第10話

職員室の前まで来て全員の足が止まる。ドアを開けるのには心の準備がいるし、誰が代表で話をするかも決めていなかった。前田くん1人に謝罪の言葉を述べさせるのは無茶な気がするし、30人余りで乗り込んでも、タヤマ先生の前に全員が並べるわけもない。誰かがそろそろ「で、どうする?」と言いそうになるタイミングで、芳賀くんが自分が呼んでくると言い出す。誰も異議は唱えない。芳賀くんの緊張した面持ちを見ると、なんだかみんなで戦地へ送り出すみたいだ。

「あ、呼んで来るだけならわたしが」

助け舟でも出してあげたつもりだったのだろうか。ほとんど意識もせずに言葉が出てきた。さり気なく言ったつもりだったのに、全員の視線が一斉に愛華に集まる。みるみる顔に血液が昇ってきて、下を向きたくなる。愛華にしてみれば単身職員室へ乗り込むよりも、今こうしてみんなの視線に耐える方が余程苦痛だ。

愛華から1番離れた位置から、芳賀くんが「なんで?」と聞いてくる。

「だってわたし音楽係だし」

それだけ言って説明責任を果たしたつもりだったが、周りは黙ったままで、まだ愛華が何かを話すと思っている。

「授業の前とかいつも喋ってるから。他の人より話ができると思う」

とあわてて継ぎ足した。

芳賀くんはああ、と曖昧な返事をして、それを合図に他の人たちも返事とため息の間のような声を漏らした。松永で大丈夫かよ、て感じなのだろう。だが、今井さんが「たしかに授業の前に先生のところへ行くのは係なんだし、松永さんが行くのが普通かもね」と言って、愛華の単独行動が一気に現実味を帯びる。伴奏者の発言も力を持っている。今井さんからしたら返り討ちにでも遭っちゃえばいいとか考えているかもしれないが、とにかく愛華が行くということで話はまとまった。

一歩踏み出すと、いつのまにか隣にいた佐藤さんが黙ってついてくる。佐藤さんも音楽係だから、一緒に行こうと言うのだ。友情パワーと責任感で勇気を振り絞ったのだろうか。だが、愛華としてはできれば1人で中へ入りたい。そうすれば先生にも「機嫌は直った?」とフランクに話しかけられて楽だ。乾いた唇を何度も口の中へ巻き込む佐藤さんの仕草が、正直鬱陶しい。

ガラガラの職員室の中で、先生は縮こまって何かに目を通していた。やはり職員室はあまり居心地が良くないのだろう。背中に声をかけ、いきなり頭を下げる。うまく置いてくることのできなかった隣の佐藤さんも、同じ動作をする。椅子に座ったまま半身こちらに向けた先生は一瞬動きが止まり、それから表情を引き締め「なんであなた達が謝るんです?」と聞いてくる。職員室内に響かないように、声は抑えられている

愛華は自分が謝るのは先生に不快な思いをさせてしまったためで、考えてみるとクラス全員が少したるんでいたような気がする。決して前田くん1人が悪いわけではない。先生はわたしたちに、そのことを気づかせてくれました。だからクラス全員で謝りにきたんです。今、みんな職員室の前で待っています、と淀むことなく一気に言い切った。我ながらよくこんなことが言えたもんだと思う。もちろん謝意なんてない。タヤマ先生だってそれはわかっている。もしここに佐藤さんがいなければ「よく言うよ」と頭を小突いてくるだろう。

このまま教師と生徒という演技を続けるなら、今度は先生の方が何か返さなければならない。どうしてわたしが教室を出て行ったのかわかってますか? なんて投げかけて、黙り込む生徒達に延々と説教を垂れなければならない。単に声が出てないとか態度の悪さを指摘するだけでなく、そこから日々の生活態度とか、2年生は中だるみしてるとかもっともらしく繋げる。わが校の伝統とか持ちだして、最後はクラスが団結する意義を唱え、めでたしめでたしとならなければならない。

が、先生が面倒くさがってそんなもの全部すっ飛ばしてしまいたいのはわかっている。だいたい気分で殴っただけで、今はもうどっちの手でやったのかだって忘れているはずだ。

タヤマ先生は机の上に残った右手で何かのプリントの端をいじくりながら、愛華と佐藤さんを交互に見た。

「わたしも少し大人気なかったような気がします。ごめんなさい。皆さんの気持ちはわかりました。すぐに授業は再開しますから、教室に戻って待っていてください」

吹き出しそうになるのをこらえながら、愛華は職員室を後にした。どうにか職員室前で生徒に取り囲まれるのを避けるために、必死で頭をひねったのだろう。先生にしたって、こんな煙草臭くて日当たりの悪い職員室にいるより、音楽室へ早く帰りたかったはずだ。感謝されたっていいくらいだ。愛華は胸を張って「もう怒ってないよ。大人げなかった、て謝ってた」とドアの前で報告した。みんなの口から安堵のため息が漏れ、帰り道では佐藤さんがはしゃぎ声で愛華の行動を称えた。「なんか愛華ちゃん堂々としてすごかった。いつもとぜんぜん違う感じ」それに周りの女子が少し反応した。その中に今井さんはいない。再び渡り廊下に来ると、芳賀くんが寄ってきて、お礼を言われた。「実は俺すげーびびってた」と笑う彼の横顔には窓からの日差しが全開であたり、どこかあどけなく見えた。


愛華のおかげで余計なお説教を喰らわずに済んだ、と、どれくらいのクラスメートが思っているかは知らないが、このアクシデントのお陰でクラスはまとまり、いい雰囲気になってきた。本番が近づくと、朝早くや放課後、昼休みまで練習をするようになった。

だが前田くんはあの事件以来、音楽の授業をサボるようになった。空白となった席は、欠席している生徒のものとは違って、どこか居心地悪そうに見える。その不自然さはタヤマ先生にもとっくに伝わって、誰かがいない理由を理不尽に追求されそうでヒヤヒヤする。だが先生は前田くんが何回か連続でサボってもそれに触れようとせず、久しぶりに顔を出した時も無茶な質問をぶつけたりもしなかった。朝や放課後は練習に参加している前田くんが、まさか病欠しているとは思っていないだろうが、タヤマ先生が腹の底でどう思っているかはわからない。直接聞こうにも、音楽室は合唱コンクールが終わるまで常にどこかのクラスに使用され、タヤマ先生とは会えないのだ。

ようやく合唱コンクールが終わり、久しぶりに第二音楽室へ土足で侵入すると、挨拶もそこそこ「ていうか前田のやつ」と先生が不満をぶちまけ始めた。だいたい思っていた通りだ

「もうあいつ留年だね。決定」

吐き捨てるように言って、チョコレートの袋を勢いよく開ける。景気の良い破裂音が室内に反響する。

「でも3回しかサボってないよ?」

「もう十分じゃん?わたしが成績で【1】つければ進級できないよ。ざまあみろ」

「だけどさ、いいのかな。暴力とか。親とか何か言ってこない?」

「言ってきたって別にいいよ。そしたらわたし仕事やめるもん」

やめる、と簡単に言ってしまう先生の態度に、何故か愛華は腹が立った。

「もしかしたら前田くんが授業出ないの、わたしのせいかも」

話の流れを変えるために、わざと深刻そうな顔をしてみる。タヤマ先生がチョコの包装を剥く手を止め、愛華の顔を覗きこんでくる。


愛華は空になった前田くんの席を初めて見た時から、自分のやり方がどこか間違っていたことに気づいた。職員室で話をまとめた後、タヤマ先生は程なく音楽室へ戻り、何事もなく授業は再開された。みんなはほっと胸を撫で下ろし、その後誰も前田くんのことを責めたりしなかった。というより、完全に忘れ去られてしまった。

前田くんにしてみれば、結局殴られた理由は明かされず、釈然としないものだけが残った。しかも先生の方から謝ったとのこと。じゃあそもそも自分は、何をしたわけでもないのに殴られたのだろうか?

