第三章

 僕は今、とても困っている。ストーカー被害に悩まされているからだ。いや、本当はストーカーなんて思っちゃいないけれど。でも、今日も今日とて、悪びれもなくストーカーは我が家を訪ねてくる。

「鈴谷くーん! あっそびっましょ」

 二階の自室にいても、外からの声は聞こえる。無駄に発声が良いというか、声が通るというか、響くというか。

 そう、カズさんが毎日のように家に来るのだ。まるで小学生のように、門の前から僕に遊ぼうと声をかけて来る。酷い時は、陽くんまで付いてくる始末。さすがに順さんは来たことないけれど。

 そして僕は、いつも自室にこもったまま、布団をかぶって居なくなるのを待つのだ。

「あんなこと言わなきゃ良かった」

 僕は布団の中で呟く。

 そもそも、何故こんなことになったかというと、すべてはあのライブが原因だ。何を気に入ったのかは不明だが、煉獄シンドロームに入って欲しいと言われた。けれど、僕には荷が重い。あのライブだけでも精一杯だったのに、メンバーになるだなんて無理だ。怖い。おこがましくて、申し訳なくて、全力で辞退する案件だ。ファンの人達も、こんな引きこもりでコミュ障の気持ち悪い奴なんかがメンバーになったら嫌だろうし。

 だから、僕は断った。

 けれど、諦めずに順さんや陽くんまで連絡して来るようになったのだ。あまりにしつこいので「ライブに行ったら、もう電話しないって言いましたよね」と言ってしまった。これが非常にまずかった。これを言ってしまったせいで、カズさんのお宅訪問攻撃が始まってしまったのだ。カズさん曰く「電話出来ないから、会いに来ている」らしいが、屁理屈にも程がある。

 ちなみに、ライブ後に体調不良を引き起こした僕は、カズさんに家まで送ってもらった。あの時は迷惑をかけたことが申し訳なくて、素直に感謝の気持ちでいっぱいだった。けれど、そのおかげで家バレしているのだから、もう素直に感謝する気も失せるってものだ。

 今日は母親が在宅しているため、カズさんはすぐに追い払われたようだ。もう声はしなくなった。

――コンコン

 自室をノックされた。僕はその音にビクリと全身が強張る。母親が在宅の時は早くカズさんが帰ってくれるけど、その分、母親からドア越しに嫌味を言われるのだ。

『陸、また来たわよ』

 僕は布団の中で耳を塞ぐ。

『いい加減にしてくれないかしら。ご近所さんにも噂になってるし、恥ずかしいわ』

 僕は沈黙を選ぶ。

『どういう噂になってると思う?』

 母は僕の反応など期待していないのだろう。淡々と一人で喋っていく。

『鈴谷さんとこの息子さん、男と付き合ってるらしい』

 なんだそれ!

 僕は思わず布団から飛び起きる。

『だけど、親に反対されて会うことが出来ない』

 なんだそれ! なんだそれ!

 予想外の噂に、脂汗が滲み出てくる。

『本郷町のロミオとジュリエット』

 なんだそれ! なんだそれ! なんだそれぇ!

 ちょっと待って欲しい。しかも、それ、立ち位置的に僕がジュリエットってことになるじゃないか。嫌だよ、こんなでも僕は男だし。ていうか、そもそもが違うし。

『迷惑を一番被っているこの私が、あなた達の恋路を邪魔してるらしいわよ』

 母の静かな喋り方が逆に恐ろしい。

『ここまで話しても……陸はだんまりなのね』

 母の言葉に、諦めのようなため息が混じった。とりあえず今日の小言は終わりかなと、僕はほっとしかける。けれど、終わりなんかじゃなかった。

『次来たら、警察呼ぶから』

 嘘だろ? そこまでするのか!

 母の言葉に、思わず足がドアへと向かう。

「待ってよ、母さん!」

 ドアにへばり付いて続けた。

「警察なんて呼ばないで。カズさんはちょっと強引なとこあるけど、良い人なんだ」

『毎日のように家の前で大声出してる男の、どこが良い人なの? もしかして……本当に陸の好い人、なの?』

 母の声が震えている。

 あれ、今この瞬間、もしかして母にも誤解された?

