第四章
僕はさっそく後悔し始めていた。分かっていたはずだけれど、カズさんはめちゃくちゃな人だ。
昨日は風呂に入ってる間に生配信を始め、無理矢理出させようとしてくるし。僕には僕のペースがあるわけで、準備も無しに何もしゃべれないわけで、しかもあんな格好で映るだなんて、見ている人にも失礼だと思うわけで。それなのに、そんなの関係ないと引っ張られ、あげくにパンツ見えたし、最悪だ。
順さんがいてくれて良かった。順さんがいなければ、このバンドは本当にめちゃくちゃになっていると思う。改めて順さんの偉大さを実感した。
そして、今は朝だ。余っているベッドがあるから使って良いよと言われ、何の疑問も抱かずにそこで寝た。そして起きたら、見知らぬ美女が隣に寝ている……何だこの状況!
まだ実物の僕は眠っていて、夢の中なのだろうか。だって、起きたら隣に美女って、どこのラノベ主人公だよ。
僕は自分の頬をつねる。痛い。念のためもう一回つねる。普通に痛い。ダメだ、どうやらこれは現実のようだ。
よくよく考えてみれば、ベッドが余ってるって、おかしいよね。別の同居人がいるって考えるのが妥当だよね。それにしても、この女の人も大丈夫かな? 普通さ、自分のベッドに知らない男が寝ていたら起こすよね。まぁ起こさない選択をしたとしても、一緒に寝るっていう選択はしないよね。あ、もしかして、僕をカズさんと勘違いしてるとか。一緒に暮らしているくらいだから、その、えっと、そういう関係なんだろうし、一緒のベッドに寝るなんてことは珍しいことじゃないのかもだし。
とにかく僕は、ベッドの端、壁にべったりと張り付いて、美女から距離を取る。ベッドは壁に引っ付くように配置されており、美女は僕を壁側に囲うように寝ているのだ。下手に動くと、体に触れてしまいそうで、動くに動けない。
同居人がいるならいるって、カズさんも何で言っておいてくれないんだろう。知っていれば、僕はソファーでも床でもどこでも良かったのに。カズさんのことだから「どうせ今日は帰ってこないと思ってたから良いかなと思って」とか言うのだろう。簡単に予想ができてしまって、その予想に苛ついてしまう。
「んー」
謎の美女がもぞもぞと動き出した。やばい、ここで起きられると、僕は完全に変質者になってしまう。早くベッドから離れなければ。
僕は四つん這いになって、あまりベッドを揺らさないように足下へと移動しはじめる。しかし、美女の脚が邪魔をするように、僕のお腹を蟹挟みしてきた。
「ひぃ」
突然の拘束に、僕は情けない悲鳴を上げる。
「こーら、逃げるな」
僕は怖くなって必死にもがくが、全然抜け出せない。女の人なのに、何なのだこの怪力は。
「ごごごめんさいぃ。カズさんが、ここここで寝ていいって言ったので、あの、その」
「ん? あれ、陽くんでも順くんでもないわね。どっちかだと思ってたから気にせずに寝ちゃった」
ぼさぼさのセミロングの髪をかき上げると、美女は眉を寄せた。色あせたTシャツに、短パンといった格好をしている。それにしても、この美女の顔、どこかで見たことがあるなと思った。
「……あの、僕、その」
自己紹介すべきなのだろうか。でも、ただでさえ初対面は緊張するというのに、蟹挟みされて密着している状態だ。心臓がおかしなくらいバクバクして、まともに話せない。
「もしかして、新メンバー?」
美女の表情が一気に明るくなった。その笑顔、やっぱりそうだと思った。
「は、はい。えっと、あの……お姉さんは、カズさんのご兄妹ですか?」
笑った顔が、カズさんによく似ているのだ。
「そうそう、すぐに分かっちゃうのよねぇ。まあ双子だから仕方ないんだけどさ。私は
「そ、そうですか。覚えておきます」
さすがにカズさんと双子だけあって、ぐいぐいくる圧力が凄い。
「それで、君の名前は?」
桜と名乗った美女は、興味津々といった表情で聞いてきた。
「えっと……鈴谷陸と言いますが、あの……そろそろ脚を離していただけると、ありがたいのですが……」
こうして話している間も、僕はお腹を挟まれたままなのだ。
「あ、ごめん。挟んでないと逃げちゃいそうだったから。もう逃げない?」
「……逃げません」
僕の弱々しい言葉に彼女は肯くと、やっと脚を離してくれた。途端に、僕はベッドを転がるように降りる。
「ちょっと、逃げないって言ったじゃん」
「に、逃げるつもりはありませんけど……その、女の人と……あの、こんな近距離にいるのは、恥ずかしい、ので、その、適度な距離が、必要といいますか」
僕はつっかえながらも、何とか言い切る。
「真っ赤になってる……なにこの子、可愛い」
桜さんが目を輝かせて、身を乗り出してきた。僕は何か変なツボでも押してしまっただろうか。
「ねぇ、お姉さんと、イイコトしない?」
にやりと笑った桜さんが怖すぎて、僕は涙目になってしまう。
「んー、そのおびえた表情もそそるわ」
「や、やめて……近づいてこないで」
僕はじりじりと下がるが、すぐに箪笥にぶつかってしまう。必死で逃げようとするけれど、Tシャツを引っ張られ、太ももの上に座られてしまうと、もう動けない。無理矢理Tシャツを脱がされてしまう。
「ほら、鈴谷くん男の子でしょ、上半身見られたぐらいで泣かない」
確かに僕は男だし、上半身なら脱いでもいいけど、初対面の女性の前でなんて嫌だ。
「鈴谷くん色白い。ちょっと腕見せて。やだ、むだ毛も薄い。なんなの、この女の敵みたいな羨ましい体。細いし、肌すべすべだし。ね、ワキは? ワキも見せてよ」
「い、いやです。助けて」
「誰も助けになんか来ないわよ。カズは寝汚いから、ちょっとやそっとじゃ起きないし」
桜さんは僕の体をあちこち見ては興奮している。反対に僕の精神はどんどん削られていく気分だった。
「鈴谷くん、着てほしいものがあるの。ていうか、着て。じゃないと、夜這いされたって警察に言うわよ」
桜さんの瞳が笑っていない。
後からベッドに潜り込んだのは桜さんで、僕が夜這いもくそもないだろうと言いたい。けれど、警察はダメだ。ただでさえ、今は家出と紙一重のデリケートな時期なのだから。
結果、僕は桜さんの言いなりになって、服を着た。フリルの付いたブラウスに、フレアのたっぷり入ったスカート。もちろん、だぼだぼのジャージは脱がされた。スカートってこんなにすーすーするんだなって、呆然とした頭で思った。そして、極めつけに、髪の毛もふわふわにセットされた。
「最高! ここまで可愛い男の娘はめったにいないわ。めっちゃ興奮する。ね、ちょっと回ってみて」
もう諦めの境地で、僕はその場で回る。スカートがふわりと広がった。
「んー、いい! これどこに出しても恥ずかしくない出来よ。素材が良いのよね。化粧しなくても大丈夫なくらい綺麗だし。あとは、もうちょっと姿勢をさ、女の子らしくしてくれれば完璧」
なんだか男としての大事な部分が、踏みにじられた気分がする。確かに、たいして男らしくないけれど、それでも、僕は女の子じゃない。
『騒がしいけど。陸、何かあった?』
カズさんの声が壁越しに聞こえた。その瞬間、僕は思わず叫んでしまう。
「カ、カズさん、助けて!」
どたどたと走る足音が聞こえたと思ったら、勢いよくドアが開いた。そして、カズさんの表情が、僕を見て固まる。
「おはー、カズくん」
桜さんが楽しそうに挨拶をする。
「おはーじゃないよ。陸になんて格好させてんの。涙目になってるじゃん」
「うんうん、可愛いよね。涙目もぐっと来るよね」
桜さんの趣味が良くわからない。僕にこんな格好させて何がいいのだろうか。
「確かに、何か美少女がいるって思っちゃったけど。そうじゃなくてさ、陸に無理矢理こんなことさせんなって」
「えーいいじゃん。ベッド貸してあげたお礼ってことで」
悪びれなく桜さんが笑う。
「そもそも、何で桜ちゃんがいるんだよ。彼氏のとこへ帰らなくていいの?」
カズさんが苦虫を噛み潰したような顔をした。
「彼とは別れたの。だから、またここに住むから」
「マジで? しばらく陸もここにいるからさ、どっか別の男か友達のとこに行ってくれない?」
カズさんが嫌そうに言う。
「嫌よ。だってここはもともと二人で借りた部屋なんだから、私に住む権利があるはずよ。それに、私は昼間は仕事してるし、一緒になるのは夜だけでしょ。鈴谷くん小柄だから、一緒に寝ても窮屈じゃないし、問題なくない?」
いやいや、問題ありまくりだろう。一緒に寝るわけがないし。
「桜ちゃんみたいな肉食獣と、陸を一緒に寝させるわけないだろ。桜ちゃんがどうしても出て行かないんだったら、俺んとこで陸は寝させるから」
いやいやいや、どちらとも一緒には寝ませんから。僕は床で結構ですから。
「そもそも、どうして鈴谷くんはここに寝泊まりするわけ? 家出でもした?」
図星を突かれ、僕とカズさんは思わずちらりとお互いの視線を合わせた。
「ははーん、正解のようね。てことは、ここを出たら行く当てがないってことね。順くんと陽くんは実家暮らしだから無理だし。じゃあ諦めて、三人で共同生活しましょ。はい、決定!」
