第8話

予行練習の時にも姿を見せなかったタヤマ先生だったが、体育祭当日になると、観念したように本部テント脇に他の教師と並んだ。

愛華は、当日タヤマ先生がどんな格好をしてくるのか楽しみだった。なんせ普段は黒か紺のスカートに白やグレーのブラウスしか着ない。今くらいの時期になると、その上にカーディガンを羽織る。

校長の退屈な話をBGMに、先生の姿を探す。右側の端から3番目に立っていた。ピンク色のジャージは太もものところがぴっちりとしていて、生地は薄そうだ。上は白いTシャツを着ていて、何やら英字が大きくプリントされている。意味はわからないが、スポーツ用品店に売ってる類とは明らかに違う。日焼け防止に黒い腕サックをはめ、つばの広い帽子をかぶって表情が見えない。運動というより草刈りでもやりそうな格好だ。これは流石に教頭に怒られるんじゃないかと思ったが、何食わぬ顔で突っ立っている。左足に全体重をかけている姿は、なんだかふてぶてしい。ラジオ体操が始まっても、のっそりとした動作で明らかにリズムより遅れている。本当に音楽教師だろうか。帽子が落ちるのを気にしているのか、前屈はほとんど曲げない。あるいは元から体が硬いだけかもしれないが。

それでもやはり仕事なのだから、用具の出し入れなど、タヤマ先生の出番だってある。クラスの応援そっちのけで先生を目で追っていると、息を喘がせながらコロコロと動き回る姿が楽しめた。他の教師に話しかけられて愛想笑いも浮かべてる。体育祭なんて、愛華にとってはなんの面白みもない行事だったが、今年はいくらか違っていた。芳賀くんのピラミッドもきれいにぺっちゃんこになり、真剣な表情が秋の陽気に映えていた。


「松永さん、絆創膏持ってない?」

そう話しかけられたのは、組体操が終わって次のムカデ競争が始まった時だった。振り返ると芳賀くんが愛華の後ろに立っている。どうかしたのかと聞く前に、膝が真っ赤になっているのに気づいた。ピラミッドの際に擦りむいたのだろうか。山でも噴火したみたいに、血がふた方向に分かれて流れている。痛そう、と思うより前に、なぜわたしに話しかけたんだ? と考えてしまった。周りにも沢山人がいるのに。位置が良かったとか、確立的にはありえないこともないとか考えて、浮かれようとする気持ちに重石を置く。

「大したことはないんだけど、血が止まらなくて」

垂れた血が脛の方までいくのを、手で押さえながら芳賀くんは言う。前かがみになって、おでこに皺を寄せながら愛華を見上げている。体育着はお腹を中心に泥がついている。

「ごめん、持ってない。探してくる」

返事も待たずに走り出したのは、かけるべき言葉が見つからず気まずくなるのを避けたかったからだ。動揺して変なやつと思われるより、一刻も早くこの場から離れたい。それにテキパキと行動すれば、芳賀くんの印象だっていいはずだ。

とは言ってもどこへ向かえばいいのだろうか。とりあえず走ってはいるが目的地も定まらず、地面を蹴る両足の動きもどこかちぐはぐしている。一度止まった方がいいかと思うが、それはできない。もしかしたら芳賀くんがこっちを見ている可能性があるからだ。とにかく嘘でも芳賀くんのために一生懸命動けば、そこからステップアップできる気がする。一体何のアピールなのかよくわからないが。

ある程度の地点まで来ると、愛華の足取りはしっかりしてきた。とりあえずタヤマ先生を目指す。冷静に考えれば、保健の先生を目指すのがベターだが、やはり慣れたタヤマ先生に声をかける方が気楽だ。

「わたしじゃなくて保健の先生探しなよ」

と突き放されるかもしれないが、それなら一緒に探してもらえばいい。他の生徒ならそんな風にはならないが、自分の頼みなら絶対に聞いてくれる筈だ。

最後に確認した時、先生は本部テントの中に座っていた。マイクの前でアナウンスを行う放送委員のそばにいて、手伝っている風を装っていたが、サボっているのは明らかだった。校庭の真ん中で競技が行われているから、そこまで行くには大きく迂回しなければならない。他クラスの応援席の後ろや野球部のバックネットの裏。所によってはものすごく狭くなっていた。必然的に人が詰まって、スピードが出せなくなる。本部テントはここからは見えない。タヤマ先生が席を立ったんじゃないかと心配になり、前の子のかかとを思い切り踏みつけたくなる。

前から来たのはかつてのソフト部先輩だった。後片付けで球の数が足りないとねちねちと怒ってくる嫌な奴だ。暗くなるまで雑草の中を必死で探した。向こうは愛華の方などまるで気にすることなく、背中合わせですれ違った。当たり前だ。もう1年以上も前の話なのだから。

入場門の辺りまでくると、高速道路のジャンクションみたいに、人の流れがうねり出した。次の競技に出る生徒たちが独特の緊張感と期待感を醸し出しながら、周り中の友達とぺちゃくちゃおしゃべりしている。駅のホームみたいな雑踏だ。その中に数人の教師が混ざっていて、必死で点呼をとる者もいれば、生徒になにやら冗談を言っている者もいる。教師の雰囲気もいつもとどこか違う。そういえば体育祭って祭という字がつくから祭なんだろうな、とのどかに思う。念のためそれらの顔を確認してみるが、タヤマ先生はいなかった。

