閑話8 マルティナの初恋の日

 その日、エステリア伯爵家令嬢であるマルティナは使用人達と街中に買い物に出ていた。

 だが、運の悪い事に彼女は自分と共に街に出ていた護衛や使用人達とはぐれてしまう事になってしまう。

 そして、マルティナは使用人達と合流すべく、彼等を探して街を進んでいた。これは、そんな彼女が迷い込んだとある場所で起きた出来事である。






「……っ、ここは、一体……?」


 使用人達を探して街中を進んでいたマルティナだったが、彼女が迷い込んだのは王都にある貧民街の一つだった。

 彼女がいるこの場所は貧民街の入り口付近だというのに、浮浪者達が至る所でたむろしており、その周囲からは異様な雰囲気が漂っている。


「……一体、ここは何処なの……?」


 だが、貧民街というこの場所は貴族令嬢であるマルティナにとっては縁のない場所だ。その為、彼女は自分が一体何処にいるのか、分からなかった。

 今のマルティナの恰好はどう見ても何処かのお嬢様の様にしか見えない。この貧民街においては明らかに不釣り合いだろう。


「……っ」


 貧民街から漂う異様な雰囲気を感じたマルティナは息を飲む。その直後、彼女の脳裏に、一刻も早くこの場所から離れるべきだという考えが過った。

 そして、マルティナがこの貧民街から離れようとした、その時だった。


「よう、お嬢ちゃん。こんな所で何をしてるんだい?」


 この貧民街の住民と思われる男達がマルティナに声を掛けてきたのだ。その男は気持ち悪い目付きとニヤケ顔でマルティナの姿を見つめている。


「ひっ……」


 その男を見たマルティナは思わず後ずさるが、声を掛けてきた男の仲間と思われる数人の男性達が何処からともなく現れ、まるでここから逃がさないと言わんばかりに彼女を取り囲んで行く。


「なぁ、お嬢ちゃん、これから俺達と楽しい事をしないか?」


 彼等は所謂、暴漢と呼ばれる類の男達だった。もし、マルティナが暴漢達に捕まれば、彼女は何処かに連れて行かれ、そのまま襲われてしまう事になるだろう。

 しかし、暴漢達に取り囲まれているマルティナでは彼等から逃げる事も出来ない。だが、抵抗しようにも、今のマルティナが彼等に敵う筈も無い。

 また、誰かに助けを求めようとしても、この周囲には使用人も護衛もいない。それどころか、自分を助けてくれそうな者は誰一人としていないだろう。


「いっ、嫌っ!! こっ、来ないでっ!!」


 マルティナは自分が襲われるという恐怖から思わず尻餅を着き、目を閉じる。だが、そんな彼女の様子に何を思ったのか、暴漢達は楽しげな表情を浮かべた。


「ははっ、そう嫌がる事は無いだろう。これから俺達と楽しく遊ぼうじゃないか」


 そして、暴漢達がマルティナに手を伸ばそうとしたその瞬間だった。


「彼女から離れろ!!」


 何処からともなく現れた青年がそう叫びながら、マルティナを庇う様に暴漢達の前に立ちはだかったのだ。その青年は何処かの学園に所属しているのだろうと思われる制服を身に纏っており、その腰には一本の剣を帯剣している。


