第5話

芳賀くんとは2年で同じクラスになり、進級してわずか1週間でそのことをタヤマ先生に話してしまった。

「新しいクラスにいい人いた?」

という問いに、まず最初に彼の名前が浮かんだ。単に目に留まっただけの存在だから「特にいない」と答えればよかったが、しらけるような気がして「ちょっと気になる」なんて言ってしまう。先生は1オクターブ高い声で舞い上がり、身を乗り出して芳賀くんの外見的特徴や、部活などを聞きまくってくる。遠目に見ているだけの存在なのに、わかるわけがない。答えられずにいると、恥ずかしがって喋らないんだと勘違いをし、ますますはしゃぎ出す。その後授業で芳賀くんの顔を確認すると「あれは中学生にモテる顔だね。やばい」とハイテンションになり、女友達のように「彼女がいないといいね」と励ましてくる。愛華はそんな先生のテンションについていけなかったが、からかわれるのは嫌ではなかった。クラスメートに言いふらされる心配もないから、言い回しやニュアンスに気を配る必要もない。

「わたしが担任なら、すぐに隣同士の席にしてあげられるのになあ」

口元に笑みを浮かべながら人差し指を顎にあて、残念そうに先生はつぶやいた。

タヤマ先生はどのクラスの担任でもないが、2年生全クラスの音楽を受け持っている。

授業は第二音楽室で行う。その時になって初めて知ったが、赤い絨毯は土足禁止で、みんな当たり前のように上履きを下駄箱に入れていた。もし自分が一番乗りだったら、クラス中の非難の的になっただろう。靴下で触れる絨毯はやわらかさよりも、ざらざらした感触が際立った。長い期間の使用で、表面の柔らかい部分は全て擦り取られてしまったに違いない。きめの間に汚れが詰まっている気がして、足の裏をつけるのに抵抗を覚える。つま先立ちで歩きながら、タヤマ先生がスリッパを履いたままの理由を理解する。

そんな先生も、始業のベルが鳴ると、ちゃっかりスリッパを脱いで入ってきた。黒いストッキングのかかとをぺったりと床につけ、なんとなく無防備な感じがする。きっとあのストッキングは安物だ。それなのにすました顔をしているのが滑稽で、吹き出しそうになる。「学校の先生みたいな顔をしてる」とからかってやりたくなる。

ある程度予想はしていたが、授業の雰囲気は放課後のそれとはかなり違っていた。30人以上の人間がひしめくと、他の教室と大した差もなくなってしまう。窓際の、昨日先生が座っていた席には坊主頭の野球部が座り、教科書をメガホンみたいに丸めている。その場所で昨日、先生がクッキーを口にいれたまま吹き出し、かなりの食べカスが飛んだなんて夢にも思わないだろう。


タヤマ先生の様子も全然違っていた。授業を受けてみてわかったが、先生は生徒の人気を集めるタイプの教師ではない。新学年が始まって最初の授業は、顔合わせということもあって、比較的緩く行われることが多い。生徒一人一人に自己紹介をさせ、その後で自分の家族構成や趣味を延々と語って終業のチャイムまで持ち込む教師も多い。授業もガイダンス的に触れる程度で、生徒の方も教科書やノートが全部揃っていなかったりする。

だがタヤマ先生の場合は、初回授業定番の"黒板に名前を大きく書く"を行うこともなく(先生はチョークが嫌いだった)

「音楽担当のタヤマです」

と短く挨拶を済ませ、何をするのかと思ったら全員を席から立たせて校歌を歌わせた。ピアノの前に座って蓋を開け鍵盤に指を置くという流れを必要最低限の動きで行い、にこりともしない。

校歌は一年の時から何度も歌わされるので、歌詞は完璧に頭に入っていて、どこで盛り上げるのかもよくわかっている。が、歌い終わると先生は「もう一度」と言って、再び前奏を弾きはじめた。何を注意されたわけでもないが、先生が今の歌に満足していないのは雰囲気からして明らかで、2回目は最初にあっただらけた空気は完全に消え、愛華も声を張った。

歌が終わると先生は立ち上がって、生徒たちの前にきて

「全然声が出てない」

とだけ言った。大きくはないが、よく通る声だ。音楽室内の隅々まで届くように、声量は計算しつくされているのかもしれない。先生は手拍子を取り始め、今度は伴奏なしで歌うことになった。1番の途中からその手拍子もなくなり、先生は生徒たちの間を通り抜けて行った。1人ずつ歌声を確かめようと言うのだ。ある男子生徒の前で立ち止まり、しばらく耳を傾けると、その生徒を教壇の前まで連れ出した。

3番が終わるまでに5人ほどピックアップし、再び手拍子が始まり1番から歌い出す。5人はこちらを向いて唄わなければならない。見せしめであることは明らかだった。まだ半分ほどの生徒しかチェックは済んでおらず、愛華のところまでこないうちに授業が終わることは、残り時間からしてもあり得ない。

愛華は必死で歌詞を辿った。放課後タヤマ先生をからかってやろうと、無邪気に思っていた頃が懐かしい。声が震えてきている気がするが、全員の歌声に紛れてよくわからない。前に出された生徒は後から説教でもされるのだろうか。そうでなくても今こうして衆目にさらされているだけで、十分屈辱だ。左端の女の子は真っ赤な顔をして、口を目一杯開いている。

いよいよタヤマ先生は愛華の列に来た。前から順番に生徒の歌声をチェックする。問題がなければ素通りするが、気になるとその場にとどまって耳を傾ける。今ふたつ前の席の子が、前へ出るよう指示された。愛華よりもずっと頭の良さそうな子だ。あの子がダメなら、自分なんて絶望的だ。

前の席の横を通りぬけて、いよいよ愛華の番がくる。斜め前で立ち止まり、目をつぶって愛華の声を聞き分けようとしている。素通りしなかった時点で、状況は良くない。愛華はこれまで以上の声を出そうとするが、喉にばかり力が入って、ヒステリックになるだけだ。お腹から声を出すということができないのだ。

愛華は前を向いたまま、視線は前の子の後頭部に釘付けだった。髪は黒いゴムでひとつに纏められている。もしかしたらそれはゴムではなく、それもその子の髪の一部なのかもしれない。怖くて先生の方なんて見られない。が、それでも視界の端で、タヤマ先生が目を開き、こちらに顔を向けたことはわかった。言われる。

だが、タヤマ先生は再び前を向き、そのまま歩き出した。目だけ横に動かすと、先生の視線は次の生徒に向いている。助かった、と思った瞬間肩の力が抜け、背中に相当の汗をかいていることに気づいた。その汗が背中の熱を一気に奪い、まるで体育の授業の後のような清々しさを覚える。

そう愛華が安堵した瞬間、手に何かが当たった。慌てて手を引っ込める。横を通り抜ける時に、先生の手がぶつかったのだ。愛華はすぐに、それが故意にぶつけてきたのだと理解した。先生はわざと立ち止まり、愛華のことをからかったのだ。この数秒間の極限状態は、一体何だったのだろう。愛華はその場で振り返り、先生の背中に言い訳や負け惜しみをぶちまけたかったが、ただ恥ずかしさに耐えながら歌い続けるしかなかった。

「愛華ちゃんの顔、マジ傑作だったわ」

放課後、愛華が音楽室の戸を引くと、タヤマ先生は駆け寄ってきて満面の笑みでそう言った。本当顔真っ赤だった、声も震えてた、と次々に言葉を浴びせてくる。そこら中をうろうろしながら、愛華の頭を撫でたり、手を触ったりした。スリッパのぺたぺた音が鬱陶しい。調子に乗って「可愛かった」とまで言ってきたので、不機嫌そうにしたら、ようやく何も言わなくなった。

「わたしが愛華ちゃんに意地悪するわけないじゃん」

声を弾ませながら、タヤマ先生は言い、紅茶を入れてくれた。先生の言う意地悪は、愛華の前で立ち止まったことではなく、教壇の前に出すことを指している。年明けの頃から、先生は音楽室に電気ケトルを持ち込み、2人で紅茶を飲むのが恒例となっていた。お詫びの印なのか、砂糖も先生が袋の封を切って入れてくれた。愛華は半分しか入れないのに、先生は自分の分と勘違いして勢いよく全部投入した。愛華は、溶けきれないで底に残った砂糖を眺めながら、どうして自分が先生にとって特別なのかと考えた。


次の授業では、一時間丸々歌わされるということはなかったが、それでも他の教科よりも圧倒的に緊張感があった。おそらく最初に校歌を歌わせたのは、生徒の歌声を聞くためではなく、自分のやり方を生徒に示すためだったのだ。タヤマ先生は基本的に敬語で、背筋もぴんと伸びている。冗談も言わないし、声を出して笑ったりもしない。当たり前だがお菓子も出てこない。生徒に質問をする時も、完全にランダムで選ぶ。他の教師なら、例えば今日は10日だから出席番号10番、と最初の生徒を決め、そこから前後に答えさせる生徒を移動する。そういう規則性を生徒たちは素早く読み、自分が当てられる可能性を探って準備を行う。しかしタヤマ先生の場合、そういったことは一切ない。名前を呼ぶ時に、生徒の顔すら見ないので、表情でどの辺りを狙っているのかを予想するのも不可能だ。男女を交互にするといった配慮もなく、1回の授業で3回名前を呼ばれた生徒もいる。一度当てられたからと言って、安心はできない。

そんな中でもやはり愛華は特別だった。夏休みまでで呼ばれたのは1度だけで、しかも教科書の一部分を読ませるという、負担の少ない仕事だった。10回以上指名されている生徒もいたから、1度だけというのは不自然だ。だが、タヤマ先生のやり方では偏りがあるのは当然と皆思っているのか、愛華の発言が少ないことを指摘する者はいなかった。他の生徒は、リコーダーで延々とソロを吹かされたり、バロック音楽についてのレポートを発表させられたりしている中で、おそらく愛華だけがリラックスした気持ちで授業に臨んでいた。

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