「帰らなきゃ」
伊良波航太
短編 帰らなきゃ
ある物語を思いついたので書いてみた。2000字くらいの短編。
僕が自分でみた夢を脚色したものなので、かなり特異な内容になっているが、極上の霜降りステーキというよりは、珍味でも食ったというような気軽な感じで読んで欲しい。
『帰らなきゃ』
ココは山へ行った。
山へ行ったといっても、一人ではない。ココはまだ5才。その日は通っている幼稚園の遠足だった。
場所はコモラ山だ。集落の北側に鎮座し、毎日陽の光を存分に浴びている。なんだか偉そうといえば偉そうな山で、寂しそうといえば寂しそうな山だ。
町の人間は気分転換に、山によく登る。コモラ山というそれらしい名前こそ付いてはいるが、1時間あれば、頂上まで登って降りてこられるような気軽な場所だった。
ココは先生に連れられ、朝から出発し、十数名の園児と一緒に、開けた町の頂上にたどり着いた。
低木が生い茂り、木苺(キイチゴ)がたくさんなっている。お弁当を食べた園児たちは、おもいおもいに遊び始める。
大人から変な入れ知恵をされた子供は、「木苺は汚いから食べない」と強がってみせるが、ほとんどの子供は、たくさんなっている実をもいで、自分で採った果物は美味いと言わんばかりの自慢げな笑顔をみせていた。
ココも、もちろん木苺を頬張った。しかし、他の子供のように食べた数を競うのではなく、大きい粒のものや、イキイキとした色のものを見つけ、誰に自慢するでもなく、ひとり悦に入っていた。
気に入った粒を見つけ、手にとって眺め、口にほうばって甘さを確かめる。覚えたての時間の概念がなくなり、ずっと続くかのように感じられた。
不意に、先生の「そろそろ帰りますよ〜!」という声に、意識が連れ戻された。ココは小さい掌をぎゅっと握った。中の木苺が汁を飛ばして勢いよく弾けた。全て自分の思うままだったこの場所での時間が、ここで終わってしまうのだ。しかし、ココにある考えが浮かんだ。
先生を先頭に、園児たちは山道を降りはじめた。ココは降りなかった。一旦、最後尾に加わって、すぐに木の後ろに隠れたのだ。のちに先生が、人数が足りないことに気がついて引き返してくる、という淡い期待もあったかもしれない。しかし、誰かが戻ってくる様子はなく、ココのいる場所から、次第にみんなの声が小さくなっていった。
踏みしめる小枝の音だけの世界。ココは一人きりになり、いっとき不安に襲われたが、すぐに達成感がそれを上回った。今日は家に帰らなくていいのだ。帰ってご飯を食べて、お風呂に入って、遊び飽きたおもちゃで遊んで、義務のように眠りにつく、決まりきったことは、何一つしなくていいのだ。
ココは生まれて自由になった。すべてを許されたかのようだった。自分の気の向くままに行動できるのである。その日は、木苺を食べて、草むらに寝っ転がって眠った。次の日は、山の裏側を流れる川を見つけ、水遊びをしながら、岩の間の魚を見つけてなんとかつかみ取り、「えいっ!」と、生で食べた。
それから、いく日が経っただろう?ココには日付などわからなかったが、とにかく、自分の中で大きな時間が経った。満足できる時間だ。山では、全てが自分の時だった。
不意に町に帰ってみようとココは思いついた。これだけ長い時間が経っていれば、町の方でも、何か変わっているかもしれない。そんな漠然とした興味に駆られ、倒木を避けながらけもの道を駆け降り、走ってココが住んでいた家についた。
窓の外からのぞいてみた。一人の男の子が遊んでいる。ココのおもちゃでだ。自分に兄弟はいなかったはずだ。弟というものができるほど長い年月、自分は山にいたのだろうか?
母親が「ココ!!」と優しい声で呼ぶのが聞こえた。夕ご飯の声だ。いい匂いがしてきた。突然、大きな安堵が襲ってきた。自分にはココという名前がある。この家に帰って来てもいいのだ。
そのとき、おもちゃで遊んでいた男の子が返事をした。おもちゃを面倒くさそうに元あった場所に戻している。ココは理解した。自分はあのときの遠足から帰っていたのだ。ちゃんと帰っていた。涙が込み上げてきた。じゃあ、自分は一体なんなのだ?
窓から入ろうとしたがやめ、山のねぐらに戻った。大木の穴の中。風も吹かない夜なのに、眠れなかった。母親が自分を呼ぶ声が、繰り返し頭で鳴っていた。
次の日は、川で泳ぐことにした。長い時間潜った。無我夢中で泳いだ。
そして、山でさらに大きな時間が経った。ある日、川の大岩の下側、水面からココの背丈ほど潜ったところに、穴がぽっかり空いているのが見えた。不気味だが、人一人くらいは通れそうだ。ココは興味に駆られ、その穴の中に入っていった。暗い穴のトンネルを少し泳ぐと、上に光が見える。大岩と別の大岩の間の空間に顔を出し、かすかな光が差し込む場所にあがった。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。
老人が座っていた。「客が来たか。珍しい。小さな虫くらいのものだからな。この穴に入ってくるのは」
ココは人がいたことに少し驚いて、こんなところで何をしているのか尋ねた。
「観ているのだ」
「何を見てるの?」
「全てを」
「そばの川や、木苺さえ見れないこの岩の間の穴で?」
「わしくらいになると、何も見えない場所から、すべてがみえるようになるのだ。わかるようになると言った方が合っているかなあ」
「今は何がみえるの?」
「君がみえておる」
「それはわかるよ。じゃあ、僕の名前は」
「そんなもん。どうでもよい」
「なんだよ。何も見えてないじゃないか」
「君はまだ頭で考えているな。自由に生活して、理屈が必要ないはずの君が。不思議だ。」
「ココだよ名前は。こんなところで、僕が何をしているかは聞かないの?」
「それは分かっている」
老人は、少し悲しそうな目をして、岩肌に雄鴨色に生え揃ったコケを眺めているふうだった。
「捨てられたんじゃよ、君は。ココに捨てられた、もう一人のココなのだ。」
「君は、今の人間界ではまったく必要の無い存在だ。だから、山を降りるときココに捨てられたのだ。決まり事に耐えられず、未来を考えることも嫌いだ。君は人間の最も動物らしい部分だ。野生の性質そのものだといえるだろう。」
ココは捨てられたという喪失感と悔しさ、こそ覚えたが、不思議と涙は出なかった。それに、理解も追いついていない。
「わしは子供の頃、山を降りたのだ。そして世俗にまみれて育った。勉強をし、結婚をし、子どももできた。孫に子どもも生まれた。後悔はなかった。ただの一つを除いて。それは、あのとき、山を降りてしまったことだ。自分を置いて、山を降りてしまった。心をひとつ捨てたのだ。何十年も生きたが、あの時ほど無心に楽しめたことは、一度もなかった。だからわしは、山に籠ったのだ。」
ココは理解した。そして老人はなおも言葉を続ける。
「会いたかった。長い時間が経ってしまったがやっと会えた。残りは短いかもしれないが、君と生きてみたい。」
湿った空洞に、しわがれた声がこだまする。
ココはうなずいた。
老人は、自分が観ている世界を、受け入れることができた。木や草や花、山全体を味わった。ココの姿はそこになかった。
「帰らなきゃ」 伊良波航太 @Saito-Gutt
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