第14話

夏休み前半は3人がなかなか揃わなかったが、芳賀くんのバスケ部も今井さんの陸上部も早々に大会で敗退し、お盆の前辺りから3人で会えるようになった。塾の講習は夕方からだったので、昼過ぎに図書館に集合しそこで宿題をすませた。

愛華としてはできるだけ今井さんに遅れてきてもらい、芳賀くんと2人きりの時間を増やしたかったが、一度今井さんがおばあちゃんちに行ったときに気まずくて仕方がなかったので、それからは予め今井さんと待ち合わせしてから行くようにした。それに、やはり愛華の学力は2人と比べたら劣っているので、例えば芳賀くんが三平方の定理の応用問題を聞いてきても、咄嗟には答えられない。よく冷房の効いた自習室は居心地が良かったが、1時間もいると飽きてしまう。2人とも勉強中はあまり喋らない。以前佐藤さんたちと勉強したときはお喋りばかりで全然はかどらなかったが、そのときと雰囲気がまるで違う。

「なんが飽きた」

ある程度時間が経つと芳賀くんが言い出す。愛華としては待ちに待った瞬間である。自分から言うと「もう?」と言われそうで怖いのである。3人で建物を出て向かいの公園を散歩する。今井さんは「まだ終わってない」と渋るが結局はついてくる。図書館から出て道路の下のトンネルをくぐると公園になっている。中央には大きな池があって、そこをぐるりと一周するのがいつものパターンだ。そこら中から蝉の鳴き声が聞こえ、午後の暑さはうだるようだったが、図書館の冷房で冷え切った体にはむしろその暑さが心地よかった。

「高校行ったらさ、また一緒に生徒会やろうよ」

池の半分まで行ったところのベンチに腰かけ、あるとき芳賀くんが言った。ベンチは東屋の中にあり、さらにケヤキの木々が覆っているので辺りは影に覆われていて薄暗い。

「そんなうまくいくのかな。たくさん人がいるのに」

「N高の定員見たろ? 300人で中学と変わんないよ」

「うん。でもわたしはまず受かんないと話になんないから」

「大丈夫。愛華はわたしが必ず合格させるから」

今井さんが言った。今井さんは白いスニーカーを履いていて、靴底で砂利をこすりつけている。

「じゃあさ、今度は今井さんも一緒に生徒会やろ?」

「えー」

「今井さんは、副会長がいいと思う」

「ていうかさ、もう『今井さん』はやめてよ。私だって『愛華』て呼んでるんだから」

「じゃあ『鈴音』て呼べばいいの? なんか変」

「変じゃないよ。わたしの名前だよ?」

「わかった。『鈴音』て呼ぶね、これから」

「じゃあ俺も『高徳』て呼んでよ」

「やだよ、芳賀くんは、芳賀くん」

「高徳なんて、キモい」

「いや、俺の名前だよ?」

愛華はこのやり取りを高校に行っても続けたいと思った。芳賀くんは馬鹿にしたように爆笑する2人に、手すりに絡まった草の葉をむしり取って投げつけた。ふざけてやっているのは明らかだが一瞬愛華はひるんで、今井さんの腕をつかんだ。今井さんの腕は細かったがしっかりしていて、愛華は一瞬、自分は芳賀くんではなく今井さんが好きなのかも、と思った。

その瞬間、タヤマ先生とキスしたことを思い出す。思わず今井さんの顔を見たが、今井さんの唇はタヤマ先生のよりも薄く、色あいも地味だった。体全体も細く、Tシャツはぶかぶかだ。小太りのタヤマ先生とは全然違う。

「ていうかさ、生徒会って何のためにあるんだろうね」

愛華がつぶやくと、2人が目を丸くしてこっちを見てくる。愛華はかつてタヤマ先生が言っていた「生徒会なんてただの内申点稼ぎで何の意味もない」という言葉を思い出し、そのことを2人に説明した。もちろんタヤマ先生の名は伏せて。

「うーん、確かにそうかもしれないけど」

「でもさ、大人も同じことするわけでしょ? だったらその練習なのかもよ」

「じゃあクラスのディベートで十分じゃない? この前米の輸入の賛成反対みたいな」

「そうだけど、議会っていうの? そういうのの疑似体験みたいな」

今井さんのお祖父さんは市会議員をしている。

「よし、俺がちょっと考えてみるよ。疑似体験、ていうのもちょっと違うと思うし」

芳賀くんが立ち上がってそう言った。芳賀くんの額には汗が浮いている。愛華も背中にじっとり汗をかいていた。図書館に戻ったら冷えて寒く感じるのだろう。


「先生たちに、禁煙してもらおう」

二学期の最初の日の帰り道、芳賀くんがそう言ってきた。校舎を出たときは今井さんと2人だったが、後から芳賀くんが走って追いついてきた。

「禁煙?」

「そう。結構煙草吸ってる先生多いから」

「確かに。職員室も煙草くさい」

「副流煙とか、吸わない人にも有害らしいよ」

「あと、校舎の裏で吸ってる先生もいるね」

「それじゃあ喫煙室とか? 場所決めて吸ってもらおうよ」

早速アンケートをとってみると、全教師の半数以上が喫煙者であった。散々タバコの有害性についての講義やビデオで洗脳してくるくせに、肝心の自分たちが所かまわず煙をふかすなんておかしいと、生徒会の中でも盛り上がった。

「それじゃあ一度、喫煙されている先生方と、直に話し合ってみたらいいんじゃないでしょうか?」

職員室で校長に、レポート用紙に手書きでまとめた要望書を渡すと、粋なことを言い出した。校長自身は5年前に尿酸値が上がって、医者に注意されて以来煙草はやめている。

早速翌週の放課後、会議室に招待され話し合いが始まった。愛華たちの中で、そこへ入ったことのある者はいなかったため、少し浮ついた気持ちになっていたが、足を踏み入れるとすぐにヤニ臭さが鼻をつき、あまり歓迎されていないムードだと感じた。テーブルの上に灰皿が置いてあるわけではないが、会議は煙草をふかしながら行われるのだろうか。かつて吐き出された煙が壁や天井に染み込んでいる。

会議室は細長い部屋で、窓のスペースが小さく、蛍光灯の光のみのぼんやりとした空間になっている。長机をロの字に並べると手狭になって、遅れた教師が入ってくると、手前に座っている愛華たちが椅子をずらして道を開けてやらなければならなかった。

話し合い自体も、すぐにだらけた感じになった。窓際に陣取った喫煙組の教師たちは妙にへらへらしており、まるで緊張感がない。タヤマ先生はその中にはいない。何か言われても適当にはぐらかし、やり過ごしてしまおうという気配が、よく伝わってくる。自分たちに負い目があるのは十分わかっているから、同じ土俵に上がることは絶対に避けようというのだ。

こうやって先に空気を支配されてしまうと、愛華たちの方はすぐに打つ手がなくなる。年の功もあるし、普段は向こうが上から言う立場だから、どこまで強気に出ていいのかわからない。いつのまにか元来の教師と生徒という関係が顔を出し、自ら道を譲るように聞き役に回ってしまう。調子に乗った初老+薄毛の国語教師が「俺なんかそれまで2箱だったのを、頑張って1箱に減らしたんだよ?」と周囲をキョロキョロしながら自慢を始め、それを皮切りに自分はニコチンが軽いのにした、午前はセッター午後はスーパーライトで我慢してる、等愛華たちそっちのけの誰が1番大変か比べが始まった。6人の喫煙組の後ろの窓から西日が差し始め、彼らの存在が来た時よりもずっと遠くになった。

「もう少し真面目にやってくれませんか」

1番端に座った愛華の言葉は、四角いテーブルの対角線上を通り抜け、室内の空気が一気に張り詰めた。喫煙者たちの視線が愛華に集まるが、愛華は肘をついて身を乗り出し、真正面からそれを受け止める。しばらく蛍光灯の音だけしかしなくなり、やがてホスト役として真ん中に座っていた教頭が、咳払いをした。これは何かの合図らしい。教師たちは一様に気まずそうな表情を浮かべ出した。教頭は下を向いて何も言わない。教頭の後ろには大きな日本地図がかかっている。

愛華は自分の言葉に興奮していたが、頭の中で、かつてタヤマ先生の元へ単身乗り込んだことを思い出していた。職員室で小さくなっている先生の背中に謝罪の言葉をかけた。それは、謝罪のための謝罪というより、どこか押し付けがましく、下手をすればこちらから手を差し伸べてやっているような謝罪だった。あの時は、この人が相手だからこんなことを言えるわけで、他の教師だったらまず無理だ、と思っていた。でも、今この場でその考えはひっくり返り、この人たちに言いたいことを言う方が、余程簡単だと思った。

結局この話し合いで、何か新しい取り決めが結ばれるわけでもなく、時間の無駄に終わったが、生徒会とでの愛華の評価は益々高まった。教頭にもあの後

「君は自分の意見をきちんと言えるんだね。素晴らしいな」

と褒められ、喫煙組の何人かも廊下ですれ違うときに声をかけられた。会議室では敵対ムードだったのに不思議な気がした。

芳賀くんは帰り道、今井さんに「やっぱりいざという時、松永は頼りになるよ」と誇らしげに報告した。今井さんは満足そうに微笑むにとどまった。


秋が深まるにつれ、愛華の成績も順調に伸びた。11月の模試ではそれまで努力圏だったN高がついに合格圏に入り、芳賀くんが自分のことのように喜んでくれた。今井さんは「まだまだこれからだよ、油断しないで」と釘を差したが、それでもホッとしたような顔をしていた。愛華の進路に、責任を感じているのだろう。2人とも当然N高は安全圏であり、むしろ愛華の成績を伸ばすことのほうが重要な任務のように感じている。


