第五章
僕は人間不信に陥りそうだった。いや、もともと人間不信ではあったけれど、もっとだ。
「ねぇ、りっくん。ごめんてばぁ。昨日は酔っててさ、つい見せびらかしたくなっちゃったんだよね。てへっ」
桜さんが謝っているが、どう見ても本気度が足りない。
昨日の配信で、一人になった桜さんは好き勝手に喋った挙句、僕の女装写真を見せてしまったのだ。もう恥ずかしくて外歩けない。まぁ、今までほとんど外には出てなかったけれども。
僕は桜さんの軽い謝罪をスルーして、リビングの隅の床に座り込んで求人誌をめくっていた。差し当たり、僕は無一文なのだ。むしろ、カズさんにスタジオ代を借金している。カズさんは別に返さなくていいと言うけれど、それに甘えていてはいけないと思うし。ということで、僕は人生初めてのアルバイトをしようと考えていた。
「りっくん、バイト探してるの?」
寝起き姿のままの桜さんが、求人誌を覗き込んできた。
「……僕、お金ないんで」
あまり無視をするのも感じ悪いかなと思い、そこは素直に答えた。
「そっかぁ。どんなの探してるの?」
「コミュ障の僕でも、出来る仕事……です」
そんな仕事あるのだろうかと、言っている自分が思ってしまう。やはり求人で多いのは接客業だ。でも、求人誌を見ていると工場のライン作業とかもある。これなら僕でも出来ないだろうか。そう思って丸を付けていると、桜さんにいきなり求人誌を奪われた。
「りっくん、こんな安い時給じゃ、たいして稼げないわ。私が割りの良いバイト紹介したげる!」
ありがたい申し出だったが、桜さんの鼻息がものすごく荒いのが怖い。あと、距離が近い。もうこの距離感は家系なのか?
「……お気持ちだけで、そ、その、十分です」
「なんでなんで? だって、家から出てバンド活動するなら、割りのいいバイトしなきゃやってけないよ? りっくんがファンに貢がせるっていうなら何も言わないけど……りっくん、そういうの無理でしょ」
桜さんが、さらに寄ってきた。
「無理に決まってます」
「だよねぇ。でも、貢がせて音楽だけやってるバンドマン結構いるよ。カズくん達は堅実にバイトしてるけど。カズくんこそさ、そういうの捕まえて上手くやりそうなのにねぇ」
桜さんはケラケラと笑っている。
ファンに貢いでもらって音楽をするだなんて、僕には全く想像がつかない世界だ。そもそも、僕なんかにお金を使わせるだなんて、想像するだけでも申し訳なさすぎて、居た堪れない気分になる。
「てことで、割の良いバイトするでしょ?」
桜さんが、ぐいぐい迫ってきた。僕は簡単に壁へと追い詰められる。
「あああの、近い、です」
「そりゃそうよ、近寄ってるんだから。で、『はい』は?」
僕が頷くまで、桜さんは離れないつもりだろうか。でも、桜さんの紹介なんて、何をやらされるか分かったもんじゃない。
「大丈夫よ。りっくんみたいな子を求めているから、邪険に扱われることはないわ。だからね、チャレンジしてみようよ。引きこもってたらお金も経験も得られないから。何事も、やってみなきゃ分からないもんよ?」
桜さんの言葉は、僕の痛いところをチクリと突いてくる。
「……何を、するんですか」
僕は根負けしたのも手伝い、つい態度を軟化させてしまった。
「お、やる気になってくれた? えっとね、栄町の運動公園で、明後日の土曜にイベントがあるの。『栄るサミット』っていう栄を盛り上げようっていうお祭りみたいなやつ。そこの運営スタッフよ!」
僕は頭の中が真っ白になった。無理すぎるだろ。だってイベントってことは人が山ほど来るってことで、スタッフということは来場者や仲間のスタッフとコミュニケーションを取らなければならないってことで、つまりはハードルが高すぎってことだ。
僕が固まっているのに気付いたのか、桜さんが慌てて追加の説明をし始めた。
「裏方の仕事なら、来場者と関わることも少ないし。何なら着ぐるみで風船配るとかもあるよ。こういうのなら逆に喋っちゃダメだから安心して出来るでしょ?」
桜さんの説明に、少しだけほっとした。確かに、裏方なら出来るかもしれない。それに、僕は学校の文化祭というものに参加したことがない。だから、こういうお祭りみたいなことに、本当はちょっと興味もあった。
お金を稼がなくてはいけないのもあるし、僕は思い切ってやってみようと決めた。
「……分かりました。僕、やってみます」
「まじで? やだ、りっくんチョロい」
桜さんから、聞き捨てならない言葉がこぼれた。
「ええええ? ちょちょちょっと、今のどういうことですか?」
僕は仰天して桜さんを見るが、桜さんはスイっと視線をそらしてしまう。
「なんでもなーい。じゃあ主催者にスタッフ一名捕まえたって連絡しとくから」
「まままってください。僕、なんか早まった気が物凄くしてて――」
僕が発言を撤回しようとするのを遮って、桜さんは電話をかけ始めてしまった。
「もしもし、片桐さん? お疲れ様です。明後日のイベント用に可愛い子捕まえましたよ。当日連れてくんで、よろしくお願いしますぅ」
桜さんのよそ行きな声が、リビングに響いた。
そして、電話を切った桜さんは、一息つくと立ち上がる。
「片桐さんって、私が仕事ですごくお世話になってる人なんだぁ。だからさ、逃げたらどうなるかわかってるよね?」
桜さんは僕を見下ろしながら言ってきた。
僕は桜さんの笑顔に気圧されて、小さな声で「はい」と言うことしか出来ない。
「よろしい。素直な子は大好きよ」
桜さんは呆然とする僕の頭を撫でると、リビングから出て行ってしまった。残された僕は、莫大な後悔と、底なしの不安に襲われるのだった。
やっぱり、桜さんを信用なんてするんじゃなかった。けれど、今更逃れることも出来ず、あっという間にイベントの日になってしまった。後で話を聞いたカズさんも、面白がってイベントを覗きに来るとか言っていたし。本当に、僕はあの兄妹に振り回されっぱなしだ。
結局、僕は桜さんに言われた場所に来ていた。朝の七時、イベント会場となっている運動公園内も、人の気配はまだ少ない。出店やステージなどは前日までに設置されており、僕はきょろきょろとしながらも歩き進んだ。そして『運営』と書かれた紙が扉に貼ってあるプレハブ小屋に辿り着く。扉の脇には、イベントの旗が立っていた。『栄るサミット』の文字とともに、ローマ字のLが逆さになったロゴが書かれていた。『栄る』と『逆さのL』を掛けているらしい。
桜さんは仕事があるから、途中からしか来られないと言っていた。だから、僕は自分一人でこの扉を開けなければならない。あぁ、緊張のあまりお腹が痛くなって来た。帰りたくて仕方がない。まだ扉を開けてもいないけれど。なんだか、初めてスタジオに行ったときの心境が蘇ってくる。
入らなきゃダメだろうか。ダメだろうなとため息をつく。桜さんに後でどんな目に遭わされるか分かったものじゃないから。そうは思えども、やっぱり勇気が出なくて扉の前でうろうろしてしまう。
すると、突然プレハブの扉が開いた。
「――ほんとにいるの?……って、いたよ。うん、うん、ありがとな。後はこっちでやるから」
電話しながら出て来た三十代くらいの男性は、イベントのロゴが入ったTシャツにジーンズという格好だった。鼻が大きく、黒縁のメガネが印象的だ。首からはスタッフカードを下げており、片桐という名前が書いてある。
「鈴谷くん、かな?」
片桐さんの問いかけに、僕はこくりと頷いた。
「良かった。俺はイベントのステージ運営の責任者をやっている片桐です。よろしく」
安堵したような笑みとともに、握手を求められた。僕は恐る恐る握手をする。やばい、手が震えてて恥ずかしい。
「じゃあ、軽く説明するよ。赤塚さんが昼過ぎに来るから、それまではステージ周りでちびっ子達に風船配って貰おうと思っていて――」
プレハブ小屋の中に入り、詳しい説明を受ける。桜さんに騙されたような形だったから、どんな酷いことをやらされるのかと心配していた。けれど、なんてことはない、桜さんが最初言っていたような仕事だ。
僕はイベント開始時間である十時までは、パイプ椅子を並べたり、休憩スペースの机を拭いたりと雑用をこなす。そして、イベント開始とともにウサギの着ぐるみで、ステージ周りにいるちびっ子達へ無言で風船を配った。意外と普通に働けていることに、僕は感動していた。
着ぐるみは視野が狭いため、イヤホンをつけてそこから指示が飛び込んでくる。着ぐるみの頭部とイヤホンが耳栓代わりになって、騒音も思ったより気にならずに済んでいる。初めての労働だけど、これならちゃんとやり切れそうだと思った。
しかし、そう思ったのも束の間、やはり簡単にはいかない。昼になるにつれ気温が上がってきて、着ぐるみの中が蒸し暑い。そして、ステージも盛り上がってきて、かなり煩い。着ぐるみで風など感じるわけがないのに、僕には湿気のこもった不快な風に全身を撫でられている気分だ。正直、かなり気持ち悪い。暑さと音酔いで、僕はかなりへばって来ていた。そんな時だった。
「じゃあ新曲聴いてください!」
そんな言葉とともに始まったお遊びバンドの演奏に、僕は頭を抱えた。着ぐるみ越しでもちゃんと聴こえてくるのだ。習性なのか、微かな音でも曲として鳴っていると聴いてしまうから。
普段はタレント業をやっている青年達が、テレビ番組の企画ものでバンドを組んでみました、みたいな紹介がされていた。テンポはぐちゃくちゃだし、音は微妙に外しているし、何でカラオケ音源にしなかったんだと怒りたくなるような演奏が流れている。こんなのがと言っちゃ失礼だが、この程度の実力でメジャーレーベルからCD出してるなんて、カズさん達に謝れと言いたくなる。
僕は堪らずに耳を塞ごうとした。でも着ぐるみの頭部、つまりウサギの顔をもふっと挟んで終わる。やばい、ウサギの頭を取らないことにはどうにもならない。僕は頭を取ろうともがくが、着ぐるみの手はもふもふとした感触を与えるのみで、上手く頭を掴むことが出来なかった。
おまけに、僕の奇行に子供達が面白がって群がって来たし。無理だよ、今の僕には君たちに風船を渡すことも、頭を撫でてあげる事も、一緒に写真に写ってあげる事も出来やしないんだ。
このまま無様に倒れて、子供達に怪我をさせることだけは避けなければ。その一心で、僕はウサギの頭をもふもふしながら、よたよたと運営テントへと向かおうとする。けれど、子供達が足にまとわりつくし、尻尾は引っ張られるし、イヤホンからは勝手に持ち場を離れるなって怒鳴り声が聞こえてくるし。
だんだんと視界が狭まってきた。もう、意識を保つのが限界に近い。誰か助けて……
「こっち来て」
ぐいっと腕を強い力で引かれた。僕は薄れた意識のまま、その力について行く。
「ここ、芝生だから座って」
簡潔な指示に、僕はロボットのように従ってしまう。
「頭、取るから」
言葉の後に、着ぐるみの頭が引っ張られた。耳が擦れてもげそうだ。
「いたたっ」
僕は思わず小さな悲鳴をあげてしまう。
「我慢しな……って、あんたどっかで見たことある」
スポンと着ぐるみの頭が取れると、一気に涼しい空気が流れ込んで来た。しかし、それと同時に、不快な曲が爆撃音のように僕の耳に飛び込んでくる。
「最悪だっ、下手くそめ」
僕は耳を手で塞ぎながら、芝生に倒れこんだ。思わず文句を言ってしまったことは大目に見て欲しい。
曲はラストの盛り上がりに差し掛かっているようで、どんどんと僕の不快度も増していく。
「あいつら本当に下手すぎてヤバイね。私も耳塞ぎたいわ」
呆れたような声が上から降ってくる。
芝生に転げながら、僕は声の主を見上げた。その人は、ペットボトルの水をやる気なさそうに飲んでいる。気怠げな雰囲気を醸し出すその姿を見て、僕は鼓動がどんどん早くなっていく。
「あ、やっと終わるわよ。うそ、二曲目もやるとか、あいつら死ねよ」
舌打ちとともに、その女性は悪態をつく。
僕を助けてくれたのは、イベントTシャツに黒いスキニーパンツという格好をしている、元ベースの玲子さんだった。
一曲目と二曲目の間にトークを挟むらしく、ステージ上ではタレント達が面白くもない話で笑い転げている。しばしの間だけでも、あの苦行から解放されて僕はほっとした。
「はい、水。私の飲みかけで悪いけど、飲まないと脱水症状で病院送りになるわよ」
玲子さんに言われると、従わなくてはいけない気分になるから不思議だ。恐々と僕は、差し出されたペットボトルを受け取る。玲子さんが見てくるので、飲まないわけにはいかない。僕は玲子さんのファンの皆さん、怒らないでねと思いながら水を飲んだのだった。
「あんたさ、もしかしてスタジオで会った坊や?」
玲子さんは僕の隣に座ると、顔を覗き込んできた。あれ、今頃気がついたのか……まぁ、僕は地味で存在感もないからそうだよね、と自虐に走る。
「はい。あ、あの、その……ああありがとう、ございました」
「どーいたしまして。てか、坊やって生きづらそうだね。今の確かにド下手な演奏だったけど、苦しんでのたうち回るとか尋常じゃないよ。そーゆーとこがほっとけないんだとか言ってんだろうな、あいつ」
最後の方は、囁くように言った。
あいつって、カズさんのことだろうか。やっぱり、玲子さんは煉獄シンドロームに戻りたいのかな。でもそれは怖くてとてもじゃないけど聞けない。もし戻りたいと言われても、僕だって煉獄シンドロームにいたいのだから。
「にしても、すごい偶然だよね、坊やとこんなところで会うなんて……って、もしかして桜に頼まれた?」
僕はコクリと頷く。
「なるほどね。私も桜に頼まれて来たの。バイト代出すからって言われたけど、やっぱ断ればよかったなー。夕方からのステージだけにすれば良かった」
玲子さんはぼそぼそと、愚痴を吐き出していく。僕は相槌すら打てていないが、気にしていないようだ。
「……なんかさ、私のこと警戒してる?」
前言撤回。やっぱり僕の反応がないことを、気にしているようだ。
「ちっ、ちちちがいます。そ、その、ぼぼく、人と話すのがが、苦手で……」
酷い噛みように、僕は両手で顔を覆った。何で僕はちゃんと喋れないんだ。慣れてくれば大丈夫だけれど、やはり面識の薄い人が相手だと緊張が止まらない。ましてや、あの天才ベーシストの玲子さんが相手なら尚更だ。
「ふーん、ならいいけど。そういや、佐藤くんから聞いたよ。オーディションで参加者を全員蹴散らしたんだって?」
玲子さんがニヤリと不敵な笑みを浮かべた。蹴散らしたという表現が、正しいかは分からない。けれど、僕が残ったというのは事実だ。
「坊やのベース聴かせてよ。陽が言うには、私以上らしいじゃん」
胃にきゅっと絞られたような痛みが走る。陽くんは僕を過大評価しすぎているのだ。
「……玲子さんに、ま、まだ、ぼくは敵いません」
胃のあたりで僕は手を握りしめる。そう、僕は何の実績もない。玲子さんには、まだ敵わない。でも、今は無理でも、いつかは煉獄シンドロームのベースといえば僕だと、言われるようになりたいのだ。
「そう? 謙遜も行き過ぎると嫌味よ」
玲子さんの呆れたような声に反論しようとした時だった。再び、ステージからの爆撃音が響き始めたのだ。
「うわ、二曲目始まったし。坊や、大丈夫……じゃないわね」
僕はもう何も答えられなかった。そんな余裕はない。ただひたすら耳を塞ぎ、芝生の上で縮こまるしか出来なかった。
午後二時過ぎ、桜さんからもうすぐ着くと連絡があった。
「やっほー。逃げずにいてくれて嬉しいよ」
待ち合わせの運営テントで待っていると、イベントTシャツをすでに着込んだ桜さんがやってきた。
「あれ、りっくんだけ? 玲子もいるはずなんだけど」
桜さんはスタッフの為に用意された弁当を、段ボールの中から一つ持ってくる。そして躊躇いもなく開けて食べ始めた。
「……玲子さんは、そ、その……僕の代わりに、ウサギの着ぐるみで風船配ってます」
申し訳なくて、事実を伝えるだけで涙が出そうだった。あれから僕は、しばらく起き上がれなかったのだ。僕は、喋る必要のない仕事でさえも、やりきることが出来なかった。
やっと起き上がれるようになった僕は、会場のゴミ拾いをひたすらして過ごしていた。唯一の救いは、一度ステージの騒音で最悪のところまで気分を悪化させたせいか、体調が復活してからはその騒音に慣れてきたのだ。もちろん、心地よくはないけれど、何とか普通に動いていられる。
「えっ、玲子がウサギの着ぐるみ? 似合わなさすぎてウケる」
桜さんは笑いすぎて、ご飯を詰まらせて咳き込んだ。僕は慌ててペットボトルのお茶を差し出す。
「ぷはっ、ありがとね。でも、どうしてそんなことに?」
「……ぼ、僕が気分悪くなってしまって……通りがかった玲子さんが助けてくれて……時間が空いてるからって、代わりに着ぐるみ着てくれたんです」
僕は下を向いたまま、ぼそぼそと説明をした。
「なるほどね。玲子って冷たそうに見えて、意外と面倒見いいから……のわりに、陽くんとはあれなのよねぇ」
桜さんはふうとため息をついた。
陽くんの名前に、僕は顔を上げた。しかし、桜さんは「しまった」というような表情を浮かべると、誤魔化すようにお弁当を掻きこみ始める。
「お弁当食べ終わったら、準備に取り掛かるから。りっくんは汗かいてるだろうし、顔洗ってきて」
意味も分からずトイレへ行って顔を洗って戻ってくると、悪どい表情を浮かべた桜さんが待っていた。桜さんの手には、ヒラヒラとした服が握られている。
「さぁ、りっくん。お仕事の時間よ」
またこの展開か! 僕は今後、一切、桜さんのことは信用なんかしない!
僕はじりじりと後ずさり、隙を見て回れ右をした。イベントでそんなもの着たら、沢山の人に笑われるじゃないか。
そんな僕を留まらせようと、桜さんが叫んだ。
「出来によっては十万円!」
僕は思わず立ち止まってしまった。だって、十万もあったら、カズさんに借金は返せるし、しばらく過ごしてもいける。
「稼げるバイトだって言ったでしょ。これやらなかったら、雀の涙ほどしかバイト代出ないわよ」
「その服着て……ぼ、ぼくは何をするんですか?」
僕はごくりと唾を飲み込んだ。
「『男の娘コンテスト』に出てもらいます。三位は三万円、二位なら五万円、一位だと十万円の賞金が出るの。つまり、この賞金がすべてりっくんの懐に入るって訳。どう? りっくんなら絶対に賞金取れるから。ステージに立つだけでお金が稼げるなんて、すっごい割が良いでしょ?」
それは賞金が貰えた場合の話だろう。呆れて物が言えない。
それ以上に、ステージに立って、観客からじろじろ見られるだなんて、無理に決まっている。しかも、めちゃくちゃ恥ずかしい女装姿でだ。
「そ、そそそんなの、僕には無理です」
「なんでよ。りっくんは、これからバンドマンとしてステージ立つんでしょ? 慣れとかないと困るじゃん」
確かにその通りなのだが、それはバンドマンとしてであって、こんな女装して立たなくてもいいはずだ。
「りっくんには、出てもらわないと困るのよねぇ。参加人数が少ないと、コンテストが盛り上がらなくなっちゃう。言ったでしょ、片桐さんにはお世話になってるって。一度やるって言ったこと、逃げ出すなんてダメよ。信用がなくなったら、社会人はやっていけないのよ」
桜さんの威圧感が増した。そのことに、僕はびびってしまう。
僕がこのバイトをやりますと言ったのは事実だ。だから、桜さんの言っていることは正しいかもしれない。だけど、桜さんだって色々と説明不足だ。恐らく、説明したら僕が絶対にやらないと分かっているから、あえて説明をしなかったに違いない。だから、僕が一方的に悪者にされるのは、如何なものかと思う。
「なになに、なんか揉め事?」
膠着状態に陥ったところに、カズさんの明るい声が降り注いだ。イベントの出店で買ったであろう焼きそばとリンゴ飴を手に持っている。めちゃくちゃ祭りを楽しんでいる様子だ。
「カズくん、聞いてよ。りっくんがやるって言ったくせに逃げようとするの」
桜さんの手には、女性用の洋服が握られている。それを見て、カズさんは苦笑いを浮かべた。
「あー、桜ちゃん。それ、ちゃんと説明した上で了解もらったの?」
「……そこはまぁ、なんとなく?」
途端に、桜さんは歯切れが悪くなる。僕は、今だと思った。ここではっきり意思を伝えないと、ステージに立たされてしまう。
「ぼ、僕は、女装してステージになんか立ちません」
「なんで? 十万も貰えるのよ? りっくん、お金欲しいでしょ?」
桜さんが詰め寄ってくる。
「そ、それは、一位になったらですよね。そんなの僕には無理だし。十万円も、そんなことしてまで要りません」
僕はめげそうになりながらも、必死に言い返した。
すると、味方だと思っていたカズさんが、不穏なことを言い始めた。
「一位になったら十万も……でも陸は十万は要らない……つまり、賞金の十万円もらう代わりに、他のご褒美に変えちゃうってのはどう?」
何を言い始めたのだろうか。僕はカズさんのことが本気で分からない。
「だからさ、陸が女装したら、良いとこまで行けると俺も思う」
「そうよ、カズくん分かってるじゃん」
イエーイとカズさんと桜さんはハイタッチをした。何なんだ、この兄妹。
「んで、このイベントって夕方からいくつかバンド呼んでるだろ? 目玉はメジャーデビューしてるバンドだけど、前座でこの辺で活動してるインディーズの奴らも出る。俺、そいつらのライブもついでに見ようと思ってたんだ。もちろん、陸の働く姿も見てみたかったしな」
カズさんがニヤリと笑う。僕は、絶対に非常識なことを言い出すと思った。
「陸は、十万円を辞退して、その代わりに、ステージで煉獄シンドロームのライブをやらせてもらうんだよ。違う言い方をすれば、十万円を払ってステージに立つ権利を買うんだ」
いやいや、急に何を言ってるんだ。ステージの進行とか、もう決まっているだろうに。そんなイレギュラーなこと、無理に決まっているだろう。それに、どうして僕がコンテストで一位になる前提なんだ。
「それ面白い! 私、片桐さんに直談判してみる」
即、桜さんは電話をし始める。しばらくやりとりが続いた後、桜さんは笑顔で電話を切った。
「オッケー出たよ。ステージの進行もあるから、一曲しかダメっていわれたけど」
嘘だろう。そんな簡単にOKが出るものなのか?
「りっくん、驚いてるみたいね。確かに、普通はダメだと思うけど、煉獄シンドロームがやるってなったら話は別よ。この辺りじゃインディーズとはいえ人気あるし。それに、今日は玲子のバンドが出るから、煉獄シンドロームを知ってる人は多いだろうしね。きっと、まさかのシークレットゲストが来たって、盛り上がること請け合いよ」
そういうものなのだろうか。話がどんどんと大きくなっていくので、僕は正直置いてけぼりな気分だった。
「よーし、んじゃ、俺は順と陽を引っ張ってくるか。桜ちゃん、陸のことよろしくな」
「任せてよ!」
楽しそうにしている赤塚兄妹を、僕は呆然と見つめるしか出来ない。
「じゃあ後でな、陸。お前に、俺らの未来がかかってるから」
カズさんはそう言い残し、風のように去って行くのだった。
なんだこれ。結局、僕は女装して、男の娘コンテストに出なきゃいけないってことじゃないか。しかも、バンドのライブがかかっているとなったら、逃げるなんてできないし、本気で一位を取りに行かなければならない状況だ。どうしてこうなった!
僕は座り込み、頭を抱える。
「坊や、まだ気分悪いの?」
頭上から、玲子さんの声が聞こえた。着ぐるみの頭だけ取った状態の玲子さんが立っていた。
僕は慌てて立ち上がる。
「い、いいいいいいえ」
「……い、多すぎ」
玲子さんが小さく笑った。やばい、玲子さんに笑われた。恥ずかしい。でも、玲子さんが笑った顔、初めて見たかも。
「あ、玲子だ。お疲れ様。暑いでしょ、もう着ぐるみ脱いじゃって良いから」
桜さんが机の上に、化粧道具を準備しながら声をかけた。
「桜、何が始まるのコレ」
「あぁ、りっくんを男の娘コンテストに出場させる準備よ」
玲子さんが、僕を哀れみの目で見てくる。
「坊やも大変ね。桜って悪い子じゃないんだけど、強引なのよねぇ」
痛いほど身にしみて感じているところなので、僕はこくりと頷いた。
「でもでも、これで一位になったら、夕方のライブに煉獄シンドロームも参加出来るのよ。つまり、玲子と同じステージに立つって訳。玲子的にも、ぞくぞくするでしょ?」
桜さんの言葉に、玲子さんがぴくりと反応した。
「それは……面白いかも」
常識人だと思っていた玲子さんも、僕の味方にはなってくれなかった。僕の周り、どうしてこうも極端な人ばかりなんだ。学校に行っていた頃は、僕を排除する人ばかりだったし、カズさんに出会ってからは、僕を振り回す人ばかりだ。中間の人はいないのだろうか。
「坊やの音、私に聴かせてよ」
玲子さんがささやくように言った。
微かな響きだったけれど、しっかりと僕の耳に届く。僕は、その妙に切なげな響きに、顔が熱くなってきた。玲子さんに言われたなら、お聴かせしないといけない気分になる。
僕は気がついたら「はい」と返事をしていた。
玲子さんは着ぐるみを脱ぐと、涼んでくると言い残して去って行った。僕はというと、着せ替え人形と化していた。何パターンか桜さんは服を用意していて、あっちがいい、いやこっちのほうがと騒いでいる。僕には違いが良く分からないので、もうなるようになれと、桜さんに丸投げだった。
「りっくん、完璧よ。どこから見ても美少女だから」
鼻息荒く、桜さんからお墨付きをもらった。
僕は全身が映る鏡の前に立った。洋服は迷いに迷って、スカートではなく、攻めのパンツだった。他の参加者は少しでも男の骨格を隠そうとスカートで来るはず。ならば、あえてパンツスタイルで目立とうという作戦らしい。でも、僕的にも、女性ものとは言えパンツなので抵抗が減った。
僕が着ているのはサロペットパンツで、丈はふくらはぎの下あたりまでだ。腰から太もも周りがゆったりし、ウエストが窄まったデザインになっているので、女性らしいシルエットが出るとのことだ。そして、上半身部分は深いVネックになっている。
「りっくんは体格が華奢だから、シンプルにそれを強調した方が女性らしさが出ると思うの。あと、男性受けを狙うならスカート一択だけど、今回は男女関係なく票を入れてもらうから、女性も意識したコーデにしたわ。てことで、オールインワンのサロペットパンツね。で、色は絶対に黒。りっくんは肌が白いから、濃い色が映えるもの」
桜さんの説明は、僕にはちんぷんかんぷんだったけれど、つまりは色々考えての作戦らしい。
「上は白のハイネックのフリルブラウス。これならのど仏が隠れるし、なおかつフリルが付いているから甘さが加わるでしょ。袖もパフスリーブになってるから可愛いし。サロペットパンツがシンプルだから、これくらい甘くしないとね。あとは、ウィッグよ。これ悩んだわぁ……今でも迷ってるけど、個人的にこれが一番好みだったからこれにするわ」
桜さんに被らされたウィッグは、なんと銀髪だった。ショートボブで頭の丸みが綺麗に見えるとのことだが、これを被るともう別人のように見える。黒髪の自分しか見たことがないから、違和感しかない。
「そして仕上げは化粧ね。つけまつげして、アイラインも入れるけど、アイシャドウの色は肌なじみの良いベージュ。チークもほんのり入れる程度に押さえて……リップに全力を注ぐわ。もちろん赤よ」
仕上がった時点で、もう僕はへとへとだった。
「じゃ、行きましょうか」
桜さんに促され、僕はステージに向かって歩き出す。不思議と緊張はあまりなかった。ここまで自分の姿が違うと、別人になった気がするからだろうか。
ステージ裏に行くと、四番と書かれた名札をつけられた。周りを見渡すと、エントリーした人とその付き添いの人でごった返している。明らかに笑いを取りに来ている人もいるけれど、普通に女の子に見える人もいた。特に、あの八番の人とか。ゴスロリファッションに身を包み、ふわふわと巻いてある長い髪とか、男の人がいかにも好きそうだなと思った。
ついに『男の娘コンテスト』が始まった。まずは一人ずつステージに呼ばれて出て行く。黒いスーツにスパンコールの蝶ネクタイをした司会者が、ステージを進行していた。僕は精一杯に背筋を伸ばして、ステージ中央へと歩く。流石に、いざステージに立つと手足が震えた。
「はーい、四番ちゃんは……いやぁ、完成度高いね。本当に男の子?」
司会者にいきなり胸を触られた。
「ひぇっ」
僕は反射的に後ろへ体を引く。ただでさえ緊張で足が震えているうえ、足元は履き慣れないハイヒールだ。僕は体重を支えきれず、見事にステージ上ですっころんだ。
「こら! お触り禁止!」
ステージ袖で桜さんが怒鳴っている。
「はは、怒られちゃった。皆さん、ちゃんと胸は真っ平らでしたよ」
司会者は大して気にしたそぶりも見せずに、観客に向かって喋っている。
のっけから派手にこけて、恥ずかしい。観客には、きっと鈍くさい奴だと思われたに違いない。僕は涙目になりながらも、指定位置へと移動する。そして、全員がステージに出そろうと、司会者がコンテストの進め方を説明し始めた。
「エントリーしたのはこの十二人です。このあと、皆さんの斜め後方にある、第二運営テントのところに移動して、投票を行います。投票は一人一回のみですよ。入場時にもらったパンフレットを見てもらうと、投票券がちぎれるようになってますから。それを受付の人に渡すと、小さなお饅頭を渡されます。それを、一番気に入った男の娘の前に置いてある箱に入れてくださいね。じゃあ、エントリーした十二人は移動するよ」
司会者の先導により、僕らはぞろぞろとステージを下りて運営テントまで歩く。運営テントに着くと、六人ずつが背中合わせで並ぶように指示された。投票する人達は、ぐるりと運営テントを回り、品定めを行うということらしい。
「さぁ! では今から三十分です。皆さん、投票を始めてください」
司会者の宣言により、饅頭を持った観客達がテント周りをうろうろし始めた。ありがたいことに、僕の前には列が出来ている。男の人よりも、女の人が多い気がした。やはり、桜さんの狙いは当たっていたようだ。
始まって十分くらい経つと、人もまばらになってきた。投票する人は一段落したようだ。すると、順さんを発見した。声をかけるには少々距離があるので、僕は何となく順さんの行動を観察してしまう。
順さんは遠巻きに受付テントを一周すると、僕の前で止まった。でも、近づいてこない。それどころか、踵を返すと、離れていってしまう。ライブの権利を勝ち取るために、僕に票を入れに来たんじゃないのだろうか? 順さんの不可解な行動に、僕は首を傾げる。
順さんをそのまま目で追っていると、カズさんと陽くんが合流した。何やら話をしているが、途端にカズさんと陽くんが腹を抱えてうずくまった。体調不良というわけでは……なさそうだ。どうやら笑いすぎて腹が痛いらしい。立ち上がったカズさんと陽くんに引きずられるように、順さんが再び近づいてきた。三人そろって、僕の目の前まで来る。
「ほら、順。俺は無理強いしないからさ、自分の好きな子に入れろよ。な?」
カズさんの声が震えている。これは、絶対に笑いをこらえているに違いない。
「そうっすよ。順兄が選んだ子に入れたのなら、陸兄も怒らないから」
陽くんは直視できないのか、明後日の方向を向いたまま喋っている。
「で、でも、陸に入れないと、陸が負けちゃうかもしれないだろ」
順さんが情けない声で言い募った。
「そうは言っても、お前は陸が見つけられないんだろ。なら、もう腹くくって、この子に入れな。一番可愛いと思ったんだろ?」
カズさんが、もう半笑いのまま喋る。
順さん、僕のことが分からないのか? 確かに、自分でも凄い変わり様だと思うし、だからこそ、別人みたいな気分で動けるんだけれど。それでも、流石に気づかないとか鈍くないか? 順さんて女の子の髪型の変化とか、絶対に気づけないタイプの人だ。
カズさんに言われて決心をしたのか、順さんが僕に一歩近づいた。そして「ごめん、陸」と言いながら、僕の箱に饅頭を入れてくれた。その物凄く申し訳なさそうな顔を見て、僕は思わず笑ってしまった。
「ははっ、順さん、ありがとう」
自然と声が出ていた。
僕の声を聞いて、順さんが目を見開く。
あぁ、すごい驚いている。笑っちゃ失礼だけど、やっぱり笑っちゃう。
「本当に……陸なのか?」
順さんのやっと絞り出した声に、僕はコクリと頷く。
「マジかよ。だからカズも陽も笑ってたんだな。ていうか、教えろよ!」
恥ずかしいのか、順さんは顔が真っ赤だ。
「確かにすごい変わり様だけどさ、よくよく見れば分かるだろ?」
カズさんのツッコミに、僕は理由が分かった。順さんは遠巻きに見てただけだったし、近寄ってきてからは、まともにこちらを見ていなかった。
「あ、あの、順さんは、近くで僕をちゃんと見てなかったから、きっとそれのせいです」
「そうなんすか? 順兄、どうして近寄って見なかったんすか?」
陽くんの問いに、順さんがギクリと固まった。それを見たカズさんがニヤリと笑う。
「俺、分かっちゃったかも。順って、ボーイッシュな女の子がタイプ――」
「わわ、カズ、余計なこと言うな、うるさい!」
順さんが、カズさんの口を手で塞ぐ。
「そっか。じゃあこの姿の陸兄は、順兄の好みど真ん中過ぎて照れてたんすね!」
陽くんが楽しそうに指摘する。
「陽も、声がでかい!」
もう順さんは慌てふためいて、大変なことになっている。
「……えっと、ありがとう、ございます?」
大慌てな順さんに何と言ったらいいのか思いつかず、首を傾げながらとりあえずお礼を言ってみる。
「うぐっ……陸だと分かってても……可愛い。何でこの子が女の子じゃなくて陸なんだよ」
順さんはそのまましゃがみこんでしまう。大丈夫だろうか?
