第11話 避難する王女
思わず声が出てしまったとき『にゃっ!?』美波さんが声を上げ僅かに肩を動かしていた。正確にはそう思考しただけで彼女の口は一ミリも動いていないし表情の変化もない。逆に器用だ。
『びっくりしました。どうしたんですか急に』
「ごめん。ちょっと自分でも意外な想像しちゃって……」
『私の水着姿を思い浮かべても良いですけどお静かに』
「はははそうだねいや待て違うおかしい!」
『夏休みの妄想をしていたのでは?』
「急に!?」
『次郎さんが夏休みの遊びについて言っていましたので』
「衛星中継なみの時間差だな。あとなぜ水着と思ったし」
『男性が真面目な顔をして黙っているときは、異性のえっちいことを妄想しているときと聞きました』
誰だ王女に不埒なことを教えたやつは! あながち間違ってないけど!
「いいかい美波さん。考えていたのはもっと別の、真面目なことです」
『別に言い訳しなくてもいいのですよこーくん。あなたにならあんなことやこんなことや全裸を想像されても不快にはならないです』
「最後直球だな! だから水着の妄想してないって」
『私の水着姿に興味は?」
「ある」
『ほら』
「ほらじゃないよ完全にこじつけじゃん」
素直に答える僕も僕だが。
『そうですか、残念』
「……水着のこと考えてほしかったの?」
『好きな人に見たいと思われるのはとても嬉しいことですよ、女子的に。あとちょうどいいタイミングというか、水着のサイズが合わなくなっていたので、もしプールなど行くなら新調したいです。タイムリープ前はまだ付き合っていませんでしたから、一緒にお買い物に行くのもいいかなって』
ほう、サイズ。サイズが合わなくなった。うん。なるほど。それは一大事だな。
『わぁ。本当に深刻そうな顔でスリーサイズのこと考えるんですね、男の子って」
「なぜわかった」
『わからいでか』
だってしょうがないじゃん健全な男の子だもの! 惚れてる女子にそんなこと言われたら詳細まで想像しちゃう生き物なんだよ!
――そのとき頬に冷たいものが当たった。
「あれ」美波さんが空を見上げる。間を置かずに、暗闇の夜空からぽつりぽつりと雨が降ってきた。
「あちゃ、降ってきたね」
「今日は晴れの予報だったのですけど」
そう言いながら美波さんが自分の鞄をごそごそと物色する。が、眉を曇らせながら「傘、置いてきちゃいました」と呟く。どうしよう、僕も傘は持っていない。
そうこうしている内に勢いを増した雨粒が僕らの頭や服をどんどんと濡らし始めた。この勢いはまずいかも。
「どうしましょう。この先のバス停、屋根がないんです」
美波さんが不安そうに僕を見る。さすがにこの雨の中で傘も差さずに待つのは無理だ。もしバス停到着と同時に運良くバスに乗れたとしても、濡れそぼった美波さんを乗客に見せることになりかねない。
迷いは一瞬だった。
「走るよ」
「え?」
僕は彼女の手を引いて雨の中を走る。バス停とは違う方向に向かって。
「こ、こーくん、バス停はあっちですよ?」
「雨が降ってきてるのに待てないでしょ? うちのほうが近い」
『えっ』
「えっ」
美波さんの思考の声と口からの声が連続して聞こえた。心の声がそのまま漏れたくらい意外に思われたようだが、致し方ない。自宅マンションまでは少し距離があるが、バス停でずぶ濡れにさせるよりはマシだ。家に帰ればタオルもある。
雨の勢いはもうほとんど土砂降りみたいになってきた。うおお前が見えねぇ。
僕は必死に美波さんを引っ張り、なんとか自宅マンションまで辿り着いた。エントランスに駆け込んで一息つく。
「ふぅ。ここまで来れば大丈夫かな」
「あ、あの、本当にいいのですか?」
濡れた目元を拭いながら振り返る。美波さんは鞄で胸元を隠すようにして立っていた。その服も髪の毛もだいぶ濡れている。髪の毛が頬やおでこに張り付き、恥ずかしげに赤面している姿が妙に色っぽい。軽く動揺した僕はすぐに目をそらす。
「急にお邪魔しちゃって……ご迷惑では」
「だって、そのまま帰ることもできないでしょ。むしろそんな姿で帰らせたくない」
美波さんはちらと自分の姿を見て『確かにこれは』と心中で呟いていた。
「ここにいても風邪ひいちゃうし、他の人の目もあるから家に行こう。大丈夫、母さんもいるよ」
「は、はい」
『はうう……こ、こんなことになるなんて』
だいぶ困惑しているのか美波さんの不安げな声が聞こえてくる。ここは彼氏としてどっしり構えておかないと。
遠慮がちな美波さんを連れてエレベータに入る。なるだけ彼女の方を見ないで自宅まで進む。ここまでは運良く誰とも遭遇していない。
僕は自宅の前まで行き、才賀というプレートのついたドアの鍵を開けて、ゆっくりと引いた。
……まずい、と思った。
玄関の奥が、暗い。
「もしかして、お母様はまだ帰っていらっしゃらないのでしょうか?」
玄関先で聞かれて我に返る。「み、みたいだね」できるだけ明るい声を出した。二人きりという事実を無闇に意識させるのはよくない。
(あれ、でも。美波さんてこういうシチュエーションで怯えるタイプだっけ?)
