第27話 王女との別れの時間 下

 なにを言っているのか最初はわからなかった。

 しかし脳内で反芻していくとおぼろげながら輪郭が現れる。

 それはあまりにも、打算的な姿をしていた。


「……僕が生きたいと強く願うために。彼女と幸せになりたいという欲を最大限に引き出すために。あえて一度突き放し、覚悟を決めるのを待っていたと言うんですか」


 口に出してみると急に腑に落ちた。生徒会室であんなにも詳細を語って諦めさせたのは、僕らを憐れんでいたのではなく、僕らの愛情や生への執着心を最大に引き出すための演出だったというわけだ。

 全ては、植物状態から目覚める確率を上げるための筋書きだった。


「プロセスってのは割と重要なのよ」


 もはやとぼけることも止めた先生が、含みを持たせて答える。

 僕は嘆息する。少しは人の気持ちを汲み取り誘導できると方だと思っていたが、この人はまるで次元が違う。


「――で、この作戦は本当にうまくいくんですか」


 たとえ掌で転がされていたとしても、結果的に好条件になっているなら批難はしない。事実として僕は以前よりもずっと、美波さんと将来を生きたいと願っているのだから。

 それはもういい。気にするべきは、この先の話だ。


「助かる見込みってこと?」

「先生が僕を成功例に仕立て上げようとしているってことはつまり、この方法なら僕は死なずに済むかもしれない、ということですよね?」


 先生の狙いが、薬を投与しても目覚める事例を作ることだとしたら。

 僕が一月二十五日に死んでしまっては意味がない。

 死ぬかもしれないけど試してみよう、なんて徒労に終わるかもしれない博打を組織が打つとも考えられない。

 つまり、先生の思惑には僕が助かる可能性が内包されているのだ。


 僕はその理屈が何なのか知らない。死が必須条件ではないなんてそれらしい話を考察してはみたが、正解かどうかもわからない。あくまで冬子先生の思惑からこうだろうと類推した仮説だ。

 、といえばわかりやすいだろうか。

 つまり僕は、一月二十五日を超えるための理論算出を諦め、他人に委ねた。

 そしてその他人に対し、自分の身体を使った取引を持ちかけたのだ。

 組織にしてみれば薬を投与しても目覚めた成功例が得られる。僕は一月二十五日を超え、死という運命を回避できる。その相互利益からこの状況が成り立っている。


「僕が助かる一定の確率があるからこの実験を進めているわけですよね」

「まぁそのへんはトップシークレットなんでノーコメントだね」


 肩を竦めた先生は僕越しに車中を覗いた。

 いつのまにか機材を動かす音が途絶えている。準備が整ったことを気配で悟る。


「一つ言えるとすれば、この世に都合の良い奇跡はないってこと。一度死んで蘇るなんて便利な能力も無い。あ、うちの創設者が唯一持ってたっけ……とにかく、過度な期待は止めることだ。可能性を数パーセントでも上げることを考えなさい。そのためには自分自身の根源、願いにしがみつく他ない。よく覚えておくといい」


 先生がくいと顎をしゃくる。白衣二人が僕の両脇に来る。

 生唾を飲み込む。ここからすぐ意識を失うと考えると、急に震えが来た。

 だから、ここで言っておかなければいけないと思った。


「ありがとうございました、冬子先生」

「急にどしたの」


 鼻白む先生に、僕は笑いかける。緊張で口元が少し歪んでしまった。


「薬を打つともう伝えられないので。僕のために力を貸してくれること、感謝してます」

「これまでの話を聞いてもそんなことが言えるとは、人が良いね君も」

「先生の思いやりが伝わってくるから、言えるんですよ」


 冬子先生の眉根が少しだけ寄る。


「他の人間からの提案でも僕は受けていたでしょうけど、先生じゃなかったらここまで信用はできなかった。生徒会の顧問として僕らを守ろうとしてくれた先生だから、納得できるんです」

「こんなときにお世辞言ったってサービスなんかしないよ」

「だって、文化祭前の事件のとき、佐伯の提案に乗って校長を説き伏せてくれたじゃないですか? あの件は僕の監視や組織の目的に何ら関係ないし、教師という隠れ蓑を維持するだけなら校長に楯突く必要もない。あれは冬子先生の完全な善意だ。あいさつ運動のときも僕らの提案を許してくれたし」


 「……そうだっけ」先生は明後日の方を向いて後頭部を掻く。


「それに、さっきの説明ですけど。矛盾があります。いくら覚悟を決めさせるためとはいえ、隠していればせっかくの誘導が台無しになる恐れがある。先に説明したって僕は覚悟を決められるし、美波さんを説き伏せていたはず。理由としては弱い」

