第3話
後から友達に聞くと、それは2年の音楽を担当しているタヤマ先生だと教えてくれた。なんとなくひと言くらいはお礼を言った方がいいかと思ったが、わざわざ職員室まで出向く気にはなれない。話しているところを誰かに見られて、何を話していたのか聞かれるのも嫌だ。
他のクラスメートにもそれとなくタヤマ先生のことを聞いてみたが、音楽教師だという以上の情報は得られなかった。音楽の教師であるなら、と吹奏楽部か音楽部の友達に当たってみるが、皆知らないと言う。
まるで幽霊を相手にしているみたいだが、朝礼の時などは壁沿いに立っているし、渡り廊下ですれ違ったこともある。その時は友達と一緒だったから、声をかけることはできなかった。
ようやくチャンスが巡ってきたのは、愛華がいつもより遅い時間に教室を出た、ある放課後のことだった。日が短くなった11月の夕暮れだった。下駄箱に向かう階段を降りる途中、下からすたすたという、特徴のある足音が上がってきた。それは、来客用の緑のスリッパの音で、確かナプキンをもらった時も、タヤマ先生はそれを履いていた。手すりの隙間からのぞくと、間違いない、背中にかかった髪が、大きめのお尻とリンクして揺れている。他に人はいない。愛華はその場で立ち止まって息を飲み、タヤマ先生が上がってくるのを待った。だが、先生がすぐ下の踊り場まできて、いよいよ顔を真正面から捉えた時、怖気づいてしまった。どう声をかけるのかを、全く考えていなかったのだ。
「この前はお世話様でした!」
と深々と頭を下げればいいのだろうか。いきなりそんなことをしたら相手もびっくりするだろう。それより相手は自分のことを覚えているのだろうか。きっと忘れられている。それならクラス番号名前を順番に言ってから、用件に入るべきか。これもなんだか回りくどい。愛華はとっさに話す内容を考えるのが苦手だった。タヤマ先生は比較的ゆっくりとあがってきたが、確実に近づいてくる。手には白い紙袋を下げている。もしかしたら忙しいのかもしれない。そう思うと、このまま話しかけないのが正しい判断のような気がしてきた。この先も何度もすれちがうのだから、何も今無理して声をかける必要はない。
立ち止まっているのは不自然なので、軽く会釈をしながら階段を降りていく。すれ違う瞬間に、香水の匂いがして「やっぱ話しかければ良かった」と後悔した。
だが、愛華が踊り場に右足をつきかけた瞬間「ちょっと」と背中に声をかけられた。振り返ると上からタヤマ先生が、こちらを見下ろしている。さっきとは逆の立ち位置だ。愛華は小動物のみたいに周りを見回し、その声が別の誰かに向けられた可能性を探ってみる。呼ばれたのは愛華に間違いなかった。挨拶がちゃんとできてなかったのか、それとも態度が悪いのか。階段の頂上に立つタヤマ先生の表情を伺いながら、短時間で言い訳を考える。まだ何も言われていないのに。
「まさかまた、ナプキン忘れたんじゃないよね?」
冗談で聞いてきたということは、口調でわかった。メガネの奥の目が、小馬鹿にしたように笑っている。愛華は顔に血液が集まってきたのがわかった。それを悟られたくないから、目線を外して階段の手すりを見る。手すりの錆びた根元には随分古くからありそうなホコリがたまっていた。相手の方から声をかけてくるという予想外の展開に、どう対応していいのかわからない。タヤマ先生は何もせずに、愛華の反応を待っている。何か喋らなければ、と思うほど言葉が見つからず、結局へらへらとした曖昧な笑顔を向けることしかできない。
「これから部活?」
「部活は、お休みしようかと思って。ちょっと風邪気味なんです」
先生の問いかけで、どうにかコミュニケーションが成立する。部活のことを聞かれたとき用の、型通りの受け答えだ。なんだか他人に無理やり喋らされてるみたいで味気ない。半ば無意識に、咳き込む演技まで付け加えようとしてあわててやめる。
タヤマ先生は足をクロスさせ、右手の人差し指を顎にあてながら何かを考えていた。下を向いたせいで二重顎になり、指のあたったところだけ肌がへこんでいる。見るからに柔らかそうだ。
「ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど」
こちらの体調悪いアピールは完全無視なのか、それともはなから嘘と見破っているのか。タヤマ先生は返事を確かめることもなく、愛華を3階の第二音楽室へ連れていった。
最上階である3階は、3年生のエリアで、愛華にとっては全く縁のない空間だった。階段を上っていくつもの教室の前を通り、一番奥が音楽室だった。愛華はすれ違う上級生と目が合うのが嫌で、タヤマ先生の背中から視線から決して目を離さないようにしながら、後をついていった。
全てが見慣れない光景だった。薄暗い入り口には下駄箱が置かれ、てっきり土足禁止なのかと思ったが、先生はスリッパを脱ぐことなく、そのままずんずん進んでいく。愛華は上履きを脱ぐべきか迷ったが、結局脱がずに中へ入った。
まず目が奪われたのは、床全体が赤い絨毯になっていることだった。足を踏み入れると同時に自分の靴音が消え、同時に埃っぽいにおいが鼻についた。他にこんな教室はない。第一音楽室はワックスがぴかぴかの板張りで、いかにも近代学級という感じだが、こちらは大正時代みたいな雰囲気だ。
天井は高く、金属の太い配管がむき出しになっている。教壇の木材も黒ずんでいて高く、準備室へ通じるクリーム色のドアも傷だらけだった。黒板に書かれている黄色い五線譜も、とこどどころが消えている。壁には黄ばんだ貼り紙で「火の元注意」なんて書いてあり、床には消火器が置いてある。音楽室なのに、火なんか使う場面があるのだろうか。どこかちぐはぐでシュールだ。
タヤマ先生は奥のグランドピアノに紙袋をどさりと置き、最前列の机をくっつけ始めた。特に指示もないが、愛華も手伝う。机の高さは微妙に違っていて、でこぼこした長机ができあがった。先生は袋の中に入っていた書類の束を出してきて、それをいくつかに分けてその上に並べる。
「今日これから職員会議があってさ、わたしが資料つくんなきゃなの。当番」
愛華が1枚ずつ資料を取ってまとめ、タヤマ先生がそれをホチキスで留めることになった。先生は、校長2つ留めじゃないと怒るんだよね、とぶつぶつ言いながら、ぱちんぱちんとやっていく。愛華は何て答えていいのかわからない。場を和ませるために出た言葉のように感じたが、ただのひとり言のようにも思える。
いつも授業の時に配られるわら半紙とは違う、真っ白なコピー用紙だった。わら半紙は手で握っているだけで、すぐに汗でふにゃふにゃになるが、これは水もはじいてしまいそうだし、注意をしなければ手を切ってしまいそうだ。慎重な手つきで紙を取り、先生に渡す。先生は、微妙なズレが気になるのか紙を立てて、机の上でしきりにとんとんと叩いている。そんな調子だったから、徐々に愛華の方が、書類を持ったまま待つようになった。自然と資料の内容に目が行ってしまう。1番上にはタイトルがあって極太の文字で「第七回職員会議レジュメ」と印刷されている。その下に日付があって、さらに校長挨拶と続く。議題は文化祭について、保護者会について等あったが、日程と簡単な補足があるだけで、あとはスペースばかりだった。そこにメモを書き込むのだろう。
何枚かページをめくると「10.」と番号の振られた後に「芝生田英太(3-5)の対応について」とあった。
それにはタイトルしかなく、その下は空白になっている。何者だろうか。3年だから顔も名前もわからない。こんなところに単独で名前が晒されるのだから、余程何かをしでかしたに違いない。ぽっかりと空いた真っ白のスペースに、想像をかきたてられる。ケンカなのか万引きなのか。頭の中には髪を茶色に染めた、目つきの悪い男の姿が浮かぶ。あるいは登校拒否になったとか。でも登校拒否なんて愛華のクラスにもいるし、そんなことをいちいち会議を話さないだろう。愛華の好奇心はどんどん膨らみ、思わず先生に「この芝生田って人はどうしたんですか?」と聞きたくなる。
だが、そんな生徒の内情を、すんなり教えてくれるだろうか。下手したら「余計な詮索するな」と怒られるかもしれない。愛華は喉元まで出かかった質問を引っ込めてページを元通りにし、芝生田英太の名前を封印した。先生は書類を眼鏡のすぐ前まで持ってきて、神経質に角を見つめている。人差し指と中指の第二関節が直角に曲がり、無駄に力が入っているのがわかる。職員会議が何時からか知らないが、こんな調子で間に合うのだろうか。
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