第37話 王女の代わりに

 リクライニングベットに深く身を預けた少年――千晶という名の中学生は、じっと自分の拳を見つめていた。

 頬がこけ目の下のくまも酷く、頭皮を隠すためかニット帽を深く被っている。

 ただでさえ痛々しい姿が、困惑と動揺のせいで更に陰鬱そうな影を落としていた。

 無理もない。見ず知らずの高校生が入室してきて、しかもその人間から幼馴染の無謀な計画を伝えられたのだから。


「……それで、なんであなただけが、来たんですか」


 声はしゃがれて小さい。既に体調悪化の兆しが現れていた。

 僕は、生じた躊躇いを押し殺して告げる。


「さっきも説明したように、足立くんはうちの生徒会長に偽彼女を頼んで、彼女はそれを引き受けてしまったんだ。事前に止めたけど」

『本当に悠がそんなことするのか? これ、なんかのイタズラじゃないだろうな』


 ベット脇の椅子に座って話しかけているため、能力は常時発動している。彼の心の声はノンストップで頭に流れ込んでくる。


「僕らは部外者だから、二人の話に入るのもどうかと思ったけど……でも、放っておけなかった。僕だけ来たのは、まず君と話がしたかったからなんだ」

「そう、ですか」

『やっぱりこの人、ちょっとおかしい。嘘ついてないなら変人級の物好きだ』


 悪いけど後者だ。

 千晶少年は、疲れたようにため息を吐いた。


『変な日だな。昨日から身体が痛いってのに。第一、俺は関係――』


 思考が止まる。彼は微かに眉根を寄せて『あのことか?』と呟いた。

 自分に原因があることに気付いたらしいが、はっきりと口に出して説明すべきだろう。


「足立くんは、君に生きる気力を取り戻して欲しかったと言ってる。だからショック療法みたいなことを試そうとしたことも」

「……馬鹿なことしたもんですね。そんなことで俺が変わるわけないのに」

「やっぱり、本気で言ったわけじゃないんだな」


 千晶少年は、のろのろと僕の方を向いた。


「足立くんを困らせたかったから、彼女を作ってこいなんて言ったんでしょ」

「なんのこと、でしょうか」

『悠しか知らないことだ……じゃあこれも本気で?』

「自暴自棄になってた君は、彼の励ましが鬱陶しくなった。だから突き放したくなった。違うかな」


 美波さんから二人の喧嘩の経緯を聞いたとき、僕は違和感を覚えた。

 年下の幼馴染が女子高生の彼女を披露したとして、当然そこは嘘だとか冗談だろうと疑う感情が芽生えるはずだ。

 即座に激怒するほどの悪感情が生まれる状況とは思えない。

 ならそこには別の理由があるはずだ。


 ヒントは、タイムリープする前の美波さんの経験にあった。

 千晶少年は、なんでも俺の言うことを信じやがって、と憤ったという。その言葉はつまり、本人も本気じゃなかったことを示している。おそらくはできもしないことをふっかけて足立くんの困る反応を見たかったのだろう。