12月にちょっとしたことが起きた。

2学期末テストの直前だった。たまたま理科の先生が出張でいなくてそれじゃあテスト勉強の時間にしよう、教科は理科じゃなくてもいいよ、ということになり、一部の生徒は忠実にそれを守り、一部は騒ぎ始め、多数はその中間層に属す形になっていた。愛華はこれ幸いにと、塾の宿題にとりかかっていた。今井さんも多分同じことをしている。席が離れていてよくわからないが、誰かとお喋りしているようには見えない。

年明けにもう受験が、ということで、わかりやすく取り乱している子もいれば、完全に未来を捨てて、今という時間を謳歌している人もいた。窓の外は曇っていて雪が降るには早いが、雪の降りそうな天気だ。先週の模試の結果に満足した愛華は、その勢いで期末テストもいい点を取りたいと思っている。前回の二者面談では第一志望を下げるように言われた愛華だったが、期末テストで結果を出せば堂々とN高を第一志望にすることを宣言できる。芳賀くんと同じ高校に通うことが、現実味を帯びてきた。今井さんも含めて、来年は3人で同じ電車に乗って通うことになる。そこに新しい仲間が増えるか増えないかは知らないが、この3人の関係はずっと続いていく。

比較的真面目に勉強していた隣の列の男子が、飽きてしまったのかこそこそと何かを話し始めた。笑い飛ばせるような類のものではないらしく、不自然なほど顔を付き合わせて言葉をやり取りしている。どうせ下らない下ネタに決まっているから、聞き耳を立てるのも馬鹿らしい。そう思っているくせに、愛華の視線は、同じ英単語を行ったりきたりしている。わざとテキストを立てて顔を近づけるが、視界が遮られた分、音がクリアになって逆効果になった。

確かに「タヤマが?」という言葉が聞こえた。

男子Aの報告にBが、話に出てくる行動Xの対象が、確かにタヤマ先生であるかの確認をしている。確認をとったのはXとタヤマ先生が不釣りあいであるせいだろう。

「それどういうことなの?」

ついに我慢ができなくなって、愛華は話に割り込んだ。男子ABとは、そんなに親しい間柄ではない。見返す男子たちの顔は、青ざめ、彫像のようだ。あまり人に、というか女子には聞かれたくない話内容だった。男子Bは助けを求めるように、机の上のシャーペンを握った。開いたノートには辿々しい字の計算式が並んでいる。

「ただの噂だからわかんないよ?でも、4組の前田がタヤマ先生に仕返しするんだって」

「いつ?」

「わかんないよ。聞いただけだから」

愛華はさらに、誰に聞いたかを追求したが、それは隣のクラスの知らない人で、これ以上聞いても無駄なことがわかり、2人はを解放した。

4組の前田はあの前田くんだ。3年になってからクラスが違うので、今どうなっているのかはよく知らない。合唱コンクールでタヤマ先生に殴られ、一時期音楽の授業をサボっていた。愛華が生徒会に入った頃には、普通の生徒に戻っていたし、タヤマ先生も取り立てて嫌がらせをするわけでもなかった。3年になってから何か事件でもあったのだろうか。

そもそもチカちゃんの活躍で、タヤマ先生自身も最近はおとなしくなったときく。

奇妙な感情に支配されていた。外を見やると雨が降り出している。雪でも降りそうだったが、やはり雨だった。教室内は全ての蛍光灯が灯っている。まだ午後の2時だが、これを消せば、夜と間違えるくらい暗くなるだろう。愛華の目は、相変わらずひとつの英単語ばかり拾ってくる。

足元が冷えてしょうがない。履いている上履きがどうしようもなく冷たく、これが寒さの原因のような気がしてならない。愛華は一昨日から生理になっている。およそ予定通りにきて、量もいつも通りだ。もちろん替えのナプキンを忘れたりしない。もし万が一忘れたとしても、今井さんに言って借りればいいだけだ。今井さんじゃなくてもいい。クラスには20人近くの女子がいるのだから、その誰かに声をかければ何の問題もない。

4組の前田がタヤマ先生に仕返しするんだって。

男子Aは相手が愛華だから、うまいこと言葉をオブラートに包んだが、愛華はその前の会話もちゃんと聞こえていた。


タヤマ先生が前田くんにレイプされるらしい。

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