「彼女は嫌がっているじゃないか!! これ以上彼女に近づくな!!」


 そして、現れたその青年は腰に挿している剣を抜き放ち、マルティナを襲おうとしていた暴漢達へとその剣を向ける。


「だ、だれなの……?」


 その青年の姿は、純粋無垢な当時のマルティナにとっては自分の窮地に颯爽と駆け付けてくれたヒーローの様に見えた。その青年の後姿を見たマルティナの頬は赤く染まる。

 だが、邪魔をされた暴漢達にしてみれば堪った物ではないだろう。彼等は一往にして苛立った様な表情へと変わる。


「ちっ、俺達の邪魔をするんじゃねえ!!」


 そう言いながら暴漢達は腰の後ろに隠してあった短剣を一斉に取り出し、そのままその青年へと襲い掛かった。


 だが、その青年は短剣を持った数人の暴漢相手にも臆す事無く、一歩も引かずにマルティナを庇いながらも戦い続ける。

 恐らく、青年はこういった戦いに慣れているのだろう。人数差もあるというのに、青年と暴漢達のその戦いは暴漢側の方が次第に劣勢へと追い込まれていく。


「これ以上の傷を負いたくなければ、彼女の事は諦めろ!!」

「おっ、俺達じゃあこいつに勝てねぇ!!」

「くっ、くそがっ!!」

「おっ、覚えてろよ!!」


 自分達では目の前にいる青年に敵わないと悟った暴漢達はそんな捨て台詞を吐きながら、逃げる様にこの場から立ち去っていった。


 その後、暴漢達を追い払ったその青年は持っていた剣を仕舞うと、逃げた彼等を追う様な事はせず、すぐ傍で怯えているマルティナの傍まで近づいていき、優し気な笑みを浮かべながら彼女へとおもむろに手を差し出した。


「大丈夫ですか?」

「あ、あのっ!! 貴方は一体……」

「あ、ああ、僕は……」


 そして、その青年が自分の名を名乗ろうとしたその瞬間だった。何処からか、彼と同じ様な制服を着た男が現れ、青年の傍まで近づいていく。


「おい、何やってんだ、クリストフ。急がないと遅刻するぞ!!」

「あ、ああ、分かった!! 今行くよ!!」


 その直後、慌てた様子でその青年、クリストフはこの場から去っていく。そして、助けられたマルティナは頬を赤らめながら、惚けた様な表情で去っていく彼の姿を見続けていた。


「あっ、ああっ……」


 そう、その時、初めてマルティナはクリストフに恋をしたのだ。その後、彼女は無事にエステリア伯爵家に仕える使用人達に発見される事になるのだった。




 そして、無事に自分達の屋敷に戻ったマルティナだったが、彼女の心は自分を助けてくれたクリストフへの思いに完全に支配されていた。

 だが、マルティナは青年の顔を一度しか見た事が無い。また、その青年の名前がクリストフだという事しか分からない。彼がどういった人物なのかすらも、マルティナは分かっていないのだ。

 この王都で生活していればまた会う機会があるかもしれないが、この広い王都で次に会うのは何時になるかも分からない。或いは、このまま一生会えないかもしれない。普通ならば、そんな恋は諦めてしまおうと考えるのが自然だろう。

 しかし、それでも初めて抱いた恋心を諦める事が出来なかったマルティナは自身の持てる全てを使って、必死に彼の事を探し始めたのだ。


 その後、マルティナはすぐにクリストフの事を見つける事に成功した。彼女は、クリストフが国に仕える騎士を育成する為の学園に在籍している事を突き止めたのだ。

 そして、自らの初恋の相手を見つけたマルティナは躊躇する事無く、クリストフへと急接近していく。

 始めはクリストフの事を手紙で呼び出し、助けてもらったお礼という名目で彼に近づいた。そして、それからも助けてもらったお礼という名目で何度もクリストフの事を呼び出しては、その度にマルティナは彼に対して熱いアプローチを掛けていった。

 マルティナは貴族令嬢だけあって、その容姿は非常に整っている。平民出身であったクリストフにとってみれば、伯爵令嬢であるマルティナは高嶺の花に他ならないだろう。

 そんな彼女に熱いアプローチを掛けられれば、クリストフがマルティナに惹かれていくのも当然であると言える。そして、二人は自然と秘密の恋人関係を築く様になっていた。


 だが、彼等の間には身分という名の高い壁が立ちはだかっている。伯爵令嬢であるマルティナと平民出身のクリストフの二人は、公に逢瀬を交わす事が出来ない。最初の数回程度はお礼という名目なら会っても怪しまれずに済むが、それを繰り返すのは流石に無理がある。

