音楽室

fktack

第1話

10月の体育祭では、競技の他に男子は組体操、女子は日本舞踊をやることになっている。全生徒で、だ。そのため夏休みが明けると、体育の時間はこれの練習になる。準備体操の後、教師の動きを見ながら、手を広げたりしゃがみこんだりする。いくらか出来るようになると、音楽に合わせて踊るようになる。本番では扇子をもって、ブルマの上にスカートを履く。さらに裸足にもならなければならない。足の裏にびっしりつくだろう砂利を想像すると、愛華は憂鬱な気持ちになった。早く過ぎ去って欲しい。教室にいる時は暑くも寒くもなかったのに、校庭に出ると日差しが強すぎて、伸ばした腕の表面が、じりじり言っている。頬や鼻の頭にも熱を感じるから、家に帰る頃は、顔も赤くなってしまうだろう。のらりくらりとした動作は、こういうジャンルなのだから仕方ないが、これでは日射病の患者みたいだ。手を頭上に掲げた時に、さり気なくおでこを拭ってみるが、思った程汗はかいていない。4時間目はあと何分くらい残っているのだろう。

校舎にかけられた時計に目をやると、視界に男子たちが折り重なって作るピラミッドが入った。全部で4段。付随動作で芳賀くんを探すと、下から2段目、一番左にいた。こちらにお尻を向ける格好だから、100パーセント確実ではないが、間違いないだろう。芳賀くんは背は高いけど細いから、きっと下から2番目なのだ。念のため周りに立つ男子たちの顔を確認し、その中に芳賀くんがいないのを確認した。どれも違う。ピラミッドに参加していない生徒は、周りを取り囲んで突っ立っている。背の低いもじゃもじゃ頭の先生だけが、あちこち動き回りながら、大声を出している。一体何を言っているのか。と思っていたら、突然山がぺっしゃんこになった。土埃が舞って何人かの生徒が大きな声を上げる。愛華も踊りそっちのけで見ていると、1番最初に立ち上がったのが芳賀くんだった。芳賀くんは大きな笑い声を上げながら、他の生徒を助け起こしている。体操着が土まみれになっている。

他に今の光景を見た女子はいなかったのだろうか。踊りはそのまま続いている。不意に風が吹いて、さっきの土埃が顔に当たった気がして、愛華は思わず目を細めた。


「ああ、それはね、わざとぺっちゃんこにすんの。多分崩れたんじゃないと思うよ」

放課後いつものようにタヤマ先生の元を訪れて、昼間の話をすると、なんでもなさそうにそう言った。

「なんで?怪我とかしないの?」

「知らない」

と素っ気なく答えて、タヤマ先生は楽譜をセットする。グランドピアノには黒い布がかけられ、その皺のより具合が砂漠を連想させる。

「去年東中が体育祭でそういうのやったんだって。一気に崩せば次の演目にすぐ移れるんだとか言ってた。いちいちピーピー笛吹いて降りていくんじゃ、小学生と変わらないんじゃないか、とか」

タヤマ先生は股の間に手を突っ込んで椅子の位置を合わせ、ひと息ついて、鍵盤を叩き始める。何の曲か認識しようとすると、いくらも弾かないうちにストップする。指がうまくかみ合わないのか、和音が3回くらい鳴っては止まる、を繰り返す。

「これ、今度3年生でやる曲」

愛華の疑問に答えるようにつぶやく。視線は前に固定されたまま、楽譜に顔を近づけて、音符を網膜に焼き付けているようだ。朱色のフレーム眼鏡の奥にある目が大きく開き、太いまつ毛が上を向いている。真剣なのだろうが、目尻が下がっているのと、頬がふっくらしているせいで、気だるそうに見える。背後のカーテンの隙間から西日が入ってきて、光があたった部分だけ、髪の毛が茶色く際立っていた。いや、この人は元から茶色い髪をしている。染めているのだ。

しばらく同じ部分をリピートして、ようやく4小節ほど弾けるようになってきたところで猛スピードで弾いて、それから手の動きが止まった。「おしまい」と膝を叩き、鍵盤の蓋を閉めてしまった。「あとは明日早く来てやろう」

一瞬自分がここにいるせいで、集中できないんじゃないかと愛華は緊張した。タヤマ先生の表情から心理状態を読み取ろうとする。もし本当に集中できないなら、今すぐこの場を立ち去るのが賢明だろう。しかし、この音楽室でこうして過ごすのは、何も今日が初めてではない。タヤマ先生は、気分が乗っていれば愛華そっちのけで何十分も弾き続けるし、1人で練習したければそのことをはっきりと言う。愛華も終わるまで聞いている時もあれば、飽きて帰ってしまうこともある。お互いに気兼ねしない仲なのに、それでも相手に迷惑をかけているんじゃないかと心配するのが愛華の性格だ。


「それで、愛華ちゃんは崩れたピラミッドの中に芳賀くんがいて、気が気じゃなかったってわけね」

愛華の強張った表情にまるで注意を払うことなく、タヤマ先生はからかってくる。

「そんなわけない」

「あるね」

そう言って先生は、グランドピアノに載せた愛華の左手を、鍵盤みたいに叩く。叩くと言うよりボディタッチに近い。先生の指はやわらかい。

「体育は藤部先生だっけ?愛華が真面目にダンスやってないって告げ口しとくから」

「やめてよ。私ただでさえよく注意されるんだから」

今日もピラミッド崩壊の後、角度が悪いと腕を引っ張られた。乱暴な動作で、愛華は体育教師全般が苦手だ。タヤマ先生は上目遣いで、にやにやこちらを見てくる。心の内を覗かれている気分になる。

「嘘だよ。あたし藤部先生となんて一度も喋ったことないし」


それから体育祭のダンスの悪口で盛り上がった。タヤマ先生はあんなのセンスゼロだし、見てる方もちっとも楽しくない、と散々こき下ろした。先生は日本舞踊とは呼ばずにダンスとしか言わない。正式な名称を知らないのかもしれない。校長頭おかしいでしょ、とまで言うので、愛華は無意識のうちに日本舞踊擁護派に回り

「でも教育の一環なんだから、楽しくなきゃいけないわけじゃないでしょ?」

なんて言ってみる。

「教育?」

タヤマ先生は苦いものを口に入れたような顔をする。教育者のくせに教育という言葉を知らないのだろうか。愛華は済まし顔で「そう、教育」と返す。

「愛華さんは真面目なんですね」

「別に真面目とかじゃないよ」

愛華は反論するが、口がもごもごしてしまって、それ以上会話は続かない。先生が不真面目すぎるんだよ、とでも言えばもっと盛り上がっただろうか。だけどそこまで言う勇気はない。

それから先生が荷物をまとめ始めたので何かと思ったら、今日はこれから学年会議、とのことだった。会議なんて退屈で意味ないのに、いきがってしゃべりまくる奴がいてうざい。理科の長尾とか。散々文句を垂れながら、タヤマ先生は音楽室の鍵をかけ「ばいばい」と言って去っていった。音楽室の前で別れる時、タヤマ先生は「さようなら」とは言わない。

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