第12話

合唱コンクールが終わると、誰が宣言したわけでもないのに金曜の5時間目の学活が、選挙への準備の時間となった。それぞれ担当を決め、タスキやノボリを作ったり、演説のスケジュールを決めたりする。愛華は演説の内容を考え、明日の朝に発表しなければならなくなった。いくらなんでも急すぎる。誰かに抗議したいが、一体誰を中心に話が進んでいるのかわからず、状況についていくのが精一杯だ。みんな和気あいあいと自分の作業に取り組んでいる。佐藤さんたちはポスターの係になって、画用紙に愛華の名前を大きく書いている。あの前田くんも、朝の演説のローテーションに組み込まれている。少なくとも1年生の時はこんな風ではなかった。愛華の知らないところで誰かが立候補して、いや、ひょっとしたらクラスからは誰も出なかったのかもしれない。よく覚えていない。でも、こんなちょっとした文化祭みたいな雰囲気なのは、担任が呼びかけたからだろうか? それとも芳賀くんのせい?

「演説内容とか決まった?」

そう声をかけてきたのは今井さんだった。ほとんど話したこともないのに、いきなり砕けた態度をとってくるから戸惑う。今井さんは髪は茶色いけれど、目は真っ黒だ。左のほっぺたにニキビがあるが、位置が絶妙で、なんだかそれもアクセサリーに見える。かわいい。

「全然だよー」

敬語で返すべきか迷ったが、相手に合わせて語尾を伸ばし、ちょっと泣きそうな感じを出した。我ながら白々しい。

「じゃあさ、放課後一緒に考えようよ」

意外な言葉に、愛華は今井さんの顔をまじまじと見てしまう。今井さんの目も当たり前のように、愛華の顔に照準を合わせている。この人はきっと、他人の目を見ながら話ができるのだ。

放課後は音楽室へ行くつもりだったが、愛華は今井さんの提案を受け入れた。タヤマ先生が演説内容を一緒に考えてくれるわけなかったし、クラスの人気者に声をかけられて、愛華の気持ちも弾んでいた。


投票日までの2週間は、慌ただしく過ぎていった。ポスターを貼ったりする作業はまだ良かったが、とにかく人前で話すのが苦痛だ。朝は30分早く家を出て校門の前に立つが、いいポジションを確保できないため、途中から1時間前になる。朝ということもあって、なかなか声が出ない。それに、一体どのタイミングで話し出せばいいのかもよくわからない。自分の声が届く範囲が3メートルだとしたら、そこへ誰かが入った瞬間にスタートすればいいのか。だが、登校する生徒は次々にやってくる。最初の生徒に合わせれば、後に続く者は、何を話しているのかわからなくなってしまう。それならば少し遅くすればいいのか。ベストのタイミングはいつなのか。

すぐそばの芳賀くんと男子たちのグループを見ると、そんなことお構いなしに、人がいなくたって大きな声を出している。そんなことをしても、無駄に喉を潰すだけなのに。でもそれがきっと正解なのだろう。

そのうち大口を開けた芳賀くんと目が合う。何かを察したのか、愛華に近づいてきて、一緒にやらないかと提案をしてきた。隣の今井さんがそうしようと答え、軽く打ち合わせをしてから、みんなで声を合わせる。声はさっきとは段違いに響いて、冬の澄んだ空に吸い込まれていく。愛華の手には、演説用の原稿があった。この前今井さんと一緒に考えたものだ。当然芳賀くんのとは、内容が違っている。芳賀くんは芳賀くんで言いたいこともあるだろうに、悪いなと思う。芳賀くんの手には何もない。きっと全部覚えてしまっているのだろう。部活だってやっているのに、すごい。愛華もお風呂で練習したが、全部は覚えきれなかった。声が小さいのがいけなかったのかもしれない。けれど、真面目なことを言っているのを、家族に聞かれるのは嫌だ。芳賀くんはきっとお構いなしに何度も練習したのだろう。そう考えるとやっぱり自分には、生徒会なんて相応しくない気がしてくる。

