111 逃亡の先にて

 ジグムントが何処かアメリアも知らない場所に隠れ、彼女の手から逃れる事を決めてから数日後、彼は自分の傍仕えとなる十数人の使用人達と共に自分の屋敷から離れ、とある場所まで向かうべく、馬車を走らせていた。

 彼等の目的地、それはジグムントと同じ伯爵位を持つ貴族であるマクレーン伯爵家が所有する屋敷であった。これから、彼等は目的地であるマクレーン伯爵の屋敷にて匿われる事になっているのだ。


「しかし、まさか都合良く我々を匿ってくれる貴族がいるとはな」

「旦那様のお父上である先代がマクレーン伯爵に大きな恩を貸していた事を思い出したのです。そして、その時の恩を返すつもりで我々を匿っていただきたい、と頼み込んでみた所、喜んで協力を約束してくださったのですよ」

「そうだったのか……」


 執事のその言葉でジグムントは納得した様な表情を浮かべた。彼は先代の時から仕えており、その先代も彼の事を十分、或いはそれ以上に信頼していた。その為、ジグムントが知らない貸しがあったとしてもおかしな話ではない。寧ろ、本当に緊急の事態に備えて、先代がこっそりと作っていた貸しをこの執事だけに教えていても何の不思議もないだろう。

 また、念の為に彼の妻と子供達はまた別の貴族の屋敷に匿われる事になっている。その為にこっそりと先代が作っていた多数の貸しの殆どが消えたらしいが、それでもアメリアに殺されるよりはましだと彼は考えていた。

 また、ジグムントが不在時の領地の運営に関してだが、それは信頼のおける代官に全権を委任している。その為、彼等が身を隠している間の領地の運営に関しても問題は起きないだろう。


 その後、しばらくすると、ジグムント達の乗る馬車は遂に目的地であるマクレーン伯爵家が所有する屋敷へと到着する。


「旦那様、目的地に到着したようです」

「そうか」


 執事のその言葉でジグムントはすぐ傍にいる自分の傍仕えの男の内の一人へと視線を向けた。すると、ジグムントの視線を受けたその男は一度だけ頷き、この馬車から降りて、屋敷の入口へと向かっていく。彼は自分達の乗る馬車が到着した旨をこの屋敷の者へと伝える為の伝令役だった。

 そして、それからしばらくすると、屋敷の入口が騒がしくなったかと思うと、その屋敷の中から一際目立つ服装を身に纏った老齢の男性が現れた。彼こそ、この屋敷の主でありマクレーン伯爵家の現当主でもあるアリアス・マクレーン伯爵だ。

 アリアスの姿を見たジグムントは馬車から降りて、彼の元へと歩み寄っていき、好意的な笑みを浮かべながらアリアスへと声を掛けた。


「マクレーン伯爵、お久しぶりですな」

「ええ、ステイン伯爵もお変わりがない様で」


 そう言いながら、二人は互いに手を差し出して握手を交わす。同じ国の貴族同士というだけあって二人は互いの顔と名前は知っていたのである。


「此度の協力、誠に感謝する」

「いえ、礼には及びませぬ。先代のステイン伯への恩を返せる良い機会ですから」


 それから、二人は数分程度の間、軽い世間話を交わした。そして、その後、アリアスはこの屋敷の入口に控えていた侍女の一人を呼び寄せる。


「そこの君、彼等を屋敷の客間まで案内する様に」

「かしこまりました」

「では、ステイン伯。私はまだ執務が残っていますので、これにて失礼します」


 アリアスは最後にジグムントにそう告げた後、そのまま他の使用人達と共にそのまま屋敷の中へと戻っていく。その後、彼の指示を受けた侍女はジグムント達を案内する様に彼等の前へと立った。


「では、お客様。ご案内いたします、こちらへどうぞ」


 そして、ジグムントと彼の傍仕えの者達はアリアスの指示を受けた使用人に案内されるまま、屋敷の中へと入っていくのだった。




 ジグムントがマクレーン伯爵家の所有するこの屋敷に匿われてから数日後の夜、彼は貸し与えられた客間にて自分の屋敷から持ち出してきた自らのお気に入りのワインを嗜んでいた。

 彼は満足げな表情でお気に入りのそのワインがたっぷりと入ったボトルを眺めた後、目の前の机の上に置かれた空のワイングラスにお気に入りのそのワインを並々と注ぎ、そのワイングラスを手に取った。

