第5話 陽子の秘密の場所
息を止めて海を潜る。
いつもの岩場は海面の下に、思わぬ秘密を隠していた。意外と大きく開いた入り口を通り抜けると、ぽかんと明るい場所に出る。空気を求めて上る海面がきらきらと眩しい。
その煌めきの中に浮かび上がると、陽子がいた。
「ようこそ。私の秘密の場所へ。」
そこは岩に囲まれた小さな海面だった。
ちょうど人が一人くらい座れる平たい張り出しがあって、人が一人寝そべられるぐらいの海面がある。他はどこも荒々しい岩しかない。上空には空がひらけていて、太陽の光が差し込んでいた。
陽子はその、一人だけが座れる岩に座っている。差し込んだ光に透けた髪が、仄かに金色がかっているように見えた。
「すごい隠れ処だね。」
僕は本当に感心していた。まさか毎日のように通った岩場にこんな場所が隠れているなんて、想像もしていなかった。
陽子の場所は一人になりたい気分にちょうどいい、頃合いの狭さだった。狭すぎると息苦しいし、広すぎると寂しいけど、どっちでもないぴったりの狭さ。しかも寝そべるにちょうどいい海面と、座りやすい岩の張り出しまである。
まるで海が陽子のために準備したみたいな場所だ。
「ありがと。かなり気に入ってるんだ。」
それから陽子は座っている真後ろの岩の割れ目から、コンビニのレジ袋らしきものを引っ張り出した。
「見て。」
陽子が広げた袋の中身は、綺麗な貝殻やシーグラスだった。中にひときわ目立つ紫のシーグラスがある。陽子はその紫のシーグラスを取り出した。
「もとは何だったんだろう。わかんないけどすごいと思わない?」
陽子の言うとおりそれはすごいシーグラスだった。単に珍しい色というだけでなく、とにかく大きい。陽子の手のひらの上で、紫色の肉球のような形をしている。
陽子はそのシーグラスを日の光に透かして、それから僕に差し出した。
「あげる。ヒトデのお礼。進化系だよ。」
そういえば、ゲームのヒトデのキャラクターがレベルアップして変わる色と、そのシーグラスは少し似ていた。もちろんシーグラスらしく白く曇っていたけれど。
「もらえないよ。君の宝物だろう。」
コンビニ袋に入ったとりどりの貝殻やシーグラスは、絵本で見た海賊の宝を思わせた。あの袋に詰まっているのが陽子の戦利品であることは、言われなくてもわかる。
そして紫色のシーグラスは、その中でもひときわ異彩を放つお宝だった。
「うん。そうだよ。だからあげる。今日、海斗に会えなかったら全部海に返しちゃうつもりだったんだもん。でも海斗にヒトデもらっちゃったからね。交換。」
陽子が僕の手のひらにのせたシーグラスは、僕の手の肉球にしてはちょっと小さい。厚みのあるぷっくりとした形で、陽子の体温を移したみたいに少し暖かかった。
「さ、みんな海にお帰り。」
陽子が逆さにあけた袋から、陽子の宝物が海にこぼれ落ちる。それらは海の中でかすかに煌めきながら、あまり深くない足元の砂の上に散らばった。
「うん、これでよし。」
それから陽子は、岩から海に下りた。寝転がりたいのだとわかったので、僕は反対に岩によじ登って座った。
水面に柔らかく広がる髪。
海を纏う手足。
海に寝そべる陽子はとても綺麗に見える。
閉じた目を縁取る睫毛が意外と長い。
「もうこのまま私も海に帰っちゃいたいなあ。」
ささやくような声は、反響のせいかはっきりと聞こえた。
「だめだよ。」
答えたのは反射だった。
陽子が目をあける。
「だめだよ。ちゃんと帰る時まではこっちにいなよ。」
そう言うと、困ったように笑った。
「そっか。そうだよねえ。」
そのまま陽子の身体が波間に沈む。
僕は、慌てて海に飛び込んだ。
水深は浅いし、陽子は水棲生物だ。すぐに浮かんでくることなんてわかりきっているいのに、なんだか慌ててしまった。
陽子の顔がすぐに浮かび上がってくる。
陽子が、煌めきの中を上がってくる。
浮かび上がった陽子を捕まえて、僕はキスをした。
今まで誰ともキスなんかしたことはない。
でも陽子にキスをすることは、僕の中でとても自然なことだった。
「なに?」
陽子がキョトンとする。
僕はしばらく自分の中に言葉を探した。
「…人工呼吸?」
キスなんだけど、キスって言ってしまうよりその方がしっくりくる。
「救命行為?」
「うん。まだこっちにいて欲しいから。」
陽子が笑い出す。
「そうか。そういうことなんだ。人工呼吸ってまだ行かないでっていうことなんだね。」
ちょっと笑ってから、陽子が遠くを見る目をした。
「うん。ここからいきなり帰っちゃったりはしないよ。大丈夫。」
それから握りしめていたクラゲのシーグラスを光にかざした。
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