第9話
体育祭が終わるとすぐに、合唱コンクールの練習が始まる。全学年のクラスがそれぞれ課題曲を選び、近くの市民文化ホールを借り切って歌って順位をつけて思い出の1ページとなる。ここまでする学校は、他にはないらしい。うんざりした顔でタヤマ先生が教えてくれた。
1年の時は、数曲の候補の中から課題曲を選んだが、タヤマ先生の場合は、有無を言わさず曲は決められている。
「あなた達のクラスのカラーだとこの曲が......」
なんてそれっぽいことを言うが、そんなのはでたらめだ。本当は事前に愛華のアルトパートが比較的簡単なものを、放課後に2人で選んだのだ。十数年前のヒット曲。先生もよく知っている歌だった。
体育祭の時のように、隙を見つけてサボるわけにはいかないタヤマ先生は、クラスそれぞれの曲を頭に入れ、尚且それを生徒にも覚えさせなければならない。ほとんどは毎年同じ歌だが、放課後はずっとピアノの前に座りっ放しだった。愛華も楽譜をめくったりと手伝うこともあったが、そんなに頻繁にめくるような壮大な曲があるわけでなく、だいたいは教壇に腰掛けて漫画を読んで過ごした。先生から借りたもので、最近ではお互いの本を貸し合ったりしている。
ページをめくるすぐ横で、メロディが反復され、同じところで和音がぐしゃっとなって、舌打ちが聞こえる。「くそったれ」と汚い言葉を吐くこともある。自分で勝手に曲を割り振ったくせに、と愛華は思うが聞こえないふりをしてやり過ごす。
「どうしてあの馬鹿は1人で音外してんのにきづかないんかなー」
最後は猛スピードで弾きまくり、めちゃくちゃになって練習終わり! となるのがタヤマ先生のパターンだ。そうすると今度は延々と愚痴やぼやきが始まる。愛華が淹れた紅茶をすすり、スナック菓子を口に放り込みながら、喋りまくる。本番が近づくに連れ、ピアノの時間が減るのに対し、文句の時間は逆に増えていった。
「ていうかさ、いくら言ってもまともに声すら出さないやつがいるんだよね。そういうのが1番むかつく」
体育祭の時は全くやる気を見せなかったのによく言うよ、と愛華は思う。しかし自分もそのむかつく対象なのでは? とふと思ってしまう。もちろん自分なりに目一杯声を張っているつもりだが、先生にどう思われているかはわからない。被害妄想だということはわかっているが、ついつい「わたしは?」と聞いてしまう。先生は「愛華ちゃんはいいんだよ」と語尾を上げて答えるが、気持ちはちっとも晴れ晴れとしない。
合唱は男子のパートと、女子はソプラノとアルトに分かれる。それと指揮者と伴奏者。ほとんど自動的に指揮は芳賀くん、伴奏は今井さんに決まった。やはりやるのはリーダー格の人だ。今井さんは1学期にタヤマ先生によって失脚させられたが、それでもクラスでピアノが1番上手だという事実は変わらない。特にアピールをしなくても、結局はおさまるところにおさまった。
またあの生意気なのがしゃしゃり出てきた。
と、タヤマ先生が文句を言うかと思ったが、全く気にせず「もっと左手の小指まで意識して」なんて指導している。案外調子がいい。もしかしたら、かつてピアノから引きずり下ろしたことなんて、とっくに忘れているのかもしれない。
今井さんは陸上部所属で、髪が他の人よりも茶色くて目立つ。よくよく考えるとそのせいで生意気に見えるだけなのかもしれない。たまに「それは染めてるの?」と尋ねる教師がいたが「生まれつきなんです」とわずかに口元に笑みを浮かべながら、穏やかに答えていた。口の周りの筋肉が完全にオートメーション化されたような、余計なエネルギーのかからない笑みだった。きっと何度も同じことを聞かれているんだろう。
曲を始める合図を出すために右手を上げながら、芳賀くんは今井さんの方を見る。すでにスタートの鍵盤に指を置いている今井さんは、軽く頷いて準備OKの意思を示す。今井さんはタヤマ先生よりも細くて小さいから、ピアノが大きく見える。そんな風に見とれていると、歌い出しからつっかえる羽目になる。
事件が起きたのはようやく歌詞を覚え、パートごとのメロディも把握し、ぎこちなくもクラス全員で歌えるようになった頃だった。壁際に本番と同じ順番で並び、とにかく声だけは出す。愛華はひとかたまりになった声の中から、念仏のような自分の低音を見つけ、それを必死にキープする。何回か通すとうまく歌えない箇所がわかり、一度パートに分かれて音を確認する。その後また全員で歌う。特に問題なく最後まで通せるようになると、音のバランスや強弱、歌詞の意味などより細かい指導に移る。だがここまでくるとひと山越えたようで、先生は歌を聞きながら腕を組み、目をつぶっている。愛華の貸した少女漫画のことを考えているのかもしれない。
「まったく眠たい恋愛しやがって」
と文句を言うくせに続きが気になって仕方がないようで、昨日家に忘れてきたら、家に取りに来るとまで言い出した。
なんて思っていたら不意に目を開き、すたすたと迷いのない足取りで列の方へ近づいてくる。絨毯の上をストッキングで歩くのだから、音なんかほとんど出ないはずなのに、足音がはっきりと聞こえる気がする。周りの空気が一気に張りつめる。
先生は芳賀くんの脇を抜けると、後列の歌声を一人一人チェックし始めた。合唱の隊形は右からソプラノ、アルト、男声と各二列で並び、前後は声の大きさで決まる。後列は相対的に歌の下手なグループだ。そこに何か引っかかるものがあるらしい。愛華も後列だから、反射的に手のひらに汗をかいてしまう。もちろん前と同じパターンだから、自分が緊張する必要はないのはわかっている。それでも身構えてしまうのは、小動物的な防衛本能なのだろうか。ちょっと情けない。
ソプラノ、アルトとほとんど速度を弛めずに通過する。てっきりまた手でもぶつけてくるかと思ったが、横顔が一瞬視界を塞いだだけだった。不自然にならない程度にゆっくりと顔の角度を変え、先生の背中を捉えておく。指揮者から目を離すな、とよく先生は注意をするが、今は当人の死角にいるから問題ない。芳賀くんだって、ちらりとタヤマ先生の様子を見ている。
もしかしたら演奏にストップをかけるのかもしれないが、そうでない限りは最後まで歌い続けなければならない。今は半分も歌い終わっていない。
男子の2列目の、ちょうど真ん中あたりで先生は歩みを止めた。視界のぎりぎりで、前髪がかかって見えづらいが、いつもの調子でちゃんと声が出ているかチェックしているように見える。男子の中には、子どもじみた連中もいるので、この際前に引きずり出して、お灸でも据えてやればいいんだと、愛華は思う。
案の定前列の1人が横にどかされ、その隙間から男子生徒が1人手を引っ張られて出てくる。引っ張られた右手と、バランスを取るように後ろへ傾く頭には、頂点の部分に寝癖が立っている。前田くんだ。
ああ、やっぱりね。と視線を前に戻そうとした瞬間、何かが破裂するような音が室内に響いた。愛華の位置からは詳細がわからない。反射的に芳賀くんを見ると、大きく目を見開いている。それでも両手の4拍子は変わらず、全員がタヤマ先生と前田くんに意識を向けているのに、歌は続いている。自分たちの歌声が、BGMに聞こえる。
タヤマ先生は回れ右をすると、何も言わず教室を出て行った。残された前田くんは、左の頬を押さえている。口が半開きになり、伏せた目が微かにうるんでいる。
殴られる程、何をしたのだろう。考えるうちに、男子の声がフェイドアウトし、それにつられてピアノの音が乱れ、やがて全体の演奏が止まった。すでに前田くんは数人の男子に取り囲まれ「何やってんだよ」「大丈夫かよ」と口々に声をかけられている。前田くんは呆然としてほとんど答えられない。ひょろりと痩せた体型で立ち尽くしていると、葉を落としきった枯れ木みたいに見える。
前田くんを囲む輪に女子が加わり始めると、徐々にこれはまずい状況なんじゃないかという空気になってきた。タヤマ先生は授業を放棄して、出ていってしまった。声を荒げたりはしなかったが、怒っているに違いない。幾分落ち着きを取り戻した前田くんが「てゆーか俺何もしてねーし!」と抗議したが、女子たちは「何もしてないのに殴られるわけないでしょ!」とまともに取り合わず、ちょっとした言い争いが始まった。愛華は輪の1番外で、もしかしたら前田くんは悪くないのかもしれないと冷静に考えた。タヤマ先生なら、顔つきが気に入らないとかいう理由で殴ってしまうことだって、十分ある。前田くんの顔は一重まぶたが腫れぼったくて、目つきが悪い。おまけに短い髪をワックスで逆立てて寝癖をごまかしているもんだから、先生の目には挑発的に映ったのかもしれない。
やがて前田くんの声にも力がなくなってくると、クラス全員で謝りにいこうという話になった。提案したのは芳賀くんだ。指揮者の人から言われると、もうそれに従うしかないという感じがする。
ちょうど5時間目の半分が過ぎたところで、階段や廊下には誰の姿もなかった。クラス全員の足音が、気だるい空気を震わせている。誰か他の教師にでも遭遇したら厄介なので、みんなほっとしているはずだ。渡り廊下を通る時に窓から日が差し込んでいて、床に写った影とのコントラストが不自然なほど際立っていた。午前中は曇っていたのに、と愛華は隣を歩く佐藤さんに声をかけようとするが、佐藤さんはまっすぐ歩を進めることに全神経を集中し、愛華の話なんて軽く蹴散らされそうだった。平行四辺形の陽だまりはみんなに踏まれ、ぐちゃぐちゃになっていた。
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