15話――口付け
「よかった、ほんとによかった……」
アリアは瞳を震わせて、染み入るように胸に手を置く。
「よかった……」と感慨深げに呟いて、歩みを進める。
雑踏の中、人混みの中、淡々と、何ら特別のない有象無象の一部分のようだった。
アリアは何気なく俺に近づいて、俺の両手を握る。
ただ、それだけのことだ。
「よかった、ウィルが、ちゃんとあたしのところに来てくれて」
確かめるように、言い聞かせるように呟いて、俺の手を握るアリアの両手に力がこもる。
俺の脳裏をかすめるのは、あの夜に、クルクルと宙を舞って、無様に落ちる『アリアの手首』。
ゾッと背筋に寒気が走った。
視線を落とす。
両手。アリアには、しっかりと両手が付いていた。
俺は思わず口を開きかけ、それを閉じる。
今、意識を置かなければいけないのはもっと別のことだ。
不思議なくらい、心が落ち着いていた。
まるで現実感がない。
遠い世界の夢を見ているような感覚。
あの夜とは違う。
先ほどまでは、『彼女』たちに会えばどうなるのか、不安で仕方がなかった。
怖くて、身がよじれそうで、恐怖で埋め尽くされた。
あの夜からルーカスに会うまでの凄絶な一連が、脳裏を駆け巡って、吐き気がした。
だというのに、いざその状況に直面して、この落ち着きはなんだ。
「あたしね、すごい嬉しい。ウィルが、こうしてここにいることが……」
「……」
「あたしね、ウィルがソフィアちゃんに連れ去られちゃった時、頭が熱くなって、すごく、熱くなって、……おかしくなって、……どうにかなっちゃいそうだった」
えへへ、とアリアが照れ臭そうに笑う。その瞳は、どこか虚ろだ。
「でも今ここに、あたしの大好きなウィルがいてくれるから、もう大丈夫っ」
アリアが俺の胸に飛び付いて、周囲の目なんて意識にすら入れず、キスをしてきた。
心臓が嫌な動きをする。
目の前の状況に、脳の理解が追いつく。ここに、現実味が生まれる。
俺は、落ち着いている。まだ落ち着いている。
落ち着け。まだ大丈夫だ。
「ウィル、好き――」
アリアが唇を離して、俺に笑いかける。俺の胸に顔を埋めて、腰に手を回してきた。
俺の存在を確かめるように、逃さないように、やさしく、柔らかく、力強く、抱きしめる。
周囲の視線を気にする余裕はない。
けれど、周りがどんな目で俺たちを見ているのかは容易に想像できた。
ここは少し注意をそらせば人にぶつかる程の人混み。
周囲の人等は、砂糖の塊を口に放り込まれたような顔をしている事だろう。俺だって、きっとそうなる。
アリアが、俺に対する愛をぶつける。
真っ直ぐとした言葉が、心のままに、取り巻く。
好きだと言われる。
全てが好きだと言われる。
離れないでと言われる。
離れたくないと言われる。
きっとそれは本当にアリアの気持ちそのままで、彼女が俺を好いていてくれていることが分かった。
改めて、落ち着いて、向き直ってから彼女と触れて、それを理解する。
きっと、前々から分かっていたことだ。
だからこそ、今ここでは終わらない。終われない。終わらせられない。
「――よし」
アリアに愛を向けられているうち、いつの間にかあり得ないほど心臓が高鳴っていた。
