病室

鹿苑寺と慈照寺

病室

 ベッドわきに置いたガラス製の写真立てがことりと落ちた。部屋は以前と静かなままだ。

「えっ? 今なんで落ちたの?」お父さんの声が聞こえる。

「わかんないよ」私も動揺したので、心を落ち着かせるのに少し時間がかかった。

「割れてない?」お父さんが訊く。

 ベッドに横たわりながら、顔だけをベッドの下に向ける。「割れてる」私は悲しさで胸がいっぱいになった。

 そのまま拾おうとすると、お父さんが遮った。

「駄目だよ。よしちゃんは安静にしてなきゃ。僕が拾うから」

「ありがとう」お父さんはいつでも優しい。私はいつもそれに救われている。

 手にした写真立ては無残にもひび割れている。

「割れちゃったね」お父さんは今にも泣き出しそうな顔をしている。

 ノックの音が耳の奥の方で聞こえた気がした。看護婦が音も立てず部屋に入ってくる。そう思ったとき、ふと今は看護婦とは言わないのかと思い立った。今の時代は看護師やナースと言うらしい。

「どうですか? お加減は?」看護師は言う。

「だいぶ体調も良いようです」お父さんがにこやかに応じる。お父さんは私の方を窺って、水を向ける。

「そうですね。看護婦さ……、看護師さんのおかげでだいぶよくなりましたよ」

「いえいえ、私は何もしていませんよ。よしちゃんが頑張ったからですよ」看護師さんは恐縮しきりだった。看護師さんはどんなときにも驕らず謙虚な態度を崩さないのが好印象だった。

 看護師さんが私のベッドの方に進んで、耳元で囁いた。「それでは採血しますね」

「しないとだめですか?」私は昔から注射が苦手だった。

「だめですよ。これもよしちゃんのためです」いつも優しい看護師さんもこればかりは仕事だから仕方ないのだろう。絶対に許してくれない。私は渋々、パシャマの袖をまくって、看護師さんに差し出した。

 看護師さんが私の腕をさする。私はそれをじっと見つめる。

「よしちゃん、あんまり見ない方がいいんじゃないの? 注射、苦手なんだから」

「そう言っても、ついつい見ちゃうのよ」私は応じる。

 看護師さんが注射を取り出した。「少しちくっとしますよ。少しの間なんで、我慢してくださいね」

 私は恐怖心で目を瞑る。

「はい、終わりましたよ。よく我慢しましたね。偉いです」そう言うと、看護師さんは再び音もなく部屋から出て行った。

 注射は目を瞑っていた、ほんの数秒で終わってしまった。針が刺されたであろう腕の辺りをさすっても何の感触も残っていない。いや、そもそも針が刺された感触すらなかった。看護師さんは注射を痛くしない術を持っているのだろうか。

 耳元で、よしちゃんという声がして、我に返った。

「うん? どうしたの?」

「ちょっと飲み物を買ってくるね。すぐ戻るから」

「うん、行ってらっしゃい」

 気づいたときにはお父さんはいなかった。

 一日中ベッドの上にいると、時間の流れがゆったりとしている。ただ、決して退屈ではない。私の周りには親切にしてくれる人が大勢いるのだから。でも、今みたいにほんの少しの時間でも誰かがいないときはどうしようもないほど孤独を感じる。誰でもいいから私の近くにいて欲しい。そう願っている。そして、何よりも私が恵まれているのは、誰かがいて欲しいと願えば、私の周りにその誰かが現れてくれることだ。そんなとき、私は言葉で表現できないほどの幸福を感じるのだ。

 時計の針の音がする。

 犬の鳴き声が聞こえる。

 畳と線香の香り。

 特筆すべき事柄もない。何でもない日常。これが生きている実感ということだろうか。

 布団が少し埃っぽく感じる。看護師さんに取り替えてもらう。

 知らない間にお父さんが戻ってきていた。

「ごめん、ごめん。自動販売機が見つからなくて」

「もう何度も来てるのにまだ場所を覚えていないの?」

「俺は昔から物覚えが悪いから」

「何を買ったの?」

「うん? いつものコーヒーだよ」

「お父さん、ほんとにその缶コーヒー、好きよね」

「これが一番だよ」

 何でもない会話。でも、この何でもない会話に私は幸せを感じる。多幸感という言葉は大袈裟だろうか。お父さんも私と同じくらい幸せだと思っていてくれると嬉しい。でも、それを確かめる術を私は、持ち合わせてはいない。

 時間はゆったりと流れるはずであるのに、窓の外の景色は橙色に染まっていた。つい先ほどまでのどかな日差しを窓からいっぱいに浴びていたのに。知らない間に寝てしまったのだろうか。近くにお父さんもいない。ずっと寝ていた私に嫌気が差して帰ってしまったのだろうか。

 夕陽は沈んでいく。私の周りには誰もいない。ふと、右腕と左の脇腹に奇妙な違和感を覚えた。パジャマの袖をまくると、痣ができている。痣の部分を軽く押しただけで、鈍い痛みが走る。パジャマをまくって、脇腹を見てみたら、大きな痣ができていた。こちらは押さなくたって鈍い痛みが一定の感覚で走る。寝ている間に私は一体、何をしたというのだろう。誰もその答えはわからない。看護師さんか、お父さんに訊いてみよう。

 お父さん。看護師さん。呼びかけると、部屋の扉が音もなく開いて、入ってきた。

「ねえ、お父さん。なんで私の体は痣だらけなの?」私はお父さんに囁いた。

「俺が帰る前に暴れたからだよ。ベッドの端に体をぶつけたんだ。そのあとは疲れて眠ってしまったんだ」

「そんなの絶対嘘だ」

「本当だよ。その痣が証拠だ」

「ねえ、看護師さん、嘘ですよね?」私は看護師さんに水を向ける。看護師さんなら本当のことを言ってくれるはずだ、という期待があった。

「残念ながら本当なんです。さっきは疲れて眠ってしまったけど、今度はそうもいかないかも」看護師さんは私に近づいてきて囁く。「鎮静剤を打ちましょうね」

「嫌だ」

「子供みたいなこと言わないで」

 看護師さんは注射針を取り出して、にっこりと笑った。


 乱暴に襖を開ける音がした。

「お母さん、誰と話してるの?」戸口には見知らぬ若い女が立っている。

 部屋には誰もいない。女は心底、不思議そうな顔をしている。ふと、部屋の奥を眺めると、仏壇にお父さんの写真が飾られていることを奇妙に感じた。お父さんはさっきまで私の側にいたのに。



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