109 過去⑥

 これは、アメリアがまだ逃避行を行っていた時の出来事の一つである。


 アメリアがその会話を聞いたのは偶然だった。


「旦那様、ご報告がございます。例のエルクート王国の騎士団ですが、彼等がこの屋敷に到着するのは、数日後になるとの事です」

「そうか、それは上々。くくくっ、しかし、まさかあの女もこの私がエルクート王国と繋がっているとは思うまい」


 この屋敷の主であるジグムントに少し話があった為、執務室で政務を行っている彼の元へとやってきた彼女は偶然、ジグムントと彼に仕える執事のそんな会話を聞いてしまったのである。



 今、アメリアがいるこの場所はエルクート王国に隣接する国の一つであるアクエール皇国の貴族であるステイン伯爵家、その領地であるステイン伯爵領の中にある領主の屋敷であった。

 何故、逃避行をしていたアメリアがこんな場所にいるのか。それは、このステイン伯爵家がアメリアの祖母の出身の家だったからであった。その繋がりから、アメリアは自身の逃亡先としてこのステイン伯爵家を頼ったのだ。

 また、アメリアの護衛をしていた使用人達は全員が彼女を逃がす為に散っていった。その為、この屋敷に辿り着いたのはアメリア一人だった。



 だが、先程聞こえてきた会話通りなら、既に自分はこの屋敷の主であるジグムント・ステイン伯爵に裏切られている事になる。彼等が自分を受け入れたのも、自分という獲物を安心させて、ここから逃げ出す事が無い様に敢えて受け入れる事にしたのだろう。

 それを悟った彼女は思わず苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべた。


(早く、早く何とかしないと……)


 そして、彼女は内心を誰にも悟られない様にしながら、ゆっくりと執務室の前から離れ、自分に与えられている客間まで戻り、頭を抱えて考え込む。


(だけど、これから一体どうすれば……)


 先程聞こえてきた会話が確かなら、追っ手がここに到着するまでには後数日の猶予がある。追っ手がこの屋敷に到着するまでに、何とか逃げだす方法を探すしかない。

 しかし、彼女一人でこの屋敷から逃げ出すのは極めて難しいと言わざるを得ない。もし、運良く屋敷から逃げ出す事が出来たとしても、すぐに追手が放たれ、彼女は捕まってしまうだろう。そうなれば、今度は自由を与えられる事は無くなってしまう。つまりは、逃げ出すチャンスは一度きりしかない。


(命を掛けて私を逃がしてくれた彼等の為にも、私はここで捕まる訳にはいかない。だからこそ……)


 だからこそ、アメリアはこの屋敷から逃げ出す為の協力者が必要だった。一緒に逃げ出すとまでは言わない。せめて、この屋敷から逃げ出す為の足を用意してくれる協力者が欲しい。

 そして、アメリアはこの屋敷から逃げ出す為の協力者をこっそりと探し始めるのだった。




 この屋敷から逃げ出す事を決意したアメリアだったが、彼女にとって運が良い事に、脱出の協力者はすぐに見つかった。その協力者はこの屋敷で馬小屋を管理していたカシムという老齢の男性だった。

 どうやら、彼はアメリアの祖母に大きな恩があるという事で、彼女の脱出に少しばかり協力をしてくれる事を約束してくれた。

 アメリアがこの屋敷から逃げ出す際には、自分が管理しているこの馬小屋の馬を一頭貸し与えてくれる、との事だった。

 無事に協力者も出来た事で、今後の目途が立ったアメリアはその日の夜中の内にこの屋敷から逃げ出す事を決めた。夜中ならば、朝になるまでは追っ手が放たれる事は無いだろうと考えたのだ。


 だが、そんなに現実が甘い筈も無い。

 それが起きたのは、彼女がこの屋敷からの脱出を決行しようとした日の夜、本来の脱出の決行時間の数時間前の出来事だった。

 この屋敷からの脱出を決行する直前、緊張する心を落ち着かせる為に、アメリアはふと自分に与えられているこの客間にある窓からゆっくりと外を覗く事にした。すると、そこには玄関の前でこの屋敷の主であるジグムントが客人を迎え入れている様子が見えたのである。


(こんな時間に、一体誰なの?)


