼女が正しく成長したのならば今の姿になっていただろう。

 そうだ、バルモアの出立の日ローズが語ったと言う亡き母からの導きの言葉は真実だったのだ。

 天国より娘の悪女の姿を嘆いていたアンネリーゼがローズを正しき成長した姿へと生まれ変わらせたのだと、これが今では気付いている者達の間での共通認識となっている。


 とは言え、フレデリカは思う。

 この主人は心を入れ替えてからというもの、素晴らしい洞察力に他者への異常なまでの気遣いなど周囲に対して鋭く見抜く目を持っていると言うのに、異常なまでに自己評価が低い。

 特に人からの好意に対しては今まで以上に酷い有様だ。

 以前より気まぐれで囲っている殿方達に関しても、オーディック以外は別の目的でローズに近寄っていただけだが、今では全員がローズに対して好意以上の感情を前面に押し出してローズに接している。

 しかしながら、当のローズは全く気付いていない。

 先日、『最近皆が足繁く通ってくれているけど、本当は面倒臭いとか思われてないかしら? お父様が居ないから寂しがってると思って私に合わせてくれているとしたら申し訳ないわね』とポツリと漏らした時は耳を疑った程だった。

 だがフレデリカは彼らがこぞって集う理由をローズに教えたりはしない。

 何故ならそれを教えると、ローズが殿方達に対して特別な想いを持ってしまうかもしれない。

 そうすれば、自らの野望の妨げになるのだ。

 今のフレデリカの野望はローズを誰も近付け得ぬ高みへと導く事である。

 その為、かつて自らの破滅願望の道連れとしてこの国も共に破滅に導こうとした才覚の全てを注いでいた。

 その為には現状多くの懸念事項が存在している事は把握している。

 それはこの国だけでなく周辺国をも巻き込みかねない程大きなものも少なくない。

 それでも達成してやると、市民達から羨望の眼差しを向けられている事に照れているローズの姿を見ながらフレデリカは再び心に誓った。


「お嬢様。ともに天下を取りましょう!」


「へ? て、天下? え?」


 そんな思いつきもしないフレデリカの突拍子もない言葉に対応出来ず、しどろもどろになるローズであった。

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