「はいはい、順はそこで己の感情と戦ってろ。にしても陸、予想以上のレベルだよ」
カズさんが僕の箱に饅頭を入れてくれた。
「そうっす。もう完璧な美少女でビックリっす」
陽くんもニコニコと笑いながら饅頭を入れてくれる。
「桜さんの力ですよ。僕はされるがままだったから」
僕が桜さんの名前を出した途端、背後からノシっと肩に重みが加わった。
「そーよ、そーよ。君たちは、私を褒め称えなさい」
得意げな顔をした桜さんが、僕の肩に手を回して寄りかかっていた。
「りっくん。ざっと様子を見てきたけど、賞金は確実に取れるわ。ただね、強敵が一人いるのよねぇ」
桜さんはチラリと斜め後ろを見た。
「八番の方ですか?」
僕が言うと、桜さんは頷く。
「多分、一位はりっくんと八番の争いになるわ。他は全然勝負にならないレベルだから、気にしなくて平気。りっくんは狙っただけあって女性に受けてるけど、八番はやっぱり男性人気が高いのよねぇ」
桜さんが不安げにため息をつく。
「ここまで来たら、あとは運を天に任せるだけだって。桜ちゃん、頑張ってくれてありがとね。んじゃ陸、俺らがここにいたら邪魔になるから、向こう行ってるな」
カズさんはそう言うと、ニカッと笑う。そして順さんを引っ張りつつ、去って行った。
投票の時間が終わると、僕らは再びステージ上に集められた。
「男の娘コンテストの結果発表です! 来場者の皆さん、投票はされましたか? 投票は皆さんに還元されますから、どんどんステージ前に集まってくださいね」
司会者が軽快に進行し始めた。僕はステージ上にいる緊張と、結果への緊張で震えが止まらない。それでもライブと違い、ただ立っているだけでいいので、まだマシだけれど。
「さて、どうして投票を饅頭でやったかというと……この地域ではめでたいことがあると餅投げしますよね。それを模して、今回は票を数えながら、この饅頭を皆さん向かって投げたいと思います。そうですよ、前に来ないと饅頭はキャッチ出来ませんよ」
司会者の説明に、来場者がステージ前にどんどん増えてきた。その密集度に、僕の震えはさらに増してしまう。こんな沢山の人に見られているかと思うと、気絶しそうだ。この前のライブなんか比じゃないくらい人がいるのだから。
「では、結果発表の前に、賞金の説明をもう一度しておきますね。三位は三万円、二位は五万円です。そして、一位になると十万円、もしくは十万円相当の願いを何でも叶えられます」
一位に追加の項目が増えた。桜さんが交渉してくれた成果だ。僕がステージ袖を見ると、桜さんがピースサインを出している。
「一位になったら十万円貰って豪遊するも良し、自分の力だけじゃちょっと無理そうなことをお願いするのも良し。是非、有意義に使ってください。では、時間も押しているので、さっそく票を数えていきましょう!」
司会者の合図で、僕らの前にそれぞれの箱が置かれた。
「じゃあエントリーした皆さん、箱を持って、もうちょい前へ出て来てください。私が数を言うので、それに合わせ、来場者の皆さんに向けて饅頭を投げてくださいね」
僕は箱の中を覗き込む。沢山の人が入れてくれたから、ずっしりと重かった。僕は感謝しつつ、一つ目の饅頭を握る。
「じゃあ始めます。ひとーつ!」
エントリーした人達が饅頭を投げた。僕も功を描くように、ぽんと放り投げる。
「ふたーつ!」
司会者に合わせて、次々と饅頭を投げ、十個を過ぎたあたりで一人二人と脱落していった。そして今は三十個、残っているのは僕と八番の人だけだ。予想通りの展開に、緊張が増していく。
「よんじゅう! お、まだ二人とも投げるねぇ」
司会者の人は楽しげに言っているが、僕はもう冷や汗が滝のように流れていた。だって、あと二個しか饅頭が残っていないのだ。ちらっと八番の様子を伺うけれど、平然とした様子で知り合いに手を振ったりしている。まだまだ余裕がありそうだ。
「よんじゅう、いち!」
僕は饅頭を投げる。八番の人も投げた。
「よんじゅう、にぃ!」
僕は最後の饅頭を投げた。八番の人も饅頭を投げている。ということは、これで僕の勝ちは無くなったということだ。
あんなに桜さんが頑張ってくれたのに、カズさんも順さんも陽くんもわざわざ来てくれたのに、期待に応えられなかった。せっかく煉獄シンドロームでライブが出来るかもと期待したただろうに、がっかりさせてしまった。申し訳なくて、自然と涙が滲んでくる。そうだ、玲子さんだって、煉獄シンドロームのライブに興味を示してくれていた。あんなに迷惑を掛けたのに、何もお返し出来ないまま終わってしまった。
「よんじゅう、さん……あれれ?」
僕はうなだれたまま、司会者が四十三個目を数えるのを聞いた。あぁ、僕の饅頭はもうないんです。
「なんと、二人とも饅頭が投げられませんね。ということは、まさかの同点」
僕は慌てて顔を上げた。八番の人が箱をひっくり返して、残ってないことを見せていた。
信じられない思いで、ステージ袖の桜さんを見る。桜さんは感極まった様子で投げキッスをしてきた。あの喜びようを見る限り、本当のようだ。
そうなると、一位の賞金はどうなるのだ。二人に十万円くれるのだろうか。もし山分けとか言われたら、ややこしいことになるのではないかと不安になる。十万円で、一曲ライブをやらせて貰うという話だったのだから。
協議するとのことで、しばらくその場で待たされる。そして、スタッフが駆け足で司会者に紙を渡しに来た。ただでさえ時間が押しているようだったが、この協議の時間のせいで、余計に押しているようだ。
「運営から連絡が来ました! まず三位だった五番の方には三万円贈呈します。そして、同率一位の二人には、一位と二位の合計である十五万円の半分……だと七万五千円で何か締まりのない金額になるので、太っ腹に八万円の贈呈となりました!」
司会者が早口で説明を読み切る。
八万円の贈呈だけ?『もしくは』の追加条件はどうなったのだ。しかし、その説明がされないまま、時間が押しているせいか、さっさと賞金の贈呈へとステージは進行している。もしかして時間が押しているから、ライブをねじ込むのは無理だと判断されてしまったのだろうか。司会者の早口具合を見る限り、焦っているのは確かだ。
「では三位の方に三万円!」
目録を受け取った五番の人が、嬉しそうに頭上に掲げている。
「次は同率一位のお二人、それぞれに八万円です!」
八番の人は目録を受け取った。けれど、僕はどうしても手を出せない。場の雰囲気に流されて受け取ってしまったら、ライブはさせてもらえないと思ったから。
「どうしたのかな? 君が勝ち取った賞金だよ?」
口調は丁寧だが、司会者の目は明らかに苛立った様子だった。僕がこの目録を受け取れば、このコンテストの終了を宣言して、次のコーナーへ進むことができる。それなのに、僕が受け取らないから焦っているのだろう。
司会者の早く受け取れという圧力をひしひしと感じる。でも、ここで言わなければ、ライブの権利は流されてしまう。
だから言わなくちゃ、主張しなくちゃ、言い張らなくちゃと、僕は自分に言い聞かせる。それなのに、僕の口からは何も発声されない。いつも、ダメなら引いていたから。こんな風に食らいつこうとしたことがないのだ。司会者の人だけでなく、多くのスタッフの人にとって、僕が何か言うのは迷惑だろう。他人に迷惑をかけるのは本意ではない。
けれど、ライブをしていいという話でまとまっていたのだ。同率一位というイレギュラーがあったとはいえ、勝手に約束を変えてきたのは向こうだ。だから、通るかは別として、主張をする権利はあるはず。
