9.また月夜に




「……え?」


 夜人が何かした訳ではない。だが、彼らは倒れ込んだまま動こうとせず、どうやら気を失っているようであった。


 何が起こったのかと警戒して刀を構える。その次の瞬間、夜人の腹に力強い衝撃が訪れた。


「――っ!?」


「おにいちゃんっ! 大丈夫っ? ケガしてない? あっ、ほっぺのとこ血が出てる……っ」


「てぃ、ティーナっ?」


 腹に訪れた衝撃の正体は、正面から抱き着いてきたティーナであった。


「お兄ちゃん……っ」


 ティーナは夜人の頭を抱え込むように寄せて、顔も近づけると、夜人の頬の血をペロリと舐めとった。


「ちょ、ティーナっ!? なにして……っ、てか。まだ日が出てるけど大丈夫なのか、なんでここに?」


「あぁ、うん。あのねお兄ちゃん、ティーナ、お兄ちゃんに会いたいって思って」


「……はぁ?」


「起きたらお兄ちゃんいなくて、寂しくなって。探しに来たのっ」


「…………あのさ、ティーナ」


「うん? なぁに?」


「とりあえず落ち着こうか、それと、今から俺が訊く質問にちゃんと答えてくれ」


 ぴょんぴょんと小さく跳ねていたティーナの両肩を押さえつけるようにして、夜人は彼女の瞳を見つめてそう言った。


「う、うん。わかった、お兄ちゃん」


 夜人の真剣な様子に気付いたのか、ティーナは殊勝に頷いた。





「はぁ……っ、全くお前は……」


「ごめんなさいお兄ちゃん……。嫌いにならないで」


「今度俺との約束を無視したら、嫌いになるかもな」


 まぁ、今朝、大切なことをティーナが寝ぼけている時に言ったのは夜人が悪かったと思う。

 が、ここはこう言っておいた方がよいだろう。


「うんっ、ティーナお兄ちゃんの言うこと何でも聞くっ! 約束も破らないからっ」


 だが、この少女は、両親の言いつけを破って一人で夜人の元にやって来たのだ。十分に注意した方がいいかもしれない。


 さて、どうして家で留守番しているはずのティーナがここにやって来たのかだが、本当にただ夜人に会いたかったからだけらしい。

 そしてまだ夕陽とは言え、日の出ている内にティーナが外に出て大丈夫な訳だが、彼女が今身にまとっている黒色の外套は特殊な加工がなされており、陽光が吸血鬼ヴァンパイアに与える悪影響を大部分カットできるらしい。

 それで身体のほとんど覆っているため、夕刻であれば外に出てもすぐに影響を受けることはないとのことだ。


「それでティーナ、こいつら本当にただ気を失っているだけなんだよな?」


 夜人は地面に転がったままの鈴川たち三人の方を見やる。


「うん、眠らせただけだよ。でもこいつらお兄ちゃんを本気で攻撃してたよね。本気で攻撃を当てようとしてた。それでお兄ちゃんは傷ついたの。本当に殺しておかなくていいの? ティーナなら、上手くいたぶって殺せるよ?」