……。
躊躇っていると「へくちっ」という可愛らしいくしゃみが背後で聞こえた。
ええい迷っている場合じゃない。
「寒いよね、早く入って。今タオル持ってくるから。あ、拭くなら洗面台のほうがいいか」
「はい、あの、お借りしたいです」
頭をまっさらにしてバスルームに行き、真新しいフェイスタオルとバスタオルを取って戻る。それを玄関先の彼女に渡して「こっちだから」とバスルームまで案内する。靴を脱いだ美波さんは足早にバスルームへ入ってドアを閉めた。
「終わったら呼んでね」ドア越しに伝えると「……こーくん」か細い声が聞こえてきた。
「思ったよりだいぶ、濡れてました。これでお部屋に行くわけにはいきませんので、その、お洋服を貸して頂けませんか?」
服。その単語がまっさらな頭に入力された瞬間、体温が上昇した。
「本当にごめんなさい。ちゃんと洗ってお返ししますので」
「わ、わかった、ちょっと待ってて!」
超特急で自室に行き、タンスを開ける。
(服ってなにを出せばいいんだ!?)
色々な服を掴んでみるがどれも美波さんのサイズには合わない。当たり前だが僕が使ったものしかない。そういえば自分もずぶ濡れなことを思い出したので急いで着替えつつ、ふとあることに気づく。
(これ、俗に言う彼シャツみたいな感じにならないか?)
彼シャツ――彼女が彼氏宅にお泊まりすることになったがパジャマなど事前の用意がなく彼氏の私物のシャツを借りた状態のことを言います。だぼだぼ感と萌え袖が特徴で、自分の服を彼女が着ている光景に満足感が得られます。お試しください。
(ってお試ししちゃらめえええ!)
美波さんが、胸や太ももがチラ見できそうなルーズな格好のまま僕の部屋にちょこんと座っていたら。僕は目のやり場に困るどころか、理性が吹き飛んで後ろからガバっと行きかねない。おあつらえ向きにちょうど親もいない。
前回はまだ生徒会メンバー同士だったので自制できたが、僕らは既に彼氏彼女の関係だ。能力のことでも僕は美波さんに対して遠慮する必要がないから、トラウマというストッパーも役に立たない。
(でも恋人同士だし、別にいい、のか……?)
首筋も鎖骨も胸元も隠そうとせず、艶めかしい太もももあらわにして「こーくん」などと耳元で囁かれたら僕は、僕の僕はぁああああ!
(いかーん! ちゃんとした服を選ばないと!)
彼氏彼女にも節度というものがある。露骨に彼シャツを着せようとしたら美波さんもドン引きするかもしれないし。
決してチキンだからではない。アレを用意していないという事情もある。うん、ここは紳士に行くべきだ。
では、紳士はどういう服を選ぶべきか。
悩んだ末に僕は一着の上下セットを選び、急いでバスルームに戻る。
ドアをコンコンと叩き「置いておくね」と告げてから、少しだけドアを開けてさっと服を入れる。ドアを閉めると「ありがとうございます」控えめな声が返ってきた。
がさごそという物音がして、きいとドアが開く。
「うん、サイズぴったり。良かった」
出てきた美波さんは、僕の中学時代のジャージを身に纏っていた。
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