第29話 王女の贖罪 上

 過去に戻ってきたのは、僕を救うためではない。

 じゃあ、美波さんはなんのために戻ってきた?

 わからない。わからない。わからない。

 頭が真っ白になって何も考えられない。


 屋上に吹く風で美波さんの髪が揺れ、彼女の顔を隠す。

 暗がりの中で一瞬だけ垣間見えたのは――大粒の涙を浮かべ、鬼気迫る光を携えた彼女の双眸だった。


『こんなはずじゃなかったのに』

「みっ――」

『あのときと同じ日になんて、こんなの絶対に嫌……!』


 伸ばした僕の手をすり抜け、美波さんが逃げていく。引き留める間もなく彼女はドアを開けて屋上から去って行った。

 足底がくっついてしまったように一歩も動けなかった。

 思考が凍り付き、視界にノイズが走っていた。

 ドアが開く。僕はハッとして振り返る。


「おーい施錠するぞよー。誰かいるかー……って才賀か」


 姿を見せたのは冬子先生だった。先生は鍵を手にして辺りを見回している。


「一人だけ?」

「あ……はい」

「じゃあ早く出て。施錠するから」


 促されるままドアに向かう。足がすんなり動いたことが、軽くショックだった。

 僕が近づくと冬子先生はすっと避けてくれる。自然な仕草よりも若干、距離を開けすぎている気はした。


「そういやさっき葛城が駆け下りていったけど、追わなくていいの?」


 僕は、何も言えなかった。

 冬子先生は肩を竦め、ドアを閉める。

 ガチャンという音がして、周囲が暗くなる。

 出口のない牢屋に閉じ込められたみたいだった。


 後夜祭はバンド演奏にダンス披露にと大いに盛り上がった。生徒会が実施した仲良しカップル投票戦の結果発表もその興奮に拍車をかけたようだった。

 見本に使われた僕と美波さんの写真は大健闘して、三位という高評価を得る。発表に対して皆から祝福されたという。

 その光景を、僕は次郎から聞いて知った。美波さんも似たようなものだろう。

 僕らは二人とも、後夜祭には出なかった。

 僕らの文化祭はこうして、幕を閉じる。


 ***


 凝り固まった肩をほぐしながら立ちあがり、部屋のカーテンを開ける。眩しさについ目を細める。

 もう日が昇って随分と経っていた。

 学校から帰ってきてずっとパソコンに向き合っていたので時間の感覚があまりない。文化祭の疲労と徹夜のせいで身体のあちこちも痛い。今日が振替休日じゃなかったらきっと大変だった。

 不思議と頭は冴えているのだけど。


(……いや、何もかも麻痺しているだけだな)


 自嘲気味に考え直す。

 昨日から僕はずっと、一人だけ世界からはみ出してしまったように、現実感が消失している。


「……お前、高三になれないってさ」


 窓に映る自分に向けて呟いてみる。当たり前だが返事はない。

 椅子にどっかりと座る。口元を触って、自分が笑っていることに気づく。

 実感なんてあるはずもない。辛いとも悲しいとも感じず他人事みたいに捉えている。

 それはそうだろう。自分の寿命があと数ヶ月だなんて到底信じられない。

 でも美波さんの言葉が、彼女の行動が、状況証拠のように無慈悲な事実を突きつけてくる。


 帰宅してからも寝る気にならなくて、僕はパソコンでずっとタイムリープのことを調べていた。なにかを黙々と続けていないと、夜の静けさに耐えられない気がした。

 当たり前だが創作物のことばかりがヒットした。過去を変える結末もあれば変えられないバッドエンドまで様々あった。

 どうしたらハッピーエンドを迎えられるのかなんて、どこにも書いていない。

 タイムリープに原理があるかどうかも一応は調べた。過去に戻るのは時間の不可逆性がどうとか、タキオン粒子がどうとか、多世界解釈がどうとかで、僕の頭ではうまく処理できない話ばかりだった。理解したところで一介の学生には何もできやしない。


 そうして夜通しパソコンに向かって朝を迎え――結局、考えるのは美波さんのことばかりだった。

 どうして彼女は一年も前に戻ってきたのか。

 もし僕を助けられるならもっと短い期間に戻るはずだ。

 いや、実際に美波さんはそうしていた可能性が高い。

 何度も何度も辛い場面を見続けてしまったからこそ、後遺症のように僕の傷つく姿を忌避するようになってしまった。

 それは逆に、過去を繰り返しても僕を助けられなかった事実を突きつける。


 僕を助けるために一年も前から徐々に過去を変えていく必要があった――と穿った見方をできなくもないが、無理だろうなと思う。

 文化祭の事件が形を変えて起こってしまったように、どんなに予防しても別の死因が生まれるのではないかと想像できてしまう。

 では、彼女の目的は一体何なんだ? 笑顔を取り戻すため、なんて理由が今更本気だとも思えない。

 考えても考えても、彼女の動機がわからない。

 