前向きな演説内容とは裏腹に、気持ちはどんどんと沈み込んでくる。そんな気分から逃れるように視線をそらすと、校舎の裏手から、見覚えのある丸い輪郭が近づいてくるのが見えた。

タヤマ先生だ。

反射的に気まずい気持ちになる。もうずっと音楽室へは行っていない。先生は、愛華の様子を見にきたわけではない。校舎の反対側には駐車場があって、そこから歩いてきて、たまたま鉢合わせしただけだ。先生は白のジープみたいな車に乗っている。一度乗せてもらったことがある。突然先生が「『ねるねるねーるね』が食べたい」と言い出し、近くのコンビニまで買いにきたのだ。散々待っていると渋ったが「女の子がひとり留守居するのはとても危険」と強引に愛華を連れ出した。店内で誰かに会うんじゃないかと愛華が肝をつぶしたのは言うまでもない。先生は、さっそく駐輪場の脇を陣取る別の候補者の前を通るが、見向きもしない。大抵の教師が「頑張って」とか声をかけるのに、この人は相変わらずだ。挨拶をしてくる生徒にも無愛想な返事しかしない。先生は血圧が低く、朝は弱いから特に機嫌が悪いのだ。「挨拶は心を美しくする」と言う校長が見たら、怒り出すだろう。

間隔が5メートルほどになったところで、ようやくタヤマ先生は愛華の存在に気づく。と言っても足を止めたり、口に手をやるわけではない。一瞬重そうなまぶたが開かれただけだ。先生はキャメルのショルダーバッグを掛け直し、歩を緩めることなくずんずん距離を詰めてくる。ハチマキを巻いた愛華の姿には目もくれない。扱いは他の生徒達と同じだ。だが、前を通り過ぎる瞬間、ふっと息を抜くように、わずかに口元を緩めたのを愛華は見逃さなかった。

その瞬間、愛華は自分の心の内を全部読まれてしまった様に感じた。タヤマ先生はそのまま振り向くこともなく、ゆったりとした足取りで職員用の下駄箱へ吸い込まれていった。

残された愛華は不意に我に返ったような気分になり、恥ずかしくて、ハチマキもタスキも全て地面に叩きつけたくなった。生徒会とか学校行事全てが茶番に感じる。芳賀くんの隣のぽっちゃりした男子に、口が臭いとか適当な言いがかりをつけて、怒って帰ってしまいたい。

愛華は集団に紛れている自分の声を、徐々に絞っていく。ほとんど口パクになってきたところで芳賀くんが「じゃあそろそろ分かれてやろっか」と言い出す。

こんな状態で分かれたら、自分が声を出していないのは簡単にばれてしまう。せめて今日は一緒にやろうよと言いかけるが、やる気がないやつと思われるのも癪なので、仕方なく目一杯声を出すことにする。

演説を再開すると、愛華よりもずっと大きな声が聞こえ、自然と愛華の声もそれに引っ張られて大きくなる。声は今井さんのものだった。今井さんは頭を下げる時も、みんなよりも深い角度まで折り曲げたし、愛華の演説も覚えているのか、合いの手も完璧だった。終始リードされているうちに、愛華の気分も徐々に落ち着いてきた。周りを見てみると、通りかかったクラスメートは、必ず手を振ってくれていた。立ち止まって、ずっと愛華の様子を見ている教師もいた。空を見上げると、葉を落とした木が見え、数羽の雀が枝を揺らしていた。チャイムが鳴ってタスキを外すと、背中の汗が心地良かった。

教室へ戻る道すがら、今井さんは「絶対当選できるようにがんばろうね」とガッツポーズをしながら笑った。他の子がやったらお寒い感じだが、今井さんの場合は様になっていた。心の中でも、非難するのが憚れるようなさわやかさだ。「うん、がんばろうね」と自然と愛華も答えている。教室までの道のりを、走りたい衝動にかられる。

愛華の頭の中の「茶番」という言葉は、窓からの強い光のせいで、いつのまにか色褪せていた。


その日以降、校門の前でタヤマ先生の姿を見ることはなかった。

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