きっとカズさんだったらバンドの為に、絶対言うだろう。陽くんだって言うと思う。順さんだって、言うだけは言うと思う。
でも、今ここにいるのは僕だけだ。そして、僕が言わなければ、準備をしているであろうカズさん達の労力は無駄になる。そんなのは嫌だった。
僕は震える脚を一回手で叩き、司会者の腹を見た。さすがに顔を見る勇気は出なかったのだ。
「ぼ、ぼくは……そ、その、お金は、いいいいりません。だだから、八万円分の、願いを叶えてください!」
僕は噛みまくりながらも、必死で言った。
司会者の表情が固まった。正直怖いし、申し訳ないとも思っている。けれど、引くわけにはいかない。
「おおおねがいします!」
僕は頭を下げた。何の反応もないので、ひたすら下げ続ける。そして、僕がそう簡単に頭を上げないと判断したのか、頭上からため息が降ってきた。
「はぁ…分かった。君、確かバンドの子だよね。最初に話は聞いてた。進行が押しまくってるから、手早くね」
マイクを通さない小声で、司会者が言った。
「本当ですか?」
僕は勢いよく頭を上げた。司会者は仕方ないなというような、苦笑いを浮かべている。
「本当。ただし、運営は時間が押してる事に焦ってて、賞金を渡して終わりにしろと指示が来てる。だから、これは賭けだ。今からステージ上で君に願いを聞いて、運営に俺がマイクを通して、みんなに聞こえるように指示を仰ぐから。それでダメだったら諦めて」
司会者の温情に、僕はもう一度頭を下げた。
司会者はマイクを持ち直すと、喋り始める。
「四番くんは、願い事があるそうです。どんなことかな? 何でもじゃなくて、八万円相当だからね」
司会者がマイクを通して、僕に問いかけた。そして、僕にマイクを向ける。
「あ、えっと……ぼ、僕は……バンドを組んでて、そそそ、その」
僕は自分の声が大音量で聞こえることにビビり、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。
「ほら、落ち着いて。君はここで何をしたいのかな?」
司会者が話しやすいように、言葉をかけてくれた。それに答えるように、僕は叫んだ。
「ぼ、ぼくは、ライブがしたいです!」
会場内に僕の声が響く。
「なるほど。君はバンド活動をしていて、是非このステージで演奏してみたい、ということだね」
司会者が簡潔にまとめてくれたので、僕はうんうんと大きく頷く。
「運営さーん、この願いは八万円相当ですか?」
マイクを通して、司会者が運営の判断を仰いだ。
僕は祈るような気持ちで、奥の運営テントの動きを見守る。司会者の言葉を受けて、明らかに人影が右往左往し始めた。運営テントまでは少し距離があるので、人物の判定までは出来ない。けれど、中央あたりで数人頭を下げている。もしかして、カズさん達だろうか。
僕はステージ上で、運営テントに向かって再度頭を下げた。きっとテントで頭を下げているのはカズさん達だ。そう思ったら、自然と頭を下げていた。
すると、来場者から手拍子が起こり始めた。しかも『ライブ、ライブ』という声と共にだ。
これってもしかして、ここにいる人達も後押ししてくれているということだろうか。顔を上げて見渡すと、みんな僕を見ていた。あまりに驚いて、僕は涙が溢れてくる。こんなにも、人って温かいものなのか。
あぁ、手拍子が心地良い。僕を包むような風が巻き起こっている。今までだったら、確実に騒音としか感じなかった音だ。けれど、僕自身の捉え方が変わったからだろうか。全然、不快じゃない。
運営テントからスタッフが走ってくる。司会者がステージの端まで移動して、紙を受け取るとガッツポーズをした。それを見た途端、僕は嬉しさと感謝と感動と安堵で腰が抜けたのだった。
「あ、あああの、ありがとうございました」
僕はステージから降りた後、司会者を捕まえた。コミュ障だろうが、これはちゃんと感謝を伝えなければならないと思ったから。
「いいよ、結果的に盛り上がったから。それにしても、君は意外とやるね。流されちゃうだろうと思ってたから驚いたよ」
司会者は苦笑いを浮かべた。
「あ……ご、ご迷惑をかけたのは、ちゃんと分かってます。反省もしてます」
「いや、怒ってないから謝るなって。君が諦めずに発言したから、ライブの権利を勝ち取れたんだろ。君達がどんな音楽を聴かせてくれるのか、楽しみにしてるから」
司会者は笑顔を残して、再びステージに上がっていった。次のコーナーが始まるようだ。
「陸、おめでとう。そして、めっちゃありがとう!」
カズさんは僕を見るなり抱きついてきた。
「だ、だから、近いです」
「だって嬉しいんだもん!」
カズさんは僕の背中と腰に手を回し、ぎゅうと抱きしめ直してくる。しかし、すぐに離れていった。順さんがカズさんを引き剥がしたのだ。
「カズ、今は何かダメだ。俺の中の何かがやめろと叫んでる」
順さんが、真顔で変なことを言い始めた。本当に、今日の順さんは大丈夫だろうか。
「順兄、ジェラシーっすね。確かに、リーダーが美少女をハグしているようにしか見えなかったから」
陽くんの言葉に、僕はハッと気付く。
「早く着替えないと。時間がない」
今やっているステージのコーナーが終わると、ライブの時間帯に突入する。インディーズバンドが二組と集客の目玉であるメジャーデビューしているバンドだ。僕らに与えられたのは、インディーズバンド二組の間だった。
「りっくん、やっと見つけた。早くこっち来て。メイク直すから」
桜さんが駆け足で近付いて来たと思ったら、恐ろしいことを言って来た。
「もうこの格好しなくてもいいんじゃ……僕は、着替えて演奏したいです」
「何言ってんの? 違う格好でステージ立ったら、観客は賞金取ったのが誰だか分かんないでしょうが。人が入れ替わってるとか文句言われたらどうすんの?」
桜さんに詰め寄られ、僕は返す言葉に困った。
「確かに、桜ちゃんの言うことには一理ある」
カズさんは僕の目の前に立つと、両肩に手を置いた。
「陸、時間も無いことだし、今日はそのままの格好で弾こう。これ、リーダー決定な」
「そ、そんな……」
「大丈夫っすよ。陸兄は可愛いっすから」
陽くんのよく分からない励ましを聞きながら、僕は項垂れるしかない。
結局、僕には拒否権など無く、そのままの格好でベースを構えていた。さすがにハイヒールは無理なので、履いて来たスニーカーに変えたけれど。
ステージでは一組目のインディーズバンドが演奏を始めていた。昼間に聴いたバンドとは雲泥の差だ。軽快なメロディーが爽やかな風を運んでくる。さすが、イベントに呼ばれるだけはあると思った。
僕は風を感じながら、チューニングをしていた。すると、同じくベースを持った人物が目の前に来た。
「坊やの音、聴けるわね」
バンドの衣装を来た玲子さんだった。軍服をモチーフにした衣装だ。アンニュイな雰囲気の玲子さんと、かっちりした衣装とのアンバランスさがカッコいい。
「は、はいいい。煉獄シンドロームに恥じない演奏を――」
「硬い硬い。んな堅苦しいこと言ってないで、あんたの思うように弾きなよ。私はそれが聞きたい」
玲子さんは面倒くさそうに言った。
「あ、玲子だ! 久しぶりぃ」
カズさんが乱入してきた。
二人が話すのを初めて見る。未だに玲子さんの脱退理由を知らない僕は、妙にそわそわしてしまう。二人はどんな風に会話するのだろうか。少なくとも、喧嘩別れしている様子はないけれど。