「違うからね。僕、バンドに誘われてるんだよ」

『……本当に?』

 めちゃくちゃ疑ってそうな口調だ。

「本当に本当だから」

 しばしの沈黙の後、母が少しドアから離れた気配がした。

『バンド……ね。どちらにしろ、あんな非常識な男に近づかないで。これ以上、私に恥ずかしい思いをさせないでちょうだい』

 胸がツキンと痛んだ。でも僕はその痛みを見て見ぬ振りをする。

「……僕は、バンドに入るつもりはないから」

『ならいいけど。でも、私は本気だから』

「本気って?」

『次来たら警察を呼ぶってこと。呼ばれたくないなら、あなたがちゃんとはっきり断りなさい』

 母はそこまで言うと、ドアの前からいなくなった。

 もっともな正論に、僕は串刺しにされた気分だった。僕がちゃんと断りきれないから、ご近所に変な噂が立ち、母が恥ずかしい思いをし、なおかつ、カズさんが警察にお世話になる寸前の状態になっている。

 でも、僕は無理ですと言った。バンドには入りませんと言ったのだ。これ以上、どうすればいいのだろうか。

 なんの解決案も浮かばないまま、気がつくと夕方になっていた。薄暗い部屋の中で、パソコンのモニターだけが、ぼうっと光っている。そこには、じいちゃんを想って作った曲が表示されていた。カズさんがくる前まで、その曲の細かな修正をしていたのだから、表示されているのは当然のこと。でも、何故かじいちゃんが励ましてくれてる気がした。

 僕は無性にじいちゃんに会いたくなった。いてもたってもいられず、僕はこっそり家を出る。向かう先はもちろん、あの墓地だ。

 墓地の入り口に辿り着くと、僕は騒音対策のヘッドホンを外した。ここまで来れば、不快な騒音はしない。墓地はいつでも、心地よい静けさに包まれている。

 家を出るときはまだ明るかったが、今はもう薄暗くなってきた。足元はよく見えないが、何度も通っているだけに、迷いなく砂利道を進む。けれど、じいちゃんの墓が見えた途端、僕は立ち止まった。躊躇った末、じいちゃんの導きのような気もして、再び歩みだす。

「あ、あの……お久しぶり、です、順さん」

 僕はものすごく勇気を出して声を掛けた。案の定「あの」で声が裏返ってしまい恥ずかしい。

 順さんは、じいちゃんの墓に向かって手を合わせていた。

「久しぶり。ここをカズに聞いてね、お参りさせてもらったよ」

 順さんはこちらを向くと、爽やかに笑みを浮かべる。

 その笑みに、僕はなんだかほっとした。

「ここには、じいちゃんが眠ってるんです。僕に……音楽をくれた人です」

 僕は順さんの隣に並ぶ。

「そうなんだ。だから、ここでベース弾いてたんだね」

 順さんが小さく笑った。そりゃ墓場でベース弾いてれば、そんな反応されるよなぁと思う。

「ねぇ、鈴谷くんに音楽をくれたお祖父さんって、どんな人だったの?」

 順さんの問いかけに、僕は目を見開いた。まだ亡くなって一年しか経っていないというのに、血の繋がった父でさえ、長年一緒に暮らしてきた母でさえ、じいちゃんのことなど忘れたように生活している。じいちゃんのことを話してもいいんだと思うと、鼻がツンとしてきた。

「……じ、じいちゃんは、すごくカッコいい。洋楽が好きで、ギターも上手くて、明るくて、大雑把で、器の大きな人で……なんとなくカズさんに似てるかも。僕は学校に馴染めなかったから、いつもじいちゃんと一緒にいました」

 僕はつかえそうになる声を、必死に絞り出した。

「そっか。大好きなんだね」

 順さんが、穏やかな声で相槌を打ってくれる。

 父さんはじいちゃんと折り合いが悪くて、いつもじいちゃんのこと自分勝手な人だと呆れていた。じいちゃんが僕にギターを教えるのも、良い顔しなかった。父さんは否定しかしない、僕に対しても。

 音に敏感な僕のことを、両親とも困惑していたし、治そうとしていた。でもこれは病気じゃない。生まれつきの感覚だから、治すとか無理なのだ。その結論に辿り着くと、次は隠すことを強要してきた。ひたすら他者と同じように生きろ、変な行動は恥ずかしいからするなと言われた。僕だって、それが出来れば良かったと思ってる。みんなに気持ち悪がられたくなどない。でも、音は聞こえてしまうし、風は感じてしまうのだから、どうしようもなかった。