 その後、彼はワイングラスをフルフルと横に回しながら、自分の鼻の近くにそのグラスを近づけ、ワインの香りを楽しんだ後、そのワインを口に含む。

 自らのお気に入りのワインという事もあったのだろう。自分の舌を満足させる素晴らしいワインに彼の表情は満悦といわんばかりの笑みが浮かぶ。


 そして、ジグムントがおもむろに口に含んだワインを嚥下したその直後だった。


「旦那様、お休みの所、失礼いたします!!」


 ジグムントがいるこの客間の扉が大きな音を立てながら勢い良く開いたかと思うと、彼に仕えている執事がそんな事を叫びながら、この客間の中へと飛び込んできたのだ。


「っ、騒々しいぞ!! 一体、なんだというのだ!?」


 ジグムントは部屋の中に飛び込んで来た執事に対して、怒鳴りつけようとする。

 主であるジグムントの許可を得てから、入室するのが当たり前の礼儀だ。そんな彼がジグムントの許可を得る事無く、この部屋へと飛び込んできたのだ。生粋の貴族であるジグムントから見れば、執事の行為は無礼極まりないだろう。

 更には、お気に入りのワインを楽しんでいる所だというのに、執事の無礼な行いによってその自分の楽しみを邪魔されたのだ。当然の様に、ジグムントの表情は怒り心頭といわんばかりのものへと変わっている。


 しかし、主の許可を経てから部屋の中へと入室するなどというそんな当たり前の礼儀は貴族に仕える身であるこの執事も弁えている筈である。そんな彼がその当たり前の礼儀すら守らないという事はそれ程の事態が起きたのだろうという事をジグムントはすぐに察する。

 また、執事の慌て具合から考えても、それが正しいように思えた彼は執事に対して怒鳴りつけようとするのを止めて、執事の次の言葉を待つ事にした。


「緊急の事態です!! 今すぐその窓の外から屋敷の玄関口をご覧ください!!」

「? どういう事だ?」


 ジグムントは執事のその言葉に一瞬だけ訝しげな表情を浮かべるが、それ以上彼に対して何かを問いかける事無く、執事の言葉に従う様に窓の元まで向かい、そこから屋敷の玄関口を見下した。


「なっ……」


 だが、次の瞬間、屋敷の玄関口で繰り広げられていた光景を目にしたジグムントは余りの驚きから、手に持っていたワイングラスを手放してしまった。

 床に落ちたワイングラスは粉々に砕け散り、その破片とグラスの中に入っていた彼のお気に入りのワインが彼の服に勢い良く付着するが、当のジグムントはそんな事は一切気にした様子は無い。いや、今の彼にはそんな事を気にする余裕すらなかった、という方が正しいだろう。


 彼が見た光景、それは屋敷の玄関口でアメリアとアリアスの二人が好意的な笑みを相手に向けながら握手を交わしているというものだったのだ。

 その余りの光景にジグムントは只々呆然とする事しかできない。


「なっ、何故っ……、なぜあの女がここに……」

「旦那様っ!! 旦那様っ!!」


 執事は呆然と疑問を呟き続けるジグムントに対して必死に呼びかけるが、反応は一切見受けられない。


「一体、どうやってここが……」

「旦那様っ!! 正気にお戻りください、旦那様っ!!」

「……っ!! あ、ああ。大丈夫だ」


 執事の数度の呼びかけでやっと正気に戻ったジグムントは深呼吸をし、息を整えた後、もう一度窓の外を見る。しかし、そこにあるのは先程見た光景と何も変わらない、アメリアと   の二人が好意的な笑みを浮かべながら会話をしている姿だ。

 だが、その直後、アリアスと対面している筈のアメリアは会話を中断した様子を見せた直後、その視線をおもむろに斜め上、正確に言うなら二階の客間の窓から外を覗いているジグムントの方へと向け、不敵な笑みを浮かべた。


「っ!!」


 アメリアの視線を受けたジグムントは思わず息を飲む。窓の外の様子を見る限り、アリアスは予めアメリアと裏で内通していたのだろう。そうでなければ、アメリアが彼に対してあんな好意的な笑みを浮かべたり、握手を交わしたりはしない筈だ。

 アリアスがアメリアに対して浮かべているその笑みは、何処か引き攣った様な笑みの様にも見えるのだが、遠目である為にジグムントはその事に気が付かない。

 アメリアの視線を受けた直後、ジグムントは慌てて窓の外から視線を外し、執事の方へと向き直る。


「お、おい!! わ、私はこれからどうすればいい!?」

「と、とりあえずこの屋敷から一刻も早く逃げましょう!! 今後についてはそれから考えればいいのです!!」

「あ、ああっ。そ、そうだな、分かった!!」


 そして、ジグムントは動揺しながらも、執事と共に慌てて客間を飛び出していくのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る