33.春風凛Ⅱ
その時――、化け物の身体に埋め込まれた眼球の一つがピクリと動いた。
消耗し切った凜は、そのことに気付かない。
火炎に焼かれ、半分が炭化し、一部が溶けたようになっている眼球が、ぎこちない動きでその視線を凜の背中に向ける。
ゆっくりした動きで、頭部を無くした化け物が片腕を地面に着いて起き上がる。
ピシッと地面にヒビの入った音が鳴り、それを耳にした凜がハッと振り返った。
「――――」
振り向いた凛の視界に映ったのは、日の照りつける清々しい青空だった。
(…………え?)
少し遅れて、凜は自分の身体が宙に浮かんでいることに気付く。
振り向く瞬間、立ち上がった化け物に蹴り上げられたのだ。激痛を訴える腹部から、凜はそのことを悟った。
高く舞い上がった凜は、そのまま受け身も取れずに地面に落下して、身体を強く打ち付ける。
ミシミシと骨が軋む音が内側から聞こえる。
「が、がは……っ」
喉の奥から何か熱いものが込み上げる。燃えるようや熱さ。痛み。
凜はたまらずそれを吐き出した。
彼女の口からゴポリと飛び出た血の塊が、地面に赤い花を咲かせる。ビチャリと液体が弾けた音が鳴る。
「――――」
起き上がる気力がない。指先一つ動かせない。意識がハッキリしない。
(ほんと……、気に入らない……っ。ムカつくわ……)
なんだこの様は。
腹が立った。
調子に乗って自分のチカラを過信していた自分に腹が立った。
そこまで強くないくせに。
こんな所でやられる程度の自分が。
学年最強ともてはやされて、図に乗っていた自分が。この程度で満足していてはいけない筈だったのに。
なのに、油断した。
ズンと化け物が地面を踏みしめる音が、すぐ側で鳴った。
上空に向けたままの凜の視界を、何かが遮って日光を閉ざす。
それは化け物の足の裏だった。
凜の頭を踏み潰す気だろうか。流石の凜も、頭部を失っても平然と動くこの化け物のように、頭を潰されて生きていられる自信はない。
(はっ、バカげてるわね……)
頭を潰されたら死ぬに決まってる。
凜は振り下ろされる化け物の足裏を眺めながら、最期に自分の弱さを噛み締めていた。
強くなったはずだったのに。
少なくともあの頃よりは。
そんな父親は凛の憧れで、目標だった。
決して優秀なわけではないが、誰よりも頑張って、誰よりも努力していた。才能がなくても、誰かにとっての助けになろうと、決して諦めなかった。
そのことを凜は知っていた。
そんな憧れの父親は、凜が幼い頃、とある任務の最中に殉職した。
後から得た情報によると、そんなに難しい仕事ではなかったらしい。だけど、凜の父親は失敗して、命を落とした。
父親の葬式で、凜は父親の同僚たちの会話を偶然聞いた。
曰く、情けないと。
曰く、弱いから死んだのだと。
その時、凜は自分がどのように感じたのかを、あまり覚えていない。
だけど、泣き叫んで、『そんなことはない』と父親の話をしていた同僚たちに抗議したことは覚えている。
そして、チカラのない凜には、それ以上何もできなかった。
きっと、凜が強くなろうと決めたのはこの時だ。
誰よりも強くなって。誰にも文句を言わせない程強くなって、父親の意思を受け継ごうと決めた。
そのはずだったのに――――。
どこで間違えたのだろうか。
そう思った時、凜の脳裏に過ぎったのは意外な人物だった。
黒い瞳と黒い髪を持ち、学園の最底辺にいる生徒――衆印夜人。
あの少年を見てると、どうしようもなく苛らついた。
才能がないという理由で全てを諦めていたあの少年の生き方が、父親の努力を嘲笑っているようで気に入らなかった。
そんな最弱の少年。
そう思っていたのに、彼は化け物が放ったエネルギーの塊を相殺し、多くの人の命を守った。
その姿は、最弱と馬鹿にされ続けてきたあの少年からは考えられないものだ。
最弱の少年に、あんな高度な真似ができるはずがない。
だとすれば、彼はチカラを隠していたということになる。
一体なぜ――?