 僕のこの感覚は、親にも見放された。けれど、じいちゃんだけは僕をそのまま受け入れてくれた。辛いばかりの日常に、楽しいこともあるよって、音楽を教えてくれた。音に敏感なら、それこそ、楽しいものを聞けば良いって。そして、自由に表現できる翼をくれた。だから、僕はこの翼で風を拾い、空を飛ぶ。一時の逃げでもいい、僕は殺伐とした地上から離れることができる。

「……バンドのことなんですが」

 僕は切り出した。けれど、これ以上の言葉が出てこなかった。言わなければならないけれど、言ってしまったら完全に途切れると思ったから。

 カズさんはきっと何度断っても諦めない気がする。でも、順さんは大人だから、引き際を知っている。だから、順さんに言ったら正式に受理される。カズさんがどんなに駄々をこねても、順さんが黙らせるだろう。

 僕は再び口を開いた。

「もう家には来ないでください。次、母に見つかると警察を呼ばれてしまいます。僕は……警察沙汰になんかなって欲しくない。あなた達に、これ以上、僕のせいで迷惑をかけたくない」

 バンドに入るつもりはないから、家に来るなと言えばいいのに。肝心のところは言わずに、僕は卑怯だ。

「鈴谷くんって、本当にお人好しだよね。迷惑をかけてるのは俺らの方でしょ? 断られてるのに、しつこくバンドに勧誘してさ」

 順さんは苦笑いをした。

「どうして僕、なんでしょうか。僕みたいな変な奴じゃなくて、もっと上手くて、もっと普通に行動出来て、もっと見た目もいい人が沢山いる……と、思います」

「んーと、まずは訂正ね。鈴谷くんはいわゆる普通よりは弱っちいかもしれないけど」

 順さんの言葉にうなだれる。分かってはいるが、面と向かって言われるとちょっと落ち込む。

「待って待って、シュンとしないで。まだ続きがあるから。その、普通よりは弱っちいと思うよ? だけど、それは変とかじゃなくてさ、俺は個性だと思う。弱っちいのが鈴谷くんなんだよ」

 弱っちいのが個性だとして、そんな役立たずの個性を持つ奴をなぜ勧誘するのだろうか。

「そんな怪訝そうな顔しないでよ、鈴谷くん。まだまだ訂正の続きがあるんだから」

 順さんはため息をつくと、砂利の上に胡座をかいて座った。そして、砂利の上をぽんぽんと叩く。どうやら僕も座れということみたいなので、素直に座る。

「鈴谷くんて、プロの演奏しか聴いたことないでしょ」

 問いかけの要点が分からず、曖昧に僕は頷く。

「プロの凄いベーシストと比べたら、そりゃ誰だって下手だってこと。もちろん、インディーズでやってる中にも凄い奴はいるけど、そんなのほんのひと握りだし」

 本当だろうか。だって、現に動画で見た元ベースの人は凄かったのだから。

「鈴谷くんはもっと上手い奴がいるって言うけど、鈴谷くんはかなり上手いと思う。ずっと引きこもってたのなら比べる相手もいなかっただろうし、自分の力量が分からないのは仕方ないことだけど。うちの元ベースに、引けを取らないと俺は思ってるし、カズも陽もそう思っているから君に固執してる」

「そんな訳ない、あの人は天才だ」

 僕は思わず反論していた。あんな凄い人に引けを取らないとか、冗談を言われているとしか思えない。

「そんなことないよ。だってさ、鈴谷くんはしっかりと練習出来ないままステージに立って、あの『ヘブンリー』を弾いたんだ。確かに元ベースは天才だと俺も思うけど。でも、その元ベースも膨大な練習を経て、あの動画の水準まで技術を引き上げたんだよ? 鈴谷くんの技術は相当のものだと思う」

 途端に、冷や汗が背中を伝った。買い被りにも程がある。

「ち、違うんです。あれが弾けたのは、動画のベースが格好良くて……思わず練習してしまったから、です」

 練習せずにあんなベースが弾けるわけがない。そんな恐ろしい勘違いをされていたなんて震えてしまう。

「思わず練習ね……たかが一週間くらいの練習で、しかも楽譜は無しの耳コピで、あそこまで弾けちゃうってさ……俺からしたら、鈴谷くんこそどんな天才だよって言いたいね」

 順さんはため息をつくと、頭をがしがしと掻いた。

「俺の周りってさ、才能ある奴ばっかりなんだ。元ベースもだけど、カズだって感性で音楽やってるような奴だし、弟もさ、音楽なんて縁がなかったのにドラムやってみたらリズム感めちゃいいし。ぶっちゃけ俺だけ凡人なわけ」

 そうだろうか。あのバンドは順さんがいなければ成り立たないと思う。あのバンドに必要不可欠というだけで、既に凡人とは言えないのではないだろうか。カズさんと陽くんという大きな子供の面倒をみるといった意味合いもあるけれど、それだけでなく、音の重なりとして必要だ。

 動画で見た『ヘブンリー』はカズさんもギターを弾いてて、いわゆるツインギターだった。華やかに鳴るカズさんのギターを支えていたのは、間違いなく順さんの堅実なギターだ。順さんの音が安定しているからこそ、カズさんは伸びやかに奏でることが出来る。

「順さんは凡人じゃない、地味に上手いです。いないとバンドのバランスが崩れます」

 僕は思い切って、順さんをまっすぐに見た。

「鈴谷くんさ……純粋な瞳をして言わないでくれる? そんなグサッと来ること」

 僕は動揺のあまり血の気が引く。何かおかしなことを言っただろうか。僕としては、すごいと思ったことを言ったつもりだったのに。

「やっぱそうだよな……俺って地味なんだよな……」

 順さんは大きくため息をついた。

 僕は元気付けたつもりだったから、これ以上、何と言えばいいのかわからない。コミュ障な自分が本当に嫌になる。

「ダメだダメだ、脱線した。今は鈴谷くんの話だから」

 順さんは下を向いて首を振ると、スッと顔を上げた。

「鈴谷くんが自分で何と思っていようと、鈴谷くんは上手いよ。でもさ、それだけじゃなくて、もし仮に鈴谷くんより上手い奴がいたとしても、俺らは鈴谷くんが欲しい」

 どうしてそこまで言ってくれるのか、僕には分からない。分からないから、怖い。怖いから、逃げたくなる。

 体が自然と後ずさりを始めていた。

「ほら逃げないで、話はちゃんと最後まで聞くもんでしょ?」

 順さんに腕を掴まれ、元の位置に戻された。砂利のせいで、簡単に引きずられてしまう。

「カズの言葉を借りるなら、フィーリングかな。音を合わせた時の響きが、すごく心地よかったんだ。だから、鈴谷くんが煉獄シンドロームでベースを弾いてくれたら、すごく嬉しい。あ、これは俺だけじゃなく、カズも陽も同じように思ってるからね。ここまで聞いても、鈴谷くんの心は少しも動かない?」

 順さんはずるい。カズさんみたいに勢いで来るのではなく、理詰めな上、感情にも訴えて来るとは。こんな風に言われては、迷いが生まれてしまうではないか。

 黙り込んだ僕を見て、順さんは構わず続けた。

「あとは何だっけ……もっと見た目もいい奴か。それなんだけどさ、鈴谷くん結構整ってると思うけど? なんていうか、中性的って感じでさ。気になるならライブの時はV系みたいに、厚塗り化粧でもすれば大丈夫!」

 順さんが親指を立てた。僕は思わずガクリと肩を落とす。

 いや、グッじゃないから。僕の見た目が整ってるだなんて信じられるものか。さっきまでちょっと心が揺れてたけど、一気に目がさめた。簡単に取り込まれてはダメだ。

「そんなこと、一度たりとも言われたことありませんから」

「えー、それはさぁ……鈴谷くん滅多に顔上げないからだよ」

 さすが順さん、理詰めで来るだけあって、心をえぐる重い一言を繰り出してきた。確かに人の目を見て話すなんてこと、ほとんどしたことがない。

 僕は砂利を踏みしめて立ち上がる。

 そして、じいちゃんの墓に向かって手を合わせると、順さんを見た。

「僕、帰ります。カズさんと陽くんに、次来たら警察だって伝えておいてください」

順さんのおかげで決心がついた。まともに顔を上げられない僕が、人前に出るだなんて無理なのだ。

「あれ? 帰るの? 待って、ごめんて、機嫌なおして」

 縋ろうとする順さんを残し、僕は歩き出すのだった。

 家に辿り着くと、もう夜中の十一時だった。車庫に車がないところを見ると、父はまだ会社から帰っていない。けれど、家の明かりは消えているから、母はさっさと寝てしまっているようだ。僕は音を立てないように玄関を開け、こっそりと二階の自室へと入る。

 開けっ放しの窓から、街灯の明かりが部屋の中をぼんやりと照らしていた。僕は電気を付けずに、そのままベッドへと倒れこむ。

 ぼふっと受け止めてくれるはずの布団が『ぐはっ』と不可解な悲鳴をあげた。この違和感……僕は慌てて布団を剥ぐ。

「いやーん、いきなり布団めくるなんてエッチ」

 そこには裏声を出してニヤニヤと笑うカズさんがいた。服の上から胸を両手で隠す仕草がイラっとする。

「ちょっ――何でいるんですか?」

 僕は思わず大声を出しかけ、寸でで飲み込み小声を出す。

「何って、鈴谷くんに会いに来たんだよ」

 あっけらかんと言うカズさんに、僕は体の力が抜ける気がした。この人、今どういう状況なのか分かっているのだろうか。いや、分かっているわけがない。まだ順さんにした伝言は聞いていないのだろう。

 ただでさえ次来たら警察を呼ぶと言われているのだ。部屋に入り込んでいるのが見つかったらと思うとゾッとする。

「どっから入ったんですか」

 極力小さな声で僕は聞く。

「窓に決まってんじゃん。開いてたから入った」

「悪びれなく言わないでください。不法進入ですよ?」

「えー、細かいことは気にしなーい」

 カズさんは僕から布団を奪うと、再び布団に潜ってしまう。

「細かいことじゃないし、法律ですし、気にしてください」

 僕は力任せに布団を引っ張る。するとカズさんも負けじと布団にしがみつく。

 しばし布団の綱引きをした後、カズさんがふっと諦めたように布団から手を離した。

「さっきさ、鈴谷くんの機嫌損ねたって、順から電話で泣きつかれた……それに比べたら、細かいことだよ」

 それって、つまりは、既に順さんと話したってことではないか。

「まさか……ですけど、見つかったら警察呼ばれるって、知ってて来たんですか?」

 僕は布団を抱き抱えて固まってしまう。

「まーね。メンバーに頼られたら、リーダーとして何とかしたいじゃん」

「メ、メンバーのためなら、警察に捕まってもいいと?」

 僕は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

「いいよ」

 カズさんは潔かった。きっぱりとした物言いに、僕はため息をつく。常識的に考えて、警察に捕まっていいはずがないのに。

 僕は諦めの境地だった。

この人には敵わない。

 それと同時に、この人の元でなら、外の世界に踏み出せるかもしれないと思った。

「カズさん。僕はバンドに入るつもりはなかったけど、さっき順さんと話してて、本当はちょっと心が揺れました」

「マジで? なんだよ、順のやつが意外と良い仕事してんじゃん」

 その通りだ。順さんの説得がなかったら、きっとこの選択はしなかったから。

「……そうですね。少なくとも、カズさんのストーカー行為よりは、よっぽど効果があったと思いますよ」

「ひどーい」

 カズさんはベッドの上でゴロゴロと転がる。

「僕なんかで、本当に良いんですか?」

 僕は床に正座し、ベッドの上のカズさんを見る。すると、寝そべったままだったカズさんが起き上がり、胡座の姿勢になった。自然と僕の視線は見上げる形となる。

「鈴谷くん、違うよ」

 思わぬ返答に、僕はポカンと口を開けてしまう。

「俺は、鈴谷くんだから欲しいんだ」

 ギシッと家鳴りがした。静かだから妙に響く。

「俺んとこ来てよ」

 カズさんの真剣な眼差しに、僕は覚悟を決めた。

 順さんの説得あってこそだけど、決定打はこの人の、非常識なまでの情熱だ。

「分かりました。僕やりま――」

 その時だ。

 僕の言葉を断ち切るように、乱暴に部屋のドアが開いた。

「ヤっちゃ駄目よ、陸。目を覚ましなさい!」

 声とともに部屋の電気が付いた。ドアの横には、パジャマ姿の母が立っている。明るさに目を細めながら母を見ると、顔が般若のようになっていた。

 沈黙が満ちる。

 その沈黙を破ったのは、カズさんだった。

「こんばんは。いっつもうるさく押しかけてすいません。でも、やっと鈴谷くんの気持ちが変わったんです。どうか応援してくれませんか?」

 カズさんが、頭に手を置きながら、へらっと笑う。

「おおおおうえん? だって、まさか自分の息子がそんなことになるだなんて。と、ともかく警察を……」

 母の様子に、嫌な予感がした。

「母さん、警察は待って。あと、誤解してるんじゃない? カズさんは――」

「してないわ!」

 母の剣幕に押され、僕は言葉を飲み込んだ。

 母はチラチラとベッドを見ては、目をそらしている。ベッドの上はカズさんが転がったせいで、シーツがこれでもかと乱れていた。不健全なことは何もないが、見ようによっては、淫らな行為を連想してもおかしくない……かもしれない。というか、母の剣幕を見る限り、どう考えても淫らな誤解をしている。

「確か赤塚くん、だったかしら。陸をたぶらかすのはやめなさい」

「たぶらかすって、そんな人聞きの悪い」

 カズさんは眉を寄せた。

「陸は、あなたには渡さないから」

「それは困るなぁ。俺は本気で鈴谷くんが欲しいから、毎日通ってたんですよ?」

「ほ、ほんき……なの?」

 母がよろりと一歩下がった。

「当然です。俺は鈴谷くんじゃなきゃ嫌です」

 何なんだろうこれ。二人は違うことを訴えているのに、会話が妙に成り立ってるんですけど。

 僕は誤解を解きたいけど、なかなか二人の会話に割り込むことが出来ない。どんどん二人だけで話が進んでしまう。

「ただでさえ……まともに学校すら通えない子なのに、そんな茨の道は無理よ」

「確かに厳しい道ではあります。でも、引きこもっていた鈴谷くんが、前を向いたんですよ? もっと親として喜んであげてもいいんじゃないですか」

 カズさんは引くことなく言い返す。すると、母の顔色が、怒りのせいかどんどん赤くなった。

「簡単に言わないで! 陸がどれだけ普通じゃないか知ってるの?」

「普通じゃないかは別として、鈴谷くんがすごいってことは知ってますよ」

 カズさんは当然だという表情を浮かべている。

「赤の他人に何が分かるっていうの。陸は他の子が普通に出来ることが何も出来ないのよ。ただ座って授業を受けることすら無理だった。すぐ音のせいで気分を悪くするし、ビクビクして怯えるし。陰気な性格のせいでクラスメイトからは爪弾きにされて、友達の一人も出来なかった」

 母の甲高い声は、びりびりと僕の肌に刺すような風となって痛みをもたらす。でも僕は、肌が痛いのか心が痛いのか、もう分からなかった。

「陸のせいで私の人生、台無しよ。聡明な可愛い子供と綺麗な母親という理想の親子像があったのに。こんなの出来損ないよ。恥ずかしい!」

 母が興奮して、ダンと足を踏み鳴らす。重い打撃のような強風が吹き付け、僕は窒息するかと思った。

「ずっと恥ずかしかった。私はこんな子供しか育てられなかった……由里子の子供は有名進学校で生徒会役員……理沙の子供はT大に現役合格……話を聞くたびに恥ずかしくて仕方ないのに、これ以上恥ずかしいことを重ねないで!」

 母がここまでヒステリックに叫ぶのは初めてだった。その姿に、僕の体は震えてくる。

 恥ずかしいと、母はよく言う。もう口癖みたいなものだと、どこか流して考えるようにしていた。だって、深く考えたら立ち直れないから。でも、母がここまで僕のせいで追い詰められていたなんて思ってなかった。だから、申し訳なくて、気付いたら涙がこぼれていた。

 せっかく産んだのに、僕みたいな子供でごめんなさい――と。

「おばさん、言いたいことはそれだけ?」

 途中から黙って聞いていたカズさんが、硬い声を出した。

「それだけって、あなたね――」

 カズさんがベッドから降りると、母の言葉を遮るように話し出す。

「おばさんは鈴谷くんのこと恥ずかしいの? 俺は、全然恥ずかしいなんて思わない」

「そ、それは、あなたが他人だから」

 少し狼狽えたように、母の視線が泳ぐ。

「違うよ。そうじゃない。俺は鈴谷くんが弱々しくて、手がかかることを知ってるけど、それが恥ずかしいことだなんて思わないよ。俺は恥ずかしいって言ってるおばさんの方が恥ずかしいと思う」