 一言で言えば、憂さ晴らしをしただけ。

 だから彼は、足立少年の行動にショックを受けた。

 八つ当たりをした自分と、幼馴染の言葉を真に受け必死に救おうとした足立少年を比較して、耐えきれなくなった。


「……だとしたら、どうなんですか」


 黙っていた千晶少年がぼそりと呟く。病弱ながら鋭い目つきだった。


「単なる冗談じゃないですか」

『真に受ける方が悪いんだろ』

「だけどその冗談を足立くんは、君が本当に望んでることだと思った」

「あいつ単純ですからね」

「違うよ。君のことを信じてるから疑わないんだ」


 千晶少年が鼻頭に皺を寄せる。


『なんなんだよさっきから。訳知り顔で言いやがって』


 通らなければいけないプロセスとはいえ、良心がズキズキと痛む。

 だけど、ゆっくりと歩み寄る時間は残されていない。


「僕から言いたいことは一つ。こんなことをするまで君を心配した足立くんと、ちゃんと話してほしい」

『……もしかして、悠に同情してるのか? この人は』

「必要、ないでしょ。あいつには、ふざけたこと言ってごめんって、あなたから伝えてください」

「悪いけどそれはできない。僕は君に謝って欲しいわけじゃない。お互いの気持ちを伝えてほしいと言ってるんだ」


 千晶少年は理解ができないようで眉をひそめた。


「言い方を変えようか。君がなぜ足立くんを突き放すことができたか、わかる?」

『は……? なに言って?』

「どんなことを言っても足立くんはまた見舞いにきてくれる。それがわかってるから、憂さ晴らしの相手にできたんだよ」


 ハッと、息を呑む音が聞こえた。


「足立くんが君の言うことを根っから信じていたように、君も、自分が足立くんから好かれてることを疑っていない。そこに甘える気持ち、ないわけじゃないだろ」

『俺が、悠に甘えてる?』

「自分が足立くんに無茶なことをさせたことも、君は気付いている」

『違うんだ、俺は』

「もし僕らが止めなかったら、君は物凄く後悔していたはずだよ。自分が、足立くんの友情を軽んじていたことに気づいて」

『……あんたなんかに』

「だから、もし彼の気持ちに報いたいのなら、言えることがあるんじゃないか」

「そんなの――」


 反論しかけた千晶少年が咳き込む。僕は咄嗟に彼の背中を擦った。

 落ちつくまで擦っていると、千晶少年の肩が微かに震えていることに気づく。


「……あなたに、なにがわかるんですか」


 ぽつりと呟いた声は、近くでようやく聞き取れるほど小さかった。


「羨ましいっていうなら。もうずっと羨ましかったですよ、俺は。あいつだけ元気なことが死ぬほど羨ましかった。最初こそ、俺もいつかはって思ってたけど……痛くて苦しいことが長く続くと、そんな気も失せるんです」


 千晶少年は、細く長くため息を吐く。


「だから魔が差したんです……そんな気持ち、あなたにはわからないでしょ」

「……うん。偉そうなことを言って、ごめん」


 頷きながら、僕は彼の冷えた背中を手で温める。

 沈黙が降りる。彼のためになにを言うべきか考えて、僕は口を開く。


「……僕にも昔、親友と呼べるやつがいたんだ。でもそいつには嫌われて、もう会うこともない」


 かつての親友のことを思い浮かべる。今はもうどこで何をしているかもわからない。


「絶対に友人でいてくれると、僕は思いこんでた。その根拠があったから。だから調子に乗って、気持ちを無視して……見下されるくらい嫌われた。僕がそいつの友情に甘えてしまった結果だ」


 親友はいつ心を読んでも僕の味方だった。だから僕は、根っから僕のことを信頼してくれているのだと信じ切っていた。

 その断片的な情報を盲信して、僕は好き勝手に振る舞った。普通であれば他人の気持ちを汲む発言もおざなりになった。徐々に親友の心が離れている間も、味方でいてくれるという昔の根拠をあてにして、自分の態度を顧みもしなかった。

 結果として、僕らの関係は破綻した。


「君たちのことを放っておけなかったのは、自分のように手遅れになってほしくないからだと思う」

「……その人とのこと、後悔してますか」

「うん。今でも謝りたい。できるなら、やり直したい」


 千晶少年はうつむき、眉間に皺を寄せる。それは抵抗感というより、迷いの現れだった。

 彼の背中を押すために、僕は覚悟を決める。


「君を傷つけることを承知で言うよ。後悔したことを挽回できる猶予は、人によって違う。それは、十分にわかってるはずだ」


 千晶少年は僕を見た。彼の瞳が揺れていた。


『ああ、そうか……この人はむしろ、


 気持ちは届いた。あとはどう転ぶか。

 僕は手を離して立ち上がる。


『そうだよな……俺のことを見たら、そう思うよな』


 胸の奥に鈍痛が走る。顔が歪んでしまわないよう気を張りながら、僕はそっと離れていく。


『あいつに、言いたいことか……苛立ちをぶつけてごめん? いつも話を聞いてくれてありがとう……はは、なんか恥ずかしくて嫌だな』


 30センチの距離が開く。一分後には心の声が聞こえなくなる。


『なんか、なにを言っても心配かけそうだし……あいつもなぁ。口が悪くてクラスに馴染めないから、俺だけが遊び相手で。その俺が弱音吐いてりゃ心配になるよな……あいつ、一人になっちまうもんな』

 

 そして、心の声は聞こえなくなる。

 病室を包む静寂の中で、千晶少年はずっとうつむいていた。

 沈黙が永劫に続くかと思われたとき、彼は口を開く。


「……やっぱり、言いたいことはありません」


 ゆっくりとこちらを向いた彼にはもう、神経質な苛立ちは消えていた。


「でも、やらなきゃいけないことがわかりました。俺があいつを不安にさせたのが原因なら、心配いらないって態度で示します。それが自分にも、あいつにも必要だと思うから……それでいいですか?」


 伺うように聞いてくる千晶少年に、僕は頷くだけだった。

 それが彼なりの、残された時間ですべきことなのだろうから。


「ありがとう。じゃあ、足立くんを待たせてるから。今から移動できるかな?」


 そう言うと彼は驚き顔を作った。


「なんか、凄いっすね、お兄さん。用意周到っていうか、全部の展開ができすぎてるっていうか……一体、何者なんですか?」

「変人級に物好きな、ただの高校生だよ」


 千晶少年は呆気にとられた後、なるほどと笑った。

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