第36話 託す王女 -美波side-
葛城美波にとってこの日、この大学病院のロビーで座っているのは、生涯で二度目だった。
がらとしていて、ときどき医療スタッフや警備員が通り過ぎて、隣に足立悠という小学生の少年が座っているのも同じ。
唯一変わっているのは、未来の情報をインプットしている美波の頭の中だけ。
美波は膝の上に置いた手に力を込め、静かに息を吐く。とくんとくんと、早くなる心臓の鼓動を感じる。
彼女はうつむきながら、タイムリープする前のことを思い出していた。
悠から偽彼女の依頼を受けた美波は、最初はかなり戸惑った。断ろうともした。
しかし彼の懇願と友人を想う健気な気持ちに情が湧いて、つい引き受けると言ってしまった。
成功の可能性が低かった、というのも理由にはある。十中八九見抜かれるだろう。
だから、少年の拙い計画はきっと笑い話になって終わると美波は考えた。
甘い見通しだった。
――帰れよ。
――……え?
――そんな冗談に付き合ってやる気分じゃないんだよ……!
美波は弁明しようとしたが、黙っててくれ、と千晶に吐き捨てられるだけだった。
――お前、俺をからかって楽しんでんだろ。
――ちがっ……千晶が、こんな俺でも可愛い彼女作ってこれたら、現実への希望も持てるかもって、言ったから。
――……あのときのことなんて……。
――ごめん、俺、千晶のためになにかしたくて……怒らせるつもりじゃなかった。
――そういうとこがガキなんだよお前。なんでも俺の言うこと信じやがって……!
――う……。
――あんなの鵜呑みにするなよ!
――……。
――帰れよ。
――でも。
――帰れ!
蒼白になった顔で、悠は病室を駆け出ていった。美波は慌てて追いかけ、千晶とはなにも喋らず病室を後にした。
その後は傷心の彼になんと声をかけたらよいかわからず駅で解散してしまい、その迂闊さが後に警察沙汰を起こした。
自分の失態に落ち込んだ美波は、せめて千晶に謝罪したいと病院に赴いたが、面会謝絶の彼にはついぞ会えずじまいだった。
それから二週間ほどして、悠は両親に連れられる形で美波のもとに謝罪に訪れた。頭を下げる両親の隣に座っていた彼は、まるで別人のように暗く、痛ましかった。
美波は最初、罪悪感がそうさせているのだと考えていたが――違った。
両親は告げた。千晶が、あの日から一週間後に、亡くなったと。
美波は愕然とし、ここでようやく面会謝絶になっていた理由に気づく。
同時に、あの日だけが会話できる最後のチャンスだったことも。
今にも消え入りそうな姿で帰っていった悠を見て、美波は決心した。
タイムリープで一からやり直すことを。
そして美波は未来を変えた。悠の願いを聞き入れなかったことで、警察沙汰にはならず、彼も深く傷つかずに終わった。
代わりに最後の時間は、なにもしてやることができなかった。
それでいいと思った。あんな結末に比べれば、この終わりの方が随分とマシだろうと。
しかし彼女の心の底には、コールタールのような後悔が、ずっとへばりついている。
「なぁ、美波ちゃん。あの人、大丈夫かな」
隣にいる悠に声をかけられ、美波は顔を上げる。
「結構時間経ってるけどさ。本当に千晶のこと任せてもいいのかな」
「……ええ、きっと大丈夫です。孝明くんはやると言ったらやる人ですから。信じて待ちましょう」
どこか釈然としないながらも悠は頷く。不安を和らげようと美波は彼の背中を優しくさすり、そしてここにはいない男子のことを想った。
悠から事情を聞いた孝明は、自分が千晶を元気にさせてみせる、と言い始めた。
なにをするのか訪ねると、彼はかすかに笑って言った。
――ようは今日の会話を喧嘩させずに終わらせればいいんだろ? たぶん、僕の能力ならできるから。
そうして彼一人が病室に向かって、既に三十分以上は経過している。
美波はロビーの床をじっと見つめ、緊張している自分を自覚した。
