第4話
「その芝生田って子はね、この前一家揃って夜逃げしちゃって行方不明なの。そんで、どうしようかって話。まあ退学にするんだけど」
先生がぽつりと言った。てっきり書類を綴じるのに夢中になっていると思ったのに。愛華は一気に血の気が引いて、思わずその場にしゃがみ込みそうになる。何か咎められる前に「すみません」と謝る。
「そんなの大したことじゃないよ。3年生は噂でだいたい知ってるし」
愛華の手の中の書類を取りながら、先生は言う。1人の生徒の退学よりも、書類がきちんとホチキス留めされる方が余程重要なことのような言い草だ。予想とは完全に違う先生の言動に、愛華はあっけにとられてしまった。
作業が終わると、タヤマ先生は綴じ終わった資料を袋に詰め、お礼、と言ってクッキーを2枚くれた。何の変哲もない、個包装された市販のものだ。家でも時々お母さんが買ってきたものをテレビを観ながら食べるが、学校では見るのは初めてだ。「また来てね」と先生が出口のところまで送ってくれて、愛華は音楽室を後にした。
笑顔で言った、タヤマ先生の「また」はどうせ社交辞令に決まっている。そう思ってるくせに、愛華は帰り道、再び先生に会いに行くことを考えていた。気がつくと学校脇の垣根を通り過ぎていて、振り返るとソフト部が後片付けをしていた。頭がぼんやりしていて、そういえば下駄箱で靴に履き替えた記憶がなかった。鞄に手を突っ込んで、クッキーが入っていることを確認し、思わず笑ってしまった。辺りはもう薄暗くなってきている。家に帰ったら「先生の手伝いをしてた」と遅くなった理由を話そう。それは決して嘘ではないのに、どこか背徳感のある言い回しに思えた。
別に向こうからしたら、都合が悪ければ断ればいい話なので、それならこっちが行きたい日に音楽室を訪ねればいい話だ。そうは思っても、翌日、翌々日はなんだかがっついているみたいでみっともなくて、結局思い立ったのは週が明けてからだった。教室から誰もいなくなるまでノートを開き、宿題をするふりをして時間を潰す。3階に上がる階段はこの前とは違うところを選び、3年生とは顔を合わせないコースを選んだ。急ぐ必要もないのに階段を駆け上がってしまい、無意味に息を切らしてしまう。運動不足だな、なんて思いながらも、この苦しさがちっとも嫌じゃない。ところが、いざ音楽室のドアの前に立つと、中から合唱する声が聞こえた。愛華は反射的に階段のところまで下がって、どういうことなのか状況を整理してみた。音楽部だろうか。考えてみたら音楽室は2つしかないのだから、放課後部活で使うのは当然だ。タヤマ先生はもしかしたら音楽部の顧問で、部活もせずにふらふらしている愛華を部に入れたくてこの前は声をかけてきたのかもしれない。タヤマ先生と一緒に毎日合唱三昧。それも悪くない気がする。そう思うくせに、何故か気持ちは沈み、ドアを開ける勇気なんて起きず、愛華は再び階段を下った。
家へ帰ってベッドに寝そべると、自分の不甲斐ない行動を嘆き、明日は勇気を出してドアを開けてやろうという気持ちになる。以前聞いた時音楽部の子は、確かにタヤマなんて教師は知らないと言った。それならもう一度行って、きちんと確かめるべきだ。
次の日、再びドアの前まで行ってみると、今度は物音ひとつしなかった。震える手を抑えながらノックをしてみると、女の人の返事が聞こえた。タヤマ先生の声のような気がするし、違う人のものにも聞こえる。もし違ったら「タヤマ先生はいらっしゃいますか?」と尋ねればいい。確かに先週ここで会ったのだから、不自然な質問じゃないはずだ。
ゆっくりとドアを引いてみると、果たしてタヤマ先生がこちらを見ていた。窓際の席に座り、手にはペンを持っている。「あら、愛華ちゃん」
先週別れ際に名前を聞かれて、名乗ったら「じゃあ愛華ちゃんて呼ぶね」と言われた。ちゃん付けで呼ぶ先生なんて、小学校の、それも低学年以来だからものすごい違和感を覚えた。でも、今そう呼ばれると、自分は忘れられてなかった、と心底安堵した。思わず小走りになって、先生の元へ近づき犬みたいな自分、と心のなかで失笑してしまう。
「月、水、金。あとたまに土曜日は音楽部が練習に使うの。それ以外は私が。まあ勝手に使っちゃってんだけど」
前日の不在について、そう教えてくれた。一応音楽の教師だから、ピアノの練習もしなきゃだしね、と机の上で鍵盤を叩くジェスチャーをする。その割に、この前もそうだったけど、まだピアノを弾く姿は見たことない。愛華の怪訝な表情に気づいたのか
「わたし職員室あんまし好きじゃないんだよね、人いっぱいいるし、煙草臭いし」
と照れ臭そうに言う。職員室が好きじゃない、とはっきり口にする教師なんて初めてだ。つくづく不思議な人だと愛華は思うが、もちろんそんなことは口に出せない。不思議な人、という形容が場合によっては失礼になるからだ。じゃあどんな風に言ってあげたら喜ぶだろう。そんなことを考えながら突っ立ってると、やがて先生は「座ったら」と隣の席を顎で指した。
愛華が椅子に深く腰掛けると、タヤマ先生は自分の机を愛華のものにくっつけ、横に置いたバッグから飴とチョコレートの袋を出してきた。それを逆さまにして、愛華の前に全部あける。遠慮する隙を与えない。これじゃまるでお菓子目当てでここへ来てるみたいだ。
仕方なく、愛華は飴をひとつ取った。レモン味の、のど飴だった。
「やっぱり、音楽の先生だから、のど飴なんですか?」
なんとか自分から話をしたくて愛華が包のラベルを指さすと、先生は顔を声を裏返しながら愉快そうに笑った。
「面白いこと言うんだね。これはね、味が好きなだけ。わたしは歌わないよ」
音楽教師だということを考えて聞いたのに、そんなに間抜けな質問だったのだろうか。愛華は慌てて包を破いて、飴を口の中に放り込んだ。
話を聞いてみるとタヤマ先生は、音楽部とも吹奏楽部とも全く関係のない人間で、じゃあ何部の顧問なのかと聞いてみると、園芸部の副顧問とのことだった。土いじりをするイメージなんて微塵も感じないので問い返すと、案の定活動には一度しか出たことがないと言う。
「わたし部活とか好きじゃないから」
その言葉に親近感を覚え、愛華はソフト部に入部してから幽霊部員になるまでのいきさつを、先生に打ち明けることにした。「わたしも部活とか苦手なんですよね」とさらりと言うつもりが、一度話を始めると止まらなくなり、本当は吹奏楽部が良かったことや、ユミちゃんなんて初対面から気に食わない女だと思っていたことまで、もれなく喋ってしまった。こんなにも長い時間、自分の身の上を他人に話すことなんて初めてだ。そのせいなのか、最後の方はしゃっくりが出て、止まらなくなってしまった。
愛華は話をしている間、先生が退屈してるんじゃないかと気になって、途中何度も顔色を確認した。先生は途中から頬杖をついて話を聞いていた。余計な口を挟まずに目をこちらに向け、口元に微笑みを浮かべている。とりあえず興味を持って聞いてくれているように感じた。だけど眼鏡の向こうにある、くっきりとした二重の目をずっと見ていると、自分の中の怯えまで見透かされているような気になった。
話が終わるとタヤマ先生は、水筒を出して愛華に紅茶を勧めてくれた。すっかり小さくなっていた口の中の飴が、流し込んだ紅茶によって一気に胃の中まで落ちていく。
「愛華ちゃんもそういう集団行動できない人だから、それは仕方ないよ」
先生の感想はただそれだけだった。それなのに愛華は自分の言いたいことが、十分に伝わったような気がした。
それから愛華は、タヤマ先生のいる放課後には、必ず音楽室を訪れるようになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます