84 マルティナのその後②

 蘇ったクリストフが目覚めた塔を出てから数日が経過していた。今の彼は自分の記憶のほぼ全てが失われている状態の為、行く当てもなく旅を続けている。

 また、記憶喪失者特有の失った記憶への執着という物は、不思議な事に今のクリストフの中には存在していなかった。その為、彼は記憶を失った事による自暴自棄等の愚行を犯す事は無かったからだ。その事はクリストフにとっては幸運だったと言えるだろう。


 そして、クリストフの傍に守護霊に近い状態で憑いているマルティナもこの数日で自分置かれた状況、つまりは自分の声がクリストフには届かない事、自分はクリストフから一定以上の距離を離れられない事などを把握していた。

 マルティナは自分の声がクリストフに届かないと知った当初、それらの事実に悲観していた。しかし、この数日間を経て自分が彼の命を奪ってしまった以上、こうして傍にいられるだけでも十分だと思える様になっていた。


 クリストフが旅をしている目的、それは自分が定住出来る地を探す事だった。記憶喪失となり、何処の誰かも分からぬ自分を受け入れてくれそうな地、街、村落、今の彼はそんな場所を探しているのだ。

 そして、クリストフは自分の安住の地を求めながら、街道を進んでいた。だが、その時だった。


「きゃああああああああああああああああああああ!!!!」


 突如として、彼の耳に女性の大きな悲鳴が聞こえてきたのだ。その悲鳴を聞いたクリストフは、放ってはおけないという使命感の様な物を咄嗟に抱いた。


 そして、クリストフは悲鳴の主を探すべく、今迄自分がいた街道から少し外れた茂みの奥へと入っていく。それから数分後、彼が目にしたのは尻餅をついている丸腰の女性一人と、今にもその女性へと襲い掛かろうとする凶暴な野生動物十数匹の姿だった。

 間違いない、彼女が先程の悲鳴の主だろう。そう判断したクリストフは尻餅をついているその女性を庇う様に野生動物たちの前に立ちはだかる。

 その後、クリストフは腰に刺さっている剣を抜き放ち、野生動物たちへと向けた。これで、野生動物たちが何処かへ去ってくれたら楽だという考えがクリストフの頭を過るが、流石にそう話は上手く進まない。


「流石にこの程度じゃ駄目か……」


 クリストフは自分の目の前にいる野生動物たちが去らない事に諦めたかの様な表情を浮かべた後、その足を踏み出して勢い良く野生動物たちへと斬りかかった。


「はっ、ふっ!!」


 幾ら記憶を失ったとしても体に染みついた剣技は消える事は無い。果敢に斬りかかったクリストフは野生動物たちの群れの先頭にいた数匹を瞬時に切り伏せた。

 だが、その時の彼は内心では自分のその行動に驚いていた。自分が戦いに慣れている事や自分の使った身に覚えのない剣技等、戦うという事に関しての違和感を殆ど覚えなかったからだ。

 もしかしたら、自分は記憶を失う前は戦う事を生業としていたのかもしれない。彼はそんな風にも思ってしまう。

 そして、クリストフが数匹程度を切り伏せた直後、残りの野生動物たちは彼に恐れをなしたのか、鳴き声を上げながら四方八方に散らばっていった。


「ふぅ」


 この場に野生動物がいなくなった事を確認したクリストフは溜め息をつきながら手に持った剣を腰の鞘へと戻した後、自分の後ろを振り向き、そこにいる女性へと手を伸ばした。


「大丈夫ですか?」

「え、ええ……」


 その女性はクリストフの手を持って、彼に支えられながらゆっくりと立ち上がる。そして、その女性は立ち上がった直後、慌ててクリストフへと頭を下げた。


「危ない所を助けてくださってありがとうございます」

「いえ、どういたしまして」


 その女性は茶色の髪色と瞳色が印象的な人物だった。着ている服はそこまで質が良さそうな物では無く、典型的な平民が良く着用している様な質の悪い生地で出来ている服装をしていた。彼女の容姿は整っているが、驚くほどの美人という訳でもない。

 その女性を一言で言い表すなら、多少容姿が整った典型的な村娘、これに尽きるだろう。


「わ、私、ミリアといいます」

「僕の名前はクリストフです」

「クリストフさんというのですね。 ……そうだ!! 先程助けられたお礼がしたいので、是非とも私が住むエルナト村まで来ていただきませんか?」

「それは……」


 ミリアの提案にクリストフは悩んだ様な仕草を見せる。そして、少しだけどうするかを考えた後、おもむろに口を開いた。


「分かりました」


 今の自分には行く当てもない、ならば彼女の村まで一緒に行くのも悪くない選択だろう。彼はそう考えたのだ。


「そうですか!! では私の住むエルナト村までご案内いたします!!」


 クリストフのその返答を聞いたミリアは満面の笑みを浮かべながら、彼の手を取った。そして、クリストフは勢いそのままに村まで案内しようとするミリアに手を引かれながら、彼女が住まうというエルナト村まで向かう事となった。


(クリス……)


 一方、彼の傍でこの光景を見ていたマルティナは不安げな表情を浮かべて、小さくそう呟く。マルティナはミリアという女性の姿を見てからというもの、胸の内にある嫌な予感が消えないのだ。

 正直に言うなら、クリストフにはミリアが暮らすというエルナト村まで行ってほしくはない。しかし、今のマルティナにはその事をクリストフに伝える事すら許されていなかった。

 その為、クリストフから離れる事が出来ないマルティナは嫌々ながらも彼と共にエルナト村へ向かう事になる。




 だが、クリストフとミリアの二人のこの出会いこそが、これよりマルティナに訪れる事になる地獄の始まりを告げる鐘の音であったのだが、その事を彼女が知るのはまだ先の事であった。

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