第13話
3年になると、今井さんがメインの友達になった。今井さんは陸上部だから、いつも一緒に帰れるわけではなかったが、生徒会のある日はお互いに待ち合わせをして帰る。クラスでは特定のグループと仲良くしたりしないが、今井さんとは常に一緒だ。
今井さんといると、こっちも垢抜けたような気分になる。生徒会の書記に当選したのをきっかけに、愛華を取り巻く状況は、少しずつ変わっていった。選挙活動を通して今井さんと親しくなった一方で、佐藤さんたちとは距離ができ、進級してクラスが変わると完全に切れてしまった。
音楽室へももう行っていない。
タヤマ先生は今年も2年生の全クラスと、3年生の半分の授業を見ている。愛華のクラスはその半分には入っていない。音楽係は今井さんと2人でやっている。今度の先生はゴトウという50過ぎのおばさんで、痩せてて背が低く、顔もシワだらけで、なんだか空気の抜けた風船のような容姿だ。ピアノは正直今井さんの方がうまい。取り柄と言ったらいつもニコニコして、怒らないことくらいだ。だけどそのせいで、授業に締まりがない。男子はすぐエロい話を始めるし、女子はこそこそと手紙を回し出す。
その責任が音楽係の自分にもある気がして、愛華は時折先生がくる前に、わざとリコーダーの練習をさせたりする。実際先生からは何の指示も受けていない。それを見てゴトウ先生は「まあエラいわね」なんて呑気なことを言う。おそらく愛華のクラスは他とはだいぶ雰囲気が違うだろう。ふざけている生徒には、愛華が直接注意する。ゴトウ先生に言いつけると脅したって効かないから、直接担任に報告して内申点を下げさせると言い放つ。言われた方は「なんかタヤマみてーだな。こえぇよ」とひるむ。
タヤマ先生はたまに職員室や廊下で見かけるが、声をかけ合ったりなんてことはなかった。そもそもすれ違うことがない。特に愛華の方から意識して避けているわけではない。以前の自分なら、気まずくてそうしていただろうが、今は会ったら会釈くらいはしようと思っている。それなのに遭遇しないということは、向こうが距離をとっているということになるだろう。教師のくせに、と愛華は思う。
芳賀くんとは、生徒会がある日には一緒に帰る。生徒会長になった芳賀くんは、週に1度、生徒会室の1番前で会議を取り仕切る。愛華はその隣の隣、端っこの席で、ノートに発言を書きつける。全ての発言をノートに取るなんて、どれだけの重労働なのかと不安だったが、実際は全クラスの評議委員が集まっても、自ら発言する者はまずいない。芳賀くんが発言を促してようやく口を開く、という有様だ。評議委員は、各クラス男女1名ずつ出す決まりだから、多分くじ引きか何かで無理に押し付けられたに違いない。早く帰りたいオーラが全開で、発言も右に同じみたいなものばかりで、なんの議論にもならない。愛華は芳賀くんを助けるつもりで、積極的に自分の考えを述べるようにして、会議が少しでも盛り上がるように努めた。
「芳賀先輩と松永先輩ってなんかお似合いですよね」
そう言ってきたのは、1年後輩の墨田チカちゃんだった。チカちゃんは4人いる副会長のうちの1人で、生徒会役員の中で、女子は愛華とこのチカちゃんだけだ。そのため必然的に仲良しになった。社交的で声がしゃがれていて、最初の顔合わせが終わった直後に、メールアドレスを聞かれた。久しぶりに愛華の携帯が頻繁に鳴るようになり、翌日寝坊することも増えた。今井さんや芳賀くんともメールのやり取りはするが、それほど盛り上がることはない。
チカちゃんのお似合いですね発言があったのは、夏休み前の最後の会議の日で、早目に終わったので、芳賀くんと夏休みの勉強計画について延々と話をしていた。今は芳賀くんともクラスが違うから、こんな風に話せるのも生徒会や帰り道だけなのだ。芳賀くんは地黒だから、真っ白なワイシャツがよく似合う。左のポケットについている名札はだいぶボロボロで、お互い長く中学生をやってきたことを自覚してしまう。もう3年の夏休みなのだ。チカちゃんは先に帰っていたが、話し込む愛華と芳賀くんの様子を見てお似合いと思ったのだろう。
勉強計画、と言ってもほとんどは塾の夏期講習がウェイトを占める。講習は、お盆をはさんで10回もある。それ以外に学校や塾の宿題を、図書館かどこかでやろうと言うのである。芳賀くんがいなかったら、おそらくこんなに勉強なんてしなかっだろう。愛華は4月から芳賀くんと同じ塾に通うようになった。それまでは塾へ行くなんて発想もなかったし、どうしてそんな発想がないのかと言えば、家から一番近い高校は、それほど勉強しなくても地元なら優遇して入れてくれるという話だったからだ。親も進路については何も言わない。
「それじゃあとは今井の都合も聞いてだね」
芳賀くんと今井さんは、もともと同じ小学校出身で、塾も同じだ。
愛華は選挙の後、早い段階で芳賀くんへの気持ちを今井さんに打ち明けた。今井さんの気持ちを確認し、釘を差す目的もあった。今井さんも芳賀くんに惹かれている可能性はかなりある。
ところが最初のメールの数分後に「マジで!?(絵文字)」と返ってきた後は、ひたすら協力するモードに徹し、芳賀くんのレア情報を提供してくれた。