勝ち誇ったような桜さんの宣言に、僕とカズさんは何も言い返すことが出来ないのだった。
桜さんはその後、仕事の時間だと言って慌ただしく出て行った。カズさんに聞いたところ、桜さんはヘアメイクのアシスタントをしているそうだ。言われてみれば、異様に髪のセットが手早かったように思う。
カズさんもファミレスでバイトしているとのことで、昼前には出かけてしまった。僕は特にやることがないので、部屋の掃除を始める。カズさんのアパートは2DKだけど築四五年でかなり古いので、家賃も手が届くものらしい。もし出かけるなら使いなと、カズさんが出かける前に合い鍵もくれた。
そういえば、煉獄シンドロームに入ったくせに、ベースが手元にないことに気づいた。昨日の今日で家に行くことには抵抗があったが、ベースがなくては話にならない。僕は掃除機を一通りかけ終わると、家に向かった。
あまり昼間に出歩かないので、ヘッドフォンで音楽を聴いていても少し音酔いしてしまう。僕は出来たら家で少し休みたいなと思いながら、玄関をそっと開けた。すると、家の中は静まりかえっている。母は買い物にでも行っているのだろうか。
僕はまずは自室へ向かうと、ベースを手に取る。本当はギターも持って行きたいけれど、あまり大荷物になると運ぶのが大変だから今回は諦めた。あとは楽器の周辺機器をリュックに詰め、着替えも紙袋に詰める。そして、あらかた準備が済むと、ベッドに寝転ぶ。音酔いのせいで少し頭が重かったけれど、すうっと軽くなっていくのが分かる。でも、この居心地のいいベッドとは、これでしばらくお別れだ。
気分が回復すると、僕は喉を潤しに台所へ寄る。すると、無言で母が座っていた。台所で何か作業しているわけでもなく、ただひたすら座っていたのかと思うと、驚きを通り越してちょっと怖い。
「陸、戻ってきたのに……また出て行くの?」
僕は無言で頷いた。
「そう……じゃあ、無理矢理あの人に連れられていった訳じゃないのね」
母の諦めたような声に、胸が痛くなる。
「昨日は、自分でも言い過ぎたと思っているわ……親失格ね」
母は反省している。けれど、あの言葉自体を否定はしていない。言い過ぎたということは、あくまでそれに近いことは思ってたということなのだ。
母は戻って欲しそうだけれど、戻ったらまた母を追い詰める気がした。僕が今のままじゃ、母との関係は何も変わらないだろう。だから、母のためにも、やっぱり家には戻れない。
「……母さん、僕は、僕の意思でカズさんの所に行くよ」
僕の言葉を、母は悲しそうに聞いていた。
「分かったわ。体だけは……その、気をつけて」
「うん」
親子の短い会話はそれで終了した。母は僕を玄関まで見送ることもなく、台所の椅子に座ったままだった。
僕はカズさんのアパートに戻ってくると、ベースを取り出した。
今の僕から、少しでもいいから変わりたかった。具体的にどうしたら人間的に成長出来るのか分からない。でも、僕は引きこもりをやめて、ベースを武器に外へと踏み出すことを選んだ。それならば、僕が出来るのはベースを弾くことだけ。
僕は煉獄シンドロームのベースになったのだ。迎え入れてくれた彼らに、失望されたくない。
無性にベースを弾きたくなった。思い切り、音を鳴らしたい。でも、カズさんのアパートで音を出すわけにもいかないし、昼間っから墓地で弾くのは人目につきすぎる。考えた末、僕は一大決心をした。スタジオに行ってみることにしたのだ。
正直、一回しか行ったことないし、その一回もカズさんに手続きとかしてもらったし、どうやって使わせてもらうのかよく分からない。コミュ障の僕にとって、初めてのことは本当に怖い。周りから浮くんじゃないか、笑われるんじゃないか、変な人だと気持ち悪がられるんじゃないかと、不安になってしまう。分からなければ、分かる人に聞けばいいじゃんって思うかもしれないが、そういう問題ではないのだ。対人恐怖症の僕にとっては、まず人に聞くと言うことが怖いのだから。
でも、怖いからといって、動くのをやめたら何も変われないと思った。他人から見たら、たかがスタジオに行くだけでしょって思うかもしれないけど。僕にしてみたら、これはすごいチャレンジなのだ。
僕はスタジオの建物の前にいた。まずはシミュレーションだ。奥の受付に行って、初回利用だと伝えて会員証を作る。この後、実際に利用時間や部屋の希望を伝える。うん、大丈夫。スマホで利用方法は調べた。
「入るの? 入らないの?」
僕が建物の前で躊躇っていると、突然、声を掛けられた。驚きのあまり、僕は一メートルくらい飛び退く。
恐る恐る視線を上げると、ベースを持った大柄な男の人が立っていた。白いTシャツにデニムというラフな服装で、年齢はカズさん達と同じくらいに見える。色黒でワイルドな雰囲気の人だった。少し苛立ったように眉を寄せており、僕はすぐに目をそらす。
「あ、あの、お先に、ど、どどどうぞ」
僕は必死に声を絞り出した。
男の人はちらりと僕を見ながら、建物へと入って行く。その視線が蔑みを含んでいる気がして、僕はすでに心が折れそうだった。まだ建物にすら入れていないというのに。
でも、こんなスタート地点で心が折れていてはいけない。僕は変わりたいのだから。
そこから十分くらいかけて呼吸を整えると、僕はついに建物へと足を踏み出した。自動ドアがガタガタと開き、僕の足もガタガタと震えながらスタジオのエントランスへと入った。一度来ているとはいえ、今は昼間だし、一人だしで、まったく違う景色に見える。
蛇行しながらも、何とか奥の受付まで歩き切った。カウンター越しに、受付のお姉さんが僕をじっと見ている。僕は冷や汗が止まらない。
「いらっしゃいませ」
お姉さんの呼びかけに、僕は視線を落としたまま小さく頭を下げた。
「君、一人で来るの初めてでしょ。ずっと見えてたよ」
お姉さんの言葉に、僕は思わず顔を上げてしまう。お姉さんは笑顔だった。
「君さ、入りたそうにしてるけど、なかなか入ってこないから。もう諦めて帰っちゃうのかなって、内心思ってたんだ」
ちょっと待ってくれ。僕が建物の前で一時間以上うろうろしていたの、全部見られてたのか? やばい、恥ずかしくて死ねる。
「わわっ、顔真っ赤だよ。ごめん、余計なこと言ったわ。えーっと、楽器弾きたいんだよね。ちょっと待ってて。今日は結構混んでてさ」
お姉さんは慌てて、パソコンの画面を見ながらマウスを動かした。
すごく気を遣われている。ここに入ってから、僕は一言も発していないし。こんなんではダメだ。自分からちゃんと伝えないと。
僕は震える手で、通信制高校の学生証をカウンターに差し出した。
「ぼ、僕、はは初めての利用で、そそその、会員証をつつつくりたい……です」
自分でもびっくりするほど噛みまくった。恥ずかしくて涙が出そうだけど、何とか言えたことに安堵もした。
「あ、身分証明書ってことね。預からせていただきます。じゃあこの申込み用紙の太枠内を記入して」
お姉さんは一瞬目を丸くしたけれど、すぐに営業スマイルに戻る。そこからは、お姉さんの指示に従って申込み用紙を書き進め、スタジオの会員証を手に入れることが出来た。
手元に真新しいカードがある。そのことが、とても嬉しかった。他人から見たら些細なことだろうけど、僕にとっては頑張った成果だ。僕はほくほくしながら、指定されたスタジオの一室へと入る。ドアを閉めた途端、世界から切り離されたかのような静けさに囲まれた。
ベースをケースから取り出し、ケーブルでアンプと繋ぐ。アンプの電源を入れてボリュームを少しずつ上げ、音を調節していく。少しの違いで音色を変えるから、夢中で『ヘブンリー』の音を探した。
僕は用意が出来ると、一度目を瞑る。頭の中に、僕がいたライブを思い返した。あの時に足りていなかったものを満たしたかった。あれから楽譜を貰ってさらに練習した。あの曲をちゃんと弾けるようになりたかったから。だから、今ならもっと良いものが弾けるし、弾きたいと思った。
僕は頭の中で響く『ヘブンリー』に食らいつくようにベースを鳴らした。ライブの時に感じた熱風が、体を吹き抜けていく。この熱さだ。でも、もっと熱くなれるはず。もっともっと熱く激しくしたい。僕の音がそれを加速させたい。その思いで僕はベースを鳴らし続けた。
「鈴谷くん……じゃない、陸兄、もうすぐ時間だって」
唐突に掛けられた声に、僕は心臓が飛び出るかと思った。
声の方を見ると、制服姿の陽くんがスタジオの中にいた。いつからいたのだろうか……全く気がつかなかった。
「あの、陸兄って、ぼ、僕のこと?」
まさかと思って尋ねると、陽くんは大きく頷いた。
「そうっす。俺は四月生まれだからもう十七歳だけど、学年は二年だから。陸兄は三年だって聞いたっす。年上は敬わないと。それに……俺、今すごい鳥肌立ってんだぁ。何でだか分かるっすか?」