 その為、二人は人気のない深夜に何処かの場所で密会するしかなかった。しかし、その密会すらも二人以外は誰も知らない秘密である、という背徳感がマルティナを興奮させていたりもしたのは言うまでもない。




 そして、そんな二人の密会がもう何十回目かになろうとしていた時だった。

 その日の密会場所は王都の外れにある古びた教会であった。二人は何時もの様に逢瀬を交わす。

 すると、クリストフは教会のステンドグラスの前で、まるで主に忠誠を誓う騎士の様な姿勢を取ると、マルティナの手を取り、その甲に口付けをして、自らの誓いを宣言し始めた。


「ティナ、僕は必ず功績を重ねて君を迎えに行ける男になってみせる。だから、僕の事を待っていてほしい」


 クリストフのその言葉を聞いた瞬間、マルティナはその瞳に涙を溜め、頬を赤らめた。そして、マルティナは立ち上がったクリストフへと抱き着いた。


「ああっ、クリス!! 分かったわ。私、貴方の事を待ってる。だから、絶対に私の事を迎えに来てね」

「……ああ。絶対に君を迎えに行く」


 そうして、二人はこの教会で将来を誓い合った。

 マルティナは目の前にいるクリストフと結ばれる未来を思い描く。もし、思い描いた未来が現実になったのなら、どれだけの幸せが待っているのだろう。それを想像するだけでも、彼女は幸せな気持ちになれた。

 マルティナはクリストフと結ばれる未来が訪れる事を切に切に願う。


「ティナ……」

「クリス……」


 そして、二人は互いに互いの名前を呼び合ったかと思うと、マルティナはクリストフへと顔を寄せて、何かを期待する様な目で彼の瞳を覗き込んだ。

 その後、彼女はそっと目を閉じる。それを見たクリストフは一度息を飲み、顔をゆっくりとマルティナへと近づけていき、彼女の唇にキスをするのであった。






(ああ、クリス……、クリス……)


 それが、マルティナにとって一番幸せであった頃の記憶だった。密会を重ねていた時のマルティナは本当に幸せだった。あの時のマルティナはクリストフと結ばれる未来が訪れる事を本気で願っていた。

 だが、マルティナが思い描いていた筈の未来は彼女自身が犯してしまった愚行によって永遠に失われてしまったのだ。


(クリス……、私は……、私は……!!)


 目の前で新たな想い人と結ばれ、幸せそうな表情を浮かべるクリストフとは対照的に、マルティナは只々自分が犯してしまった愚行を悔い続ける。


 しかし、彼女は一番肝心な事には全く気が付いていなかった。そう、全てはマルティナがクリストフの事を信じ切れなかった事が始まりなのだ。

 もし、『君を迎えに行ける男になってみせる』というクリストフの言葉をマルティナが本気で信じていたならば、彼女はヴァイスの甘言に乗る事は無かったかもしれない。そうなれば、マルティナはアメリアから罰を受ける事も無く、今もクリストフと想いを通わせ合っていただろう。

 或いは、父であるヴィクトルがいなくなった事でマルティナはクリストフと結ばれていた可能性も僅かながらにあったかもしれない。

 結局の所、これはマルティナがクリストフの事を信じ切る事が出来なかったが故に訪れた帰結だったのである。


(いやっ、いやよっ……。もうこんな光景は見たくないの……。お願いよ、もう許して……)


 しかし、そんな事にすら気が付かないマルティナはアメリアに対して許しを希い続ける。


 それでも、その許しを希う思いがアメリアに通じる事は無い。彼女がどれだけ自分の行いを悔いたとしても、起きてしまった過去は変えられない。マルティナがアメリアを裏切ったという事実も変えようがないのだから。


 アメリアがマルティナを許す事は決してないだろう。そして、彼女はこれからもクリストフの傍で永遠に苦しみ続ける事になるのだった。

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