第6話

2学期になって改めてクラスの係を決める時になると、音楽係に立候補する者は愛華以外いなかった。1学期の時は定員2名に4人も手を挙げたのに、今やすっかり不人気の係となってしまった。おかげで愛華は悠々と黒板に自分の名前を書くことができた。1学期の時も立候補しかけたが、髪の長い、プライドの高そうな女子に遠慮して手を挙げ損ねてしまった。はっきりとした決まりはないが、音楽係はやはりピアノができたり、音楽的素養のある人がなった方がいい。話し相手になれるだろうし、授業で代わりに伴奏を弾くこともあるからだ。ちなみに一学期にもそんな場面があって、おそらく幼い頃からピアノを習っている音楽係の今井さんが、椅子の高さをもったいぶって調整してから弾いたことがあった。が、前奏を3度やり直しさせられた挙句

「いいです。やっぱりわたしが弾きます」

と戻されてしまった。席に戻る時の真っ赤な顔がよく見えた。ざまあみろという気持ちもあったが、その前に「わたしピアノ得意です」とかアピールしたんだろうなとか考えていたら気の毒に思ってしまった。授業の後、教室に帰ると、今井さんは友達に囲まれて泣いていた。

「だってあの子のピアノ、リズム悪いし左手の音が弱いし気持ち悪くて。あと生意気だったから」

今井さんをピアノから引きずり下ろした理由について、後から先生はそう説明した。生意気だった、が主たる理由なのは明らかだ。でももちろんそれを抗議するつもりはない。今井さんが調子に乗って、ピアノを使ってタヤマ先生に取り入ろうとしたのが悪いのだ。取りいる、と言うと言葉が悪いが、タヤマ先生に気に入られれば、みんなから一目置かれるという空気はクラスの中にはある。

今井さんの話の流れなのか、タヤマ先生はピアノの蓋を開け、昼間の曲を弾き始めた。授業の時は、今井さんの演奏とそれ程変わらないように感じたが、先生のすぐそばに立つと、全然別物に感じる。まず指の動きに目を奪われる。手の甲の骨が盛り上がり、それ自体も鍵盤の一部みたいに規則正しく上下する。手首から先はほとんど力の抜けたような状態で、最低限の動きしかしない。まるで工場の機械のようで、音を生み出すことのみに存在するかのようだ。音自体は綺麗というより荒々しい。叩かれた弦から伝わる空気の振動は、鼓膜だけでなく体全体を揺すってくる。音符は複雑に重なりあってるくせに、耳に入るとそれがほどけて、何の抵抗もなく体全体に染み入る。

歌の部分になると、先生は愛華を見ながら口をぱくぱくさせた。歌えという合図だ。愛華は脚を開き、背筋を伸ばした。声はピアノの音よりもずっと小さかった。そこにタヤマ先生も自分の声を重ねてくる。ちょっとふざけた歌い方だ。でも誰かが歌ってくれると、やりやすい。愛華の声が自然と大きくなって、そうすると先生はさらに大きな声を出して邪魔をしてくる。歌詞を間違えると、愛華を馬鹿にした目で見ながら、正しい歌詞をかぶせる。

ラストまで歌って終わりかと思ったら、ちょっとエレガントな間奏を挟んで、また最初に戻る。変な抑揚をつけたり、演歌みたいにこぶしを効かせたり、最後はお互い叫び声になって終わった。タヤマ先生のピアノも、ジャズのソロみたいになって完全に収集がつかなくなっていた。一体どれくらいの時間歌い続けたのか。

「いつもより全然声出てるじゃん」

息を切らせながら先生は大声で笑い、愛華をからかった。愛華も上気する顔を手で仰ぎながら「先生だって、授業よりピアノ上手」と言い返した。声がガラガラで、喋ると喉が痛かった。先生は「これでも昔は留学の話とかあったんだよ」と照れ臭そうに言った。


愛華と一緒に音楽係やることになったのは、じゃんけんに敗れて流れてきた、佐藤さんという子だった。佐藤さんは愛華と同じような目立たないタイプの女子で、背も低かった。極端にタヤマ先生を恐れていて、直に怒られようものならそのまま登校拒否にでもなりそうな感じだった。必然的に愛華が引っ張る立場になり、職員室へ行くときも、先に敷居をまたがなければならなかった。いつも友達に自己主張できない愛華にとっては、新鮮なことだった。これで会いに行くのが別の教師なら、愛華も胃を痛めるところだが、相手は腹の中まで知り尽くしたタヤマ先生だ。タヤマ先生の席は、職員室のちょうど真ん中あたりあって、両サイドを数学と理科の教師に挟まれている。どちらも中年の男で、机に積み上げられた書類が、半分くらい先生のエリアに入っている。先生の机の上にはノートパソコンが一台ある他には何もなく、人間味が何も感じられない。先生も居心地悪そうにしている。

ある時クラス全員分のアルトリコーダーが入ったダンボールを運ぶように言われた時、愛華はわざと「こんなに運ぶんですか? 先生もひと箱運んでくださいよ」と言ってみた。佐藤さんが後ろで目を白黒させているのが見ないでもわかる。先生も動きを止め、愛華の目を凝視した。愛華も目を逸らさない。やがて「そうですね。手伝いましょう」と言って、一番大きなダンボールを持ち上げた。きっと後で「愛華ちゃんのせいで筋肉痛になった」と文句を言うんだろう。先生の情けない顔を想像して危うく笑いそうになる。タヤマ先生が大きな荷物を運ぶのが珍しいのか、他の教師はこぞって道をあけてくれた。若い体育教師が近づいて来て「運びましょうか?」と声をかけてきたが先生は「いえ」とひと言であしらった。

運び終わってから佐藤さんは案の定泣きそうな顔をしていたが、愛華は「別に大したかとないじゃん。先生だってダイエットになってよかったんじゃない?」とわざとクールに言い放った。

その一件以来、佐藤さんは音楽の時間に関係なく、休み時間になれば愛華の机に来るようになった。佐藤さんは仲良しの子が他に2人いたので、おかげで愛華の机は活気が溢れるようになった。愛華はソフト部の一件以来、仲のいい子がいなかっため、誰かに慕われることに戸惑ってしまった。だが、それを拒否する理由もなく、2、3日もすると愛華の方から佐藤さんの机に遊びに行くようにもなった。

グループで行動すれば、多くの情報が簡単に手に入るし、いじめのターゲットになるリスクも減る。

だが一方で、常に一緒にいなければならないという煩わしさもある。トイレに行くタイミングまで相手に合わせなければならないのは、1人で行動することに慣れた愛華には苦痛だった。

おまけにグループ内で携帯を持っていないのが、愛華のだけだということがわかり、慌てて買いに行く羽目になった。欲しくないわけではなかったが、今まではメールをする相手もいないので不要だと思っていたのだ。

だが、突然携帯が欲しいと言って、愛華の親がいい顔をするとは思えない。月々の使用料は未知の領域だが、それで裕福ではない家計を圧迫するのは気が引ける。だが、食事の用意をしている母親にそれとなく切り出してみると、思いのほか感触はよかった。その夜父親が帰ってくると早速報告され、父親も「じゃあ今度の休みにでも」と話はどんどん進んだ。親からしたら、来るべき時がきた、という感じだったのだろうか。どうやら親同士のコミュニケーションで、今や携帯電話は小学生でも普通に持っていて、中学生なら持たないと仲間はずれになると聞いたらしい。

機種については新しい物を店に買いに行くという話になった。佐藤さんたちは、みんな親のお下がりを使っているのだから、無理して新しいのを買う必要はない。お母さんの古いやつでいいよ、と一応遠慮してみるが、取り合ってはもらえなかった。グループの木田さんは携帯を欲しがったら、それをダシに父親は今使ってるものを娘に押し付け、自分は最新機種を手にしたとのことだった。木田さんは真っ黒で傷だらけのを使っている。それに比べれば愛華の家は、理解のある両親となるのだろうが、おかげで友人たちにどう思われるかわからない。

愛華は言い訳として「お母さんの前のは水没しちゃってつかえなくて」と考えてから、皆の前に新しい携帯を披露した。が、佐藤さんたちは悲鳴に近い声で愛華の携帯を褒めまくった。言い訳をするなんて杞憂に終わった。

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