 こんな時間にこの屋敷まで来たというのに、それを屋敷の主自らが出迎えている。彼等は余程の客人なのだろう。そう思った彼女は視線をその客人達へと向ける。だが、アメリアはその客人の男達の顔を見た瞬間、驚きから思わず大きな声を上げそうになってしまった。


(待って、あれはまさか!?)


 間違いない、あの男達はエルクート王国から来た自分を追っている者達だ。

 それを悟ったアメリアの心は、この屋敷から一刻も早く脱出するべきだ、という焦燥感や強迫観念に支配されていく。

 もしかしたら、協力者であるカシムがいる馬小屋に辿り着くまでにこの屋敷で働く使用人達に見つかるかもしれない。そうなれば、自分の行動は確実に怪しまれる。だが、もう時間が無い。そんな、なりふり構っていられる状況ではないのだ。

 或いは、既にこの屋敷の使用人達には自分が逃げ出さない様に見張るように指示が出されているのかもしれない。それでも、彼女はこの屋敷から逃げ出さざるを得なかった。


「っ、急がないと!!」


 そして、アメリアはこの客間から慌てて飛び出し、協力者が待っている筈の馬小屋へと向かっていくのだった。





 アメリアが焦燥感から客間を飛び出してから数分後、彼女は運が良い事にこの屋敷で働く使用人に姿を見られる事無く、協力者であるカシムがいる馬小屋に無事に到着する事が出来ていた。

 だが、焦った様子で馬小屋まで到着したアメリアとは対照的に、この馬小屋で彼女の脱出の準備を進めていたカシムは彼女に対して訝しげな表情を浮かべるばかりだ。


「……アメリア様? まだ、脱出の決行の時間ではない筈ですが、一体どうなさったのですか?」

「ごめんなさい!! でも、追っ手がすぐそこまで迫っていて、もう時間が無いの!! 今すぐ、馬を貸して!!」

「っ!! わっ、分かりました!!」


 アメリアのその言葉で極めて不味い事が起きているのだという事を察したカシムは慌てて彼女に貸し出す予定だった馬の用意をしていく。

 それから数分後、馬の準備が出来た様で、彼は一頭の馬を引きながら、アメリアの元まで向かってきた。


「アメリア様、この馬はここにいる中でも最も速い馬です。ですので、この馬を使ってください。またこの馬の鞍の脇にある袋には数日分の食料や少しばかりの金銭が入っています。これも使ってください」

「っ、ありがとう」


 そして、アメリアは馬に跨り、鞍の紐に手を掛ける。その直後、ここから逃げ出す準備の全てを終えたアメリアは最後に一度だけ、カシムの方へと向き直り、そのまま頭を下げた。


「貴方の協力に心からの感謝を。この恩は絶対に忘れないわ。本当にありがとう」

「アメリア様、ご無事を祈っております。絶対に生き延びてください」

「ええ、分かったわ」


 その直後、アメリアは馬を走らせて、この屋敷から逃げ出し、再びの逃避行を始める。

 だが、それから数十分後、再びアメリアに苦難の時が訪れる事になる。必死に馬車を走らせるアメリアの後方から、微かではあるが何頭もの馬が走る様な足音が聞こえてきたのだ。


「……一体、何の音なの?」


 その音を聞いたアメリアが訝しげな表情を浮かべながら、おもむろに後ろを向くと、遠目ではあるがそこには十頭以上もの馬が自分の元へと迫ろうとしている様子が見えた。


「……っ」


 恐らく、あの馬に乗っているのは自分を追っているであろう追っ手達だ。それを悟ったアメリアは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。


(もう、私が逃げ出した事を知られてしまったのね……)


 追っ手がここまで迫っているという事はそういう事なのだろう。それでも、自分をここまで逃がす為に協力してくれた者達の為にもここで捕まる訳にはいかない、と彼女は必死に馬を走らせるのだった。


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