「な、なにいって……」

「おばさん、俺に鈴谷くんちょうだいよ。おばさんにとっては恥ずかしい存在なんでしょ? でも俺にとっては、喉から手が出るほど欲しい存在なんだ」

 要らないならちょうだいと、カズさんは母に向けて手を差し出す。そんなカズさんを不気味そうに母は見て、じりじりと後ずさった。

「な、なんなのよ。陸なんて、一緒にいても手がかかるだけよ。どうせすぐに重荷になるわ」

 狼狽えながらも、母は反論を止めない。

「俺は鈴谷くんがいれば、どこまでも上を目指せるって思ってる。分かる? 上に行くために必要なんだ。重荷になんてなるはずがない」

 カズさんが不気味なほど冷静に、しかし妙な圧を持って母に言い迫る。

「で、でも、この子は――」

 母の言葉を断ち切るように、カズさんはため息をついた。

「もういいです。鈴谷くんはしばらく僕が預かります。この家には置いとけない。おばさんは少しクールダウンした方がいい」

 そう言うと、カズさんは母を押しのけた。

「ちゃんと毎日連絡はさせますから」

 カズさんに腕をぐいっと引っ張られ、僕は母の横を通り過ぎる。

「ちょっと、待ちなさい! そんな勝手な――」

 母が叫ぶ風が吹き抜けたが、母の手が僕に触れることはなかった。

 玄関から出ると、カズさんは庭の方へ行き、自分のスニーカーを持ってきた。もぞもぞと履き終えると、そのまま頭を抱えて座り込んでしまう。

「あー、完全に言いすぎた。ごめん、鈴谷くん。家出みたいなことになっちゃった」

 あんだけ堂々と啖呵切ったくせに、突如弱気になったカズさんに笑えてきた。

 僕らは住宅街の道を、駅に向かって歩き出す。

「カズさん……あの、ありがとうございます」

「ありがとうって思ってくれるの?」

 カズさんの問いかけに、僕は立ち止まり、ゆっくりと頷く。

「母の気持ちは、分かるんです。僕みたいな息子で申し訳ないとも思ってます。でも、やっぱり否定されるのは……つらい、から」

 言っているうちに、声が震えてきた。何でだろうと思っていると、カズさんの指が僕の頬に触れる。そして、すっと指が動いた。その感触に、僕は泣いていたことに気づいた。

「誰だって否定されればつらいよ。鈴谷くんのその気持ちは『普通』だから」

 カズさんの声は、優しい響きの風を運ぶ。

「鈴谷くん、なんか有耶無耶な感じで家出ちゃったけどさ、その……」

 カズさんらしくなく、もぞもぞと言い淀む。

「なんつーか、俺は、煉獄シンドロームと心中する意気込みで音楽やってる。んで、鈴谷くんがメンバーとして欲しい。だから――」

 カズさんは真っ直ぐに僕を見ていた。その視線の強さに、僕は圧倒される。

「煉獄シンドロームと、駆け落ちしてくれませんか」

 カズさんの言葉に、母が聞いたら更に誤解されるなぁとぼんやり思う。けれど『駆け落ち』という表現が、なんだか今の状況にぴったりな気がした。

 僕は、外敵から身を守る家から、母の静止を振り切って外に出ようとしている。煉獄シンドロームというバンドと共に、歩もうとしているのだから。

 僕は一歩、カズさんに近寄り見上げる。

 もうバンドに入る気だったくせに、今さらずるいと分かっている。けれど、僕はどう足掻いても、自分に自信を持てない。だから、自分を安心させる約束が欲しかった。

「家には戻りづらいし、その、仕方ないので、駆け落ちしても、いいですよ」

 もっとマシな返しはなかったのだろうかと、自問自答してしまう。まるでツンデレなヒロインの台詞ではないか。

「本当に? バンドに入ってくれるってこと?」

 僕は素直に頷いた。

「ただし、条件があります。僕よりも煉獄シンドロームのベースに相応しい人がいたら、遠慮なく言ってください」

「それが条件?」

 カズさんが不思議そうに首を傾げている。

「僕は、迷惑をかけることが一番怖い……から。カズさんが約束してくれたら、安心してベースを弾ける。言われるまでは、僕は必要とされているってことだから」

「んーそういうもん?」

僕は無言で頷く。

「わかった。それで鈴谷くんが納得出来るなら」

 カズさんが右手を差し出してきた。

 僕が震える手を重ねると、上からギュッと左手で挟まれる。

「煉獄シンドロームへようこそ、陸」

 カズさんが満面の笑みを浮かべた。

名字ではなく『陸』と名前で呼ばれる。ただそれだけなのに、僕の心はぽかぽかと暖かくなった。

** *

――『カズくんシンドローム』を始めるよ! 実はね、ビッグニュースがあるんだぁ。

 唐突に始まったというのに、動画の視聴人数がどんどん増えていく。もう少しで百人に届こうかとしていた。

――今日は夜遅いんで、陽は来れなかったんだけど。そうそう、明日も学校あるからね。なので、順だけです。今はね。

 カズはニヤニヤと笑っている。

 逆に順は表情が硬く、落ち着きもない。

――カズ、本当に大丈夫なのか? けいさ……アレ呼ばれたりしないか?

――大丈夫だって。へへ、みんな何があったのか気になってるみたいだね。おぉ、正解の人いるよ!

 流れていくコメントの中に正解があったのか、カズは手を叩いた。

――実はね……いや、どうしようかな。もうちょっと後にする? 焦らしプレイも楽しいでしょ?

――いいから早く言え。いや……そもそも生配信なんかしてる場合なのか?

 順はさらに顔色を悪くしながら、頭を抱え込んだ。

――順はビビリすぎ! はい、発表するから、みんな心して聞くように。

 カズの言葉に、コメントが期待し始める。

――実は琵琶法師こと陸くんを、さらってきちゃいました!

 てへっと、カズは舌を出した。

 コメントが山ほど流れてくるかと思いきや、みんな理解が追いつかないのか、しばしコメントが止む。

――アホか! てへ、じゃないだろ。何でもっと穏便に連れて来れないんだよ……あーこいつに頼った俺が間違いだった。

 順のツッコミを受けて、本当にさらってきたのだと理解した視聴者が荒ぶりだす。「メンバーげっとおめ!」といった祝福から「マジで強硬手段とりやがった」というものまで様々だ。

――やっと新メンバーが加入して、俺らの目指す音楽が届けられる。ん?陸はどこにいるのかって? さらって来たならそこにいるんだろうと……流石だね、みんなの推理力には脱帽するよ。

――おいカズ、さっきから普通に陸って名前言ってるけど大丈夫か?

――リーダー権限で大丈夫! ていうか、もう正式メンバーだから、逆にファンのみんなにも早く覚えてもらいたいし。

 ニシシと、カズは歯を見せて笑う。

 ふいに、動画の左上にジャージをはいた足が映った。ジャージの裾がかなり余り、踵で踏んづけている。

 すると、カズの視線が画面から外れ、ジャージの人物へと移った。

――やっと風呂出た? 暇だから動画配信始めちゃったよぉ。

――動画……配信? も、もしかして……今、配信してるんですか?

 腰を抜かさんばかりの、怯えた声がした。

「新メンバー?」「てか風呂てww」「攫って風呂入れて次は何すんの?」とコメントがどんどん怪しい方向へと盛り上がっていく。

――そうそう、陸もせっかくだからみんなに挨拶!

――むむむむりです!

 陸らしき人物が慌てて逃げようとする。しかし、余りまくっていたジャージの裾を、カズが容赦なく掴んだ。当然、逃げようとした人物は倒れる。

――や、やめてください。カズさんのジャージゆるゆるだから脱げ……

――確保! みんな、このパンツ見えかけてる少年が、うちのベースだよ。ほら、陸。挨拶して。

 カズにがっちり後ろから抱きかかえられ、哀れにもがく陸が映る。

――ええ? こ、こここんな格好で、挨拶とか無理です。お、お願いですから放して。

 顔を真っ赤にして、涙目になる陸を見て、コメントが更に荒ぶっていく。「可愛い」「ヤバイ萌える」「そのまま続けてOK」

 すると、横で暴れる二人を眺めていた順がため息をついた。

――あぁ、ぐだぐだじゃん。ごめんね、みんな。もう今日の配信はここまで。また気が向いた時にカズがやるだろうから、見てやって。じゃあおやすみ。カズ、いい加減に……

 順の呆れた声がおやすみを告げると、プツリと配信は終了したのだった。

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