分からなくて僕は首を振る。
「陸兄のベースが凄かったからっすよ。ベースだけなのに、他の音も一緒に鳴ってるみたいに聴こえた。しかも、あのライブよりも数倍加速したヘブンリーだった。俺、陸兄のベースに惚れたっす! だから、ただ年上ってだけじゃなくて、心底凄えって思うから、今日から俺の三人目の兄貴っす。あ、一人目はリーダーで、二人目は本物の兄貴ね」
目を輝かせて説明をしてくれているが、そもそも一人目は本物の兄貴と言ってあげて欲しかった。あんな良い人なのに、何だか順さんが哀れだ。
というか、そんなことよりも、陽くんの僕に対する大絶賛は何なのだ。嬉しいよりも、戸惑いの方が大きい。まだ自分の思い描くレベルの風が来ていないのに。
「まだ……僕じゃ、全然足りない」
僕はぽろりと零してしまう。
「そうなんすか? 俺は十分すごいと思うっすけど。あ、それよりもう時間。今日は混んでるらしくて、延長出来ないって受付の佳子さんが言ってたっす」
僕は慌てて時計を見ると、予定の二時間が迫っていた。
「その表情からすると、二時間ぶっ通しで弾き倒してたみたいっすねぇ。腕とか疲れないんすか?」
集中していたから、疲れなど気にならなかった。その分、一気に今押し寄せてくる。
「いま……疲れ始めた」
僕が腕をだらりと下げると、陽くんは笑い始めた。
「ははっ、陸兄って本当面白いっすね」
陽くんの言葉に、僕は目を見開く。煉獄シンドロームのメンバーは、三人とも僕を変な奴扱いしない。こんな変な僕なのに、変ではなく面白いという。そのことに、戸惑いつつも心が暖かくなる。
僕は手早く片付けるとエントランスへ向かった。すると、先に出て行った陽くんが受付のお姉さんと喋っている。
「少年、やっぱりカズくんが連れて来たベースくんだったんだね。何となく見覚えあってさ」
お姉さんが笑いかけて来た。
覚えられていたことに驚きつつ、僕は頷く。
「佳子さんから連絡貰って、もしや陸兄じゃないかと思って駆けつけたんすよ」
陽くんの言葉に、僕は首を傾げる。だって、どうして受付のお姉さんから、ただの利用者である陽くんに連絡が行くのだろうか。もしや、カズさんや順さんにも連絡が行ってたらどうしよう。恥ずかし過ぎる。
「あああの、なななんで陽くんに、その連絡が?」
動揺で声が震えまくる。
「えっとね、佳子さんは順兄の同級生で、俺がドラムやり始めた時にめっちゃ世話になったんす。今や順兄より仲良しっすよ」
輝くような陽くんの笑顔に、なるほどと納得する。確かにこのお姉さんは、挙動不審な僕に対しても嫌な顔をしなかったし。きっと世話好きな人なのだろう。
「陽ちゃんが一生懸命頑張ってるの見たらさ、ほっとけなくて――」
言葉の途中で、お姉さんの表情から笑顔が消えた。どうしたのかと不思議に思いつつ、お姉さんの視線の先を見る。僕らは受付に向かって立っているので、つまりは後ろを振り向いたわけだが、大柄な男の人が仁王立ちしていたのだ。険しい顔で僕を見下ろすその人は、入り口で遭遇したワイルド系の人だった。
「佐藤さん、こんちは」
陽くんが挨拶をしたところを見ると、知り合いのようだ。陽くんは笑顔のままだが、受付のお姉さんは顔が引きつっているし、男の人は眉間の皺がより深くなった。
「陽、もしかしてこいつか?」
「新しいメンバーのことなら、そうっすよ」
予想外に僕の話題が出て、息を飲む。
陽くんは変わらず笑顔だ。でも、心からの笑みではない気がした。この男の人と何かあるのだろうか。
「こんなガキが、煉獄シンドロームのベースだなんて受け入れられるかよ。なぁ、何で俺にしないんだ?」
心臓が嫌な音をたてる。
この人は、僕のことが気に入らないんだ。そして、僕より自信があるんだ。
「佐藤さん。リーダーが決めたことだから、俺が答えられることはないっすよ。でもまぁ……俺の個人的意見を言うとすれば、佐藤さんでも良かったとは思います」
「なら――」
「待って、まだ先があるんす」
佐藤さんの口出しを阻むように、陽くんは続けた。
「佐藤さんでも良かったですけど、他の人でも良かった。つまり、佐藤さんがダメとかではなく、陸兄が煉獄シンドロームにピッタリとはまったんすよ」
陽くんから笑顔が消えていた。真剣な表情で、佐藤さんを見据えている。
「な……に言ってんだよ。こんな風が吹いたら吹き飛びそうな奴がピッタリだって? んなこと納得出来るか!」
佐藤さんが陽くんに詰め寄る。陽くんも背は高いのだが、佐藤さんはそれ以上に高い。僕にしてみたら巨人同士の睨み合いに、胃がキュッと絞られる気がした。
「煉獄シンドロームはな、激しくて、熱くて、骨太でありながら疾走感に溢れてる、そんなバンドだろ。こんな奴のどこに煉獄シンドロームの要素があるってんだよ!」
佐藤さんの怒鳴り声に、僕は吹き飛ばされそうだった。殴られるような風を受けて、僕はふらっとよろけてしまう。
「大丈夫?」
受付カウンターから慌てて出てきたお姉さんが、僕の肩をそっと支えてくれた。
でも、その光景を見て、佐藤さんの怒りはさらに増したようだ。
「ほら、こんくらいでビビりやがって」
「確かに陸兄はちょっとひ弱なところあるけど、ベースは天才っすよ!」
頼むから、それ以上煽らないでくれと僕は祈る。しかし、陽くんは止まらない。
「陸兄は……俺は陸兄の方が、玲子さんよりも天才だと思ってるっす!」
陽くんの大声に、僕は堪らず尻もちをついてしまった。強風なんてもんじゃなく、もはや恐風と言いたくなる風が僕を襲う。
「……バカなこと言うな。玲子よりも天才だなんて、そうそういるわけない」
佐藤さんが一瞬ほうけた後、嘲るように笑った。
僕は話の展開についていけず、床の上でアホみたいな顔で見上げるしかない。
「私がどうかした?」
混乱したこの場に、さらに新たな声が掛かった。
そこには、スレンダーな若い女性が立っていた。ダボついた黒いサマーニットに、細身のデニムを履いている。目つきは鋭く、赤い唇が印象的だ。さらさらのロングの髪、そのサイドには青いメッシュが一筋入っている。まるで、カズさんの赤いメッシュとお揃いのように。
畳み掛けるような介入者の登場に、僕の精神はもう崩壊の危機だ。
僕はその女性のことを、一方的に知っていた。動画の中でしつこく見続けた人だから。彼女は、煉獄シンドロームから脱退した元ベースだった。
長い髪をかきあげ、挑発するようにベースを鳴らす『ヘブンリー』の動画の雰囲気そのままの人だった。あの天才的なベーシストが目の前にいるという状況に、僕は体が震えてくる。
「玲子、お前の後釜にこのガキが入ったんだぜ」
いち早く冷静になった佐藤さんが、喋り出す。
「ふーん」
興味なさげに、元ベースである玲子さんが返事をした。
「脱退したとはいえ、こんな下手くそな奴が入ったらいい気しないだろ?」
「別に」
「えっ、気になんねーの?」
思った反応が返ってこないせいで、佐藤さんは動揺しているようだ。
「別にどうでもいい、この坊やが下手くそだろうと。でも、そうね……」
玲子さんはしばし考え込むと、いきなり僕の方に向かってしゃがんだ。目線が低い位置でかち合う。僕は怖くて思わずそらしかけたけれど、玲子さんの強い視線が射抜くように刺さり、そらすことができない。
「坊やは、何歳?」
もっと違う言葉が浴びせられると思っていただけに、僕はちょっと拍子抜けしてしまう。
「じゅ……じゅう、なな、です」
何とか答えると、玲子さんはあからさまに嫌な顔をした。
「あいつも、懲りない男ね」
ため息まじりに玲子さんは言うと、スッと立ち上がる。
「佳子、Bスタジオ空いてる?」
突然話しかけられた受付のお姉さんが、カウンターに戻る。
「えっと、あ、空いてる」
「じゃあ二時間使うわ」
そう言うと、玲子さんはさっさと歩き出す。すると、面食らったように佐藤さんが引き止めた。
「待てよ。お前まで俺を否定するのか?」
「否定なんてしてないって。ただ、どうでもいいだけよ。私はもうあのバンドは抜けたの。後に誰が入ろうが関係ないわ」
「本当に心からそう思ってるのか? カズとお前、付き合ってたんだろ。脱退も痴情のもつれって噂だ。俺が正式にメンバーになれば追い出すのは難しいが、このガキだったら、戻りたくなったらすぐに追い出せるとか思ってんじゃねえの?」
佐藤さんが下卑た笑いを浮かべる。僕は佐藤さんの音を聞いたことはないけれど、この人と煉獄シンドロームはきっと合わない。そう思った。
「その噂は聞き飽きるほど聞いたわ。私とカズはそういう関係じゃないけど、信じたければ信じててもいいよ。でも佐藤くん、私は佐藤くんなら余裕で追い出せる自信があるわよ?」
不敵に笑う玲子さんは、最高にカッコ良かった。これだ、この雰囲気だ。やっぱり、玲子さんは煉獄シンドロームのベースだ。
僕は頭の芯が冷えていくのを感じる。この玲子さんという人に勝てるのだろうか。正直、全く勝てる気がしない。カズさんも、順さんも、陽くんも、僕を欲しいと言ってくれた。でも、僕にはやっぱり自信がない。むしろ、彼女が戻るのが一番良いのではと思えてくる。脱退の理由は知らないけれど、彼女が戻りたくなったら、僕は身を引くしかない……。
以前までの僕なら、確実にそう思った。でも今の僕は、それはちょっと嫌だなと思ってしまう。煉獄シンドロームやそのファンの方々のことを考えれば、身を引くのが良いと分かっているのに。そんな自分の気持ちに、僕は戸惑ってしまう。諦めることが日常だったから。こんな執着心を持つことが、少し怖かった。
僕が玲子さんを呆然と見送っていると、陽くんが僕に手を差し出してきた。
「陸兄、ほら立って」
煉獄シンドロームの三人は、こうして僕に手をさしのべてくれる。この期待を裏切りたくない。だから、僕は一週間分の精神力を込めて立ち上がる。
「あ、あの、さ、佐藤さん。僕、鈴谷陸といいいいいます」
陽くんの「いが多過ぎ」とツッコミが横から聞こえる。仕方ないのだ、ちゃんと喋れないのは。それでも、主張しなければならないことがあるのだ。
「あっそ。で?」
佐藤さんは鬱陶しそうに僕を見下ろしてくる。正直、怖くて泣きそうだけど、歯を食いしばって耐える。
「ぼ、僕は、佐藤さんがどんな音を出すのか分かりませんが――」
認めてもらえるように頑張る、と続けたかったのだが、佐藤さんの暴挙によってそれは出来なかった。
突然、胸倉をつかまれ、佐藤さんに至近距離で睨み付けられたのだ。
「お前さ、俺が誰だか分かってないの? 玲子が脱退してから、サポートメンバーとしてベース弾いてんだけど」
「佐藤さん、やめるっすよ!」
陽くんが慌てて、佐藤さんの手から僕を助けてくれたので、息が出来なくなるのは免れた。
「お前、煉獄シンドロームがどんなバンドが分かってんのか? 人気と実力を兼ね備えた、この地域でバンドやってるなら、知らない奴はいないくらいの凄いバンドだ。インディーズとはいえ、集客率はこのあたりじゃトップクラスだし、条件を選り好みしなけりゃ、メジャーデビューだってすぐ出来るって噂もあるくらいだ。俺だけじゃなく、ベース弾く奴らはみんな、お前の居場所を虎視眈々と狙ってたんだよ」
佐藤さんの説明に、僕は手足が冷たくなっていく。煉獄シンドロームが人気のあるバンドだとは知っていたけれど、ここまでとは思っていなかったのだ。
玲子さんという天才が抜けた場所を、みんな狙っていたのだ。もしや、ライブのリハーサルの時、妙に見られている気がしたのはそのせいだったのだろうか。あのリハーサルを見た人は、さぞかし僕のことを下手だと思っただろう。そして、こんな奴を玲子さんの後釜に選ぶのかと、失望したに違いない。
僕は驚きと恐怖で、一週間分の精神力がどっかに行ってしまった。
「俺は、こんな奴が正式なメンバーだなんて認めない。俺の方が、煉獄シンドロームにふさわしいはずだ。その証拠に、何人かサポートメンバーを試した後は、ずっと俺に固定してた。つまり、俺の技術を評価してくれてたってことだろ」
「佐藤さん、あんまり言いたくないっすけど、誰でもあんまり変わら――」
陽くんが隣で何かしゃべっていたけれど、僕はもうそれどころではなかった。僕は、沢山の人を一気に飛び越えて、この場所に座ってしまったのだ。どうぞと言われ、素直に居座ってしまっていいのだろうか。それはズルいのではないだろうかと思えてくる。
僕は居たたまれなくて、ベースを抱きかかえて逃げ出してしまった。陽くんも佐藤さんも受付のお姉さんもすべて置き去りにして。僕は結局、弱いままだ。一人でスタジオに来れて、少しいい気になっていたのが恥ずかしい。僕は、何も変われてなどいない。
僕は意気消沈して、カズさんのアパートへと帰ってきた。そもそも、ここへ帰ってきても良かったのかなと疑問すら沸くけれど。でも、流石に自宅へと帰るわけにもいかなくて、ここへ帰ってきてしまった。
ふいに玄関の方が騒がしくなる。
「たっだいまー」
元気なカズさんの声だ。
「さっさと中に入れ、荷物重いんだよ」
順さんの苦しそうな声がそれに続く。
「順兄、荷物まだあるからね」
陽くんの声まで聞こえた。
「お前、容赦ないな。弟ならちょっとは兄を手伝え」
「断固拒否っす。じゃんけんに負けたんだから、さっさと運ぶ。ほら、早く」
陽くんの声に、僕の心臓の動きがどくどくと早くなる。勝手に逃げ去って、怒ってるかもしれない。そう思うと、どんな顔して会ったら良いのか分からなかった。
僕は、リビングのソファーから下り、ソファーの後ろで体操座りをする。隠れたところでどうにもならないのだが、ソファーに座ったまま三人を迎えるのは精神的に無理だと思ったのだ。
「あー、陸いるじゃん!」
けれど、リビングを徘徊していたカズさんに発見されてしまい、思い切り抱き付かれた。だから、なんでこの人は、いちいち抱きついてくるのだろうか。
「ちょ、ちょっと、引っ付かないでください」
「えーやだ。陸は目を離したら、どっか行っちゃいそうなんだもん」
思わずドキリとした。僕は帰る場所がないから、ここに戻って来たに過ぎない。他にも帰れる場所があれば、僕はここにはいなかった。
「あれ、陸、なんかあった?」
カズさんが僕の顔を覗き込んでくる。僕は沈黙を選んだ。
「リーダー。さっきね、佐藤さんに会ったんすよ」
そこに陽くんが顔を出した。
「佐藤に?」
「そーっす。んで、ムカつくこといっぱい言われたから、きっと落ち込んでるんすよ」
カズさんはしばらく考え込んだ後、首をひねった。
「ちょっと待って。陽、誰が佐藤にムカつくこと言われたわけ?」
「陸兄に決まってるじゃないすか。さっきスタジオで、偶然に佐藤さんと遭遇しちゃったんすよ」
「……陸、出掛けたの? 一人でスタジオに?」
カズさんは目を丸くした。
あぁ、知られたくなかった。陽くんに口止めしとかなきゃいけなかったと思いつつも、逃げ出した時点で口止めする余裕などなかったなとため息をつく。
すると、カズさんがいきなり頬にチュッとキスをして来た。
「ひぃ!」
僕は驚愕のあまり、カズさんを思い切り突き飛ばしていた。
「イタタ……何だよ、いいじゃんキスくらい。嬉しかったんだもん」
「良い訳ないだろ!」
順さんの鉄拳がカズさんの頭上に落ちる。
「痛ってえな! みんな俺に厳しくない?」
「お前がバカだからだろ」
順さんのお叱りに、カズさんは口をとがらせる。
「だってさ、今まで俺らに巻き込まれてただけの陸が、自分から動いてくれたんだぜ? 俺らと音楽やるの、すごい前向きに考えてくれてるってことじゃん。そんなの嬉しすぎて、キスくらいしちゃうだろ」
「確かに! 俺も陸兄にキスしたい」
陽くんが勢いよく手を挙げた。
「しなくていーから!」
僕に飛びつこうとする陽くんの首根っこを、順さんが慌てて掴んで引き戻す。
「ほら、今から歓迎会するんだろ。準備手伝え」
順さんから聞こえた歓迎会という言葉に、僕は頬が引きつるのを感じた。こんな今にも逃げ出しそうな弱虫の歓迎会なんて、しちゃダメだ。でも、三人はさっさと準備を始めてしまう。残された僕は、呆然とその後ろ姿を眺めることしか出来なかった。
あっという間に、リビングの机の上には鍋の用意がされていた。カセットコンロの上に置かれた土鍋は、蓋をされているので何鍋かは分からないが。そしてビールやらハイボールやらの酒類の缶が所狭しと積まれていた。
「リーダー、鍋の中身何?」
準備中の会話を漏れ聞くに、カズさんと順さんが買い物をして来て、陽くんはアパートの前で合流したようだった。なので当然、陽くんは鍋の材料は知らない。
「陽、それは聞くな」
カズさんではなく、順さんが首を振りながら答えた。
「どうして?」
「……金がなくて、肉も魚も入ってない」
「つまり、野菜オンリー?」
陽くんの笑顔が固まった。
「その通り」
「えーそんなの味気ない。酒買う金があるなら、肉買えば良かったのに。自分達が飲みたいからって、肉削るなんで横暴だ!」
陽くんが順さんに食ってかかった。しかし、犬を追っ払うかのように、簡単にあしらわれている。
「ほら座れって。お前にはちゃんと大好きなコーラ買ってやったから」
「コーラくらいで、買収なんかされるわけない!」
目の前で繰り広げられる兄と弟の会話が新鮮すぎて、僕はぼーっと見入っていた。仲が良い。兄弟ってこんな感じなんだなと思った。一人っ子だから、こんな風に言い合うなんてあり得なかった。
「陸はここね」
突然、カズさんに腕を掴まれて、鍋の真ん前に座らされた。
「陸は主賓だから。何でも好きなもの食べちゃって! まぁ、お聞きの通り、野菜しか入ってないけどな」
ニシシと、カズさんは笑う。
「ほら、お前らも座れよ。乾杯するぞ」
言い合いを続けている二人に向けて、カズさんが呼びかけた。
「はいっす!」
カズさんには文句を言うつもりはないのか、陽くんは即コーラを手に取り座った。その様子を呆れた様な目で見ていた順さんも、ビールを手に取り座る。
「全員揃ったな。陸には言ったけど、俺はこのメンバーならどこまででも上を目指せると思ってる。だから、これは陸の歓迎会だけど、俺らの決起集会でもあるから! 気合い入れて飲めよ!」
「俺と陸兄は未成年で無理っす」
すかさず陽くんが揚げ足をとる。
「そこはノリで合わせろよぉ」
カズさんが泣き真似をした。すると、陽くんがごめんねと言いながら続きを促す。
「じゃあ気を取り直して……乾杯!」
三人がそれぞれ手に持った缶をカツンと合わせていく。
僕もやったほうが良いのだろうか。いつも一人で食事をしていたから、よく分からない。
すると、カズさんが僕に、紙コップに注いだお茶を差し出してきた。思わず受け取ると、紙コップにビール缶を軽く当ててきた。紙コップの縁がクニャッとへこみ、ペコっと元に戻る。
「陸、よろしくな」
僕は反射的にコクリと頷いてしまった。そのことに、罪悪感が湧き上がる。佐藤さんに会う前だったら、素直に頷けたのに。
「陸兄、俺ともカンパーイ!」
「陸、ごめんな。こいつら迷惑かけると思うから、先に謝っとく。でも入ってくれて嬉しいよ、ありがとう」
カズさんに続けとばかりに、陽くんと順さんも紙コップに缶をくっつけて来た。僕は紙コップを持ったまま、それを呆然と受け入れるしか出来ない。
そのまま、鍋の蓋が取られ、鍋の中身が見えた。白菜や大根、人参、ネギ、えのきや椎茸、ざっくり見ただけでも野菜だらけ。でも、目の前で湯気が出ていて、普通に美味しそうだと思った。
「出汁の中に野菜ぶっ込んだだけだから、好きなつけダレで食べろよ。ちなみに俺はポン酢派!」
カズさんが誰に向かって言うでもなく、ポン酢を小皿にダバダバと入れる。飛び跳ねた雫が隣に座る順さんの服に飛んだ。
「カズ! 気をつけて入れろよ。俺の服に飛んだだろ」
「あ、ごめーん」
悪びれなくカズさんが言うと、順さんは報復とばかりにゴマだれをポン酢の中に投入した。
「やめろ! 俺はポン酢派だって言ってんだろ」
「あ、ごめーん」
順さんが棒読みで謝る。
二人の小競り合いは続いているが、ふと視線をずらすと、陽くんが我関せずと早速鍋をつついていた。ハフハフと熱気を逃しながら、野菜を食べている。かと思えば、すぐに箸を置いた。
「もうヤダ。腹減ったから食べたけど、やっぱり肉食いたい! にくにくにくにく」
そう言うと、床の上を転がりだす。
なんなんだ、この人達。自由人すぎるだろ。僕はそれこそ唖然とするしかない。
そんなカオスな空間に、これまた濃い人が乱入して来た。
「ただいまー。言われた通り、肉買って来たわよ」
スーパーの袋を持った桜さんだった。
肉という響きに、陽くんが飛び起きる。
「肉! 桜さん女神っす」
女神と言われ、桜さんは満更でもなさそうな笑みを浮かべた。
「陽くん、久しぶり。また背が伸びた?」
「お久しぶりっす。背はここ一年で5センチくらいっすかね。180は余裕で超えたっすよ」
大型犬が尻尾を振るかのように、陽くんは桜さんに、というか桜さんの持つ肉に吸い寄せられていく。
「あー、こういう犬っぽいのもやっぱ可愛いわねぇ。でも、警戒心の塊みたいな猫も好きなのよね……私」
桜さんは肉を崇めている陽くんの頭を撫でながら、何故か僕の方を見て来た。その視線に、今朝の悪夢のような出来事が脳裏に浮かぶ。僕は体に震えが走った。
「桜ちゃん、おかえり。肉ありがとね……って、これ特上のしゃぶしゃぶ肉じゃん。太っ腹!」
カズさんが肉を受け取り、さっそくパックを開け始める。
「それしかもう残ってなかったの。半分払いなさいよ」
「えー無理。金ないし。それに、今日は俺ら鍋だから、一緒に食べたかったら参加費として肉持って来るのが条件だったっしょ?」
「そうだけど……あれ? この鍋さ、野菜しか入ってなくない?」
桜さんは鍋を覗き込み、眉をしかめた。
「うん、野菜オンリー」
カズさんは満面の笑みだ。
桜さんは陽くんを見て、机の上の酒を見てから、カズさんを見た。
「もしかしてだけど、あんたさ、私の肉を最初から当てにしてたんじゃないでしょうね」
「てへ、バレた?」
カズさんがわざとらしく舌を出す。
「あーもー、ムカつく! そういう変に計算的なところが嫌なのよ」
桜さんはドカッと座ると、スカートにも関わらず胡座をかいた。
今朝の二人は、どちらかというとカズさんの方が振り回されていた気がするけど、今は反対だ。常にどちらかが上というよりは、状況によって立場が変化するらしい。
桜さんからの差し入れがあったことで、一気に鍋っぽさが増し、成人済みの三人は景気良く酒を消費していった。結果的に高級肉を貢がされた桜さんはヤケ酒の挙句寝落ち、カズさんは酒豪らしく顔が赤い程度、そして問題は順さんだった。この人は完璧に絡み酒だ。
「さっきの話だけどさぁ……ひっく……さとーのことなんて気にしないでぇ……いいからっ。りくは、俺らのベースだからっ」
順さんはビールを片手に、僕の肩を抱きかかえて力説をしている。そう言って貰えてありがたいけれど、同じ話がこれでもう五回目だ。さすがにくどい。
でも、もしかしたら、はっきり「気にしてません」と言えない僕の態度のせいだろうか。はっきりとしないから、酔いも手伝って、念押しのように同じ話をしているのかもしれない。
「俺、思ったんだけどさぁ」
順さんが僕に絡んでいるのを笑いながら見ていたカズさんが、急に真剣な顔で話し出した。
「なんらよ、きゅーに」
順さんは僕から離れ、カズさんによたよたと寄って行く。
「順兄、ちょっと大人しく座って」
陽くんが順さんを捕まえると、強引に座らせた。
「陽、ありがとね。んで、続きなんだけど……佐藤がうるさいなら、陸と勝負させりゃ納得するんじゃね?」
カズさんは腕組みをして、神妙そうな表情を浮かべている。
「ええ? 陸兄が負けるわけないっすけど……そんなことしなくても陸兄が一番なんだから、佐藤さんなんてほっとけばいいんすよ」
陽くんはチラリと僕を見た後、カズさんに言い返した。
「そう、俺らは分かってる。でも、他の奴らはそれが分からない。分からないから難癖付けてくる」
「まぁ、そうっすね」
陽くんは不服そうだが、素直に頷いた。
「難癖付けられるたびに、いちいち説明するのって面倒じゃん」
「……確かに」
「だからさ、もうオーディションしちゃおう!」
カズさんが妙案とばかりに、親指を立てる。
「リーダー正気っすか?」
陽くんがあんぐりと口を開けて驚いてる。僕も突然のオーディション宣言に、驚きを通り越して恐怖を覚えた。
「もっちろん。陸と佐藤と、他にも受けたい奴がいたらそいつらも。んで課題曲出して、録音して、みんなの前でそれを聴き比べる。それなら誰でも平等にチャンスあるでしょ?」
驚く僕らを尻目に、カズさんは楽しそうに話を進めていく。
「でも……陸兄がたまたま失敗しちゃったら、別の奴がメンバーになるってことっすよ? 俺、そんなの嫌っす」
「大丈夫だって。陸が失敗しなけりゃいいんだから」
カズさんは笑いながら軽い調子で言っている。適当にそんな怖いことを言わないでほしいと、僕は心の底から思った。
「そりゃそうっすけど」
陽くんは困惑したように、眉間に皺を寄せている。
「らいじょーぶ! りくがひけば、みんなわかる、から……」
突如、順さんが喋り始め、そのままパタンと床に倒れて行った。
「ほら、順もこう言ってることだし。それでいいか、陸?」
カズさんに問いかけられ、僕は返答に困った。
カズさんの言い分はもっともだ。けれど、オーディションってことは、他の人と争うってことだろう。他人を蹴落として、上を目指すってことだ。そういうのは、あまり好きじゃない。僕は常に選ばれない、というか、むしろ選ばれる候補外だったから。選ばれない虚しさや寂しさを嫌と言うほど知っている。だから、自分が味わうのも、他人に味わわせるのも遠慮したい。
それに、僕みたいな弱虫が、そんな上を目指す人達に勝てるだろうか。とてもじゃないけど、自信がなかった。
でも、良い機会かもしれない。僕よりも相応しい人がいれば、その人がベースを弾くべきだ。この居心地の良い場所を失いたくはないけど、甘ったれた僕が居座っているより、バンドのためになる。
「オーディション……受けます」
僕は、断頭台に登るような気持ちで言うのだった。
オーディションの告知がスタジオの掲示板に張り出され、SNSでも拡散された。そして、最終的に十人の申込みがあったそうだ。その中にはもちろん佐藤さんもいる。ここに僕を入れた十一人でオーディションをすることになった。
課題曲として、煉獄シンドロームの『サマーリリック』を弾き、メンバーだけでなくオーディションを受けた人も含めて、全員で聴き比べて判断を下すとのこと。
オーディションを受ける人には、楽譜と音源が渡された。当日は公正を期すために、生バンドではなく、ベースを省いた音源に合わせて弾くらしい。少しの贔屓も入らないようにという徹底ぶりに、カズさんの本気度が伺える。確かにこの条件で選ばれた人物なら、もう文句をいう人はいないだろう。
