4話――三人




 黒い黒い影がそこにはあった。


 深淵から意識をすくい上げられたような感覚に襲われて、気付いたら俺はそこにいた。


 辺りを見回す。

 底の知れぬ闇が浮かんでいて、それ以外は何もない。

 ただ、暗澹とした常闇の先に、黒い影があった。


 視界に映る背景は、すべて闇であるはずなのに、そこに影があることは分かる。

 何故かは分からないが、それだけは分かる。


 闇に沈むこの身体を、影が見つめていた。

 言い知れぬ圧迫感に息が詰まる。

 

 一体、どうすればいいのだろうか。


 ふと、どれくらい時間が経ったころだろう。


 そんな黒々とした空間の中、不意に背後から軽い衝撃を受けた。

 ぽんと背中を押されるような感覚。


 俺は、影に呑み込まれて――――、



「――――お兄ちゃんっ、朝だよっ!」


 いつもとは異なる目覚め。

 溌剌とした幼い声が耳をついて、俺はゆっくりと覚醒した。

 目を開けばそこには、上下逆さまになったエレナの顔が俺を覗き込んでいる。


 エレナは俺が目覚めたことに気がつくと、ふっと小さく息を漏らし、弾けるような笑顔をつくった。


「……おぉ、エレナおはよう」

「うんっ、お兄ちゃんおはよっ!」


 ○


「あっ、お兄ちゃん着替えならここにあるよっ」


 掛け布団をはねのけて、ベッドから降り立った俺は漏れ出る欠伸を掌で隠しながらタンスの引き戸に手をかけた。

 毎朝毎朝幾度となく行われている、染み付いた作業だ。


 しかし、その定例作業は妹に掛けられた声によって中断される。

 振り返ると、そこには俺の着替えを手にして佇むエレナがいた。


「おぉ……、ありがとう」


 頭がまだ完全に覚醒し切っていないせいか、大した疑問も抱かずに俺はそのイレギュラーを受け入れた。

 

 エレナから着替えを受け取り、当たり前のように、着替えるために俺は寝巻きを脱ごうとする。

 が、そんな時にエレナと視線が絡んだ。


 エレナが、くりっと首をかしげる。


「あの、エレナ」

「ん、なに? お兄ちゃんっ」

「お兄ちゃん今から着替えるんだけど……」

「うんっ、ちゃっちゃと着替えて早く朝ごはん食べよっ。エレナがつくった!」

「お、おう……」


 何の疑問もなくそう返されて、俺は返答の言葉を見失う。


 ……ま、まぁ別に見られたからと言ってどうというわけではないんだけど。


 心の中でそう呟いてから、俺はエレナに渡してもらった服に着替える。

 その最中、ふと、部屋の異変に気がついた。


「なんか、俺の部屋、綺麗になってないか……?」


 もともと物が少なくて汚れる余地がない部屋だったのだが、それでもどこか昨日と比べて隠しきれない清潔感が漂っていた。


「あ、うんっ。気づいてくれたっ?」

「え、なにエレナがやってくれたの?」

「そうだよっ。昨日の夜、お兄ちゃんが寝てる時にやったの。お兄ちゃんの眠りの邪魔にならないように、すごい慎重にして静かにやったから、安心してねっ!」

「――――」


 なにを。

 と、そう返せなかった。


 何故だか俺の頰に、たらりと冷や汗が流れ落ちた。


「あ、ありがとう、エレナ」

「うんっ、お兄ちゃん!」


 純粋無垢な弾けるような笑顔を前に、俺はただそれだけしか言えなかった。


 ○


「え、エレナって、こんなに料理出来たの……?」


 食卓に並べられた料理を前にして、俺は唖然とする。

 そこにあった朝ごはんは、いつも母であるアリシアが作ってくれるモノの数段上は手が込んである。


 通例、朝飯など、あまり手がかからずに手早く調理出来るモノをさっと作るに済ませるのが普通だろう。

 少なくとも、俺が日本にいたころの自宅では、そうだった。

 そしてその習慣は、この世界にやってきた今でも変わっていない。


「うんっ実はね、少し前からお母さんに料理とかお洗濯とかのやり方、教えてもらってたのっ! それでね、今日はちょっと張り切っちゃった。エレナ、すごいでしょっ? だからね、今日からエレナとお兄ちゃんと二人だけで生活することになるけど、安心してねっ!」


 その言葉に嘘がないことは、目の前に並べられた朝食の完成度からうかがえる。

 どうやらウチの妹はとても勤勉で、将来はいい奥さんになりそうなタイプのようだ。


 それにしても、これは少しやりすぎじゃね……?