「だ、だから殺すな。いいんだよ。これ以上何もしなくていい」


「でも……っ、お兄ちゃん」


「ティーナ」


「……」


 夜人は内心で酷く動揺し、戦慄していた。平然と、大したことでもないように“殺す”という言葉を使ったティーナに。

 おそらく冗談でも何でもない。事実として、ティーナにとって本当にそれは大したことじゃないのだ。

 きっと育ってきた環境の違い。

 決して表の舞台に存在を気取られてはならない吸血鬼ヴァンパイアが生きる闇のセカイでは、それが普通なのだ。


 夜人の心臓が気づかぬうちに速く鼓動している。

 気付いていないわけじゃない。夜人もその闇のセカイに足を踏み入れかけているのだと。


「わかった。じゃあ殺さないよお兄ちゃん。でもせっかくなんだからさ、ちょっと血をもらうくらいは、いいよね?」


 そう言って、ティーナは夜人の返事を聞く前に鈴川たちに近寄ると、懐から何か注射器のような物体を取り出した。


「お、おい、ティーナ」


「大丈夫だよお兄ちゃん。変なことは何もしない。ちょびっと血をもらうだけ」


 ティーナは音もなく慣れた手つきで針先を鈴川たちの首筋に差し込んでいき、血を抜く。

 抜き取った血は懐から取り出した瓶に流し込んで、封をした。


「これでよし、と」


 ティーナは満足そうに頷いて、注射器と瓶を懐に戻した。


「……」


 夜人も理解していた。これが吸血鬼ヴァンパイアが生きるために必要な行為であると。いわば、人間が肉を食うために動物を殺すのと何も変わらない。

 しかもティーナが彼らの命に関わることをした訳でもない。

 抜いた血も大した量じゃないし、しばらくもすれば彼らも目覚めて、自分たちが血を抜かれたことなど知る由もないだろう。


 夜人は短く深く息を吸って吐き出して、ティーナに声を掛ける。


「じゃあティーナ、ウチに帰るか。こいつらはそのままでいいから」


「うんっ、お兄ちゃん!」


 ティーナが夜人の手を握る。

 夜人はその手を握り返しながら、なるべく人目に付き難い道を選んで、学園を出るのだった。





「あはっ、あはははっ、すごいっ! お兄ちゃんすごいよ!」


 ティーナが凄まじい速度で突き出した掌底を、すんでのところで躱す。衝撃がかすった黒髪が浮き上がる。体勢が僅かに崩れ、その隙を狙ったティーナが地を這うような足払いを掛けた。


「っ!」


 夜人はそれを後ろに跳んで避け、ティーナと距離を置く。


「すごいっ! すごいねっ、さすがティーナのお兄ちゃんだね! お兄ちゃんは昨日初めて血を飲んで調子を戻したばかりなのに、もうティーナが本気でやっても捕まえられないなんて」


 嬉しくて、楽しくてたまらないというように笑い声を上げ、満開の笑顔で夜人を見るティーナ。


 夜人は少し荒くなってきた息を落ちつけながら、ティーナの視線に答えた。疲れをねぎらうように、夜風が吹いていく。草原の草枝がざざざっと音を立てた。


 夜人とティーナは今、昨夜も訪れた外壁の外側に広がる草原で、何故か戦闘の訓練をしていた。

 

 ティーナが言うには、


『お兄ちゃんは血を飲んで、本来の自分を取り戻したわけだけど、やっぱりそれには慣れが必要だと思うんだよね。身体の動きやすさとか、今までと全然違うと思うし。だから慣れてないと、いざって時にちゃんとチカラがだせない』


 ということらしい。

 故に夜人は今、ティーナに運動に付き合って貰っている訳である。

 人目のないこの草原は、思い切り動くにはピッタリだし、ティーナが“認識阻害”の魔法を使っているため、見つけようと思っても、そう簡単に夜人たちの存在は露見しない、らしい。


 ちなみに今、彼らが具体的に何をやっているかというと、身体強化も含めて魔法の使用は無しで、武器も使わず、先に相手を地面に倒した方が勝ちというものだ。


「ていっ」


 その気の抜けたような掛け声とは裏腹に、相当なスピードでティーナが夜人の懐に潜り込む。


「くっ」


 なんとかティーナの速さに反応した夜人は、腹に飛びつこうとしてきた彼女を、左足を軸に回転して避け、逆に捕まえようとする。


「ふふっ、まだ甘いよお兄ちゃん」


「はっ!?」


 ティーナの声だけが残り、本人の姿が視界から消える。

 驚愕する夜人。


(どこだ。どこに行った。いや……、――下かっ!?)


 ハッとして足元に視線を落とす。

 そこには膝をぎりぎりまで折り曲げて、地面に沿うように闇に同化したティーナがいた。彼女の血のように赤い唇が、笑みの形をつくる。


「つかまーえたっ」


 ティーナが弾けたように上体を起こし、その勢いのまま夜人の腰に飛びつく。

 押し込まれるようにして夜人が尻餅をつき、勝敗が決まる。


「ぎゅううぅぅ。はぁぁっ、お兄ちゃんの匂いがする……っ」


 後ろ手をついて地面に座り込む形になった夜人の身体に手を回して、ティーナが思い切り抱きしめてくる。


「はぁ……、俺の負けだな。にしても、疲れた……」


 浮き出た汗に冷え切った夜風が吹いて、熱を持った身体を一気に冷やしていく。

 夜人は身体の力を抜いて、空を見上げるようにして草原に倒れ込んだ。視線の先では、月がくっきり輝いて辺りを照らしている。


 夜人が寝転がってなお、その上に乗って密着しているティーナ。彼女は夜人の顔を見ると、感心したように言った。


「でもお兄ちゃんの動きが思ったよりずっと凄くてすごかった! ティーナ、びっくりしたよ。これならすぐにティーナより強くなると思う!」


「そっか……」


 つまり、このティーナという幼い少女は、昨夜ベヒモスを一撃で殺した夜人より強い存在なのだ。

 一体、この世界に隠れ住んでいる吸血鬼(ヴァンパイア)は何人いるのだろうかと夜人は思う。

 おそらくそこまで数はいないだろうが、だとしても凄まじい種族だ。


 彼らはかつて、身勝手な人間に滅ぼされかけたと聞く。



(人間のこと、恨んだりしてないのかな……)


 もし今の時代、吸血鬼ヴァンパイアたちが“復讐”というもの決行しようとしたら、どうなるのだろうか。


 この時の夜人は、実に気楽にそんなことを考えたのだった。

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