流れに巻き込まれて一緒に入場してしまったら笑うに笑えないので、さらに迂回をして最後尾をぐるりと回る。おかげで、学校の端の垣根のそばまで来て、外を走る車の音まで聞こえた。その音に紛れて、タヤマ先生という単語が耳に飛び込んできた。

「あいつっておっぱい大きいよな。揉んでみたくね?」

キーワードのせいで耳を澄ませてしまったが、とるに足らない男同士のやり取りだった。姿まで確認する必要はない。向こうは愛華の姿が見えなかったのだろうか。それとも見知らぬ女子に聞かれても、気にしないタイプなのかもしれない。

男子の下ネタは、たまに耳にすることがあった。彼らなりに気をつけているのかもしれないが、同じ教室内にいれば全く聞こえないなんてことはありえない。それに男子にデリカシーなんてものはない。肝心のキーワードだけ隠していても、あの独特の騒ぎ方を見ればなんとなくそういう話をしているのはわかる。そういう場面に出くわすと、佐藤さんは露骨に顔をしかめる。愛華もそれに合わせて不愉快そうに振る舞うが、どうしてそういうことに大喜びするのか興味もあった。

だが、タヤマ先生が性の対象になるとは思いもしなかった。彼らが名前を挙げるのは、女優とかアイドルとか、そうでなければアダルトビデオに出てくる女の人だった。たまに女生徒の名前も出すようだったが、そんな時はかなり声をひそめていて、具体的に誰なのかは判別できない。

確かにタヤマ先生の胸は大きい。ただそれは体格に従って膨らんでいるだけで、特に色っぽいとか思ったことはなかった。愛華はどちらかと言えば、先生の胸よりもお腹を見ていることが多い。椅子に座るとシャツが左右に伸びて、ボタンとボタンの間に隙間が開く。横皺がいくつも寄り、先生は裾を下に引っ張って、それをまっすぐにしようとする。お腹に力を入れているのがわかる。愛華はそれを見ながら無意識のうちに、自分の下腹部を触る。


タヤマ先生はまだテントの中にいた。年配の女教師と何か立ち話をしている。聞き耳を立てて、話の緊張度を探ってみるが、イマイチ把握できない。タヤマ先生がきれいな敬語を使っているせいだ。生徒に対してのよりはゆっくりとした口調で、丸みを帯びた感じがする。聞き慣れない「はい」とか「ええ」という相槌は、説教を受けてるようにも、単に話を聞き流しているようにも聞こえる。

どうにか話を中断させたいが、割り込んでいくタイミングがつかめない。それなら先生の視界に入って合図でも出したいところだが、あいにく愛華に対してちょうど背中を向けるような格好になっている。見える位置に移動するということは、テントの中へずかずかと入って行くことになる。どんな理由を考えれば、そんな行動を起こしても不自然じゃないだろうか。考えているうちに奥の中年女の方が、愛華の存在に気づき「あなた、どうしたの?」と声をかけてきた。「いえ、タヤマ先生にご用がありまして」と言えばなんでもないのに、咄嗟のことにうまく言葉が出てこない。結局振り向いたタヤマ先生に助け舟を出してもらう羽目となった。先生はまるで、自分の方から愛華を呼びつけたかのような仕草で軽く頭を下げ、テントの外に出てきた。愛華は何ひとつ満足にできない自分に腹が立ち、瞬時に愛華の気持ちを汲んで行動を起こす先生に、八つ当たりをしたくなった。「向こうで見たらサボってるように見えたから、注意しにきたんだよ」と嘘でもついてやろうかと思ったが、そんなことをしている場合ではない。

先生はすぐに救急箱を取ってきてくれた。そばにいた養護の若い教師が腰を浮かしかけたが、タヤマ先生は完全に無視した。ブルーシートの上で救急箱を開け、消毒液と大小様々な絆創膏を前に並べる。膝と聞いていちばん大きなものを選んでくれた。いつもと違ってものすごくテキパキしている。怪我人がいるからこうなのか、それとも愛華だからここまで親切にしてくれるのか。どちらにせよ、こういうタヤマ先生も悪くはない。

1番大きな絆創膏を持って、来た道を引き返す。先生は「もしひどかったら、こっちに連れてきなさいね」と言ってくれた。こっちとはタヤマ先生のところでいいのだろうか。先生には芳賀くんがケガしたとは言っていない。もし連れて行ったら今度はどんな顔をするのか見てみたい。芳賀くんからしたらたまったもんじゃないだろうが。

応援席まで戻ると、芳賀くんは自分の椅子に座り、膝には別の絆創膏が貼られていた。愛華の持っている茶色の無機質なものではなく、白くて可愛気のあるデザインが、2枚並んでいる。これだけ人数がいれば誰かしら持っているに決まっている。絆創膏の中心部にはすでに血が染み出ていて、自分こそこの足にはふさわしいみたいに振舞っている。愛華は咄嗟に手を握りしめ、自分のが見えないように隠した。くしゃくしゃになった絆創膏が、手の中でちくちくする。このまま芳賀くんが、自分に声をかけたことをなかったことにしてくれればと思ったが、後から愛華の姿を見つけると、芳賀くんは謝ってきた。クラスを夢中で応援していて、息を切らしながら声をかけてきた。愛華は自分のクラスが今何をやっているのか、全く知らなかった。


翌日、早速先生に昨日のことを聞かれた。「芳賀くん喜んでた?」と目を輝かせている。愛華は「芳賀くんじゃないよ」と嘘をついた。嘘つくな、と追求されそうで怖かったが、先生は「本当体育祭ってこの世から消えて欲しいよね」と外を見ながら文句を言っただけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る