 

 朝食の豪華さにそう思ってしまうが、それはそれだけエレナが一生懸命頑張ってくれたということだ。

 ここは素直に褒めずして、兄は語れないだろう。


「おぉ、ホントにすごいな。ありがと、エレナ。お兄ちゃんびっくしたよ」

「うれしいっ?」

「あぁ、すごく嬉しい」


 そう言うと、エレナは喜びの声を上げながらパッと俺に飛びついてくる。

 その頭を撫でてやると、さらに嬉しそうな声が聞こえてきた。


 まぁ、やり過ぎになるのはウチの妹の持ち味。立派な長所だ。

 でもまぁ頑張り過ぎるのもよくないだろあから、今度さりげなく注意してやろう。


 いつもと違う朝に、俺はそう思った。





 今日から妹と二人暮らし。


 ただそれだけを述べると、なんだか背徳的な何かを感じてしまうのは俺がどうしようもない男だからであろうか。


 どうやら俺は意図せずハーレム型ラノベ主人公形態の主だった一つにたどり着いてしまったようだった。


 事の起こりは数日前、俺とエレナは両親から告げられたある一言に驚嘆した。


『ちょっくら街に出稼ぎに行ってくらぁ』


 もちろんそんな一言ではない。


 でも、色々と違うところはあれど、認識としてはだいたいそんな感じだ。


 ウチの両親がこの一帯を統治している領主さまと懇意なのはいざ知らず、とまぁ、そこらへんの大人の事情でパパママはしばらく街に行かなければならない。

 それと同時に、その両親様の令嬢様であるソフィアも街へ行く事に。もちろん、先の事と無関係ではない。


 そこらへんの事情はまだお子様である俺たちには詳しく知らされていないが、それについてはあまり関係ない。

 

 問題は、しばらくソフィアお姉ちゃんと遊べなくなること、ではなく、妹と二人暮らしをすること。

 

 両親からはエレナのことをよろしくねと託されたのだが、むしろよろしくするのはエレナの方だったんじゃなかろうかと、無力な兄は今朝の食卓でそう思ったのだった。



 エレナとの二人暮らし三日目の午後。

 そろそろ、この生活形態にも慣れ始めてきた頃合いである。


「なんか最近肌寒くなってきたよな」


 革張りのソファに寝転がって、読書に勤しんでた俺はふとそうこぼした。


 この俺が生まれ変わったこの地域には、なんの因果か日本にいたころとほとんど変わらない感覚で四季が訪れる。

 そして今の季節は、秋の終わりに当たる。


 もうそろそろ、雪が降る日があってもおかしくない頃合いだ。


 俺のそんな発言を耳聡く聞きつけたらしいエレナが、台所の方からパタパタと駆け寄ってきた。


「お兄ちゃん寒いのっ? もうちょっとあったかくする?」


 部屋の中央にある赤い物体に目をやりながら、エレナが息を弾ませる。

 その赤い物体は、この世界でいう暖房器具で、魔力によって稼働する。暖房器具魔法器具だ。


 エレナは手の平をその暖房魔法器具に向けようとする。


「いや、大丈夫だよ。エレナの魔力を使わせるのも悪いし、ちょっと思っただけでそこまで寒いわけでもないから」

「そう? お兄ちゃんがそう言うならエレナはいいけど、何も気にしなくていいからね? エレナは全然平気だからっ」

「うん、ありがとエレナ」

「えへへ……」


 ソファに寝転がりながら俺はエレナの頭を撫でる。

 なんか、この絵面、俺最低っぽいな……。

 

「あっ、お兄ちゃんっ。もうすぐエレナの作ったお菓子、焼き上がると思うからっ持ってくるねっ!」


 そう言ってまたパタパタと台所の方に戻っていくエレナ。


 本当に、こっちが恥ずかしくなってくるほど、よく出来た妹である。

 


 エレナとの二人暮らし六日目の昼。


 ここの所、エレナと一緒にずっと家にこもりきりだった俺は久方ぶりに外の空気を吸いたくなって、散歩に出かけることにした。


 その際にエレナの部屋に立ち寄って、一緒に散歩に行かないかと誘ったのだが、「あともうちょっとだから」という謎の返答があっただけで、どうやら俺と散歩に行く気はないらしかった。


 こんなことはエレナが産まれてきたから初めてであり、強い衝撃を受けたことは否定しきれない。

 ついに反抗期が訪れたのかと、強い旋律に体を震わせる俺は、家の外に出て強く吹いてきた寒風にもまた身を震わせる。


 やっぱり家の中に戻ろうかとも思ったが、外の空気はやはり冷え込んではいるものの、開放感があり、心地よい。


 俺はそのまま散歩を続行することにして、村の中央に向かう。

 やはりこの寒さもあってか、道行く人はいつもより少ないような気がした。


 そんな中で、俺はこちらに駆け寄ってくる一つの人影を見つけた。


「ウィルーっ!」


 青髪を揺らして満面の笑みを浮かべる幼馴染のアリアの姿が、そこにはあった。

 

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