83 マルティナのその後①

 アメリアが去った数時間後、マルティナの命をとした献身によって蘇生したクリストフは彼女の生命力が体に馴染んだ事で遂に目を覚ました。


「うっ、……ここは……」


 そして、目を覚ました彼は思わず頭を押さえた。目覚めたばかりで頭がハッキリと回転しておらず、今一この状況が飲み込めていないのだろう。


 また、クリストフが意識を取り戻した事により、彼の魂と同一になっているマルティナの意識も同時に目覚める事になる。だが、目覚めたばかりで前後不全になっているクリストフとは違い、意識だけの状態となっているマルティナは今の状況がどういったものなのかを飲み込めていた。


(ああ、よかった。目を覚ましたのね)


 そして、マルティナは自分の献身が無駄ではなかった事に安堵する。


(クリス、大丈夫なの? 貴方は蘇ったばかりだから……)


 だが、そこで不意にマルティナの言葉が止まった。彼女の声にクリストフが答える様子が全く見られないからだ。


(クリ、ス……?)


 マルティナの口からは思わず呆けた声が零れた。その顔には何がどうなっているのか、分からないと言った表情が浮かんでいる。


(クリスっ、ねぇ、こっちを向いて!! ねぇ、クリスっ、返事をして!!)


 そして、自分の声に応えてほしいマルティナは必死にクリストフに向けて「返事をして、こっちを向いて!!」という悲痛な叫び声を上げ続ける。しかし、どれだけマルティナが叫んでもクリストフがその声に応える事は無かった。

 その事から分かる通り、今のマルティナの声はクリストフには一切届いていないのだ。


 今のマルティナはアメリアの手によってクリストフの守護霊の様な状態になっている。その為、マルティナの方からクリストフの事は認識できるが、その逆は出来ない状態になっているのだ。だからこそ、マルティナがどれだけ声を出しても、それがクリストフに届く事はない。

 しかし、そんな事を知る由もないマルティナは、クリストフの名前を必死に呼び続けた。


(クリスっ、ねぇ、クリスっ!!)


 だが、当のクリストフは必死に叫び続けるマルティナの横で目覚めたばかりで上手く働いていない脳を無理矢理フル回転させて、この状況がどういった物であるのかを考え始めた。


「…………………………………えっ?」


 しかし、その直後、クリストフは呆然とした様な声を口から零す。自分が何者だったのか、今までどうやって過ごしてきたのか、それらに関する記憶が自分の頭の中に全く無かった事にその時、初めて気が付いたからだ。


「……僕は……、一体誰だ? 自分の名前は分かる、クリストフだ。だけど、それ以外は……」


 そして、クリストフは自分が誰かわからない混乱から無意識の内に自分の周囲を見渡した。直後、クリストフは自分の横にあったあるものの存在に気が付く事になる。


「……っ」


 そこにあったのはクリストフを蘇らせる為に犠牲となったマルティナの死体だった。その死体を見たクリストフは驚きから思わず息を飲む。

 しかし、彼女の青褪めた死体を見てもクリストフは驚きはするが、慌てた様子を見せる事は無い。それどころか、彼はその死体の顔を見ても、それが誰だったのかすら分からないと言わんばかりの表情を浮かべている。

 その後、クリストフは慣れた様な手つきでマルティナの死体の状態を確かめ始める。目覚めたばかりで記憶を失っている今のクリストフにはマルティナが死んでいるのか、それとも気を失っているだけなのかが分からないからだ。

 そして、マルティナが既に死んでいる事を確認し終えたクリストフはおもむろに口を開く。


「もう、死んでいる様だけど、この人は、一体……?」


 だが、クリストフのその呟きに驚愕するのは彼の傍に憑いているマルティナだった。彼女はクリストフの今迄の言動や表情から、彼に何が起きたのかを察する事が出来ていた。


(クリス、まさか、記憶が……?)


 そう、マルティナの推測通り、クリストフは記憶喪失になっていた。それは、アメリアが彼女に伝え忘れた『生命譲渡』の魔術の副作用であった。

 クリストフは自分が何者なのか、どういった身分の者だったのかという、『エピソード記憶』に分類される記憶のほぼ全てを失っている状態になっていた。

 クリストフが覚えているのは所謂『意味記憶』や『手続き記憶』と呼ばれる記憶以外では自分の名前ぐらいだろう。


(クリスっ、私の事を忘れてしまったの!? ねぇ、クリスっ!!)


 クリストフが自分の事を忘れてしまったと気が付いたマルティナは慌てふためいた様な声を彼へと投げかけるが、それがクリストフに届く事は無い。それでも、マルティナは狂った様にクリストフに呼びかける。


(クリスっ、お願いっ、私の事を思い出してっ、クリスっ!!)

「とにかく、ここから出ないと……」


 目覚めたばかりのクリストフの脳内には、何故か出来るだけ早くここから立ち去り、どこか遠くへ旅立たなくてはいけない、という不思議な強迫観念めいた思いが存在していた。

 そして、必死に叫び続けるマルティナの声など聞こえないクリストフはこの目覚めた場所から立ち去り、自分が何者であるのか分からないながらも、目的地も無く旅立っていく。

 また、彼の守護霊に近い状態となっているマルティナはクリストフから一定以上の距離を離れる事は出来ない。その為、彼女もクリストフと共に旅立つ事になる。


 だが、これはこれからマルティナに訪れる地獄の序章に過ぎない事を、この時の彼女はまだ知らないのであった。

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