僕は流されるまま、課題曲の練習をしていた。『サマーリリック』はアップテンポの曲で、ベースの動きが激しい。基本的な技術を見るにはもってこいだ。でも、あの玲子さんの後釜を狙う人達なら、これくらい弾けるのは当然のはず。あとは、そこにどう自分なりの色をつけるかだろう。そしてその色が、煉獄シンドロームとマッチするかどうかだ。
僕は不安を抱えたまま、練習をしていた。
「陸兄、差し入れっす」
陽くんは、毎日のようにスタジオへ訪ねてくる。どうやら僕がスタジオに来ると、受付のお姉さんから陽くんへ連絡が入るらしい。本当に二人は仲が良いみたいだ。
僕は平日昼間の安い時間帯にスタジオで練習し、それ以外はカズさんのアパートでヘッドフォンを付けて練習していた。スタジオ代は、恥ずかしながらカズさんに借りている。
引きこもり生活のおかげで、今まではお金がなくとも生活が出来ていた。スマホの料金は親が支払ってくれていたし、家にいれば食事も困らない。楽器やパソコン、それらの周辺機器は、じいちゃんに買ってもらったし。
じいちゃんがいなくなってからは、親に小遣いをねだるわけにもいかないので、貯金していたお年玉を切り崩し、あとはちょっとした臨時収入でまかなっていた状況だ。だから、僕の財布に入っていたお金は三千円程度だった。家の外に出たら、このくらいすぐに無くなってしまう。
今日もスタジオの練習時間が終わると、エントランスで陽くんが待ち構えていた。
「陸兄、調子はどうっすか?」
「あ、うん。その……まあまあ」
僕は視線を逸らしながら言う。
「陸兄は控え目っすからね。まあまあなら、かなり仕上がってるってことっすね」
いやいやいや、勝手に僕を過大評価しないで欲しい。僕は本当にまあまあ程度の出来なのだ。
「……陽くん。あのね、差し入れとかしなくて大丈夫だから」
「えー、差し入れくらいさせて欲しいっす」
あからさまに悲しそうな表情をされてしまい、僕は慌ててしまう。
「ご、ごごごめん。そんな落ち込むとは思わなくて」
僕が言うと、パッとすぐに陽くんは笑顔になった。
「大丈夫っす。気にしてないっすから。それに、俺には頑張れって応援することしかできないから。俺ね、心底、煉獄シンドロームのベースを弾くのは陸兄がいいんす。だから、佐藤さんがビビるくらいの痺れる演奏して欲しいっす。陸兄なら、それが出来るっすよ」
陽くんの瞳が、驚くほど純粋にきらきらと光って見えた。惜しみなく寄せられる期待と信頼に、弱虫な僕の精神は押しつぶされそうな気がした。もし、この期待と信頼に応えられなかったらと思うと怖い。今向けてもらっている笑顔が、軽蔑に変わってしまうのを想像すると、恐怖で胃が痛くなってくるのだ。
僕はプレッシャーに押しつぶされ、すり潰されながら日々を過ごした。
そして、予想外だったのは、カズさんの様子だ。カズさんは陽くんとは正反対だった。カズさんとも毎日アパートで顔を合わせるが、「ほどほどにな」と言う程度で、干渉はあまりしてこない。僕の家まで何度も押しかけたりしたし、いつも引っ付いてきたりするから、もっと干渉されるかと思っていたのだけど。
カズさんの意外なほど距離を取った見守り方に、それはそれで何だか不安になる。やっぱり、僕に呆れた? もう要らない? 他の人の方がいいの? 強引に誘った手前、言い出しにくいだけで、本当はこんな面倒くさい奴を早く放り出したいと思ってるの?
ぐちぐちと女々しいと自分でも分かっている。でも、僕の人生は、いつも悪い方向にしか進まなかった。だから、どうしても悪い方にばかり考えてしまう。
オーディションで生き残りたい。それは本当だ。それなのに、自信がなくて落ちることばかり思い浮かんでくる。それを少しでも払拭したくて、僕はひたすら練習をした。
そして、ついにオーディションの日になってしまった。やれるだけの練習はしたけれど、怖くて仕方ない。
午前中から一人ずつ録音していき、夕方には結果が出てしまう。ぞろぞろと集まってくるベーシスト達。どの人も我こそはという気合いに満ちていた。僕は彼らを見ているだけで、どんどん自信が無くなっていく。
カズさんが始める旨を伝えると、早速一番目の人がスタジオへ入って行った。
僕の順番は真ん中の六番目だと言われた。さっさと終わってプレッシャーから開放されたい。カズさんと順さんは一緒にスタジオ内に入っていたけれど、陽くんは僕の隣に居てくれた。そして、大丈夫、出来るよ、と励ましの言葉をかけてくれている。でも正直、逆にそれが辛くて、僕はトイレに行くと言って逃げてしまった。
刻一刻と時間は過ぎて行く。ふいに、僕のスマホにメッセージが届いた。
『今から三十分休憩。その後、陸の番だから』
カズさんからの業務的な連絡だった。
それ以外の言葉はなかった。そのことに、僕は少し落ち込んでしまう。過度な期待は重い。でも、直前になっても、カズさんから励ましの言葉すらないことが不安だった。
僕がトイレからのっそりと外に出ると、遠慮がちに声をかけられた。
「陸兄……休憩終わったら出番っす」
陽くんがトイレの扉の横にいた。もしかして、ずっとここで待っていたのだろうか。
陽くんの性格を考えると、問答無用で中に入って来そうなのに。僕が追い詰められているのが分かって、外にいてくれたのだろうか。そう思うと、陽くんの期待を勝手に重荷に感じて逃げたことが、猛烈に恥ずかしくなって来た。陽くんなりに、こんなにも僕のことを考えてくれているのに。僕は自分のことで精一杯で、何にも見えていなかった。
確かに期待は重いし、応えられなかったら申し訳ない。でも、もうやるしかないのだから。ここまで来たら怖くても、今の精一杯を出すしかないのだ。
僕は陽くんの期待に応えたい。順さんの励ましに報いたい。カズさんに、欲しがられたい。
ならば、僕の風を吹かせるまでだろう。
僕はベースを持った。チューニングはしてあったけれど、もう一度確認する。弦を弾きながら、音の響きを聴いた。音に集中することで、だんだんと不安や動揺が落ち着いていく。
僕は自分の意思で、スタジオの扉の前に立った。
「陸、時間だ」
スタジオの扉が開き、カズさんが僕を招き入れる。
「陸の思う通りに弾けばいいから」
通り過ぎる時、順さんが言った。その言葉に、僕は小さく頷く。
細かなセッティングは順さんがやってくれた。
「さぁ、始めようか」
カズさんの合図で、僕のオーディションが始まった。
『サマーリリック』は疾走感溢れる曲だ。イントロから細かく刻んで、Aメロの前で大きく音が高低に動く。かなり難しいのだが、ここのベース部分が決まるとめちゃくちゃかっこいい。僕はここを思いっきり決めた。出だしはバッチリだ。一気に上昇気流のような風に乗る。
軽快に流れるAメロ、いったん力をためるように落ち着くBメロ、そこからのサビは、爆発するかのような疾走感。僕はサビへの加速を助けるため、Bメロは敢えて抑えめに弾く。そして、サビに入る瞬間、その抑えをぶっ倒して駆け出す。背中を押すように、風が吹いてくる。僕は風を味方につけて、もっともっと大きな風を巻き起こす。
あぁ、これが生の音だったら、もっとみんなと一緒に加速できるのに。録音された音源ではこれ以上は無理だ。そのことが無性に悔しい。
僕は夢中で弾ききった。そして、最後の一音の余韻が消える。スタジオに聞こえるのは、僕の息遣いだけだった。
僕が顔を上げると、カズさんも順さんも、呆然と固まっている。これは、良かったのか悪かったのか、どちらの反応なのだろうか。まったく分からなかったけれど、僕としては今出来る最高の演奏ができた。だから、後はもうどんな結果が出ても受け入れようと思った。
「じゃあ、全員終わったので、みんなで聴こうと思いまっす」
カズさんの声に、ガヤガヤとしていたオーディション参加者たちが静まる。
煉獄シンドロームのメンバーとオーディション参加者達がスタジオ内に集まった。奥の鏡張りの壁に向かって、オーディション参加者達が床に座っている。 カズさん達は鏡張りを背にこちらを向いていた。僕はもちろん、オーディション参加者の端っこに、埋もれるように座っている。
「カズ、聴く順番どうする? とりあえず、陸は最初か最後がいいと思うけど」
順さんが、それぞれ番号のメモが貼られたCDを見ながら言った。
「そうだなぁ、俺的に陸は最後にしたいけど……」
カズさんはニヤニヤと笑っている。
その笑いはどう意味なのだ。僕は緊張で気持ち悪くなってきた。
「俺、早く陸兄の聴きたいっす!」
陽くんが元気よく手を挙げる。
「どうすっかな。陸は最初と最後、どっちがいい? 現メンバー特典で選ばせてやるよ」
カズさんが僕を見た。なにか含んだような笑みだった。だから、その表情の意味は何なのだ。もうお前は終わりだからっていう哀れみの笑みなのか?
僕は疑心暗鬼に駆られ、目が回って来た。
「ど、どっちでも……あの、順番通りの真ん中じゃダメなんですか」
僕は消え入りそうな声で、要望を口にした。
最初は心の準備が出来てないし、他の人がどんなベースを弾いているのかゼロ知識で挑むのは怖い。かと言って、最後まで待つのは緊張して吐きそうだ。
「ダメ。聴く側のモチベーションが変わっちゃうから」
聴く側のモチベーションって何だ? カズさんの言っている意味が分からない。
「とにかく、最初か最後なの。どっちか選べって」
困惑して黙る僕に焦れたのか、カズさんが詰め寄ってきた。しかし、そんなに順番って大事なのだろうか。
「わ、わかりました。じゃあ……最初で」
悩んだ末に僕は答えた。最後まで緊張しながら待つよりは、マシかなと思ったのだ。
「よし。じゃあ最初な。順、陸の流して」
カズさんは満足そうに頷くと、順さん達の方へ戻っていった。
「じゃあ、陸のを聴くよ!」
カズさんの合図で、僕のオーディション演奏が再生され始めた。
こうして客観的に聴くことはあまりないから、少し恥ずかしいなと思う。イントロが流れ始め、Aメロ前の難しい部分に来た。ちょっと演奏が決まりすぎてて、逆にダサいかな。僕はそう思って、周りの反応を伺う。周りはなんだかそわそわとしていたが、特に目立った反応をしている人はいなかった。どうやら、そんなにおかしくはなかったみたいだ。
Aメロ、Bメロと進み、サビへと突入した。良い感じの疾走感、演奏中に感じた心地よい風が僕を包む。もっと、もっとという激しい思いが音に力を与える。
「やばい……」
僕は思わずつぶやいた。
ちょっと力が入りすぎて、楽譜に書いてある以上の音を弾いてしまっていることに今気がついた。つまり、勝手に音を増やして弾いている。夢中すぎて、本当に無意識でやっていた。もちろん、メロディーに干渉するものではないし、曲に華やかさや厚みをもたらす音ではあるのだが。オーディションである以上、ちゃんと楽譜通りに弾くことが正しいはず。
僕の演奏は調子に乗りすぎてる。くっそ恥ずかしいし、こんなのきっとマイナス判定だ。
僕が青ざめていると、オーディション参加者の中から一人立ち上がった。
「ちょっと待てよ。これ、何なんだよ!」
叫ぶように言ったのは、佐藤さんだった。
そりゃそうだよな、と僕は思った。同じものを与えられてのオーディションなのに、楽譜を勝手に変えて弾いてたら、怒られても仕方ない。
僕は思わず立ち上がり、頭を下げた。
「ご、ごごごめんなさい。僕……その、あの、夢中で……ちゃんと楽譜通りに弾いてたハズ、なんですけど……なんか今聴いたら、勝手にアレンジしちゃってて……あの、本当に、悪気はなくて――」
僕はもごもごとつっかえながらも、必死に弁解をした。
「マジで? あれ、練習してきて、わざと弾いたんじゃないの? 陸、おもしろすぎ!」
カズさんが腹を抱えて笑い出した。
「嘘だろう……ただでさえ、楽譜通りに弾くのも難しい曲だぞ。それを弾きこなした挙句、無意識にアレンジとか……次元が違う」
立ったままだった佐藤さんが、呆然とした表情を浮かべている。
この表情さっきも見たなと僕は思った。僕が弾き終わった後のカズさんと順さんも、こんな表情をしていた。
「だろだろ? 俺の連れてきた陸は、こういう奴なの。てか、思っていたより遥かに凄すぎて、俺もびびってる」
カズさんは、笑いすぎて出た涙を拭いながら言った。
「はい! 俺は知ってたっす。リーダーも順兄も、陸兄の本気ベース聴いたことなかったんでしょ。ライブでの演奏は、ぶっつけ本番でろくに練習もしてなかったわけだし」
陽くんは自慢げに言っている。確かに、ちゃんとした演奏は、陽くん以外には聴かせていないかもしれない。
というか、みんなのこの反応はどういうことなのだ。怒っている……というわけではなさそうだ。
「あのライブ、ぶっつけ本番だったんですか?」
オーディション参加者の一人が、恐る恐る陽くんに問いかけた。
「そうっすよ。陸兄は、観客として見に来たつもりだったのに、俺らが無理矢理ステージに立たせたっすよ」
陽くんはにこやかに答えている。改めて聞くと、酷い話だが。
「俺、オーディション辞退します。あのライブ見てたから……あの程度のベースならきっと勝てるって思って挑戦したけど、俺では話にならなかった。その音源CDは恥ずかしいんで、割っといてください」
彼はそう言うと、荷物を持ってスタジオを出て行ってしまった。すると、他の参加者達も辞退を申し出て去って行く。気がつくと、スタジオの中は五人だけになっていた。カズさんと順さんと陽くん、それに僕と佐藤さんだ。
「なーんか、みんな帰っちゃったねぇ。んで、どうするよ、佐藤。お前はオーディション続ける?」
カズさんが佐藤さんに問いかける。佐藤さんは悔しそうに唇を噛みしめた。
「……カズ、いい性格してるな。こうなるのを分かってて、オーディションしたんだな」
「そうだよ。だって、お前うるさいし。黙らせるには、陸の実力を見せつけるのが一番でしょ? あと、他にもここを狙ってる奴らはいたし。そいつらも一緒に黙らせようと思ったら、これが一番手っ取り早い」
カズさんがニヤリと笑う。
「あー、くそっ、信じらんねぇ。玲子みたいな天才が、そんなホイホイいてたまるかって思ってたんだけどな。カズ、どんな引き持ってるんだよ」
佐藤さんが頭をガシガシと掻く。
「んん? それは褒めてくれてんの? ありがとね。玲子は妹の紹介だったけど、陸に関しては本当に偶然だからねぇ。俺ってば、やっぱり運持ってるのかな」
「知るか! もういい。俺も辞退だ」
佐藤さんはそういうと、僕の方を向いて一歩近寄ってきた。
「鈴谷っていったか。負けたよ。その……いろいろと嫌なこと言って悪かった」
佐藤さんは怒ったように、眉間に皺が寄っている。けれど、耳が赤いので、もしかして照れているのかもしれない。怖い人だと思っていたけれど、実は意外と優しいのかなと僕は思った。
「あああの、僕、佐藤さんのベース、聴いてみたいです」
だから、僕は佐藤さんの音を知りたくなった。でも、どうやら物凄く失言だったようだ。佐藤さんの顔色が一気に青くなったのだ。
「お前のを聴いた後に、恥ずかしくて聴かせられるか! だからオーディション受けに来た奴らは、さっさと帰ってったんだろうが。アホなのかお前は!」
佐藤さんに凄まれ、僕は身を縮こまらせる。
「まあまあ、落ち着いて。陸に悪気はこれっぽっちもないから、大目に見てやって。それに陸を除けば、佐藤が一番良かったと俺は思ったよ。順も同じ意見だったし」
カズさんの言葉に、順さんも頷いた。
「佐藤くんが一番安定してて、さすがサポート頼んでただけあるなって思ったよ」
「でも、それだけだろ。俺は鈴谷みたいに、プラスアルファを与えられるような技術はないし……なんつうか、鈴谷の音はこのバンドに合ってる」
佐藤さんはため息をつきながら、やっと僕から視線を離してくれた。
「僕を、認めてくれたんですか?」
僕は恐る恐る佐藤さんを見上げる。
「ああ、そうだよ」
佐藤さんは僕の背中を叩くと、スタジオから出て行った。たぶん激励のつもりなんだろうけど、結構痛い。
そして、スタジオの中は、煉獄シンドロームのメンバーだけになった。
「陸、これでもう腹は決まったか?」
カズさんに突然問いかけられた。問いの意味が分からなくて、僕は首を傾げる。
すると、カズさんは大きくため息をついた。
「だからさ、お前、迷ってただろ。このままここにいていいのかなって。このバンドに、腰据える決心がついたのかって聞いてんの」
僕は驚いて目を見開いた。カズさんには、僕の迷いはお見通しだったのだ。
「はい。僕は、煉獄シンドロームでベースを弾きたいです」
顔を上げて、ちゃんとカズさんの目を見て言った。
「本当に? もうふらふらしない? 俺、すっごいショックだったんだからな」
カズさんがどうしてショックを受けるのだ? そもそもオーディションをやろうと言いだしたのはカズさんなのに。
「そんな不思議そうな顔しない! だってさ、陸は煉獄シンドロームに入ったばかりなのに、すぐ自信なさげに自分なんかで良いのかって、マイナス思考に走るってどういうこと? 俺、約束したよね。陸以上の人が見つかったら言うって」
カズさんの言葉に、僕はハッとした。
「言われないうちは、安心してベース弾けるからって、陸が言いだしたんだろ? 俺は約束するって言ったし、本当にそんな奴が現れたらちゃんと言うから。だからさ、俺が何にも言わないうちに、勝手に不安になるなよ。逃げようとするな。もっと俺を信頼しろよ。俺は他の奴じゃ嫌だ、陸が良いの!」
カズさんはふて腐れたように、床に座り込んでしまった。スタジオ内が静まりかえる。
「えーっと、つまり、リーダーは拗ねてたってことっすか」
「そういうことみたいだな」
陽くんと順さんが呆れたように顔を見合わせていた。
カズさんが、オーディションをやると決めてから素っ気なかったのは、僕が迷っていたからなのか? いや、信頼していなかったわけじゃない。僕は、僕自身に自信がなかっただけで……あれ? だからこそ、カズさんとあの約束をしたんだっけ。ということは、やっぱり僕が悪い……のか。
僕は座り込んだカズさんの前に、正座した。
「迷ってしまい……すみませんでした。でも、今回のことで、僕は本気で煉獄シンドロームでベースを弾きたいと思いました。もう、迷いません。他の人にここを渡したくないから、僕は今まで以上に努力します」
僕は、弱い自分から少しでも変わりたかった。そのために、ここに飛び込んだのだ。でも、決意して家を出てきたつもりだったのに、全然覚悟が足りていなかった。自分の居場所は、自分で守らなくては。そこが大切であればこそ、余計に。
「陸、よく言った。もう……焦らしプレイしやがって」
カズさんにわしわしと頭を撫でられる。なんだか恥ずかしくなって、僕はその手から逃れようとしたが、逆に捕まってしまった。
「逃がさん! もうキス攻撃だ。むちゅー」
「ひぃ、や、やめて」
迫り来るカズさんの唇から、必死に顔を背けている内に後ろへひっくり返ってしまった。カズさんが勢いのままに上から倒れてきて、ぐえっと内臓が潰される。
「あー、いいな。俺もいちゃいちゃに参加したい」
「陽やめろ、陸が死ぬ」
順さんが止める声が聞こえたが、すぐに重みが増した。きっと陽くんが乗っかってきたに違いない。必死に重みから抜け出そうとするが、がっしりと上から押さえ込まれて身動きが取れない。
「ほら、順兄も来なよ」
「こら、引っ張るな、わわっ」
途端に、もっと重くなった。順さんも巻き込まれたらしい。男四人が床で重なり合って、なんなんだこの状況。そういえば、小学校の教室の後ろでこんなことやっているクラスメイトいたな……などと現実逃避をしてしまう。
結局、受付のお姉さんによって、小学生みたいな戯れは終了した。スタジオ内で暴れるな、機材が壊れたらどうすると怒られたのだ。けれど、僕にとっては、あの状況から抜け出せたわけなので、お姉さんの説教は神の祝福のように思えたのだった。
* * *
――はいはーい『カズくんシンドローム』のお時間ですよぉ。みんな集まれー。
カズの呼びかけに、コメントが少しずつ増えていく。深夜なせいで「ねむい」とか「明日早いのに……見るけど」などと流れていった。
――ごめんね。こんな深夜に突然やりはじめちゃって。でもさ、今日はめっちゃ嬉しいことがあって、我慢できなかったんだぁ。
カズは嬉しそうにニヤけている。
――お、知ってる人もいるんだね。そう、今日はオーディションだったんだ。もちろん、陸がダントツだったよ。これで、陸も胸張ってベース弾けるっしょ。
コメントが祝福モードになる。
――てことでぇ、正式にご挨拶をしたいと思いまっす! ほら、来いって。
カズが横を向くと、手招きをした。画面の端に、ちらちらと人影が映っている。
「はよ来いww」「恥ずかしいのかな?」「陸くーん」などと歓迎コメントが流れるが、陸はなかなか現れない。
――なにこれ、何か配信してるの? うぇーい!
突然、陸ではなく謎の美女が出現し、ケラケラと笑いながら手を振っている。「誰??」「熱愛発覚!」「陸が美女になったwww」などとコメントの方向はしっちゃかめっちゃかだ。
――ちょ、桜ちゃん。勝手に映り込むなって。映るのは陸だって。
――えー、私も映りたい。こんばんはー、カズの姉でーす。愚弟がいつもお世話になってまーす。
――桜ちゃん、酔ってる? てか、俺が兄だから。桜ちゃんは妹!
――ちっがーう。私が上だから。カズは私に跪いてればいいの。
兄妹喧嘩もしくは姉弟喧嘩が始まり、視聴者は困惑しているようだ。「喧嘩やめい」「どっちが上論争してるってことは双子?」「陸はどうなった」「てか、陸いるなら二人を止めて差し上げろ」などとコメントが流れていく。
――えっ……僕が、止めるの?
姿は見えないが、か細い声が聞こえた。陸はコメントをバカ真面目に読んで、動揺しているようだ。
すると、喧嘩中の二人に、恐る恐る近づく華奢な少年が画面に映る。「陸キター」「がんばれ陸」と応援コメントが溢れた。
――あああの、二人とも、その……ひっ
哀れな少年は、喧嘩中のはずの二人に捕まり、画面の真ん中に座らされてしまった。よほど居心地が悪いのだろう、陸は青ざめたまま、視線が右往左往している。
――やったね、陸を引っ張り出すことに成功♪
カズの言葉に、陸がビクリと反応した。信じられないようなものを見る目つきだった。
――私を利用しないでよ。
――ごめん、ごめん。でも、桜ちゃんだって、途中からあえて口喧嘩にのってくれてたでしょ?
陸は再びビクリとすると、桜の方を見た。
――まあね。だって、おどおどしてるりっくんが可愛くて、つい。
――りっくん? 何その呼び方。なんかズルい。俺より親しげムード出したらダメ!
二人に挟まれた陸が、ぷるぷると震えていた。画面越しで分かりづらいが、何となく涙目になっているかもしれない。「おい、ぷるぷるしてるぞ」「誰か助けたげて」「順さんいないの?」と心配するコメントが流れる。
――あの……し、しんやですし……騒ぐのは、良くないと思います。
陸が弱々しくも、歯止めのきかない二人に意見した。
――そそその、み、見てくれてる人達も……眠いだろうし、えっと……
陸の言葉に騒ぐ二人が固まった。そして二人して口を両手でふさぐ。シンクロした動きに、コメントがざわめいた。「動きぴったり」「さすが双子!」
――桜さんや、陸がみんなのことまで心配してくれてる。立派になって、俺嬉しい。
――カズさんや、激しく同意するわ。りっくんが愛おしくて食べちゃいたい。
――いや、食べるのは禁止。陸は俺のだから。
――なにそれ! ちょっと先に目をつけたからって、自分の物扱いとかひくわー。
再び口喧嘩が始まり、陸はあたふたとしていた。その姿にコメントも「二人の気持ち何か分かる」「母性本能くすぐられる」「可愛くて禿げ萌える」などと荒ぶる。
このままでは終わらないと思ったのか、陸がぺこりと頭を下げた。
――ぼ、僕は、鈴谷陸といいます。新しく、この煉獄シンドロームに入りました。よよよろしく、お願いします。
陸は顔を真っ赤にして、視線があちらこちらに動きながら自己紹介をする。そして、やりきったとばかりに、脱兎のごとく画面から消えた。
――あっ、陸が逃げた!
陸を追いかけて、カズも画面から消える。そして、煉獄シンドロームとは無関係の桜だけが残ることとなった。
――何か私だけになっちゃった。どうしようか……なんかおしゃべりする?
桜の問いかけに「おしゃべりしたい」「朝まで語ろう」などとコメントが流れていく。それに気をよくしたのか、桜は上機嫌にぺらぺらとしゃべりだした。そして、調子に乗った桜によって、陸の超弩級の『男の娘』写真が披露されてしまうのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます