第二章

 平日の真っ昼間、父は仕事、母も午前中から出かけている。僕は羽を伸ばすように、台所でくつろいでいた。

 僕は両親が在宅のときは、極力自室からは出ないようにしている。両親と何を話して良いのか分からないし、引きこもっていることに関して何か言われたら嫌だからだ。なので、いつもは両親の寝静まった頃、起こさないよう物音を立てずに泥棒のように動いている。だから今のように、何にも気にせずに台所を歩けるのは嬉しい。

 のんびりとコーヒーを飲んでいると、スマホにメッセージが届いた。見なくても僕には誰からか分かる。百パーセントでカズさんだ。だから確認することなく、テーブルの上に画面を伏せて置いた。

 あれ以来、毎日毎日飽きずに連絡をしてくる。最初のうちは電話攻撃だったが、電話には出ないと理解したのか、メッセージを送ってくるようになった。電話は出なければそれで終わる。けれど、メッセージはずっと手元に留まり続ける。僕の手元には、メッセージが溜まり続けていた。

「読まなきゃ良いんだけど……未読がたまり続けるってのも、何か無言の圧力を感じる」

 どうして僕なんかに、こんな必死に連絡をしてくるのだろうか。確かに、セッションは楽しかった。コミュ障の僕が、あんな風に他人と演奏出来ただなんて奇跡だ。でも、それは僕側の感想であって、カズさんのような賑やかな人にとっては、きっと日常のはず。

 短い時間だったから良かっただけだ。これで再び会い、一緒の時間を過ごしてしまえば、きっと僕に幻滅するに決まっている。そんなことになったら悲しいし、申し訳ない。このまま何もなかったかのように、フェイドアウトしたいのだ。セッションしたちょっと変わった奴、という印象を残したまま。

 なぜ、あの時の僕は連絡先を教えてしまったのだろうか。まぁ、セッションの余韻に浸って、頭が全く回っていなかったせいなのだけど。でも、ここまで付きまとわれるとは予想外だ。

 すると、家の外で車の止まる音がした。そして車庫のシャッターが開く音が聞こえる。僕は気分が重くなった。それは、シャッターを開ける不快な音だけが原因ではない。開放的な気分だったのに、それが終わってしまうからだ。僕は母と鉢合わせを避けるために、慌てて自室に戻るのだった。

 僕の部屋の中は、樹海と化している。ベースとギターが置いてあるのはもちろんのこと、音楽を聴くためのオーディオ機器、そして、曲を作るのには欠かせないパソコン、最近はあまりやらなくなったゲーム機器、それらの電源ケーブルやそれぞれを繋ぐための配線など、一見したら絡まって見えるくらいの混雑状況だ。それらが幅をきかせているので、端に置いてあるベッドのみが唯一寝転べるスペースとなっている。

 そして、僕はのんびりとパソコン画面を見ながら、新しい曲のリズムを組み始める。穏やかな一人の時間が流れていくはずだった。だが、突然それは破られた。

――コンコン

 ドアをノックされた。いつも放置されているから、こんなこと滅多にない。僕は心臓が飛び出るかと思うくらいに驚いてしまう。

「……な、なに」

 ドアに近寄り、開けることなく外の気配を伺う。

「陸、あなたに電話よ」

 母の声がした。

「電話?」

 母が呼びに来ると言うことは、家の電話にかかってきたということだろう。しかし、そんな相手がいるはずがない。もし本当に僕宛だったとしても、どうせ勧誘とか、もしくは死んでも行きたくない同窓会とかだ。

「赤塚くんって子よ。あなたに電話かけてきてくれるお友達がいるだなんて、知らなかったわ」

 母の声が心なしか探るように響く。

「赤塚……て、カズさん?」

 僕は、はっとして部屋を見渡し、自分の服のポケットを手で押さえた。目的の物は見当たらない。慌ててドアを開けると、僕のスマホを手に持つ母が立っていた。

「台所で鳴ってたわ。かなりしつこく鳴らしてきたから出たわよ」

 僕は呆然と立ち尽くす。そんな僕に母はスマホを渡すと、捨て台詞を残して去って行った。

「外に出るのは歓迎だけれど、変な人とつるむのは止めなさいよ」

 久しぶりに会話したけれど、結局は嫌な後味だけが残る。息苦しくて、思わずぎゅっと胸元の服を握りしめた。

『もっしもーし、まだ繋がってんよ?』

 スマホからカズさんの声が漏れてきた。そのまま切ってしまえば良かったのに、慌てた僕は思わず耳にスマホを当てて喋ってしまった。

「あ、あの、すみません」

 母の失礼な言葉は聞こえてしまっただろう。そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

『その謝罪は、着信もメッセージもすべて無視したことに対して?』

「……それは……それも、すみませんでした」

 冷や汗が流れた。確かに、全部無視してたことの方が悪い気がする。

『もういいよ。こうして今話せてるから。それより、来週の金曜日って暇? てか暇だよね。申し訳ないって思ってるなら、俺らの出るライブ来てよ。俺らの音、鈴谷くんに聴いて欲しいんだよね』

 電話越しでも、カズさんが不敵に笑っている様子が目に浮かぶ。

 ライブなんて一度も行ったことがない。興味はあるけれど、正直、大音量に囲まれて平気でいられるのか自信がなかった。

「本当に、申し訳ないとは思ってます。けど、行ったらもっと迷惑をかけ――」

 僕の言葉を遮るように、カズさんがかぶせてくる。

『気分が悪くなったら、その辺に座り込んでれば良いから。ライブハウスってそんなやつゴロゴロいるから気にしなくて良いって。酒飲んで騒いだあげくぶっ倒れるとか、熱狂しすぎて酸欠状態でぶっ倒れてる奴とかいるから大丈夫!』

 それって本当に大丈夫なのか? ていうか、僕が体調不良起こすのは良いのか?

 でもカズさんの言葉に、心が揺れる。カズさんの音を聴いてみたい。しかも、今度は彼のバンドのライブだ。けれど、行ったはいいが、ライブを見て体調不良を起こしたらどうしよう。カズさんだけでなく、他のメンバーの人にも不愉快な思いをさせてしまうのではないか。

「でも、やっぱ――」

『でもは無し! 申し訳ないと思ってるんだったら、絶対参加! これは譲れないから。来てくれなかったら、これからも嫌がらせのように電話するよ。ただし、ライブに来てくれたら、もうしない。約束する。だからライブに来てよ』

 カズさんの必死さに僕は引きずられてしまう。

「行ったら、もうしつこく電話しないですか?」

 そして、言い訳を用意してくれるカズさんの優しさに、甘えたくなる。

『うん、約束する』

「……分かりました。ライブ行きます」

『やりぃ。じゃあ、場所とか時間とか連絡するから、今度は絶対メッセージも見ろよ』

 カズさんの声は嬉しそうだった。

 その後、カズさんは日時と場所を送ってきた。そして、それと一緒に動画のURLも。何だろうと思いつつ、素直に見てしまった自分を殴りたい。もっと警戒しておけば良かった。そのURLは、カズさんのバンドのライブ映像だったのだ。