「……久しぶり。相変わらず、あんたはやることが騒がしいわね。こんな無理やりライブねじ込んで、順くんが心労で倒れるわよ」
「えー、平気だって。あいつ頑丈だから」
そういう問題じゃないだろう、と僕は心の中でつっこむ。
「カズはどうなの? ちゃんと体のケアはしてるの?」
玲子さんの問いかけに、カズさんの視線が一瞬揺らいだ気がした。しかし、すぐにいつもの飄々とした表情に戻る。
「ん? ちゃんとやってるって。それより玲子、脱退してから初めてだな。同じステージ立つの。俺らの音を聴いてビビるなよ」
「はいはい、楽しみにしてる」
かなり適当にあしらわれてるカズさんを見て、ふと僕は思った。カズさんの破天荒ぶりに愛想尽かして、玲子さんは出て行ったのではないだろうか。いや、さすがにそれはないか。カズさんがこういう性格なのは、少し一緒にいるだけでもすぐ分かるから。性格が合わないのなら、そもそもバンドを組まないだろう。
「なんだよ、そんな冷めた目で見んな、この氷の女め。でも、そっちは順調そうだな。イベントに正式に呼ばれちゃったりしてさ」
「そうね。光栄なことだとは思ってる。それに、いくつかレコード会社から声もかかってるし……カズ、そんな拗ねるくらいなら、断らなきゃよか――」
「その話は終わったことなの。蒸し返しても仕方ないっしょ」
玲子さんの言葉をかき消すように、カズさんが声を重ねる。
今のって、多分、ものすごく重要なことだ。僕の知らない、けれど、僕が煉獄シンドロームに入ることに繋がった話だと思った。
「そうね、カズは弟を裏切るなんて出来な――」
「玲子、それ以上は何も言うな」
低くて硬い声に、空気がピリッと震える。カズさんのこんな声を初めて聞いた。
「はいはい、地雷踏んでゴメンね。じゃ、頑張って」
玲子さんはため息をつくと、あっさりと去って行った。僕は呆然と見送るしかできない。
「あーあ、玲子のやつ何しに来たんだよ」
カズさんはガシガシと頭を掻くと、苦笑いを浮かべた。
「陸、本番前に変な空気にしちゃって悪かったな」
しおらしくカズさんが謝っている。こんなカズさんも、初めて見た気がする。
「い、いいえ。あの、その、頑張りましょう」
「……何か今日の陸は頼もしいな。ステージにもあんまりおどおどせずに立つし」
確かにライブ前の今も、思ったより緊張していない。女装しているのが、功を奏しているらしい。この姿は僕であって、僕ではないような感覚だから。
一組目のバンドが終わって、ステージから降りてきた。彼等はすれ違いざま、僕らというか、僕を抜いたカズさん達を見て仰天していた。先の出番だったから準備などで忙しく、煉獄シンドロームが次にやるとは知らなかったようだ。
「まさか、煉獄シンドロームなのか? ごり押しでステージもぎ取ったの」
ボーカルの人が、カズさんに話しかける。
「そーだよ。ゴメンね、ばたばたさせちゃって」
「いや……こりゃ、今日のお客さん、なんつうかラッキーだな」
言葉を選ぶように、ボーカルは言った。
「へへ、玲子達のバンドも出るから、俺らのこと知ってる人も多いだろうしね。楽しみ!」
「あ、その話題は別にタブーじゃないんだ」
カズさんの軽い返しに、相手は拍子抜けしたようだ。
「みんな、変に気を遣いすぎ。それより、新しい煉獄シンドロームを見せてやるから、腰抜かすんじゃねえぞぉ」
カズさんは、軽く相手を肩パンすると歩き出す。僕はその後に続いた。通り過ぎるとき「あれが新しいベース?」という、物凄く怪しんだような声が聞こえた。
分かっている。普通の格好の時でさえ、そういう反応をされるのだ。こんな女の子の格好をしていれば、余計に信じられないだろう。
玲子さんだって女の人だ。けれど彼女は実力を認められている。だからこそ、大勢の前で、何より玲子さんの前で、僕は僕の精一杯を出さなければならない。煉獄シンドロームのベースの音を、響かせないといけないと思った。
ステージが暗転し、準備にかかる。ステージの最前では、あの司会者が喋って間をつないでいた。
「次は、男の娘コンテストでライブを勝ち取った、四番くんのバンドです。バンド名は……」
司会者がこちらを見るが、カズさんが手をクロスさせて駄目だと伝えている。どうやらギリギリまで黙っておきたいようだ。
「内緒のようなので、皆さん、お楽しみに。じゃあ四番くん、準備出来てるようなら一言いいかな?」
司会者が手招きしている。僕はカズさんを見た。カズさんが手を振って行ってこいとジェスチャーしたので、僕は司会者のところまで移動する。
ステージ全体が暗い中、司会者のところだけスポットライトで照らされていた。僕は恐る恐るそのライトの中に入る。
「本当にバンドマンなんだ。その姿だとギャップが凄いねぇ」
僕はぺこりと頭を下げた。
コンテストの時よりも、観客の数と密集度が桁違いに増えていることに気付き、僕は心臓が潰れるかと思った。前より緊張しないな、とか暢気に思っていたけれど、一気に緊張が襲ってくる。
「じゃあ一言、皆さんにお願いします」
司会者にマイクを向けられて、僕は固まった。何を言えばいいのだ。バンド紹介? いや、バンド名はカズさんが内緒にしてたから言っちゃダメだ。じゃあ何を言おう。焦れば焦るほど、頭の中が真っ白になっていく。そして真っ白なことにさらに焦り、手が震えてきた。
「そんなに構えずに、頑張ります的なことでいいんだよ?」
司会者が笑っている。その言葉に、ふっと力が抜けた。
僕は息を吸って、大きく吐く。そのタイミングで、司会者が再びマイクを差し出してくれた。
「み、皆さんの、後押しもあって、僕は、この場所に、立つことが出来ました。本当に、ありがとうございます」
僕は深々と一礼した。そして、再び前を向く。
「そ、その、僕は、このバンドに入ったばかりです。でも、すごく、良いバンドだなって思います」
震える声で、僕は必死に言葉を紡ぐ。
「な、なんていうか、はちゃめちゃな人達だけど、奏でる音楽は、最高に格好いいんです。僕を見つけて、選んでくれたこと、その、すごく、感謝してます。だ、だから、僕は、このバンドのベースとして、メンバーだけじゃなく、皆さんにも認めて貰いたいと思ってます。だから、精一杯弾くので、聞いてくださ……うわぁ!」
突然、背後からの圧迫感に襲われた。
カズさんが背後から僕に抱きついて、僕の肩に顔をぐりぐりと埋めてくる。だから、なんでこの人はすぐに抱きついてくるのだ。
「ちょ、こここここステージですから」
僕の噛みまくった言葉に、カズさんは笑った。
「分かってる。でも、そんなん言われたら、俺、嬉しくて我慢できない」
カズさんの拗ねたような声に、僕は困り果てる。
「はいはーい。時間ないから、早くボーカルは立ち位置に戻って、ほら、しっしっ」
カズさんは司会者に追い払われていく。
「すごい熱烈なメンバーでしたねぇ。じゃあ、四番くんも戻っていいよ。頑張ってね」
司会者に見送られて、僕も立ち位置へと戻る。
陽くんの準備も整ったのを確認した司会者が、開始のコールをする。
「では、次のバンドの皆さん、お願いします!」
スポットライトも消え、一度、ステージが真っ暗になった。そして、腹に響く激しいドラムソロが四小節、最後のシンバルの響きと共に、ステージが光に満ちる。新しい煉獄シンドロームが、世の中に出た瞬間だ。
「どうも! 煉獄シンドロームでっす」
カズさんが声を出した途端、悲鳴のような歓声が上がる。
「いやぁ、こんなに反応があるなんて嬉しいな。みんな、ありがと。みんなの中には、この後のバンドを楽しみにしてる人も多いだろうけど、その前に、俺らであったまってってよ」
「カズ、時間ないぞ。ダラダラしゃべるな!」
順さんの相変わらずなツッコミが入る。
「俺まだしゃべり始めたばっかだよ? 怒るの早くない? ○漏じゃない?」
「バッカやろう! マイク通して何言ってんだお前」
順さんが顔を真っ赤にして怒っている。うん、それは怒っていいと思う。
「あれ、俺なんか言ったっけ?」
カズさんはすっとぼけている。
「もういい。それ以上何も言うな。偉い人達に怒られる前に、始めるぞ」
「はい、はい。じゃあ、一つだけ言わせて。今日は陸の頑張りと、みんなの応援でこのステージに立てました。すっげえ感謝してる。それで、この面子でライブするのは二回目だけど、正式なバンドメンバーとしてライブすんのは初めてなんだ。つまり、これはお披露目ライブってわけ。だから、名刺代わりに俺らの音、受け取ってください!」
カズさんが言い切ると、陽くんを見た。その瞬間、ドラムのカウントが鳴る。煉獄シンドロームのライブ開始だ。
曲はオーディションで使った『サマーリリック』。CD音源でしか合わせたことがなかったから、生で彼らと演奏できるのがすごく嬉しい。
僕はイントロから全開でベースを弾く。Aメロ前の難しい部分も綺麗に入り、すごく気持ちいい。熱風に煽られて、体が高揚していく。
Aメロの軽快なメロディーにのって、観客ものり始めるのが分かった。照明が激しく瞬き、煉獄シンドロームの作り出す世界に聴覚だけでなく視覚も侵される。
Bメロに入り、静かにサビに向かって盛り上がっていく。僕はそれを後押しするように、ベースで煽る。指が自然と思い描く音を奏でた。バンドメンバーだけじゃない、観客の興奮も巻き込み、大きなうねりを感じる。
そして、カズさんが大きくジャンプし、着地と同時にサビに入る。Bメロから盛り上げてきた音が、一気に弾けた。その爆風から飛び出るように、カズさんのボーカルが疾走していく。最高に気持ちが良い。風が熱くて、激しくて、でも、どこか切なくて、もっと欲しくなる。もっと、もっと、熱風を感じたい。枯渇するのを恐れない、どこか危うげな音に惹き付けられる。強烈な渇望を抱きながら、僕は音に巻き込まれ、そして自分の音で巻き込んでいった。
頭の芯がしびれるようなライブだ。この前の、成り行きで出たライブとは比べものにならない。あの時は準備不足で、思うように弾けなかったのもある。けれど、今回のはそれだけじゃなく、煉獄シンドロームの一部になれていることを実感できたから。四人の音が合わさり、相乗効果でどんどん盛り上がる。こんな感覚、一人で弾いていたら知ることは出来なかった。
ステージから下りると、僕は完全燃焼で座り込んでしまう。たった一曲でこの有様になり、体力不足だとみんなに笑われた。
その横を玲子さん達が通り過ぎる。玲子さんは僕を見ることなく、ステージへと上がっていった。玲子さんは僕の音を聞いてみたいと言っていた。玲子さんが失望していなければ良いのだけれど。
すぐに、玲子さんがベースを弾くバンド『ベラトリックス』のライブが始まった。メンバー構成は、ボーカル、ギター、ベース、キーボード、ドラムの五人だ。女性はボーカルとベースという比率だった。
ボーカルが可愛い人だからか、声援も野太い声が多い。しかし、演奏される曲は可愛らしい見た目を裏切るものだ。力強く、しなやかな曲に乗せて、伸びのある声が響く。煉獄シンドロームが熱をイメージさせるなら、ベラトリックスは水だと思った。澄んだ水が、勢いを増し、すべてを飲み込んでいく。そんなバンドだった。
僕は鳥肌が立った。玲子さんは煉獄シンドロームのベースであり、なくてはならないような存在の人だったはずだ。けれど、今の玲子さんは完璧にベラトリックスのベースだった。やっぱり、この人は天才だ。テクニックなんて小手先の話じゃない。音の響きをここまで変えられるものなのか。玲子さんの音が、ベラトリックスの色をさらに鮮やかにしている。
勝った、負けた、という表現が正しいかは分からない。そもそも、玲子さんに勝っているとは思っていなかったけれど。それでも、初めて生で聴いた玲子さんの音に、僕は唖然とした。歴然と横たわる実力の差に、僕は衝撃を受けたのだった。
* * *
――『カズくんシンドローム』の時間だよ!
画面にはカズだけがいた。すぐに画面にコメントが流れ始める。「栄で煉獄の曲が流れてきてびびった」「出るって知ってたら行ったのに」などと、今日のライブについてのコメントばかりだ。
――今日は「栄るサミット」に参加して来ちゃいました。本当に飛び入りだったから、事前に告知できなくてごめんね。そもそも、実際にライブ出来るかどうか、賭けだったからさ。
カズが苦笑いを浮かべた。「コンテストのご褒美だもんね」「陸くん、可愛かった」などとコメントが流れる。
――うん、そうそう、見に来てた人もいるみたいだね。実は、陸が『男の娘コンテスト』で一位になったのよ。それで、賞金要らないからライブさせてくれって頼んだら、なんやかやあったんだけど、皆さんのご厚意でライブが出来ました! 本当に有難いよね。
カズが頭を下げた。
――他のメンバーは今日いないのかって? 何、俺だけじゃ不満? うそうそ、拗ねてないよ。順と陽は、明日法事だからって家に帰った。陸は疲労困憊でもう夢の中だよ。
「順さん家のプライベートだだ漏れ」だの「チャンスだ、夜這いしろ」だの「桜さんはいないの?」だの、好き勝手なコメントが流れていく。
――へへ、メンバーのプライベートは積極的に漏らしていくスタイルで行くよ、俺は。あとねぇ、夜這いは洒落になんないから。俺、順に殺されちゃうから勘弁して。どうして殺されるのかは内緒ね。
カズが飄々とコメントに対して喋っていく。色んなコメントが流れる中、「もしかして陸の男の娘姿に順さん惚れちゃった?」というコメントが流れた瞬間、カズが爆笑した。
――ひゃっはっは、げほっ、ごほっ……やばい、笑いすぎて喉が死ぬぅ。あー、あー、声がガラガラだよ。ヴん、んん、あーうー、戻った戻った。焦ったぁ。ごめんね、いきなり笑い出して。色んなコメント流れてるけど、今、確信を付いたやつが流れていったからツボっちゃったよ。
「大丈夫?」「どのコメント?」「分かった、たぶんアレだ」などと流れていく。
――結構いい時間になっちゃったな。じゃあ、最後にちょっとだけお知らせ。まだメンバーにも言ってないんだけどさ、俺、琵琶湖フェスにめっちゃ出たいんだよね。
「メンバーに言わずに発言するスタイル」「順さんに怒られるぞ」「言ったら何とかなるって思ってるよねww」などと半分面白がり、半分呆れた様子のコメントが流れる。
――みんな、俺のこと良くわかってんじゃん。言っとけば、順がいろいろ手配してくれるからさぁ。もちろん、怒られるんだけど。
「やっぱり」「確信犯だ!」「順さん、見張ってないとダメだよー」とコメントが囃し立てる。
――今日のライブの音源もらってさ、改めて聴いてみたんだけど、めっちゃ良いんだよ。てことで、エントリーしてみようと思ってます。俺、落ちる気しないから、みんな、フェスの日は予定空けといてね! あ……やべ、順のやつ見てるな。順から電話かかってきたから、配信はここまで。またねっ
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