あるいは前田くんはあの瞬間、ヒーローになっていたのかもしれない。みんなに取り囲まれ、女子に吊るし上げを食らいながらも、あの時のクラスの中心は、確かに前田くんだった。うまく流れを変えられれば、クラス全員でタヤマ先生の身勝手な振る舞いに、抗議することだってできたのだ。それが愛華の出現によって跡形もなく消え去ってしまった。

おそらく前田くんは、タヤマ先生にもう一度殴られたいと思っている。

理不尽な暴力にさらされることで、今度こそクラス全員を味方につけたい。授業をサボることでみんなの心を掴めるかは微妙だが、それが彼なりのやり方なのだ。

もし、先生がもっと感情的になって授業を放棄したり、延々と的外れな説教をしたら、前田くんの不平はみんなと共有することができ、前田くんのわだかまりは、早い段階で昇華できたはずだ。そんなことに露も気づかず、むしろ前田くんを助けたつもりになっている愛華は、とんだ偽善者だった。

でも先生だって悪い。

先生は大人なんだしお金をもらっているんだから、愛華があれこれ悩むより早く、行動を起こしてほしい。視聴覚室とかに呼び出して、話を聞いてあげるとかすればいいのだ。多分前田くんだって馬鹿だから、自分の言いたいことを聞いてもらえば、涙を流しながら「俺先生に見捨てられたのかと思って」と謝るはずだ。それなのに【1】をつけるとか仕事やめるとか、ちょっと身勝手すぎる。


半分は喋りながら思いついたことで、しかも気持ちが先走って、どこまで正確に伝わったかはわからない。言葉に力を込めると、涙が出そうになる。でも泣いたら本当にいやらしい女なので、なんとか堪える。先生がどんな感情で自分の主張を受け止めているのか見当もつかず、怖くて仕方ない。先日の職員室での謝罪とは対照的だ。

話が終わると音楽室の中はしんとして、やけに天井や壁が遠くに感じた。タヤマ先生は、愛華の髪を撫で「愛華ちゃんは何も悪くないよ」と神妙な面持ちで言った。喋るスピードは授業の時の半分くらいで、どこか粘つくような声だった。気に食わない。どちらかと言えば、今の話は先生を非難するのが主題だった。慰めてくるよりも、むしろ感情的になってほしい。【どちらかと言えば】なんて曖昧な気持ちで「わたしのせいかも」と言うから、伝わらなかったのかもしれない。

「そうじゃなくて」と愛華は身をよじって食い下がると、先生は不意に体を寄せてくる。左頬に手を添えたかと思うと、何の前触れもなくキスをしてきた。

何かを感じる前に唇は離れ、あっけに取られているとまたくっつけてくる。今度は長い。自分のとは違う洗髪料の匂いがして、目の前には細い髪とこめかみと耳が見える。その向こうにはピアノがあって、タヤマ先生の後ろ姿が歪んで映っている。

全身を硬直させたまま数秒が過ぎ、ようやく先生が離れると、お互いの唇から1本の糸が引いた。恥ずかしさで死にそうになる愛華とは裏腹に、タヤマ先生は右手で優雅にそれを掴み、ハンカチで拭った。

ずるい。

と思いながらもどう反論していいのかわからず黙っていると、先生は「なんとなく」とつぶやいた。なんの文脈もつながりもない、ただ空白を埋めるためだけの「なんとなく」だった。でも愛華は妙に腑に落ちてしまった。タヤマ先生はそういう人なのだ。

先生は席を立つと、紅茶を淹れるためにケトルのコードをほどき始めた。先生が絡まったコードにイラついている隙に、愛華は自分の唇に触れてみる。もう後からこの話をすることはないのだろう。


熱い紅茶を飲んだからと言って、昂ぶった気持ちがすぐにおさまるはずもない。愛華は先生に報告しようと思っていたもうひとつのニュースのことを、完全に忘れてしまっていた。

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