 ボーカル&ギターのカズさんを中心に、ギター、ベース、ドラムの四人。バンド名は『煉獄シンドローム』インディーズバンドだが、観客の盛り上がりは凄く、熱気が動画から伝わってくる。そして、その熱気がこのバンドの音をさらに加速させていくのが分かった。

 想像以上にすごいバンドだった。僕は食い入るように、動画を見続けた。興奮で手汗が酷い。意識は自然とベースラインを追いかけ、指が動いてしまう。このバンドのベーシストは天才だ。すごく格好いい。正確なビート、けれど、ただ正確なだけじゃない。音の強弱、曲を心底理解した弾き方の変化、メンバーの音を感じ、挑発するように音を仕掛けていく。長い髪を鬱陶しそうに振り払い、妖艶に笑う顔は、カズさんとはまた違う魅力があった。

 ライブに行くのは怖い。けれど、彼らの音楽を生で感じることが出来るかと思うと、そわそわしてしまう僕だった。

 ついに約束の日になった。僕は目立たぬように黒いチノパンに黒いTシャツ、上から黒のパーカーを羽織った。髪も染めることなく黒いままなので、夜になれば闇に溶け込むスタイルだ。念のため持ってきてと言われたベースを、黒いカバーに入れてリュックのように背負う。それにしても、念のためって、何だろうか。

 午後三時、あるビルの前に到着し、騒音対策でしていたヘッドフォンを外す。一気に街の音に飲み込まれ、一瞬、目眩に襲われた。でも、これくらいでへこたれてちゃライブなんて無理だ。大きく深呼吸を何回かすると、少し音に慣れてきた。やはり、慣れは必要なようだ。

 しかし、目的地がここであっているのか自信がない。繁華街の大通りから一本中に入り、ごみごみした雑居ビルが建ち並んでいる中の一つ、奥に細長いビルの前で僕は立ちすくんでいた。一階は大衆居酒屋で、地下は小洒落たバーのようだ。ライブハウスは六階だと聞いているが、どこから上がっていけば良いのだろうか。

 困ってビルの前でうろうろしていると、ポンと肩をたたかれた。通行の邪魔をしていただろうか。そう思って、思わず「す、すみません」と小さく声が出た。

「え、謝らなくてもいいよ。ただ、入り口を探してるのかなと思って。六階に用事かな?」

 僕よりも少し背が高い、ギターを背負った黒髪の爽やかな男の人だった。ちらっと視界に入った手が、すらりとしていて綺麗だ。

「……はい、六階、です」

 蚊の泣くような声で答える。

「もしかして、鈴谷くん?」

 心臓がおかしな音を立てた。突然、見知らぬ人に名前を呼ばれることほど恐ろしい物はない。

 僕が何も答えられないでいると、それが答えとばかりに目の前の青年は笑った。

「カズから話は聞いてるよ。よく来てくれたね。来てくれないかもって思ってたんだ」

 カズという名前に、僕は恐る恐る顔を上げた。そして必死の思いで男の人の顔を直視してみたら、なんとライブ映像の人だった。

「あの、ギ、ギターの方ですか?」

「そうそう。俺、松田順まつだじゅん。よろしくね。カズは珍しく先に着いてるって連絡あったから、一緒に行こう」

 一緒に行く? ライブ前なのに、バンドの人と一緒にいて良いのだろうか。準備とかあって邪魔だと思うけれど。

 そんな僕の疑問は表情に出ていたらしく、順さんの笑顔が強張った。

「ちょっと聞くのが怖いんだけど……カズから何て言われてここに来たの?」

「何てって、えっと、ライブに来てと」

「それだけ?」

 詰め寄られて、必死に会話を思い出す。

「あとは、バンドの音を聞いて欲しいって言われました」

「それだけ……なの?」

 順さんが唖然とした表情を浮かべた。

「そ、そうですね」

「あんのバカ! なんてことしやがる」

 突如、順さんがしゃがみ込んでしまった。悪態をつきながら、わしゃわしゃと髪の毛をかき乱している。

「あの、何か……僕、変なこと言ったでしょうか」

 順さんが遠くを見るような仕草をした後、立ち上がった。そして、貼り付けたような笑顔を浮かべる。

「とりあえず、中に入ろうか」

 少々強引に肩を押され、道路からは死角の、奥のエレベーターに押し込まれてしまうのだった。

 エレベーターが開くと、折りたたみ式の机が置いてあり、CDやタオルやラバーバンドなど、スタッフらしき人が陳列をしている最中だった。やっぱり、今は準備の時間なのだ。本当に部外者である僕が来て良いのだろうか。そもそも、カズさんはどうしてこんな準備中の時間を連絡してきたのだろう。てっきりライブ開始の時間だと思っていたのだけれど。僕としては、ライブを端っこで見て帰るだけのつもりだったのに。申し訳なくなってきて、思い切って順さんに声をかけてみた。

「あ、あの……」

 構えすぎて、声が裏返った。恥ずかしい。

「何? 鈴谷くん」

「えっと、今準備中みたいですし、邪魔したくないので、また後で来ま――」

「大丈夫だから! いいんだって。鈴谷くんは特別なお客さんだから気にしないで。ささ、奥へどうぞ。こんなライブ前に入れるなんて滅多にないよ。入っておかないと絶対に後悔するよ。カズ! いるんだろ、早く来い! 鈴谷くん来てるぞ!」

 順さんは早口で捲し立てながら、僕の腕をつかんでどんどん奥へと進んでいく。

「マジで! やった、鈴谷くん、待ってたよ!」

 声とともに、衝撃がやってきた。

「うぐっ……カズさん、く、苦しい」

 逃がさないとばかりにハグをされ、息が出来ない。前のときも距離が近いと思っていたが、これは近すぎるだろう。正直、こういうスキンシップに慣れていないので戸惑ってしまう。

「とにかく、奥の控え室へ行くぞ」

 順さんは妙に焦った声で言うと、僕と僕に抱きつくカズさんをずるずると引きずっていく。男二人を引きずっていく順さんは、何故か鬼のような形相をしていた。重いだろうし、カズさんさえ離れてくれたらちゃんと歩くのになぁと、のんきに思う。あとにして思えば、この時がのんきにしていられる最後の瞬間だった。

 カズさんに抱きつかれたまま、細い通路を進むと、ドリンクカウンターが横に出現した。ここも準備真っ最中といった様子で、タンクに水を補充したり、カップを数えたりと、スタッフが忙しそうにしている。そこを通り過ぎると、観客が入るであろうスペースになった。ここに何人入るのだろうか。百人くらいかなとか、そんなことを考えていると、順さんは『スタッフオンリー』と書かれたドアを開けた。半ば放り込まれるように部屋に入る。奥に大きな鏡があり、ドレッサーのようだ。いくつかの鞄が部屋のあちこちに置かれていることから、ここが順さんの言っていた控え室なのだなと思った。

「さぁカズ! どういうことか説明してもらおうか」

 順さんが仁王立ちで僕を見てきた。正確には、僕に抱きついてるカズさんを、なのだが。

「どうもこうもないって。怒んないでよ、鈴谷くんが来てくれたからそれでいいじゃん」

「そういうことを言ってるんじゃない。お前、騙して鈴谷くんをここに来させただろ」

 騙して? どういうこと?