(……いまどうしてるかな、美波さん)


 スマホを確認する。連絡があったのは次郎と佐伯だけだ。後夜祭に来なかったことを心配されていた。悪いが返事はしていない。

 椅子にもたれかかり腕で目元を隠す。

 彼女から何も言ってこないのも、仕方のないことだと思う。

 僕は明日、どんな顔をして会えばいいだろうか。

 ……でも、こんなときでも、彼女に会いたい自分がいる。

 会って話がしたい。

 これからのこと。そして、今までなにを想っていたのかを。


 ――やっぱり一年前に戻ってきて良かった。こんなにも大切な思い出が作れたんですもの。


 不意に美波さんの言葉が蘇る。

 何かが引っかかった。

 雲のようにあやふやなものを必死に手繰り寄せていると、チャイムの音が鳴った。

 宅配便か、マンションの管理人でも来たのだろうか。母は仕事に出て居ないので僕が応対するしかないのだが、正直億劫だった。居留守を使ってしまうか。

 しかしまたチャイムが鳴る。息を潜めてみても、またチャイムが鳴る。


「うるさいなぁもう……」


 悪態を吐いて玄関に向かう。もう一度チャイムが鳴らされると同時に、玄関を開ける。

 ヒュ、と、息が詰まった。

 立っていたのは、美波さんだった。


「連絡もなしの訪問でごめんなさい」

「え、あ……?」

「中に入れて貰ってよろしいですか」


 予期せぬ訪問に思考が途切れる。美波さんの、一歩も引かないと言いたげな意思の強い瞳を前にして、僕はたじろぐ。


「駄目ですか」


 有無を言わさぬ迫力に押されて、僕はつい玄関に招き入れてしまった。

 ワンピースにカーディガンを羽織った姿の美波さんは、言葉をかけることもなくスリッパも履かずに僕の部屋まで歩いていく。呆然としていた僕は我に返り、すぐに自室に向かう。

 彼女は部屋の中央にちょこんと正座していた。硬い表情でじっと壁を睨んでいる。

 「あ、あの」声をかけても特に反応がない。なぜこんな状況になっているのか理解が追いつかない。

 仕方なく隣に座ると、彼女が姿勢を正す。


「昨日は突然逃げ出してしまい、本当にごめんなさい」


 僕はギョッとする。正座をした彼女が三つ指ついて頭を下げていた。


「なにしてるの美波さんっ」

「あなたにとても失礼なことをしてしまいました。反省しています。その謝罪に来ました」

「い、いや、あのことは怒ってるっていうか……」


 美波さんが静かに頭を上げ、至近距離から僕を見据えた。

 ……なぜだろう。彼女の顔つきが妙に大人びていて、ほんの少しの憂いを帯びた肌の白さが、いやに艶めかしく感じる。


「私はあなたを傷つけていました。意図しなかったとはいえ、私の態度があなたに期待を持たせていた……そして、その気持ちを裏切ったんです」

「それは――」

「だから私は、あなたに許してもらうために、ここに来たんです」


 美波さんが音もなく立ちあがった。そしてカーディガンを脱ぎ、床に落とす。

 次にワンピースのボタンを外し、肩から服を脱いでいく。


「――は?」


 僕の前で美波さんが白い肌を晒していた。

 意匠の凝った可愛らしいショーツとブラしか身に纏っていない。

 カーテンの隙間から漏れる陽光を受けた彼女は、輝いてすら見えた。


「こーくん」


 ゆっくりとしゃがみ込んだ美波さんが、四つん這いの格好で僕に近づいてくる。


「抱いてください」


 囁くような声が鼓膜を撫でる。

 僕は尻餅をついて、追われるように身を引く。


「ちゃんと準備はしてきましたから」


 ゴキュ、と喉の鳴る音がした。


「だめ、ですか?」


 美波さんがしゃなりと、僕の首に腕を絡めてくる。甘い香りと柔らかな肌触りに身体が沸騰しそうなほど熱くなる。

 どうして――これは僕のためなのか、美波さん自身のためなのか。

 僕のせいなのか、美波さんのせいなのか。

 弾けそうな理性で考えようとしても、視界に飛び込んでくる胸の膨らみや白い太ももがとても扇情的で、ノイズを生む。


『お願い、こーくん』


 訴えかけるように囁いた美波さんが、僕に軽くキスをする。


『私を、嫌いにならないで』


 美波さんが涙を浮かべていた。

 目眩のように視界が揺らぎ――

 気づけば僕は、彼女を抱きしめて、ベットに倒れ込んでいた。

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