怖い。
「ねぇ、ウィル」
ぶっちゃけ怖い。
「あたしね、考えたの」
超怖い。
「考えて、あたしウィルがずっと離れずにそばに居てくれたら」
泣きたい。
「もう他に何もいらない、って」
落ち着きを装ってアリアの言葉や行動を黙って受け止めているが、恐怖のあまり体が動かせないだけだった。
可愛い女の子に好かれるのが怖いなんて何言ってんだ俺。
死にたくない。
俺の意識が、指にはめられた指輪に集中する。視線は動かせない。
ここに魔力を込めれば、ルーカスが来てくれる。
何を隠そうルーカスはアリアたちに魔術を教え込んだ人物だ。彼なら、魔術において彼女たちを上回ることができるだろう。
けど、ダメだ。
ここでは、まだ、ダメだ。
よって、俺が出した結論は、逃げる。はい逃げる。逃げます。とりあえず逃げ切ります。だって、まだ何をどうするのかとか何も決めてないから。
俺の全身全霊で最善を尽くして逃げます。
「ねぇ、ウィル……」
まずは、初手をどうするか。このアリアに密着されている状況を――
「あたしの話、聞いてる?」
――寒気が走り抜けた。
意識外で、アリアの声質が変化したことを捉えた。
「聞いてる! 聞いてるよ!」
「ほんとに……?」
「あ、当たり前だって」
「ほんとは、あたしのことなんて、どうでもいいから。あたしの、あたしなんかの話なんて、聞かなくてもいいとか思ってない……?」
泣きそうな顔だった。瞳が潤んで、今にも涙が溢れそうだった。
眉と目尻が下がって、不安げに寂しげに俺を見つめる。見つめられる。
アリアの手が、俺の胸に触れる。
不意に、トクンと心臓がまた違った動きを見せる。
先ほどまでの嫌な動きとは違っていて、それはまるで――、
「ウィルは、あたしのこと、嫌いかな」
「そんなことはっ、」
「あたし、ウィルの危ないところ助けてあげたよね? その時、ずっとあたしが守ってあげるって言ったけど、ウィルは、迷惑で、あたしの、あたしの、こと……」
アリアの唇が震える。嗚咽が混じる。瞳から涙が溢れる。
さっきまでは花が咲き誇ったような笑顔を弾けさせて俺に抱きついて来たよね? 今の一瞬に何が起こった。
アリアの泣き声に、周囲がざわめいて、観衆の視線が責めるように俺に突き刺さる。
待って、違う、これそういうのじゃない。
アリアの潤んだ瞳が上目に向けられる。
「ねぇ、ウィルはあたしのこと嫌い? あたし、ウィルとずっと一緒にいたいって思って、一緒にいて、ウィルのために何だってやれるっていって、ウィルが絶対に幸せになれるように全力で頑張れるって思うの。実際、ウィルのことを一番考えてあげられてるのは、あたしだし。小さい時からずっと一緒で、ウィルのためにあたし、ずっと色々やって来たの。それで、あたしはこうしてウィルに好きだよ、って言って、それで、それなのに、……ウィルは、あたしのこと、嫌いって、言うの……?」
「――――」
直感で、本能で悟った。このままでは、ダメだと。
頭を回転させる。今までにないほどに、高速で頭を回す。
このままでは、ダメだ。ならばどうする?
とりあえず、逃げるしかない。
逃げる方法は?
そもそも逃げられたとして、そのあとはどうする?