「別に騙してはないって。嘘は言ってないもん」

 子供のような口調でカズさんが言い返した。

「あの……何が、起きてるんでしょうか」

 二人の会話に全く理解が追いつかない。僕は騙されているのか? でも、来てくれと言われて来ただけだし、何を騙されてるっていうのだろうか。

「俺さ、鈴谷くんにバンドの音を聞いて欲しいって言ったけどさ、ライブを『聴き』に来てとは言ってないんだよね」

 カズさんがニヤニヤしながら、抱きつく腕に力を入れてきた。

 そこで初めて、僕は嫌な予感がした。

「まさかっ」

「そう、そのまさか。鈴谷くん、今日のライブに出てよ!」

 僕ははめられたと思った。すべてはカズさんの手の中だ。念のためにベース持って来いだなんて、普通に考えたらおかしい。けれど、ライブ後にまたセッションしたいのかなくらいにしか思ってなかった。浅はかな自分を殴りたい。

 そして、カズさんが抱きついてきたのも、最初から僕を逃がさないため。そして、順さんがカズさんを引きはがすことなくそのまま引きずっていたのも、その意図が分かっていたからだろう。

 呆然としつつ、目の前の順さんを見ると、哀れむ視線とかち合った。そんな目をするくらいだったら、もっと前に僕を逃がしてくれれば良かったのに。でも、結局は順さんも不本意だろうが、カズさんに荷担したのだ。

「無理……帰ります!」

 僕はカズさんの腕の中から逃げ出そうともがく。しかし、がっちりと抱え込まれて、びくともしない。

「ごめんね。でもさ、鈴谷くんに逃げられると、俺ら困るんだよ。ベースがなくなっちゃう」

「そ、そんなわけないですよね。動画見ましたよ。凄いベーシストがいるじゃないですか」

 天才ベーシストがこのバンドにはいるのに、どうして僕なんだ。

「動画見てくれたんだ。よっしゃ」

 カズさんが変なところに食いついて喜んでいる。

「カズ、早く説明しないと、時間ないぞ」

 順さんが時計を見た。

「やべ。じゃあ、鈴谷くん。簡潔に説明すると、俺らのバンドには今ベースがいません。動画にいた奴は脱退した。んで、とりあえずサポートメンバー入れてライブ活動してたんだけど、今日はそいつも呼んでません。つまり、今日は鈴谷くんがベースを弾いてくれないと、ライブが出来ないんです!」

 満面の笑みで言われても、本当に困る。人前で演奏するだなんて、引きこもりの落ちこぼれには荷が重すぎる。それに、観客はお金を払ってライブを見に来ているのだ。それに見合う演奏が、こんな急に言われて出来るわけがない。僕がステージに立つことで、このバンドの評判も台無しにしてしまうかもしれない。そんなこと、恐ろしすぎる。

「おい、カズ。鈴谷くんが顔面蒼白になってる」

「うそ、やばいじゃん。鈴谷くん、大丈夫だよ。鈴谷くんなら楽勝だから。俺が太鼓判押すから。それに、今からリハーサルやるし、いきなり本番ってわけじゃないから」

 必死にカズさんが色々言ってくるが、どれもこれも僕が安堵できるものは一つもない。何を根拠に僕なら楽勝って思えるのだ。今からリハーサルの時点で、もうアウトだろう。僕には練習の時間もないのか。電話の時点で言ってくれれば、練習できたのに……って、あの時点で言われたら百パーセントここには来てないな。それが分かってたからカズさんは、こんな卑怯な手段を取ったのだろう。あぁ、頭が痛くなってきた。

「大丈夫だから。鈴谷くんは俺を信じて」

 カズさんが僕を抱きしめながら耳元で言う。

「どんな結果になっても俺が責任取る。だから、心配しなくていい。失敗したら俺のせいだし、成功したら俺のおかげ! 上手くいったら俺を褒め称えろよ」

 ニシシと笑うカズさんに、ガクリと力が抜けてしまう。

「バカ野郎、成功したら鈴谷くんの功績に決まってんだろ!」

 鋭いツッコミが順さんから飛ぶ。

 二人のやりとりが面白くて、ぎこちなくも僕は笑ってしまった。

「お、笑ったな。てことは、出てくれる気になった?」

 カズさんにのぞき込まれ、僕は一瞬ためらう。けれど、この様子だと逃がしてはくれないだろう。僕は意を決し、小さく「うん」と肯いた。

 そこからは、嵐のようだった。今日のライブは三つのバンドが出演するらしく、出番は最初とのことだ。せめて後の出番なら、少しは練習も出来るのに。僕にはとことん時間がないみたいだ。そして、素人の僕が突如参加することで、ただでさえ慌ただしいのに、残りのメンバーであるドラムが遅れるらしい。

「カズ、やばい。陽のやつ、先生に捕まって補習受けさせられてる。急いでもライブ開始に間に合うか微妙だって」

 順さんがスマホを睨みつけながら言う。

「マジで? じゃあ、あいつはリハなしのぶっつけ本番か。いやぁ、しびれる展開だね」

 カズさんは豪快に笑っている。ライブもバンドも初めての僕が言うことじゃないけれど、これって洒落にならないくらい危ないんじゃないだろうか。

「鈴谷くん、そんな心配そうな顔しないで大丈夫だから。俺らっていっつもこんな感じなのよ」

 カズさんが軽い口調で言うと、順さんが鬼の形相を浮かべた。

「確かにそうだが、大抵の原因はカズだろ。俺がどんだけスタッフや他のバンドに頭下げてると思ってるんだ!」

「やだやだ、怒んないでよ。カルシウム足りてないんじゃない?」

「ゴラァ、おちょくってんのか」

 まずい、どんどん雰囲気が険悪になっていく。こんな口喧嘩みたいなことしてて本当に大丈夫なのだろうか。とにかく、僕としては、演奏する楽曲を教えて欲しいのだが。少しでも練習できるならしたい。

「じゃ、まぁ順さんや、陽が遅れてくることを念頭に、セットリスト考えますか。初っぱな、俺ら二人でやるとかどう?」

 カズさんが急にまともなことを言い出した。

「ギターの弾き語りで歌うってこと? でも、一曲目は派手な方がよくないか? このライブ自体の一曲目でもあるんだぞ」

 順さんもさっきまでの怒りはどこへやら、普通に返答している。

 二人の関係性に、一種の夫婦感を見た気がした。阿吽の呼吸というやつだ。

「でもさ、鈴谷くんの負担を減らせるし、一石二鳥じゃね?」

「なるほど。それは盲点だった。なら、さすがにバラードじゃしっとりしすぎるから、アップテンポの『サマーリリック』でどうだ?」

「いいね! そうしよう。んで、俺のトークテクニックで時間を稼いで陽が来るのを待つ。んで、二曲目は『ヘブンリー』」

「え……あれ、やるのか?」

 『ヘブンリー』は動画で見た曲の名前だった。順さんがちらりと僕を見てくる。

「大丈夫だって。今日の今日だし、八分音符でコードのルート鳴らしててもらえばいいだろ。鈴谷くん、動画見てくれたって言ってたから、コード進行は何となく頭にあるだろうし」

 カズさんもちらりと僕を見てきた。

 確かに、あの動画は鬼のように何度も見返してしまったから、当然曲は覚えている。けれど、それすらカズさんに見通されていることに、むず痒くなってしまう。どこまでカズさんは計算してやっているのだろうか。

「鈴谷くん、出来そう?」

 心配そうに順さんが聞いてくる。僕は、もうどうにでもなれとばかりに、こくりと頷いた。

「ほらな! 鈴谷くんは出来る子だから大丈夫」

「カズが自慢することじゃないだろ。それで、三曲目はどうすんだよ」

「三曲目は『ピーターパン症候群』」

「それ、客を最後に煽る曲じゃん。もしかして、三曲で終わらせるのか? 持ち時間的に四曲は余裕でやれるけど」

 カズさんが呆れたように眉を寄せた。

「順こそ鬼畜か? 鈴谷くんにいきなり三曲もベース弾けと?」

「いや、ルートでベースライン弾けるんだったらいけるかな……と」

 順さんがポリポリと頭を掻きつつ、僕を見た。

 僕は勢いよく顔を左右に振る。そんなの無理に決まっている。一曲だって自信ないのに。

「だよね。ごめん。じゃあカズの言うとおり、この三曲にしよう。鈴谷くんにはタブ譜を渡すから、ちょっと待ってて」

 順さんは苦笑いを浮かべると、鞄の中を漁り始めた。

 カズさんはというと、再度ぎゅっと僕を抱きしめてくる。

「鈴谷くん、ありがとね。来てくれて本当嬉しい」

 そう言うと、やっと僕から離れてくれた。ずっと抱きつかれていたから、体がものすごく軽くなった気分だ。

「さぁ、やるぞ!」

 カズさんは両腕をあげて、気合いを入れている。その楽しそうな姿に、音を奏でることが本当に楽しいんだなと思った。音楽にすがっている僕とは正反対だ。

 リハーサルまでの三十分で、僕は三曲目のコード進行を頭に入れこむ。出来ればタブ譜通りに弾ければ良いのにと思ったが、流石に無理そうなので、イントロとエンディング部分だけ練習する。あとの部分はルート弾きに徹することにした。

 それにしても、これを弾いていたベーシストはやっぱり凄い人だ。所々に超絶技巧が凝らされている。これを弾けるってことは、相当のテクニックが必要のはずだ。

 それに、このベースラインを考えたのが元ベーシストかどうかは分からないが、この超絶技巧も、変に技巧を主張しているわけではなく、あくまで曲として引き立つように入れてあるのだ。このバンドは、真剣に音楽に向き合っているのだと伝わってくる。

 こんな本物の中に、僕がいて良いのだろうか。流されて頷いてしまったことを、早々に後悔し始めていた。

「鈴谷くん、リハやるってさ。行こう」

 カズさんに声をかけられ、僕は震えるまま歩き出すのだった。

 リハーサルで知ったことだが、カズさんは基本的にはライブ中にギターを弾かないそうだ。歌うことと、観客を煽ることにパフォーマンスの重点を置いているから。だから、僕が見たギターを弾くカズさんの動画は、かなりレアなものとのこと。でも、あんなに華やかなギターなのだから、ちょっと勿体ないなと思った。

 そしてリハーサルだが、結論から言おう。僕の出来は散々だった。スタッフや他のバンドの人達がフロアにいる状況。妙に注目されていることに耐えられなくて、僕はがちがちの演奏となってしまった。体が思うように動かなくて、そのことにさらに焦り、焦ることで余計に体が動かないという悪循環。彼らに失笑されているのが分かった。唯一の救いは、あまりに緊張しすぎて、音酔いをする余裕すらなかったことだ。

 カズさんと順さんは、大丈夫、本番頑張ろうなと言ってくれたけれど。僕は逃げ出したくて仕方がない。けれど、バンドの黒いTシャツを着させられ、無理やり髪の毛をふわふわにセットされ、譜面に気を付ける部分を書きこまれると、つい気になって練習してしまう。流されやすいこの性格が本当に恨めしい。

 時間は刻々と進み、本番十分前になった。未だにドラムの人は来ていない。僕はベースを抱え込むようにして、曲を体に詰め込んでいた。そんな僕の横で、カズさんと順さんは意外と余裕そうにしている。あんな酷いリハーサルを見て、心配にならないのだろうか。

「なぁ順、鈴谷くんは何色だと思う?」

 カズさんのバンドTシャツは、全体は黒で左袖だけ赤い。

「……黒でいいんじゃない?」

 順さんは鏡を見ながら、髪のセットをしている。順さんのTシャツの袖は緑だ。どうやら、メンバーごとに色が決まっているらしい。

「えー、それノーマル色じゃん。ちゃんと色味を考えようよ」

「じゃあ青にしとけば」

 順さんがいうと、カズさんは眉間にしわを寄せた。

「……青は、嫌だ」

「あっそう。なら、紫とかは? 鈴谷くんのイメージ的にピンクやオレンジは違うし。そうなると、残りは紫くらいでしょ」

「紫かぁ、いいかも。ちょっとダーティーな雰囲気でファンのハートをゲットしちゃう?」

 カズさんが楽しそうに笑う。よくこんな時に笑えるものだ。

「勝手に言ってろ。そろそろ時間だ。袖に移動しよう」

 順さんはカズさんを適当にあしらうと、ギターを持って立ち上がる。それにつられてカズさんも立ち上がり、僕に向けて手を差し出した。

「さぁ、行こう。楽しもうぜ」

 カズさんの言葉に促されるように、僕はその手を取った。

楽しめるわけがないと思う。ただ、ここから逃げたいけれど、逃げる勇気がなかった。

 容赦なく、開演の時間だ。

 ステージ袖に移動した僕は、ちらりとフロアを覗いた。昼間はがらんとしていたフロアに、これでもかと人が詰まっている。始まる前から熱気が凄く、押し潰されそうだ。これから始まるライブへの期待が伝わってくる。僕は自然と唾を飲み込んだ。あの熱気の中心に立つだなんて、怖くて仕方がない。