いくら心を読む能力を持っているとはいえ、こんな短時間でなにができるだろうか。千晶の慟哭のような叫びを目の当たりにした美波にとって、それは物凄く困難なことに感じられた。
……だけど、孝明なら。
心の底にへばりついた後悔をあっさり見抜いてしまう彼ならと、期待してしまう自分も存在する。
(あの人はいつも、私を救ってくれた。今日も、きっと)
孝明は、笑わない王女の本心をいとも容易く見抜き、解きほぐし、支えてくれた。
タイムリープしたところでなにも変わらない。それが彼の本質だから。
(私は、あなたに託したことだけは、絶対に後悔しませんから)
心中で呟いたとき、スマホが振動する。孝明からメッセージが来ていた。
――千晶くんと屋上のテラスにいるから、上がってきて。
「どうしたの?」
「屋上で、千晶くんが待っているそうです」
声が震えないように注意しながら告げた美波は、悠の手を握りしめてエレベーターへと向かった。
***
病院の屋上は開放的なテラスになっていた。手すりの前では、車いすに座ったパジャマ姿の少年がいる。
美波はその少年を見た瞬間、軽く驚いた。
白くやせ細った首筋や腕、頭髪を隠す帽子も点滴の数も、タイムリープ前と変わってはいない。
ただ一点。少年は――千晶は、あのときとは比べものにならないほど穏やかに笑っていた。
「おーい、悠」
千晶に手招きされた悠は、一瞬だけ戸惑ったものの、すぐに駆け寄っていった。
「さっき病室に来た高校生の人から聞いたぞ。お前、偽彼女なんか頼んだらしいじゃん」
「うぇ!? あ、あ~……うん」
悠は恥ずかしげに認めながらキョロキョロと周囲を見回す。バラした孝明を探しているようだったが、その彼の背中を千晶が軽く叩いた。
「お前ほんと馬鹿だよな~。そんなの普通するか?」
千晶が笑うと、悠は「だってよ!」と指を突き付けた。
「俺がもし美人のJKと付き合えたら希望持てるかもって千晶が言ったんじゃん!」
美波はドキリとする。タイムリープ前はここで千晶が激しく憤った。
しかし今の彼は「あ~、うん」と気まずげに呟き、ニット帽の上から頭を掻くだけだった。
「それ、俺を元気づけようとして考えたのか?」
「……うん。なんていうか、羨ましがってほしかった。俺に負けそうなときの千晶、わりとすげーじゃん。見返してやるって思ってくれたら、いいなって」
「そっか」
千晶は手を伸ばし、悠の頭にポンと手を置く。
「なんか悠らしくて逆に安心した」
「な、なんだよそれ」
「はは……でも、お前にここまで心配かけるなんてちょっと恥ずかしいな。この借りは元気になったら必ず返す。約束だ」
千晶は、ともすると泣き出しそうにみえるほどくしゃりと顔を歪めて、笑った。
悠は顔を弛緩させて、くすぐったそうに笑った。
美波は二人の様子を呆然と見つめていた。なにが起こっているのか彼女には理解できなかった。最初のときとはまったく真逆の結果になっている。
むしろこの光景こそが、彼女が望んでいた光景そのものでもあった。
「うまくいったかな?」
横合いから聞き慣れた声がかかる。振り返ると、孝明が立っていた。
「あなたが、千晶くんの気持ちを変えたのですか?」
「そんな大げさなことじゃないけどね」
「……どうやって」
「本音を引き出しただけだよ」
そう言った彼は、遠慮がちに笑っていた。
心臓が高鳴る。いつもの、大好きな彼の姿だ。
決して自分の成果を誇るでもなく、ただ静かに優しく告げて寄り添ってくれる。そんな、心から尊敬する姿。
美波は孝明の手を握りしめた。彼はビクっと反応していたが、されるがままだった。
『教えてください。あなたが、どんな魔法を使ったのかを』
頭の中で語りかけると、孝明は一瞬びっくりしたような表情を浮かべ、次に悪戯っぽい笑みを見せながら答えた。
「それはまた、後日ね」
意趣返しを受けた美波は軽く驚き、そして頭の中でくすりと笑った。
もちろん彼の目には、笑わない王女のまま――。
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