この状況でアリアを蔑ろにして逃げたとなれば、残されたアリアはどんな気持ちになるのか。
そうなった時、今のアリアが、どんな思考を持つのか考えろ。
そうならないために、どうすればいいか。どうやって逃げるのか。
それらを全て踏まえた上で、最善は何だ――――、
一つ、方法はある。
成功する確率は全くの未知数だが。可能性は、ある。
視線を前に向ける。
そこにいるのは、不安そうなアリア。目は虚ろで、何故か口元は微笑むように歪んでいた。
時間がない。
そう思った次の瞬間、俺の体は動いていた。
「――――」
アリアの目が、見開かれる。
彼女の体から力が抜けて、先ほどまで渦巻いていた不穏が見えなくなる。
呆然と唖然と、状況が信じられないでいるようなアリア。それは、俺も同じだ。
アリアと俺の唇が重なっている。キスだ。さっきは、アリアにいきなりされた。
今は違う。
俺からやった。
思い切り唇を押し付けて、舌を絡ませる。
遠慮はしない。俺は俺をここで終わらせるつもりはなかったから。
アリアを抱きしめて、キスして、背に回す手に力を込めた。
「――んッ。ぁんぅっ、ぃ―、ん……っ!」
アリアが驚いているのがわかった。動揺してるのが分かった。その時点で、俺の目論見は成功したと言える。
恥ずかしげも、気負いも、遠慮もなく、俺にキスしてきて好きだと言うアリアに対して、こんなことで虚をつけるかどうか、正直不安だったけど……。
自分からするのは大丈夫だけど、されるのは大丈夫ではないらしい。
アリアは目を白黒とさせ、必死に俺を引き剝がそうとしていた。
力強く抱きしめる俺の胸を押して、唇を重ねる俺から身を引こうとする。
それを、力で無理やり押さえつける。魔術の腕は天才的でも、単純な力では俺の方が上だ。
それでも、魔術をちょっと使えば俺のこんな拘束など一瞬で解けるだろう。
そんなことも思いつかないほど、アリアは混乱してる。動揺してる。
まさかここまで効果が大きいのは、さすがに予想外だ。
「ぃ――ぅ! ん……――ぃ、ぅッ! んーんぅっ!!」
顔をあり得ないほど真っ赤にして、アリアは俺から逃れようともがく、暴れる。
周囲の観衆から、歓声が聞こえてきた。ひどく楽しげだ。
殺意が湧いた。
駄目だ、落ち着け俺、いま注意するのはそっちじゃない。
息が続く限界までアリアにキスを続けて、抱きしめていた腕をほどいた。
「……ぁ、……ぁ、ぁ、ぅ」
声にならない息をこぼして、アリアが崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
顔は赤いままで、ぼんやりと、肩で息をしている俺を見上げている。
そのまま、動きを見せる様子はない。
あわよくば羞恥でその場から逃げ去ってくれることを望んだが、少しやり過ぎた。
もちろん俺の顔も真っ赤で、恥ずかしさのあまり体が弾けそうだった。あと、周りではやし立てるように騒いでいるあいつらをぶん殴りたい。
「アリア――」
「……ぁ、…ぇ?」
「俺は、ちょっと、どーしても行かなきゃならないところがあるからさ、ここ、離れてもいいか?」
「――――」
「いいよな?」
気圧されるように、コクリと、涙目のアリアが頷く。
よし――。
俺はアリアの方に視線を合わせたまま、後ろ向きに一歩、歩みを進める。
まだ、俺の視線はアリアに向いたままだ。
アリアの瞳は、さっきまでとはまた違った様子で虚ろだった。赤い顔で、唇に両手を当てたまま、ぼんやりと、地面にへたり込んだままだ。俺を追うような素振りはない。
大丈夫だ――――。
俺とアリアに注目していた観衆が、ざわざわと騒いで俺の方を見ている。
生憎だが、彼らの期待に応えている暇はない。
通りすがりの人々が、アリアと離れた俺の間に入り込む。
俺の視界からアリアが、アリアの視界から俺が消える。
瞬間、俺は踵を返して、唾液に濡れた口元を拭う。
まだだ。
まだ、これではその場をしのいだだけだ。
こんな手が何度も通用するはずがないし、何より、まだこの王都には――――、
「――――」
「――――」
俺の足が止まる。動けない。動かない。
「ウィルくん、ねぇ、ウィルくんで、合ってるよね……?」
「――――」
悪夢を現実と知ったような、悪魔に出会ったような顔をしていた。
一体いつからなのか、俺の背後にいたらしい彼女は――、
――ソフィアは、
「ねぇ、今、アリアちゃんに、何して……。ウィルくんの方から、だよね、。私、ウィルくんに、待ってて、って――、そう、あれ……? あれ? おかしいなぁ……、私がおかしいのかな……、ねぇ」
「――――」
「ねぇ? ウィルくん、ウィルくん、ウィルくんウィルくんウィルくんウィルくん――、あのね、私――――」
棒立ち状態だったソフィアは、俺に歩み寄って、そっと俺の胸に手を触れた。
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