「鈴谷くん。これからあいつらと一緒に、最高のライブをするんだ。ライブは観客がいてこそ。だから、あいつらは敵じゃない。仲間なんだ」

 僕の緊張をほぐすように、カズさんが背中をさすってきた。

「まぁ俺にとっては、あいつらはみんな俺の恋人だけどな」

 カズさんがニシシと笑う。

「カズ、男もいるけどいいの?」

 順さんが呆れた顔で突っ込む。

「分かってないなー。愛に男女の区別なんてないの。俺らの音に恋してくれる奴らは、みんな恋人なの!」

 カズさんは子供のように頬を膨らませている。けれど、ステージを見た瞬間、まるで何かに憑依されたみたいに目付きが変わった。僕はぞくりとする。

「じゃあ、先に行って待ってるから」

 カズさんは、視線はステージに注いだままで僕に言った。僕は何も返せない。けれど、カズさんはそのままステージへと出て行ってしまった。順さんも、僕の肩をポンと叩くだけだ。

 二人が出て行くと凄い歓声に包まれた。そして、準備を終えたカズさんと順さんが視線を合わせる。それが始まりの合図だ。シンプルな、けれど軽快なギターの音がライブハウスに満ちる。リハーサルでは、自分の音さえまともに聴こえていなかった。だから、順さんのギターをちゃんと聴くのは初めてだ。順さんの人柄がにじみ出るような、温かな風が通り抜ける。

 そこに、カズさんの歌声が入った。とたんに、風の勢いが増す。カズさんの声は、ギターと同じく華やかだ。綺麗に伸びる声、けれど、ただ綺麗なだけじゃなく、少しざらつきもある。綺麗なだけだと、つるりと心の中をすべってしまう。けれど、ざらつきがあることで、心に引っかかるのだ。その引っ掛かりが癖になる。気になってもっと聴きたくなる。何度も聴きたくなる。

 弾き語りで圧倒的に音が少ないはずなのに、ギターと歌声が、相乗効果で盛り上がっていく。どんどん観客が引き込まれていくのが分かる。ライブ映像を見たときも、譜面を見たときも、凄い人達だと思った。けれど、生の音を聴いてしまうと、その実力に腰が抜けた。僕は、立っていられずに座り込んでしまう。

 弾き語りに圧倒されたまま、一曲目が終わってしまった。僕は、本気で無理だと思った。逃げる勇気がなくて逃げれなかったけれど、今、その勇気が出た。こんな人達と同じステージに立てるわけがない。泥を塗るだけだ。

 僕は四つん這いのまま、後ろに下がり始める。すると、暗いせいか何かに当たってしまった。障害物を確認しようと顔を上げると見知らぬ人間だった。思わず出そうになった悲鳴を、僕は必死で飲み込む。

「こんちは。ベース抱えてステージ袖にいるってことは、鈴谷くんっすか?」

 制服姿の男子高校生が、屈んで覗き込んできた。僕は驚きのあまり、無言のまま小刻みに頷く。

「良かった、来てくれたんすね。俺も何とかセーフってところかなぁ」

 言いながら男子高校生はステージに向かって手を振った。ステージ上の二人も気付き、早くしろとジェスチャーを送っている。

「順兄、かなり怒ってんなぁ。ところで、どうして後ずさりしてたんすか。もしかして……ここまできて逃げようとか?」

 図星を刺され、僕は俯くしかない。

「どうして? さっきの弾き語り聴いたでしょ。あんな凄い人たちと音楽出来るなんて、滅多にないっすよ?」

 確かにその通りなのだろう。けれど、僕には荷が重すぎるのだ。

「……僕には、出来る気がしない」

 虚しい言い訳を、僕は吐きだす。

「だから、逃げるんすか? 俺はどっちでもいいけど――――あんた、二度と音楽出来なくなるっすよ」

 まっすぐに見据えられて言われた言葉に、僕は目を見開いた。

「ここであんたが逃げるってことは、このライブはめちゃくちゃになる。煉獄シンドロームもただじゃ済まない。それだけのことをして、あんたは今後、楽しくベースが弾けるんすか? むしろ、ベースを見るたびに罪悪感に襲われるんじゃないすか?」

 僕は何も言い返せなかった。その通りだったから。そんな簡単なこと、分かっていたけれど、分かっていなかった。目の前の恐怖から逃げたくて、目をそらしていた。

『みんな、今日は来てくれありがとう。初っ端から弾き語りで歌うってのは驚いた? これにはいろいろ事情があるんだけど、たまには変わった始まり方も面白いっしょ。てことで、今日は煉獄シンドロームの新しい面が見れるから、めいっぱい楽しんでってよ』

 カズさんが観客に向けて喋っている。

 今なら間に合う。壊さずに済む。僕さえ逃げなければ、ライブは続けることが出来る。

 中学の頃のことを思い出した。僕は、教室から逃げ出し、そして戻ることが出来なくなった。だから、ここで今逃げたら、僕が縋り付いている音楽という場所に戻れなくなるのは道理だ。また、ここで逃げて壊すのか? そう思うと、ライブに出る怖さよりも、音楽という居場所が無くなる怖さの方が勝った。

 僕はベースを抱え直すと、震える足で立ち上がった。

「お、やる気になったみたいっすね。じゃあ俺もさっさと用意しなきゃ」

 男子高校生も立ち上がると、制服のブレザーを脱ぎ捨てた。並ぶと頭一つ分くらい彼の方が背が高い。彼はネクタイを元々していなかったので、白いカッターシャツをボタンがはじけ飛ぶ勢いで脱ぐと、袖の黄色いバンドTシャツを着始めた。あまりに急いでTシャツを着ようとするものだから、頭や腕に引っかかってもがいている。さすがに手伝った方がいいかなと思い、僕はTシャツの首を頭のところに引っ張ってやる。すると、スポンと茶色い頭が飛び出て来た。

「ありがと!」

 さっきまでの威圧感が嘘のように、彼は明るく笑った。

「えっと……ど、どういたしまして」

 戸惑いながらも、僕は小さな声で答える。男子高生はTシャツを着終わると、カバンからスティックを取り出た。そして、スティックを脇に挟むと、僕に手を差し出してきた。

「俺は松田陽まつだようでっす。順兄の弟だよ。今日は一緒に頑張ろう!」

 これは握手を求められているのだろうか。違ったら恥ずかしいな、などと思っていると、強引に手を掴まれてぶんぶんと上下に振られた。

 そのまま陽くんに手を引かれて、ステージ上に踏み出す。ライトが眩しい。その光の先に、カズさんと順さんが待っていた。二人とも嬉しそうに笑っている。そのことに、僕は死ぬほど安堵した。逃げなくて良かったと。これから、どれだけ緊張するとしても、失敗するかもしれなくても、罵声を浴びることになっても。逃げて彼らを失望させることに比べたら、断然ましだと思った。

「陽、おっせーよ。みんな聞いて。こいつ補習くらって遅刻したんだぜ」

 カズさんが陽くんを軽く小突くと、歓声が上がる。陽くんは頭だけひょこりと下げ、ドラムセットへと向かっていった。そして、僕はリハーサルで指示された位置へと立つ。

「あと、今日はいつものサポートメンバーじゃなくて、彼に来て貰ってます。鈴谷くんです」

 紹介なんか不要なのに、と心底思った。だが、なんの紹介もなく知らない人がベース弾いてるのも、ファンの人にとってはモヤモヤするかもしれないと思い直す。とにかく、この突き刺さるような好奇の視線に耐えようと思った。曲が始まってしまえば、カズさん達に目が行くだろうから。

 僕の準備はすぐ出来た。陽くんの準備を待っている間は、カズさんと順さんの夫婦喧嘩のようなトークが繰り広げられている。観客は大いに笑っていた。そして、ついに陽くんの準備も完了する。

「じゃあ、煉獄シンドロームの二曲目行くぞ!『ヘブンリー』」

 カズさんが曲名を言った途端、悲鳴のような歓声が上がった。それだけ人気のある曲なのだと分かる。

 カズさんがメンバーを見渡した。順さん、陽くん、そして僕。

 その瞬間、陽くんのカウントが鳴り、爆音がライブハウスに満ちた。あまりの衝撃に、僕は意識が飛びそうになる。肌に響く強い音、暴風の中に巻き込まれたみたいだ。でも、不思議と嫌じゃなかった。暴風に身を任せ、思い切り叫びたい。そんな衝動にかられる。

 僕は音に飲み込まれるように、イントロ部分を譜面通りに弾いた。僕の音が加わることで、暴風が加速するのが分かった。もっと、激しくしたい。もっと、もっと熱く暴風にのまれたい。カズさんがニヤっと笑ったのが見えた。その瞬間、僕の中で何かが弾ける。

 イントロのあとは、ひたすらコード通りにルート弾きするはずだった。でも、この曲は鬼のように見返した動画の曲だ。音はすべて頭に入っている。だから、僕の指は勝手に動き始める。あの元ベースの人には及ばないだろうけど、僕の弾ける『ヘブンリー』を奏でる。

 順さんのギターが少しもつれた。どうやら僕が譜面通りに弾きだしたことに驚いたみたいだ。それもまた生っぽくていい。

 曲の盛り上がりと共に、観客の興奮もどんどん上がっていく。あぁ、動画で見たみたいに、音楽によって観客が興奮し、その興奮によって音楽が加速し、さらに観客を煽っていく。

 気持ち良くて、死にそう。

 暴風のなかを全力疾走しているよう。

 苦しいのに、止められない。止まりたくない。

「かー、最高! めっちゃ歌ってて気持ちいい」

 カズさんがステージの真ん中で、両手を上げて叫んでいる。気が付いたら、曲は終わっていた。観客はメンバーの名前を叫んだり拍手したりしている。

 ライブの興奮とライトの暑さで、僕は汗だくだった。タオルも何も持っていないので、無意識にTシャツの裾で顔の汗をぬぐう。すると、目の前からとんでもない声が聞こえた。

「鈴谷くん、かっこいい!」

「腹ちらゲット」

「鈴谷くん、こっち見て」

 何を言われたのか分からなくて、僕は後ずさりし、そしてケーブルに引っ掛かり転んだ。幸い後ろに転んだので、ベースは腹の上で無事だ。

「もしかして照れた?」

「やだ、可愛い」

 そんな僕を見て、さらに観客の女の子が追撃してきた。

 かっこいい? 腹ちら? 可愛い? なんだそれ?

 意味が分からなさすぎて、僕の頭の中はパニックだった。生きてきた中で、こんなの女の子に言われたこと一度もない。

「最高だった! さすが俺が運命を感じただけはある」

 カズさんも何か良く分からないことを言っている。

 観客の女の子が「もしかして琵琶法師って鈴谷くん?」と大声で聞いていた。それにカズさんが「そうだよー」と答えている。

 琵琶法師ってなんだよ。もう、訳が分からない。ただでさえ、逃げ出す寸前の精神状態だっていうのに。

 僕は、ベースに気を付けながら起き上がる。すると、途端にカズさんに抱きつかれた。

「鈴谷くん、大好き! 頑張ってくれてありがと!」

 観客から黄色い悲鳴が上がる。

「アホか。まだ一曲残ってるだろ!」

 目を白黒させていると、順さんが問答無用でカズさんを剥がしてくれた。

 女の子に好意的な言葉を掛けてもらえたことなんて初めてだし、カズさんの相変わらずな必要以上のスキンシップも心臓に悪い。そもそも、じいちゃん以外に、好意的な言葉を言われたのも初めてかもしれない。僕は動揺しつつも、次の曲、つまりは最後の曲に備えた。

「じゃあ、次は『ピーターパン症候群』今日はこれがラストだよ。だから思いっきり騒いで叫んじゃって!」

 カズさんの曲紹介のあと、突然、陽くんがバスドラムを四分音符で踏み始めた。何事かと思っていると、なんと振り付け指導が始まったのだ。

「じゃあ、まずは両手を挙げてね。んで左にひらひら。そう、手をひらひらさせて。次は右にひらひら。そうそう、みんな上手い! んで、次は手を上げてジャンプ二回ね。二拍目と四拍目。そう、そんなかんじ。簡単でしょ? 次の一小節は休みで、また最初のひらひらから繰り返しだよ」

 常連らしき観客は、この時点でノリノリに振り付けの動きをしている。初めてっぽい人達も、戸惑いながらも周りにあわせて何となく体を動かしていた。ステージから見ていると、妙に感動してしまう。大勢の人達が、同じ動きをしているのだから。

 僕はぽかんとその様子を見ていた。すると、いきなりカズさんの声が飛んできた。

「ほら、そこ! ぼーっとしない」

 てっきり観客のことを言っているのだと思ったら、カズさんが真ん中から僕の前に移動してきた。

「へ?」

 驚きのあまり、間抜けな声が漏れる。

「鈴谷くんもやるんだから練習! ほら、左って言ったら鈴谷くんは右ね。俺らは向きが逆だから。ネックを右にゆらゆらさせて。んで、右つったら、思いっきり体ひねってネックを左に」

 カズさんに操り人形のように動かされ、腰が痛い。そんな問答無用でひねらなくて良いのに。何なのこれ、公開処刑みたい。観客から笑い声が聞こえてくるし、死ぬほど恥ずかしい。

「そんで、最後はジャンプ。わかった? これサビでやるんだからね」

 伝えるだけ伝えると、カズさんは満足したように真ん中へと戻っていった。

 というか、この動き、僕もやるの? はっきりいって、この最後の曲は今日初めて聴いて、初めて弾くんだけど。

 じっとりと、先ほどまでとは違う汗が滲んできた。

 そんな僕の焦りなど知らぬとばかりに、曲の始まりを告げる陽くんのカウントが響く。

  ――つまらない日常なんか置き去りにしろよ

    ネバーランドはここだから

    ここに来た瞬間

    永遠に少年少女だ

    想い(重い)荷物なんか捨てて、思い切り騒ごう

 カズさんの歌が、ライブハウスに染みこんでいく。本当に、ここはネバーランドなんだと思った。この曲の間は、カズさんはピーターパンなのだ。

 ここに集まっている人達は、それぞれ生活があって、学校や仕事で大変なこともあるだろう。僕のように上手くいってない人や、恋人に振られたばかりの人だっているかもしれない。でも、そんな考えたくないことを忘れて、子供のように楽しむのだ。

 素敵な空間だと思った。この曲があるだけでは足りない。バンドがいて、観客がいて、ライブハウスという箱のなかで興奮が圧縮されて出来た奇跡の空間だ。

 僕は必死にベースを弾いた。このネバーランドを壊したくないから。それでも、たまにもたついてしまう。歯を食いしばり、崩れ落ちないように立て直す。ベースはバンドにとって屋台骨だ。ベースがもたつけば、バンドも失速してしまう。陽くんが僕をカバーするように、正確なリズムを刻んでくれる。ありがたいと思って陽くんを見ると、ニカっと笑っていた。

 僕も、今はネバーランドの住人なんだと思った。難しいことは考えず、楽しめば良いのだ。こんな凄い場所で、こんな盛り上がってくれる観客、何より素晴らしいバンドの人達と一緒の時間を過ごしているのだから。もう二度とこんな奇跡は起こらない。

「うぉら、行くぞ!」

 カズさんの煽りに観客が応える。次からサビだ。

  ――大人はいない、誰も君を怒らない

 たくさんの手が僕の右方向へ傾く。ひらひらしてて、綺麗だ。僕もネックを少し揺らす。

  ――夜更かしOK、お菓子食べ放題

 手が反対方向へと傾く。統率の取れた動きにつられ、思い切り体をひねる僕。勢いをつけすぎて腰が痛い。痛みのあまり、音を外してしまった。慌てて修正するが、カズさんの笑い声が歌の間に聞こえた。恥ずかしい、気付かれた。

  ――言えなかった気持ちも、ほら叫べばいい

 ジャンプ二回。僕は音を外すのが怖くて飛べなかった。

 すると、一回目のサビ終わりの間奏中、まさかの公開処刑第二弾。

「鈴谷くん、ちゃんと飛ばなきゃダメじゃん」

 しかも、これを言ったのはカズさんではなく順さんだ。思わぬ人からの攻撃に、僕はさらにあたふたしてしまう。カズさんはマイクを顔から離して、腹を抱えて笑っている。

 僕の動揺などお構いなしに、間奏が過ぎて二番が始まる。そして、サビに向かう間奏中にカズさんは叫んだ。

「みんな、振り付け間違っても大丈夫! 誰も見てないよ。みんな自分が楽しむことで精一杯だから。一緒に騒いで叫んで楽しもうぜ!」

 それは観客に向けていった言葉だったけれど、きっと僕にも向いていた言葉なんだと思った。間違っても良いから、一緒に楽しもう、ライブってそういうもんだろ、と。

 順さんにもカズさんにも言われるのなら、振り付けをやらないわけにはいかない。間違ってもいいって言ったのは彼らなのだから。

 吹っ切れた僕は、ぎこちないながらもネックを左右に動かし、ジャンプし続けた。さすがに観客を煽る曲だというだけあって、サビが長い。これでもかと繰り返すごとに、熱風も増していく。

 普段引きこもっているから、もう体力が限界だった。でも、終わって欲しくなかった。この曲が終われば、ネバーランドは消えてしまう。僕にとっての奇跡の時間が終わってしまうのだから。

 けれど、ものごとには必ず終わりがくる。曲の終わりとともに、僕のここでの役割も終わった。

 歓声と拍手に包まれながら、頭を下げる。やりきった満足感もあったが、それ以上に緊張からの解放と、体力の酷い消耗のせいで、ステージを降りた途端に吐き気に襲われた。僕はベースをカズさんに押しつけると、トイレの個室へと駆け込む。

 すると、追いかけてきた陽くんにトイレのドアを叩かれた。

「大丈夫っすか?」

 心配してくれるのはありがたい。けれど、気分が悪くて返事すら出来ない。

 返事のないことに焦ったのか、陽くんが容赦なくドアを叩き始めた。

「ちょっと、生きてる?」

 やめてくれ。そのドアを叩く音が、不快なんだ。余計に吐き気が増す。

「陽、落ち着け。ドア叩くな」

 カズさんの声が聞こえて、ほっとした。

「でも、返事がなくて……俺、本番前に、半ば脅すようにステージに行かせたから……俺、どうしよう……このまま鈴谷くん死んじゃったら」

 ドア越しに聞こえる陽くんの声に、嗚咽が混じり始めた。まさか泣いているのか? 僕のこれは、いつものことだ。普段から騒音で気持ち悪くなって、座り込んでるような奴なんだ。

「鈴谷くん、しゃべるの辛いかもだけど、状況だけでも教えて? 救急車呼んだ方が良い?」

 そんな大袈裟なものじゃない。じっとしていれば、そのうち治まるものだから。

「……しばらくしたら、治まるので……気にしないで、ください」

 僕はとぎれとぎれになりながらも、必死に言葉を絞り出した。

「意識があって良かった。でも、そのままってわけにもねぇ――」

 何やらガタゴトと音がしたかと思うと、頭上からカズさんが降ってきた。

 僕は驚いて、洋式便器に抱きついてしまう。あまり掃除されていないのか、その臭いで再び嘔吐きそうになった。

「はいはい、大丈夫? 吐けるなら吐きな。そっちの方が早く楽になれるから」

 カズさんが僕の背中をさすってくる。その優しい手つきに、少し体の力が抜けた。ゆっくり呼吸し、吐き気をやり過ごす。

 けれど、次のバンドの音が建物内に響き始めると、またぶり返してきた。なんなんだ、このバンドの音は。チューニングが微妙にずれていて、更に楽器同士の旋律もところどころ喧嘩しているみたいだ。大変申し訳ないが、ズバリ言わせてもらうと、くっそ気持ち悪い演奏だ。

 僕はたまらずに耳をふさぎ、うずくまる。トイレの床だろうが構っちゃいられない。

「陽、トイレの入り口の扉閉めろ!」

「は、はいっす」

 バタンと乱暴に閉められた音も、僕にとってはカミソリのような風となって襲いかかる。肌が痛くて、脂汗が吹き出てくる。でも、扉が閉められたおかげでバンドの音が少し小さくなった。

 そして、突然、僕の頭が何かに覆われ、不快な音がさらに遠くなる。この熱気、鼓動、汗の臭い――カズさんが僕の頭を両腕で抱え込んでいた。いきなりの抱擁に逃げようとしたけれど、カズさんは離してはくれない。