「……」

「たぶん、ですけど。僕と美波さんが自分で決められるか、見守ってくれていたんじゃないですか? 他人に促されて決めた生半可な気持ちでは、この先の辛さに心が折れてしまうだろうから。そんな状況に送り出したくはなかった。でも、もし何も頼るものがないとわかった上でも、死に流されることなく、未来への希望を自ら勝ち取ろうとするなら……きっと最後まで足掻ける。心配はいらない。先生はそう考え、僕らがどう決意するか黙って見届けようとした。もちろん僕が気づかなくても、後でこっそり助け船を出すつもりでいたんでしょうけどね。これまでの冬子先生のもそういう感じです。一貫してます」


 僕を見つめる先生は、眩しげに双眸を細めて肩を竦める。


「……そう思うんならそうなんでしょうよ、君の中ではね」


 冗談ぽく言うが、あからさまに僕から目を背けている。

 心を読まなくてもわかる。きっと、照れているに違いない。


「始めてよろしいですか」


 ぼそりとした声が横合いから聞こえる。焦れたような問いに先生は頷く。「ああ、やってくれ」

 白衣一人が椅子に座る僕の腕を掴み、袖をめくって注射針を押し付ける。針と繋がっているチューブは、天井付近からぶら下がるパックに繋がっていた。パックには薄緑色の液体が充満している。

 あれが自分の身体の中に入っていくのかと想像して、恐怖が膨れあがる。

 白衣が手に力を込める。僕は咄嗟に目を閉じた。

 そのとき――


「こーくんっ!!」


 聞き間違いかと思った。気が触れて幻聴でも聞こえたのかもしれない、と。

 でも、目を開けたそこには、見慣れた生徒会長の姿があった。

 さっきまで走っていたのか髪は乱れ、肩は揺れ、頬は上気している。

 こちらを見つめる黒瞳には必死さと、安堵が入り交じっていた。


「美波、さん……?」


 どうしてここに彼女がいるのか、理解できなかった。

 もしやと先生の方を確認したが、先生は自分じゃないと返事をするように首を振る。


「良かった、間に合った……!」


 息を整えた美波さんが近づいてくる。衝動に突き動かされ、僕は椅子から跳ねるように飛び出していた。


「あ、ちょっと!」


 後ろで白衣の慌てる声が聞こえたが、制止されることはなかった。「行かせてやれ」諦めたような声があったからだろう。

 僕は美波さんの元に走り寄り、彼女を抱きしめる。彼女も僕を抱きしめ返してくる。


『こーくんの匂いだ。まだ動いてる、まだ話せる……だめ、泣きそう』

「どうして、ここに?」

「……私に、嘘を教えたでしょ」


 心臓が跳ねる。

 そっと身体を離した美波さんが、上目遣いに睨んでくる。しかし怒っているというよりは呆れているという感じで、鋭さもない。


「朝に電話しても繋がりませんでした。だから私に黙って出ていったんだろうってすぐにわかりました。それからあなたの自宅まで走って、周囲を探し回って……ようやく、見つけたんです」


 僕は心中で呻く。スマホを切っていたことが仇になってしまったようだ。


『こーくんの考えなんてバレバレなんですからね? きっとまた私のためを想っての行動なんだって、気づいちゃうんですから』

「……だって、僕が倒れるところなんて、見せたくない。何十回と君を苦しめた光景なんて、これ以上は、とても」

「いいんです。今回は眠りにつくような静かなものですし、元々最後の日は絶対にあなたのそばに居ようって考えていました。とっくに覚悟はできています」

『優しいこーくん。ありがとう』


 彼女の手がそっと、僕の頬を撫でる。

 指先が濡れていた。

 気づけば僕は、涙を流していた。

 心は正直だ。

 あれだけ美波さんを遠ざけようとしていたくせに、今はただ、彼女が会いに来てくれたことが何よりも嬉しくて、安堵していた。


「ずっとそばにいます。付き添っています。だから、安心してください」


 彼女に手を引かれる。「二人で、行きましょう」

 僕は溢れる涙を拭い、息を吐いて覚悟を決める。そして引かれるのではなく、彼女の横に並んで迷い無く進む。


「すみませんでした。お願いします」

「うん」


 冬子先生が抑揚なく頷く。再び椅子に座ると、白衣二人が手早く同じ工程を繰り返し、僕の腕を押さえて注射針を構える。

 怖くはない。今は僕の手を、美波さんが握ってくれているから。


『待っています。ずっとずっと、あなたを』


 ちくっとした痛みと共に針が刺される。

 瞬間、ゾッとするほどの冷たさが腕から身体に広がった。

 視界がぼやける。感覚があやふやになる。

 痛みも冷たさも匂いも音も全てが遠ざかる。

 ぐるんと暗闇に反転した。

 最後まで残っていたのは、暖かな手の温もりだった。

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