その訳の分からなさに、凜はたった今自分が死にかけていることも一瞬忘れて苛立った。
意味が分からない、と。
――――だが。そんな凜の思考のことなど、片腕と頭部を失った化け物には微塵も関係ない。
その化け物がするべきことはただ一つ。
目に映る“人間”を殺す。それだけである。
化け物はゆったりと片足を凜の顔の上に持ち上げ、振り下ろす。
そこに慈悲はない。あるはずがない。
化け物の足裏が頭を踏み砕き、あっさりと命の火が掻き消える――――。
――そんな光景を凜は錯覚した。
が、しかし。
恐れたその瞬間は訪れない。
何か弾丸のようなものが遠くから飛来する。凜は視界の端で、ソレが魔法によって作られたものだと確認する。
ソレは化け物の胸部に衝突すると、その勢いのままに化け物を背後に押し倒した。
そこまで威力のある魔法ではなかった。
だが、凜の攻撃によりボロボロになって片腕や頭部まで失い、片足を振り上げていた化け物を押し倒すのは、そう難しいことではなかった。
「――春風さんっ」
誰かが凜の元へ駆け寄って来る。
そうして、凜の身体を抱き上げたのは彼女もよく知る一人の少女だった。
「酷い怪我……、すぐ治療するから我慢して」
涼風小夏は悲痛な顔でそう言うと、凜の身体を抱えたままその場から離れる。
倒れた化け物は、鈍くなった動きで起き上がろうともがいていた。
「なん、で……」
疑問の声を凜は絞り出す。
だが、その弱々しい声は、必死な表情の小夏には届かない。
化け物から十分に距離を取った小夏は、凜の身を案じながら慎重に彼女を地面に降ろす。
そして小夏は、凜の胸元あたりにそっと両手を触れると、大きく深呼吸してからそれを唱えた。
「――《
小夏の手元に灯った淡く温かな光は、じんわりと凜の身体に浸透していく。
傷が深く、凜自身の消耗が激しいため、今すぐ完治という訳にはいかない。
小夏にそこまでの技術はない。
だが、凜が今感じている苦しみと痛みを和らげることくらいならできる。
徐々に凛の傷が癒えていき、今この場で出来る限りの治癒を凜に施す。
そうしてから、活性化状態の
「わたしが……っ」
本当に偶然だった。
凜が今にも死にそうになっていた場面に小夏が遭遇したのは、奇跡と言ってもいい。
小夏が夜人の不在に気付いたのが数分前のこと。
無事に化け物を打ち倒したかえでともみじに皆が沸いていた時、小夏は側にいたはずの夜人が居なくなっていることに気が付いた。
そのことに気付いた瞬間、居ても立っても居られずその場から離れた。結衣の制止の声が後ろから聞こえた気がしたが、それにも応じず小夏は夜人を探すため駆けだした。
だが、そんな小夏が見つけたのは夜人ではなく、凜だったのだ。
小夏は夜人を探さないといけない。
今、このような危機に陥っている学園に、夜人を一人で放ってはおけない。
でも、この状況を見逃せないのも事実だった。
凜が奮闘したのだろう。
異形の化け物の姿はボロボロで、バランスが取れていないようにフラついている。
あの状態ならば、小夏一人でも倒せるかもしれない。
「まちなさい……っ」
そんな小夏の肩に、背後で立ち上がった凜が手を置く。
凜は今にも途切れそうな絶え絶えの呼吸を繰り返して、小夏の肩に体重をかけながら 何とか立っているような状態だった。
「だ、ダメだよ春風さん! 傷は癒したけど、まだ体力は……」
「あなたに心配される筋合いはないわ……っ。それに、アレの相手はまだ、あなた一人には荷が重い……」
「けど春風さんっ、そんな身体じゃ」
「分かってる。もう自惚れるつもりはないわ……。慢心は、しない。一人でもやれるって、何の疑いもなく信じてた私がバカだったの……」
凜は唇を噛み締め、何かに堪えるような表情を浮かべながら、意思の通った瞳で小夏を見据える。
「だから、小夏。あなたのチカラを貸して……っ。あと一度、一回でいいの。アイツに隙を作って。そしたら、トドメは私が指す。今度こそ、絶対に……。小夏、あなたなら、できる」
そう言って、凜は小夏の肩から手を離した。
「……うんっ。分かった」
小夏は凛の意思を受け取って、大きく頷く。そうしてもう一度、化け物の方に目線を向けた。
化け物は、あんなにボロボロの身体になっているにも関わらず、ドスドスと地面を踏み鳴らしながら着実にこちらの方に近づいていた。速度も、決して遅いわけじゃない。
「――よし」
小夏は自分を鼓舞するように呟くと、地面を蹴って化け物との距離を詰める。
ある意味憧れでもある凜にそう言われては、何としてもやるしかない。
「――《
駆ける小夏の正面に水で形造られた三つの弾丸が顕現し、小夏に先行して化け物の元に辿り着く。
勢いよく化け物に衝突した三つの弾丸は同時に破裂して、化け物の動きを一瞬だけ封じる。
「はぁぁっ!」
その間に肉薄した小夏は、化け物の懐に潜り込んで剣を斬り上げた。
斬撃は化け物の胸部にヒットするが、その身体を切り裂くことは叶わない。
至る所が焦げ付いて、爛れた化け物の身体だが、それに比べれば小夏が放つ斬撃など何でもないと言うかのように、化け物は何事もなかったように片腕を振り上げ、振り下ろした。
「っ!」
小夏は反射的に盾を掲げ、化け物の腕を滑らせるように受け流す。
だが、想像よりずっと重く力強い腕撃を小夏は受け流しきれず、背後に吹き飛ばされた。
(あんなにボロボロなのに……っ)
小夏は何とか受け身を取って、地面に足を着く。
化け物の腕を受けた盾を持っていた左手がズキリと痛む。小夏は思わず顔をしかめた。
「まだ……っ!」
小夏は気合を入れなおして、剣先を化け物の足元へ向ける。
「――《
化け物の足元から植物の太い蔦が生え、脚に絡み着いた。蔦は何重にもなって化け物の足を拘束し、そのまま続けて身体にまで伸びる。
「まだまだっ」
小夏はさらに魔力を込めて、大量の蔦を操る。化け物の身体が直立した状態で雁字搦めにされる。もはや蔦が巻き付いていない所など見当たらないくらい、化け物の身体が縛られていた。
「これなら……」
小夏が息を吐き出して、化け物を見る。――だが。
ブチブチと、何事でもないように化け物は蔦を引きちぎると、大きく一歩前に踏み出して、小夏に向けて拳を振るった。
「――――」
少し時間を置いて体力が回復したからなのか、それとも敢えて小夏を油断させようとしてたからなのか、化け物の動きは先ほどよりずっと速く、小夏の予想を遥かに超える速度だった。
化け物の拳が、小夏の顔面を捉え、振り抜かれる。ブンと大気を薙ぐ音が鳴った。
「――――」
そして――。
拳の通過と同時に、小夏の身体が消し飛んで、霧散する。
「…………」
化け物の一部が焼け爛れた複数の赤い瞳が、小夏が消えた跡をジッと見つめている。
「――《
少し離れた位置で、パッと水の飛沫が弾けた。
ゆらりと付近の景色が揺らいで、一人の少女の影が浮かび上がる。
「――《
小夏が力を込めた声で唱える。
瞬間、化け物の身体を中心にして巨大な水渦が顕現した。
激流の勢いで大渦を巻き、化け物の身体を包み込むそれは、小夏が生み出した水流の檻。
化け物はそこから抜け出そうと、大きく一歩を踏み出すが、その瞬間を狙い定めたように水の弾丸が飛来して、命中。化け物の身体を押し戻す。
水中を何の抵抗もなく突き進む弾丸は、激流に支配される化け物を押し返すのに十分足り得ていた。
水渦の中、化け物の眼球が見つめる先では、剣先を正面に向けた小夏が真剣な顔をしていた。
「絶対に逃がさないから……っ。――春風さんっ。今ぁっ!」
「――えぇ、わかってる。助かったわ小夏」
小夏の側を横切って、火炎を纏った長剣を握りしめた凜が、水流の檻に閉じ込められた化け物に迫る。
「――《
凛の長剣を覆っていた火炎が一層勢いを増し、苛烈になったかと思うと、剣先が伸びる。
炎の刃が長剣を丸ごと包み込み、その刃渡りを大きく伸ばした。
凜の
「今度こそ、終わりよ……っ」
凜が炎の大剣を、普段の剣と変わらぬ速度で振り抜き、水流の渦ごと上下に両断する。
火炎の刃が通過した場所は一瞬にして蒸発し、化け物の身体もそれと同じように二つに分かれる。
既に頭部がない化け物の上半身が、水流に押し流されるように吐き出され、地面に転がる。
下半身は水渦の中に残ったまま、激流に巻き込まれてぐるぐると回転していた。
それを見た凜は、もう一度炎の大剣を振って、化け物の身体を断つ。そして、さらにもう一振り、二振り、三振りと、いつもの長剣の扱いと変わらぬ目にも止まらぬ連続の剣技を放って、化け物の身体をバラバラにした。
バラバラになった肉塊はそれぞれ、水の外にあったものは火が移った状態のまま燃え尽きて、激流の中にあったものはその威力に耐え切れず粉々になった。
「流石に、これで……」
と、そこまで言いかけた所で、凜は身体から力が抜けたように崩れ落ちる。
長剣は地面に落ちて、纏っていた炎も一瞬にして鎮火した。
「は、春風さんっ」
そんな凜を、慌てて駆け寄った小夏が抱き留める。
「……心配はいらないわ。少し安心して、力が抜けただけ」
不満そうな顔つきで、凜が小夏のことを見上げる。
それを見て、小夏は少し怒ったような表情をつくった。
「もう、春風さんは強がり過ぎだよ。こんなにボロボロになって、無理し過ぎ」
「だとしても、誰かがやらなきゃいけなかったことよ。無理をしなきゃ、ダメだったの」
「……春風さん」
小夏は自分の腕の中で割り切った表情をしている凜を見て、複雑そうな顔になる。
そして、しばらく悩んだ後、小さく笑みを浮かべて凜のことを見つめた。
「ねぇ、わたし春風さんのこと、凛って呼んでもいいかな? 春風さんもいつの間にかわたしのこと小夏って呼んでたし」
「……好きにすれば?」
凜は一瞬小夏から目を逸らしてそう呟くと、「もう大丈夫よ」と言って小夏から離れる。
そうして、凜は
言うか言うまいか迷うように唇を震わせた後、凛は小夏に目を合わせて、ゆっくりと口を開いた。
「その、一応礼を言っておくわ。あなた……、小夏がいないと、ダメだった。だからその、……ありがとう」
そんな凜を見て、小夏はしばらくポカンと口を開けていた。
「な、なによ、その反応は……。私がせっかくお礼を言ってるのに、何か――」
「うんっ、凛! どういたしましてっ」
小夏は弾けたような笑みを浮かべると、両腕を広げて凜に抱き着いた。
「ちょっ、いきなり何を……っ」
「あ、そうだっ。ねぇ凛っ、お願いがあるの。たぶん凄く疲れてると思うけど、でも、お願いしたい……っ」
明るい笑顔から一転、小夏は焦りと悲痛が混じった表情を浮かべると、凜を見て言った。
「わたしと一緒に夜人を探して――」
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