帰り道の垣根の脇は、もう何万回通ったかという感じだ。後ろには今井さんがいて、道路側には芳賀くんが歩いている。正面から自転車などがくると、避けるために愛華の体は垣根にぐっと寄る。この向こうにソフト部がいて、かつてはとにかくそちらには目をくれず素早く通り抜けることに全精力を注いでいたが、今は憎らしい先輩はひとりもいない。所々に枝が飛び出ていて、自分の制服に当たりそうになる。
芳賀くんと別れるのは垣根が終わった十字路で、信号が青になると、振り返ることなく一気に行ってしまう。そこからは今井さんと2人になるが、今井さんとも5分くらい歩いて弁当屋の前で離れる。愛華の帰り道で、誰かと話をしながら歩くのはほんのわずかな距離で、あとは1人で横断歩道を渡ったり坂を上ったりする。愛華の家だけ理不尽に遠い。それでもこの長い道のりが、少なくとも今は苦ではなかった。歩きながら、さっきの会話や仕草、今日1日の出来事を振り返る。途中でクリーニング屋や交番の前を通り、公園を突っ切ってイチョウ並木を通るが、そんなことはほとんど記憶に残らない。帰る頃には汗だくになって、台所に直行し、麦茶を飲んでひと息つくと、携帯にはチカちゃんからのメールが届いている。
「芳賀先輩と愛華ちゃんて、なんかお似合いですよね」
もうすでに何度か言われているが、愛華は適当にはぐらかしている。何故か今井さんのように気持ちを打ち明けようという気にならない。それでも言われて悪い気はしない。むしろこの子がもっと無神経だったら、と思う。そうしたら、自分のいないところで、もしかしたら芳賀くんにも同じことを言うのかもしれない。馬鹿丸出しで「芳賀先輩も、愛華ちゃんのこと好きっていってましたよ!」とか報告してきて欲しい。
「そういえば愛華ちゃんて、2年の頃タヤマ先生に音楽習ってたんですよね?」
話題を変えようと思ったところで、目に飛び込んできたのは『タヤマ』の文字だった。愛華の背筋が寒くなる。いや、この子は別に、かつて愛華と先生が音楽室で逢引きをしていて、キスまでしたなんてことを知るわけない。少なくともこの1通のメールで、何もかも知られていると早合点するのは愚かだ。なのに低い方の可能性ばかり考えてしまう。そもそもこの子はいつから自分のことを「愛華ちゃん」なんて呼ぶようになったのだろう。後輩のくせに。チカちゃんは書道部だから上下関係が、よくわかっていないのかもしれない。この際だから、今後のためにビシッと言った方がいいのかもしれない。それにしても「愛華ちゃん」と「タヤマ先生」が1つの画面に出てくるのは、なんとなく不吉だ。タロット占いに見立てるなら、近いうちに何らかの関わりが出てくるということだろうか。待ち人来たりみたいな、ていつのまにかおみくじになっている。
もちろんチカちゃんは、何か秘密を握っているとかいうのではなく、タヤマ先生との相性が悪くてどうしようもないとの話だった。というか話を聞くとほとんどイジメだ。
タヤマ先生は、お決まりの初回授業校歌地獄にて、チカちゃんを真っ先に前に連れ出した。声が出てないとかの問題ではなく、チカちゃんのしゃがれ声が気に食わなかったためだ。授業の終わりに「もう少し真面目に歌ってくださいね」と言われたそうだ。それから合唱の時には、必ず槍玉に上げられるようになった。先生からしたら、声というよりも、馴れ馴れしい態度が気に食わなかったのだろう。
だがチカちゃんも負けてはいない。ある時「どうして私にばかり歌わせるんですか」と授業中、クラス全員の前で抗議をしたのだ。それは単にあなたが気に食わないから。というのが率直な理由だろうが、まさかそれをクラス全員の前で言うわけにもいかず、その場しのぎで「あなたの声帯は他の人と違っておかしいから」と答えたらしい。チカちゃんはそれには何も言い返さず、他のクラスメートもタヤマ先生の堂々とした態度に、何も文句は付けられず、授業は何事も無く再開した。授業が終わると、チカちゃんはその足で教頭のところへ行った。
タヤマ先生の救われたところは、チカちゃんが先に親に言いつけなかったことだ。もしそこから学校を経由せずに、ダイレクトに教育委員会に伝わったら、先生はそのまま職を失っていただろう。教頭はいち早くそのリスクを察知し、全面的にチカちゃんの肩を持つことで、話が大きくなることを防いだ。
「先生だって人間なんだから、間違いを犯すこともあるんだよ」
その後数日は、タヤマ先生の授業は教頭や教務、その他ベテランの教師が監視し、だいぶまともな授業が行われるようになった。以前のように、何の脈絡もなく生徒を指名したり、急に職員室へ引っ込んだりすることもなく、教科書は先生が自分で読み上げ、リコーダーの練習もグループごとに勝手にやらせて口も挟まず、かなりゆるい授業となった。
チカちゃんはクラスメートたちから英雄扱いされ、すっかり得意になっていた。
「愛華ちゃんの頃もさ、酷かったんでしょ? タヤマ先生って。よく黙っていられたね」
愛華はタヤマ先生にとって特別だったから、黙っていられない必要はなかったのである。その発言で、ようやくかつての関係を勘付かれたわけではないと、愛華は胸を撫で下ろした。と同時に嫌味な言い方が鼻についた。
「そんなことできるわけないじゃん」
と送信すると、1秒もたたずに「どうして?」と返事が来た。どうしてどうしてとくるのか理解不能で面倒だから、そこで返事を送るのは止してしまった。麦茶がすっかりぬるくなり、コップが結露でべしゃべしゃになってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます