第20話 王女の献身

 ぼんやりと、声が聞こえる。


『……あなたはきっと、皆のために、そして私のために……こんな無茶なことをしたのでしょうね』


 その声は僕の胸の奥をくすぐり、癒し、幸せな気分で満たしてくれる声だ。

 それが今は、とても悲しそうだった。


『あなたはいつもそう。他人のために動ける人だから……いえ、自分というものの優先度が低くて、傷つくとわかっていても、躊躇わず踏み込んでしまう』


 こんなにも悲しそうなのはきっと、僕のせいだ。

 彼女に――美波さんに、会いたい。


『昔はそうではなかったかもしれません。でもあなたは、力に溺れて間違った方向に行ってしまったことが悔しくて、許せなくて、変わって……そんなあなたの危うさも優しさも全部、愛おしいと思うんです』


 身体の感覚がない。ここはどこなのだろう。

 真っ白な世界だけが広がっていて、自分の輪郭がぼやけている。

 見えているようでなにも見えていない。

 夢の中で夢だと自覚した状態、と言えばしっくりくるだろうか。

 なのに声だけは鮮明に響いている。


『だからね、タイムリープ前は私が隣でサポートしていこうと思っていたんですよ? 私が支えなきゃって。死が二人を分かつまでって、本気で』


 ふと、記憶が蘇る。こんな体験を僕は、十歳の頃にしていた。

 能力を得る前、高熱を出して入院したとき――付き添いの母が必死に声をかけてくれていたことを、昏睡状態の僕はなぜか一字一句まで鮮明に覚えていた。

 意識朦朧としていて理解できる状態じゃなかったにも関わらず。

 思えば、今と同じように白い世界で母の声を聞いていた気がする。

 あれは母の肉声ではなく、そばに居る母の心の声を聞いていたんだ。


『……もう、そんな夢は描けない。これからのことなんて、将来のことなんて私たちには関係なくなってしまった。今の私は、あなたが傷つく姿を見たくない。私の前では穏やかに過ごして欲しい。誰が傷ついていたとしても』


 この声は、眠る僕に向けた、美波さんの心の声。

 かつて膝枕で眠ってしまったときに聞いた声も、夢ではなかった。


『酷い女だと思いますよね。自分でもそう、思います……でも、私は嫌なんです。あなたの傷ついた姿なんて見たくない。何度も何度も、冷たくなっていくあなたを見届けてきた私にはもう、耐えられない』


 美波さん――呼びかける声が届かない。


『目を閉じたあなたの横にいると、気が狂いそうになる』


 美波さん――もう一度呼びかけても反応はない。


『最後の時だけでいい。そのときはちゃんと覚悟できてるから、寂しくはないから。だって、私も一緒に――』


 美波さんっ。


 ハッとして目を開ける。

 視界には見慣れない天井と、周囲を囲むカーテン――そして僕を覗く、美波さんがいた。


「……ここは? どうして、美波さんが」

「保健室のベットです。あなたは授業前に倒れて、冬子先生に保健室まで運ばれました。そのことを教えてもらったので、様子を見に」

「そっか……ごめん」


 ゆっくりと上半身を起こす。吐き気は収まっていたが、頭に軋むような鈍痛がある。


「保健室の先生は?」

「所用があるということで出て行かれました」

「じゃあ、二人だけなんだね」


 そっと手を伸ばす。椅子に座る美波さんの太ももに置かれた手に、手を重ねようとして――ガタリと椅子ごと身を引かれる。


「……ん?」

『一、二、三、四、五、六――』


 唐突に、美波さんが数を数えだした。なにをしているのだろうか。

 試しにもっと手を伸ばすと、更に離れられてしまう。きっかり30センチ以上の距離が開いている。


『五十九、六十……はい一分』


 宣言のあと、美波さんの声が聞こえなくなる。どうやら能力持続時間を計測していたらしい。しかも数を数える思考で会話すら拒否している。

 鉄面皮の如き無愛想な真顔と、熱のこもっていない瞳。

 ここから導き出せる答えは。


「あの、もしかして、怒ってる?」

「もしかして怒っていないと思っていたのですか?」


 完全にご立腹の声音だった。

 よく見ると鼻面に微かに皺を寄せて僕を睨んでいる。それも可愛らしいのだけど、言ったら激怒されそうだ。


「希海から聞きました。他クラスに入って何をするでもなく歩き回っていたと。能力を使ってなにかやっていましたね?」

「う……はい」

「おそらく、今回の事件の犯人捜し。違いますか」


 やっぱり見破られていた。今の状況だと簡単に結びつけられてしまうか。


「なぜそんなことをしたのですか」

「……犯人を見つけて学校に教えれば、僕らへの処遇も変わるかもしれないと思って」

「私達の場合は、不適切な行いに対するものです。たとえ犯人を見つけ出しても、なにも変わらない可能性の方が高い」

「それでも、やらないよりはマシだと思って」

「無駄なことはしないでください」


 突き放すような言葉に、僕は僅かにムッとする。


「万が一があるかもしれないだろ。それに賭けたかったんだよ」

「だとしたらあなたは考えなしの馬鹿です」

「ばっ……! だ、だって悔しいだろ! 君が生徒会長として文化祭に出るのは最初で最後なのに。それを台無しにされたんだ」

「余計なお世話です。私は頼んでません」

「っ……ああ、そうだよ。これは僕の独りよがりだ。でも美波さんを傷つけた奴を許せるはずがない。僕の手で捕まえないと気が済まない」

「やっぱりあなたは馬鹿です!」


 ギクリとする。

 美波さんが声を荒げたことに対してではなく。

 ……彼女の大きな瞳から、小さな涙がぽろぽろとこぼれ始めていたから。


「なにもわかってない」


 胸を抉るような、切実な訴えだった。

 美波さんが膝の上の手を拳に握りしめて、うつむく。長い前髪が彼女の顔を隠す。


「私だって悔しいし、怒ってます。あなたと一緒なんです。その気持ちを二人で共有して、二人で結論を出せばいいじゃないですか。運が悪かったねって笑って言ってくれたら私も一緒に諦めますし、あなたが泣いているなら一緒に泣きます」

「……」

「こんな風に無理して倒れるようなことをされても、素直に喜べません……たとえ私のためを思って黙ってしてくれたことでも、私には寂しいし、辛い」

「……」

「どうして、こーくんの気持ちを私にも感じさせてくれないんですか。私はあなたの、彼女ですよ……!」


 頭が急速に冷えていく。

 美波さんは、僕が犯人探しをしていたことを怒っているのではない。

 遠慮という名の元に彼女を置き去りにしたから。なにも相談せず勝手に決めて許されると思っていたから。彼女の信頼を軽んじていたから。

 これでは、能力に頼って他人をおざなりにしていた頃と、なにも変わらない。


「……ごめん。僕が、馬鹿だった」


 下半身にかけられた毛布の端を、強く握りしめる。


「君に心配かけまいとしてやったことなのに、結局こんなことになってる。ちゃんと考えてるつもりだったけれど、なにも配慮できてなかった……ほんとごめん」


 僕は、次郎が生徒会を裏切って犯人のために行動したことが許せなかった。

 その生々しくて卑しい感情を見せて幻滅されるのが怖かったんだ。美波さんのためにだなんて、建前でしかなかった。

 袖で涙を拭った美波さんは、深々と息を吐いて、小さく顎を引く。


「今からじゃ遅いかもしれないけど。なにがあったのか、話すよ」


 僕はベットに座ったまま、次郎とのやり取りを簡潔に説明する。

 その間、美波さんはじっと耳を傾けてくれていた。


「……そうですか。次郎さんが、犯人を庇っている、と」

「うん。それで犯人を暴こうとして、二年生全員の心を読むことにした」

「また無茶なことを」


 心底呆れたというふうに美波さんは嘆息する。


「……あなたが黙っておこうとした気持ち、わからなくはないです」

「そ、そう?」

「ですが! 私にとっても大事な友人の一人で生徒会の仲間なんです! 事後報告されたってそんなの虚しいです!」


 ぐうの音も出ない正論だった。居たたまれなくて彼女と目が合わせられない。

 身じろぎする気配があった。直後――ふわりと、頭が柔らかくて暖かい感触に包まれる。


『ばか。こーくんの大ばか』


 僕の頭を抱きかかえる美波さんがギュッと力を込める。

 彼女の香りと暖かさと鼓動を感じると、なぜか、泣きたくなってきた。


「……ごめん」


 背中に手を回す。


『ばかばか。今度隠し事したら許しませんから』


 美波さんは更に力を込めて抱きしめてくる。

 僕を絶対に離さないように、守るように。


「……今度したら、別れられちゃうかな」

『そういうこと言う時点でもうダメです』

「はは、ごめん」


 笑いながら、ゆっくりと深呼吸して目を閉じる。

 冗談めかして言っているが、きっと美波さんの中にそんな考えは欠片もない。僕と離れるという選択肢を持ち合わせていない。

 今までは単純に受け取って喜んでいたけど――もう、別の意味にしか捉えられない。

 胸が苦しくて仕方がなかった。

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