第2話
門を出て右に曲がり、校庭に沿って歩く。垣根が植えられているが、葉っぱはすかすかで中の様子がよく見える。すぐそこは野球部、その向こうはサッカー部。陸上部はそのさらに向こうだ。芳賀くんはバスケ部だからこの中にはいない。掛け声や金属音が至る所から聞こえる。そこを過ぎると、ソフトボール部のゾーンだ。足取りが自然と早くなる。校庭内に向いていた視線を道路に移し、誰とも目を合わさないように最大限の注意を払う。愛華は1年の途中まで、ソフトボール部に所属していた。部活動に入るのは気が進まなかったが、学校側の決まりで、どこかしらには所属しなければならない。どこにするか決められない愛華は、その時前の席に座っていたユミちゃんに誘われて、ソフト部に入ることにした。本音を言えば、吹奏楽部に入りたかったが、仲良しの子で入ろうとする人はいないし、両親にそれとなく話を持ち出すと「楽器代がかかる」と嫌な顔をされた。どうしてもやりたいと言えばやらせてもらえる気もしたが、そこまで押し通す熱意はなかった。ちなみにソフトボールならグローブ代しかかからない。
そんな風にして入ったソフトボール部だから、すぐに嫌になった。朝は早いし、土日も滅多に休めない。近所に住むひとつ年上のお姉さんが、小学校の頃とはがらりと態度を変え「先輩」と呼ばせてくる。球拾いをしながら、ナイスバッティング! ナイスプレー! と声を張り上げなければならないのにも辟易した。少しでも手を抜くと先輩に睨まれるため、最初の一週間は声が枯れてまともにしゃべることもできなかった。
だが本格的に憂鬱になってきたのは、入部から1ヶ月程経ち、本格的な練習が始まった頃からだった。愛華たち1年生は全部で15人いる。そのため、キャッチボールなど2人一組の練習を行うと、必ず1人余ってしまうのである。そしてその余った1名は、愛華になると決まっていた。
元々西中は、市内の3つの小学校から上がってきて編成されるため、同じ小学校出身者で派閥が形成される傾向がある。ソフトボール部の1年には、愛華と同じ小学校出身者は誰もいなかった。頼みの綱のユミちゃんも、教室では色々声もかけてくれるが、練習が始まれば、同じ小学の子とばかり話している。先生がいれば、3人一組でやれなどの指示を出してくれるだろうが、顧問は上級生にノックをしていて、まるでこちらに関心を示さない。愛華は決死の覚悟で近くの女子に声をかけ、仲間に入れてもらうが、なんだか居候みたいで肩身がせまかった。
夏休みに入ると愛華の気持ちは切れ、徐々に練習にも出なくなった。練習の予定表は居間のカレンダーの脇に貼ってあったから、サボっているのはバレバレで、母親が声をかけてきたが「行きたくない」と突っぱねるとそれ以上は言ってこなかった。「じゃあ飲み物作らなくていいのね?」と確認してきただけだった。戸棚には先週買ってもらったばかりの、スポーツドリンクの粉末が置いてある。他に誰も飲む者はいないから、いずれゴミになってしまうだろう。もったいないから自分で作って飲めばいいやと思ったが、実行に移されることはなかった。父親に知られて説教でもされるのかと覚悟したが、気づいていないのか何も言われなかった。
3日ほど無断で休むと、ユミちゃんから電話がかかってきた。ちょっと風邪ひいたみたい、と嘘をつくと、本気で心配しているようだった。悪い気がしたので「でもだいぶいいんだ」と声を張った。我ながらわざとらしい声だった。するとユミちゃんは「明後日は三年生最後の大会だから、来たほうがいいよ」と教えてくれた。いつも偉そうにしている三年の顔を思い浮かべ、うんざりした愛華は親と旅行行く、と嘘を上塗りした。ユミちゃんが黙ってしまったので、お土産買っていくよと言うと「いいよ」と言われ電話は切れた。
残りの夏休み、愛華は気まずい気持ちで過ごさなければならなかった。ユミちゃんは、果たして自分が部活に行きたくないのを気付かれてしまっただろうか。お土産を買っていく、とまで言ったのだから、もしかしたら体調不良と旅行が重なったと、信じているかもしれない。だとしたら新学期から、何食わぬ顔をして部活に参加しても、周りは何も思わないだろう。後ろめたい気持ちがあるなら、それこそ何か手土産を持参すればよい。だが全員が、温かく迎えてくれるだろうか。夏の練習はきつかった。肌は日焼けしてぼろぼろになるし、流れる汗はすぐに乾いて塩を吹く。休憩時間以外は水を飲むことを許されていなかったから、四六時中のどが乾いて頭はふらふらだった。そんな地獄の練習に半分も参加しなかった愛華に、周囲は冷たい目を向けるだろう。
結局愛華は夏休みが終わっても、部活動に参加することはなくなり、ユミちゃんとも距離を取るようになってしまった。ユミちゃんや他の運動部の生徒の肌の色は黒に近かった。愛華もいくらか日焼けしていたが、所詮3日ほど家族と海水浴に行った程度では、太刀打ちできるわけない。彼らが笑った時に見せる歯は白さが強調され、その度に愛華は、自分が日陰の住人となってしまったような気がした。
幽霊部員となった愛華は、なんだか自分が不良になってしまった気がした。とは言うものの、周りでそのことを咎めてくる者はいない。自分が部活をサボり続けていることに気づいた顧問が、担任にそのことを報告し、呼び出されて説教されるのを恐れていたが、一向にその気配はなかった。担任は40歳くらいの男で、薄いサングラスをかけ、前髪が少し後退していた。小学校時代に女の教師にしか習ったことのない愛華は、この教師と接する時無駄に緊張し、普通に話しかけられている時でも、怒られているような気分になった。現に男子に対して体罰を与えているのを見たこともある。部活をサボっいてるとバレれば、同じ目に遭うかもしれない。女の子が殴られるなんて考えづらいが、今は男女平等だし、自分がそうならない保障はない。無駄に思い詰めて、夜眠れなくなることもあった。
タヤマ先生と出会ったのは、そんな風に愛華が寝不足になりつつ、びくびくしながら日々を送っている頃だった。ある日の昼休み、愛華は生理になったが、ナプキンを持ってくるのを忘れてしまった。予定より一週間早かった。普段なら予定など関係なく、一式を鞄の奥にしまっておく。だが、その日は美術で画材一式を持ってこなければならなかったため、少しでも鞄にスペースを作るために机の上に置いてきてしまったのだ。ここまで予定よりずれてしまったのは初めてで、愛華は取るべき行動が判断できずに途方に暮れてしまった。そうは言っても、このままやり過ごすわけにはいかない。誰かに借りればいいが、こんなものを貸し借りするのは、不潔な気がした。だらしのない女と思われては困る。でも、ナプキンを忘れるなんて、誰にでも起こりうる事態なんだから、そんなに気にすることはないのかもしれない。自分だったら助けを求められたら喜んで協力するだろう。万が一制服を汚してしまったらと思うと背筋が寒くなる。
だが、そうなると誰に声をかければいいのか。愛華はその相手を選ぶのに、たまらない苦痛を感じた。もしかしたら自分が部活をサボりつづけていることに負い目とか、これ以上クラスメートに弱みを見せられないとか思ったのかもしれない。
いつまでも踏ん切りのつかない愛華は、どうせなったばかりで量も少ないし、それならトイレットペーパーでもあてて済ませてしまおうと判断した。
そうと決まればぐずぐずしていられないと、トイレにダッシュしていると、やや太めの女教師と鉢合わせた。眼鏡をかけ、桃色のカーディガンを羽織っている。見たことはあるが、話したことはない。おそらく別学年の教師だ。愛華の前に立ちはだかるように現れたから、自分に用でもあるのかと思い、教師の顔をまともに見ていた。だがそれは愛華の勘違いで、教師の方も不思議そうに黙って愛華を見ていた。やがて、脇目も振らずに急いでいた愛華が、教師に道を譲らないだけだったということに気づき、慌てて頭を下げて道をあけた。急な動作だったから、股の奥で嫌な感じを覚えた。教師はすぐに立ち去るかと思ったが、変わらぬ表情で愛華の様子を見ていた。怒られると思った愛華が無意識のうちに半歩下がると、教師は自分の下腹部に手を当て「なっちゃったの?」と聞いてきた。
動作と声のトーンで生理のことを指していることはすぐわかったが、愛華は一瞬嘘をついてしまうか迷った。だが、すぐにそんなことをしても無駄と悟り、大人しく首を縦に振った。
教師の方は、囲い込むように愛華の方へ近づき、さらに声を潜めて「もしかして、あれ、忘れちゃった?」と聞いてくる。窓側に追い詰められた愛華は「はい、すみません」と泣きそうになりながら答えた。
俯いたまま動けない愛華に、教師は「おいで」と声をかけトイレまで連れていってくれた。幸い誰もおらず、水道の手前で教師はナプキンをひとつ手渡してくれた。
「それ、ひとつあげるから使って。あのね、今度そういうピンチになったら保健室に行くといいよ」
愛華は泣き声で、礼を言いながら個室へ入った。情けないのかありがたいのか扉を閉め、事なきを得ると、実際に泣いてしまった。教師は出てくるまで待っていてくれるだろうと勝手に思い込み、涙をハンカチで完全に押さえ込んでから外に出たが、そこには誰の姿もなかった。
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