  ――つまらない日常なんか、置き去りにしろよ

 カズさんのささやくような歌声が聞こえた。

 僕は驚いて少し顔を上げる。すると、カズさんが笑っていた。

「こうすりゃ、俺の歌しか聞こえないだろ?」

 そう言うと、カズさんは『ピーターパン症候群』の続きをゆっくりと歌い始めた。

 カズさんに頭を抱え込まれたことにより、バンドの音は遠くに去り、ただ心地よい歌声が染み渡ってくる。臭いトイレの中だというのに、新鮮な空気が満ちてくるようだった。

 だんだんと、吐き気が治まっていく。

「わ……何この状況」

 驚いた様子の順さんの声に、僕は顔を上げる。すると、いつの間にか個室の鍵は開けられ、陽くんと順さんが心配そうに僕を見ていた。

「何って、鈴谷くんを介抱してんだよ。見て分かんない?」

 カズさんが言うと、順さんが呆れた表情を浮かべた。

「経緯が分からない俺からすると、トイレでお前が鈴谷くんを襲ってるようにしか見えない」

「酷い! リーダーとして、俺はこんなにメンバーを心配してるのに!」

 カズさんが駄々をこねるように体を揺する。ちょっと、それは止めて欲しい。だいぶマシになったとはいえ、今揺すられるのは良くない。

「は、はなして、ください」

 僕は揺れから逃れるため、腕を突っぱねる。

「ええ? 鈴谷くんまで誤解してるの? 俺、そんな見境なく襲う野獣に見える?」

 カズさんがさらに体重をかけて抱きついてくるので、便座に頭を打ち付けた。痛い。

「そんな風に思ってませんから……カズさんのおかげで、だいぶ、楽になりました」

 僕は打ち付けた頭の痛みに、顔をしかめながら答える。

「ほら、鈴谷くんは分かってるぅ。んじゃ、二番歌うぞ!」

「え、もうこれいじょう――」

 これ以上は結構ですと言う前に、カズさんは歌い出してしまう。すると、陽くんも合いの手を入れ始めた。

「――ほら、順もハモり入れろよ」

 カズさんに促され、順さんもしぶしぶ歌い始める。

 トイレの中で再びネバーランドが現れた。しかも僕のためだけに。楽器だけの間奏部分は、カズさんがハミングで繋いでるし、順さんも分からないなりにのってくれているし、陽くんなんか、手洗い場の前で、振り付けを全力で踊っているし。その状況がなんだか奇妙すぎて笑えてくる。

 最後まで歌いきる頃には、僕は笑いが止まらなくなってしまった。それと同時に、涙も。

 何なんだろう、この人達は。クズで気色悪い僕なんかの為に、こんなにも一生懸命になっている。それに戸惑うし、びびってもいる。けれど、確かに僕は、暖かい風を感じていた。

* * *

――はいはーい。『カズくんシンドローム』の時間だよ! 今日はゲストに順と陽にも来てもらってまっす。

 カズの両横に座る二人が、手を振っている。陽は満面の笑みで、順は苦笑いだ。

――先日のライブ来てくれた人いる?

 コメントがたくさん流れていく。「行ったよ」「行きたかったけれど行けなかった」など様々だ。

――来れなかった人は、また次の機会に是非来てよ。絶対、楽しませてあげるから。それで、来てくれた人は、本当にありがとう! ライブはどうだった? 実は結構綱渡りなライブだったんだけどね。うん、そうそう。陽が遅刻してきてさ、二曲目から出るっていうね。

――ごめんなさいっ。反省してます。今後、テストで0点は取りません。

――0点なんか取ったのか? 留年なんかしたら母さん泣くぞ!

 カズの後ろで、順が陽の胸ぐらを掴みあげている。

「0点取っちゃったの?」「そりゃ兄さん激オコだわ」「許したげて」などと、コメントが囃し立てている。

――まぁ、後ろの二人はほっといて……みんな、俺の見つけてきた琵琶法師、どうだった?

 すぐに「良かった」「可愛い」「振り付けぎこちないのが萌える」「ヘブンリーは良い意味でビックリした」等のコメントが流れていく。もちろん「サポートの佐藤さんの方が上手かった」とか「元メンバーには到底及ばない」という否定意見もなくはないが。でも、大多数は好意的なものだ。

 カズはニヤリとした表情を浮かべた。

――うん、うん、でしょ? みんななら分かってくれると思った。俺、絶対にあの琵琶法師をメンバーにしたいんだよねぇ。でも、なかなか難しい奴でさ、すんなりメンバーになってくれない訳よ。てことで、今日は緊急会議! 議題は『琵琶法師のことがめっちゃ気に入っちゃったから手に入れたいんだけど引っ込み思案な彼ぴっぴをどうしたら引っ張ってくることが出来るでしょうか』えっ、長い?

――長い。ていうか、いつの間にすず……ネット上だし本名は伏せた方がいいのかな? えっと、琵琶法師を入れるって決めてんの?

 順が初耳だというような表情をしている。すると、カズは目を丸くした。

――順さんや、それ本気で言ってんの?

 カズに続くように、陽も目を丸くして順をのぞき込んでいる。

――そうだよ、順兄、それ本気っすか? 鈴谷くん……あ、名前言っちゃった。ごほん、琵琶法師くんは絶対に良いよ。なんつうか、音がしっくりきたっていうか。上手く言えないんだけど、ピタって来た!

 二人に責められ、順はしかめっ面になる。

――向こうの気持ちもあるわけじゃん。勝手に決めたら迷惑だろうし。でもまぁ、二人の言いたいことは、その……分かる。

 順の言葉は尻つぼみに小さくなり、心なしか頬が恥ずかしそうに赤くなっていた。

 それを見て、カズはにんまりとあくどい笑みを浮かべる。

――だろ?

――順兄はツンデレっすな!

 陽の追い打ちに、順はさらに顔を赤くする。その様子に「順さんの貴重なデレ!」「くっそ尊い」などという荒ぶったコメントが流れていく。

――んじゃ、琵琶法師をゲットするってことでバンド方針決定。じゃあ改めて、新しい気持ちで頑張っていくから、ファンのみんなも着いてきてね!

 カズの言葉に「もちろん」「一生ついてく」といった暖かいコメントが溢れる。

――ありがと! てことでぇ、琵琶法師をメンバー入りさせなきゃ話になんないんだよね。お人好しで押しに弱い奴なんだけど、根本的に自分に自信がないみたいでさ、自分には無理っていうんだよ。みんな、何か良い案ない?

 カズの問いかけに、様々な意見が飛び出す。中には「もう押し倒せ」とか「既成事実捏造」とか、何か違う方向の意見もちらほら混じってはいるが。

 その後も、琵琶法師獲得に向けてのミーティングは、だらだらと続いていくのだった。


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