第9話『提案』

 あの異星人同士の握手を交わしてから四日目。日本が地球とは異なる地に転移してから早一週間が過ぎた。



 さすがに一週間も過ぎれば別の星に来た衝撃はわずかでも薄れ始め、度肝を抜かされた空飛ぶ人種の存在も連日各メディアで出ていれば慣れ始めてくる。



 日本社会は依然と崩壊したままであるが、政府が打ち出した経済リセット策が効き始め、生産業と運送業を中心に動き始めた。レヴィアンによる十八年から十九年の大量離職期を経ても続ける農家は意外にも多く、全作物から見て三割は続けていたらしい。最も生産し続けていたのはやはりと言うべきか米で、全国に回すだけの量はないが起爆剤としては十分と言えた。



 まだまだ経済は疲弊して完全回復は無理だろう。しかし生きるために考えを改め動く人々は少しずつ増えていく。



 増えると言えば、日本と異地を結ぶ接続地域沖で交流が続く両軍も、少しずつ話せる語彙を増やしていた。政治的なやり取り、互いの核心を突く話は場所が場所だけに暗黙の了解で控え、とにかくそつなく話が出来るようにイルリハラン側は日本語を、日本側は異地の言葉であるマルターニ語を学んでいった。



 交流場所は距離と燃料の問題から約束の湖から、監視目的としてやってきたラッサロン天空基地と須田駐屯地の中間地点に場所を移し、日本側から取り決めたわけではないのに午前九時から午後五時の間で交流をするようになった。



 そして日本とイルリハランは何を話して言葉の勉強をしているのかと言えば、外国人の会話で定番の文化面である。



「じゃあ、イルリハラン、は、おおきい、どうぶつ、つかまえて、たべる?」



「カチク、ヨウ、ノ、ドウブツ、モ、イルケド、オオキイ、ドウブツ、モ、ショクヨウ、ニ、スルヨ」



 基本は日本側は日本語、イルリハラン側は異地語改めマルターニ語で話すが、時折答え合わせのように互いの言葉で話して間違っていないか確認しあう。



 イルリハラン側のOKサインは人差し指と中指を立ててほんの少し振るらしく、座布団を敷いた脚立に座っている羽熊は、その仕草をして問題ないことを伝え、逆に話し相手であるルィルも人差し指と親指をくっつけて丸を作るOKサインで伝えてきた。



 話の内容は食生活についてで、日本側は出来れば手を出したい円形山脈内の大型動物について話をしていた。



 いくら食料関係を中心に流通を再開させようとしているとはいえ、元がなければ復活のしようがない。なので昔の鯨肉のように、一頭で数万人は食べられそうな巨大動物を狩猟出来ないか聞いた次第だった。するとイルリハラン側は肯定的で、主食である茸類とは別に家畜用の動物と、鯨肉枠である大型動物も狩猟しているらしい。



「なら、日本、も、獲って、食べて、いい? 日本、食べ物、必要」



 もちろん食べるためには検疫をしっかりせねばならないが、食料の問題は日に日に深刻化していく。あれだけ巨大では血抜きや加工、運送が大変だがその見返りは十分にある。



 問題は反捕鯨思想の動物保護団体が出てこないかだ。実のところ日本の捕鯨行為は増えすぎた鯨を捕鯨の建前で駆除し、餌となる魚類が減り過ぎないよう調整するのが狙いなのだが、知能の高い哺乳類を殺す云々、きれいごとを並べることに対する自己満足云々、運動によって得られる金銭云々で地球世界では後を絶たない。



 もしこの手の運動団体が日本とイルリハランにいると国際問題になる。イルリハラン軍の監視のもと日本は接続地域近辺であれば足を踏み入れていても、法的には立派な違法行為なのだ。その上勝手に異地側の動物を狩猟しては後々大きな問題となってくる。



 羽熊の問いを辞書で調べたルィルは少々難しい顔をした。さすがに自分の判断では出来ないのだろう。



 ルィルはマルターニ語で少し待つよう言って隣にいるリィアと話し始めた。



 羽熊はそれに頷き、脚立を降りて下で待機する雨宮に耳打ちする。



「雨宮さん、いま異地の動物を狩れないか聞きましたけど、即断できないくらいには野生動物用の法があるみたいですね」



 当然ながら日本では動物の狩猟と命の選択は法に則って是非が決められている。例えば起きてほしくないのに定期的に起こる野良猫や鳥類へ矢を射ったり、ナイフ等で虐殺するのはれっきとした動物愛護法違反だ。食べるための殺傷は合法でも、苦しまずに殺さなければならないし、保健所や関連機関などの許可を経て適切な処理をしたうえで食べるわけで、イルリハランの支配地で勝手に動物を狩猟して食用にする場合、イルリハラン側の許可が必要になってくる。



 法がなければ日本の法律に順守すればいいが、イルリハランに動物愛護法や狩猟法があれば勝手には出来ない。



 そして一年以内の理想的な話をすると、日本は国内だけでなく異地でも第一次産業の展開をしたいと思っている。日本の何倍もある広大な土地を利用できれば、その分だけ日本だけでなく異地国家への貿易材料になるため、主権や領土問題はあれ日本としては必要な道だった。



 それを妨害するのが恐竜以上に巨大な動物たちだ。いまのところ日本にわざわざ向かってくる動物はいないが、異地で作物を育てるとなればその脅威におびえなくてはならなくなる。とはいえ常に国防軍が護衛するわけにもいかず、しかし警察や狩猟会の能力を越えるため、今のうちに駆除と同時に食料と言う一石二鳥をやっておきたかったのだった。



 羽熊は再び脚立を登って二人の前に座る。



「どうぶつ、とって、たべる、ほうりつ、ある?」



 マルターニ語で羽熊は二人に問う。



「ウン、アル」



 ルィルは頷いて日本語で肯定した。



「にほん、どうぶつ、とって、たべる、は、だめ?」


「イマ、カクニン、シテル。デキル、カ、ワカラナイ」


「サンファー」



 分からないとはいえ聞いてくれるだけありがたく、羽熊は笑って礼を言った。



 ルィルも微笑んでくれてとりあえず場が冷めることは避ける。



「そうだ雨宮さん、あれ用意してもらえますか?」


「あれですか? 分かりました。こちら雨宮、例のあれ持ってこい」



 雨宮は無線で少し離れて着陸しているオスプレイへと指示を飛ばす。するとオスプレイから一人の隊員が降りて来てこちらへと駆け足でやってきた。



「お待たせしました」



 隊員の手には一つの包みがあり、それを雨宮へ手渡してそのまま羽熊へと渡される。



「ありがとうございます。念のためですが検疫は問題ありませんよね?」


「四度の検査をして地球人にとって有害な菌がいないことは確認済みです。味も保証していますので大丈夫ですよ」



 四度も検査をすればまず問題ないだろうと羽熊は安堵して、二人のリーアンが興味津々で覗かせる包みを解いた。



 さらに出てきたのは折りたたまれた竹皮を竹皮のひもで結んだものである。


 より初めて見るものにルィルもリィアも大きく首を傾げた。



「ハグマサン、ソレハ、ナニ?」


 リィアが聞く。


「にほんじん、が、よく、たべる、もの」



 そう答えて包みを開くと、三つある白米の塊が出てきた。


 日本人なら誰もが口にするおむすびである。



 互いを結べればと言う洒落も兼ね、そろそろ日本の主食を知ってもらおうと手軽なおむすびを政府と防衛省は決めた。



 もちろん検閲の問題から異星人が食しても問題ないよう完全無害な米を厳選し、これまた雑菌のいない綺麗な軟水で焚き、老舗旅館の女将に頼んで握ってもらった最高級のおむすびである。



 三つ用意したのは羽熊が二人の前で食べて毒味をするためだ。



 羽熊は特に考えず三つの内一つを掴んで口に入れた。適度に炊かれた米の堅さと、ミネラルが豊富な潮によって具材がなくても米そのものの味が際立っておいしくさせる。その歯ごたえにある種感動を覚えながら飲み込んだ。



 さすが国が厳選しただけあって今までで一番おいしいおむすびだ。



「たべて、みて。びょうき、ならない。しらべた」



 二つのおむすびを二人のリーアンに差し出す。


 周囲で談話を続ける国防軍隊員とイルリハラン軍兵士も気づいて注目し、映像や写真を撮る人も出た。



 何をするにしても『異星人と何々をした』と話題になるため、羽熊と雨宮、ルィルとリィアは両国で一躍有名人となってしまった。



 ルィルとリィアは互いを見て、食べ物であることは羽熊が示したことで分かってもらえただろうが、異世界の食べ物を食べるとなればさすがに怖い。



 それでも日本への好奇心が強いルィルは、右手の手袋を取りおむすびを掴んだ。



 おいしいのマルターニ語をまだ知らないのでとにかくおいしい笑顔を見せるしかなく、ルィルは一度生唾を飲み込んで、おむすびの頂点に噛みついた。



 顎がゆっくりと動いて米を咀嚼する。


 目が大きく開き、もう一度、今度はかぶりつくように一度目の倍口に含んだ。



「ルィル?」



 リィアが呼ぶと、ルィルは噛み続けながら最後のおむすびを指さして食べろと示す。



 部下が食べて隊長が食べないわけにもいかず、おどおどとした動きで手袋を外し、おむすびを手にして口に含んだ。



 そう言えばこの世界でも塩分は岩塩や海水から調達するのだろうか。



 リィアも食べて咀嚼すると、おいしいのか同じく目を見開かせてバクバクと食べ始めた。



 その光景を両国はパシャパシャ写真を撮る。



 そして二人してマルターニ語を早口でしゃべりだして、羽熊のことを完全に蚊帳の外へとおいた。



「すっごい反応。多分米はないだろうなと思ったけどここまで効果てきめんだったか」



 イルリハラン人に限らず、この星、飛球では稲作など水田や畑がないか少ない可能性が高かった。食料事情を聞けば主食は栽培用大木に生えるキノコ類らしい。画像を見せてもらっても出てくる料理はキノコに似た形の食材と肉類で、野菜と思われるものは多くない。ないわけではないがやはり地面への拒否感から生産数が少ないのだろう。



 ひょっとしたらキノコ類に米や麦、野菜に代替出来るだけの栄養素があるのかもしれない。



 だから米や米に近い作物なんて見たことないだろうと思ったら当たったようだ。おむすびを食べきった二人は互いに話しては近寄ってくる兵士たちに話しかけ、無線で話したりもする。



 政府公認のおもてなしなので問題ないはずが、大きな反応を見るとやや不安を覚える。



 二人が羽熊に顔を向け、一瞬びくつく。



「ど、どうでしたか?」


「オスタリー。ロッサオスタリー」



 ご満悦の顔が味の感想を如実に表していた。厳選したものとはいえ具もないおむすびがここまで心をつかむとはさすがに驚きだ。



 出来ればおむすびの友であるたくあんも食べさせたかったが、あれは枯草菌の力を使うためさすがに無理だった。



 地球人にとって乳酸菌や納豆菌は体に良いものでも、リーアンたちにとっては不治の病原菌になる可能性があれば気さくに渡すわけにいかない。



 それでも画像でしか見せられなかった日本の食の一つを渡せたのは成功だろう。



「コチラ、モ、タベモノ、ワタス、シタイ。デモ、ビョウキ、シラベテ、ナイ」



 ルィル側もお返しといきたいだろうが、さすがに不用意で渡すことは出来ないだろう。イルリハランの主食は見た目がどう見てもキノコである以上、安易に日本側も受け取るわけにはいかない。知っての通りキノコは菌類だ。乳酸菌が難病の元になるかもしれない以上、向こうにとって一般的なキノコでも食べるためには注意が必要となる。



 海外であればまだしも星が違う以上、そこの部分での注意は重要だ。



 今回おむすびを提供したのは、貿易として米はどうかと言う考えがあってのこと。



 今の日本はとにかくイルリハランを始め飛球国家に魅力的な国家と思われなくてはならない。日本のお家芸である家電は、珍しさはあっても中長期的には厳しくなる。その理由は文化の違いから需要を得ることが出来ず、同文明であれば日本より自分らに合った家電を高性能高品質で輸出する国家があるはずだからだ。日本ならではの分野はあっても、マーケティングが全くできていないため負け戦で大赤字になってしまう。



 しかし樹木ではなく大地によって作れる食べ物であれば、同じく日本のお家芸であるから恒久的に戦えると踏んだのだ。



 そんな日本の裏事情を知ってか知らずか、ルィルとリィアは竹皮に残った米粒を指につけてまじまじと見る。



 そこに彼女らの無線に通信が入った。


 マルターニ語で無線とやり取りしてルィルは羽熊をチラ見する。



「ニホン、コク、ノ、ミナサン。ユーストル、ノ、ドウブツ、コチラ、デ、キメタ、ノ、ナラ、ダイジョウブ、デス」



「本当に!?」



 ルィルはおむすびの件で集まった国防軍の隊員らに向けて、ラッサロン天空基地か政府関連からの返答を翻訳して伝えた。裏を考えなければ朗報に隊員たちは静かにざわつき、無線で報告する人も出る。



 裏とは食用にならず数の多い害獣のことだ。単に利用されるだけされて大事に使わなければならない弾薬や労働を無駄に使ってしまう。だがこればかりは日本はイルリハランの指示に従うほかなく、例えそんな裏をされても不満の漏らしどころがない。



 しかし今までのイルリハランを考えるとそんな意地汚い考えを出すとも思えず、ひとまずは一頭捕まえて食べられるか調べるのが先決だろう。



「タベル、イイ、ドウブツ、ウィルツ、ナマエ」


「ウィルツ、という、名前?」



 ルィルとリィアは頷き、手持ちのタブレットを点灯させて何やら文字を打ち込む。



 画面に映し出されたのは全身を黒い甲殻で覆われた象のように長い鼻を持つ四本足の巨大動物だ。



「これがウィルツ……これ、たべて、いい?」


「イルリハラン、ヨク、タベテル。カズ、オオイ、シャク、ハ、ダイジョウブ」


「しゃく?」



 辞書を調べても〝しゃく〟に当てはまる記載も覚えもない。


 時折覚えたての日本語の中にマルターニ語はあれ、一切ないところからして。



「ひょっとして百ってこと? 百頭?」


 その数に隊員たちはさすがに冷静を装えない。


「シャク……ヒャク……ア、マイ、ヒャクトウ、デス」



 マイは日本語で肯定の意味。と言うことは本当に円形山脈内にいるウィルツと言う大型動物は狩猟していいことになる。



「もう一度確認するけど本当にいいの?」



 思わず流ちょうな日本語で聞いてしまい、聞き取れなかったルィルは首を傾げ、とりあえず分かっていないけれど頷いた。



「ひゃく、も、とって、いいの?」


「ダイジョウブ。チャント、イルリハラン、ノ、リーアン、モ、タベル」



 食べられない害獣を押し付ける裏はないと言質を取る。


 羽熊は静かに雨宮を見た。



 さすがにおむすび二個で食用大型動物、百トン以上の動物百頭も食べていいとなると海老で鯛を釣るではなく、海老で鯨を釣ったようなものだ。



 雨宮もこの許可は手放しに喜べず困惑の色を見せる。確かに日本が要望したことではあるが、出来て数頭であり、それくらいならばまだしも百頭はうれしくとも喜べなかった。



 国家間のやり取りは貸し借りのやり取りが重要視される。不用意に下手に出ると借りを持っている分何でもかんでも持っていかれ、かといって反抗するとその借りそのものがなくなり両国関係の悪化につながる。



 より悪趣味な裏を考えるならば、口約束をいいことにウィルツを狩猟し始めると侵略行為を始めたと喧伝して、日本に攻め入る口実にすることだ。許可の前提をなくしたならば客観的にはそう思われても不思議ではない。いや、誰もがそう思うだろう。



「雨宮さん、これはさすがに条約を結ばないと素直に喜べませんよ」



 羽熊の言葉に雨宮はゆっくりと頷いて肯定する。



 この疑惑を解消するには、最低でも省庁レベルでの文書によるやり取りが必須になる。今もこうして国家間のやり取りをしても、行ってしまえば末端でのやり取りだ。末端でのやり取りは時として重要になるが、この問題では大して意味がない。厚生労働省または外務省で書面を得てようやく文句を言われずに動物たちを狩ることができる。



 ここは営業言葉だがこの提案は一度持ち帰るのが最善だろう。



 それに裏表がなくてもあれだけの巨体を食用に解体するには、専用の計画を考えないといけない。血抜きや各部位に切断する刃物、解体時間と地球産家畜とはスケールが違うから、綿密に考えてやらなければ無駄に命を奪って批判の種になってしまう。



 少なくとも表向きは狩猟を容認しているから、こちらも前向きに計画を練り、それから法的拘束力をもつ書面への署名が筋だろう。



 ここから先は羽熊や国防軍ではなく省庁や政府レベルでの話だ。


 ただ、省庁と政府レベルの外交第一弾としてはちょうどいい案件かもしれない。



「ちょっと、まって」



 羽熊は脚立を降りて集まる国防軍と話を始める。



「あの、さすがに一頭や二頭でしたら口約束でもなんとかなりますけど、百頭もいいとなると法的根拠が必要になってくると思うんです」



「そうですね。防衛省もまさかそこまで許可が短期間で降りるとは思っていないでしょう」



 イルリハランの性格は日本に近いところを持つ。日本の性格は謹厳実直で、イルリハランの誠実さは出会った当初から伝わってくるため、日本を攻める口実にこの甘い提案をしたとは思えない。



 もっと言えば日本はすでに存在が違法状態だから、そんなことをせずに攻め入っても法と国民感情は許すだろう。



 ならこのウィルツ百頭の狩猟を許可したのは、日本の反応と対応を見るための試験的なものかもしれない。



「とにかく返事は後日と言ってもらえますか? 無線での判断は危険ですしまずいので」



「分かりました」



 いくら日単位での判断を必要としてもこればかりは即答できないため、羽熊は再び脚立に上がってマルターニ語で答える。



「この、はなし、うえに、するよ」


「スグ、コタエ、デナイ、ワカッテル」



 同文明だけあって国際関係も地球と似ているのは助かる。この世界の政治について一から学ぶ必要がない分、国家の性格と言語を学ぶだけで渡り合えるのは日本にとっては大きなプラスだ。



 米の評価も上々だから、大地を嫌悪する性格を利用して大地の恵みを日本の強みに出来る。



 まだ言語習得は半ばだが、この分では一ヵ月もしないで役目は終了だ。気になる細菌も一週間経った今、誰一人原因不明の病に陥った人はいない。安全と調べた結果が発表されれば役目が終了と共に家に帰れる。



 異星人との交流は毎日が刺激的でも、刺激的過ぎて気を休める時間がない。



 駐屯地に戻れば政府への報告書をまとめ、隊員たちに流布する辞書の作成にテレビ局からくる電話出演のオファーのお断りと、睡眠時間は四時間以上あったことがない。



 まだ若いと言われてもさすがに休みが欲しかった。



「ハグマサン、ドシタ?」


「ううん、なんでも」



 つい疲れが顔に出てしまったか、表情を読まれてしまい慌てて首を横にふるう。



 このウィルツ百頭狩猟許可問題は日本政府に引き上げることで今日は決着し、時間も異地時間で四時半になったことから引き上げる運びとなった。



 完全に停止していたオスプレイのローターは回転を始め、各々交流をしていた隊員たちはイルリハラン軍兵士と握手を交わして脚立を持ってオスプレイへと歩き出す。



「また、あした」


「ウン、マッ――」



 リィアの無線に通信が入る。



「ルィル! レーゲンマロアッサ」



 リィアの叫びに飛行艦〝ソルトロン〟にゆっくり帰投していた兵士たちは猛スピードで戻っていく。



 レーゲンの言葉に国防軍隊員も目の色を変えた。


 日本の異地監視網は、円形山脈全域をカバーできていない。いくら地球より丸みが緩いから遠方までレーダー波が届くとしても、衛星がないから地平線の彼方までは把握できない。その分イルリハランは衛星があるため当然早期警戒は日本より広く速い。



「ハグマ、レーゲン、コッキョウ、コエタ。ニホングン、クニ、カエル。レーゲン、ハ、コッチ、ノ、シゴト」



 こればかりは日本は帰るしかない。地球をそのまま異世界化したかのような文明だから集団的自衛権の概念はあるだろう。しかし日イで安全保障関連の条約は結んでいないし、なにより日本は攻められる側だ。レーゲンが来たからと共に戦うなんてことは絶対にしてはならず、してしまえば後の問題となってくる。



「羽熊さん、我々は日本に戻ります。どんな目的でレーゲンが領空侵犯しているにしても、イルリハランの地で日本が好き勝手動く訳には行きませんので」


「そうですね」



 元々終わりかけた今日の交流を長引かせる必要はない。羽熊は脚立を降り、隊員とともに脚立を畳んで担ぐ。



 ルィルとリィアはその光景を見て空中に待機するソルトロンへ急行し、オスプレイらが離陸すると同時に移動を開始した。



 オスプレイは今日の交流の礼として軽く左右に振る仕草を見せ、ソルトロンの扉から顔をのぞかせる兵士たちも手を振って応える。



「羽熊さん、まるで日本と中国のような感じですね。イルリハランとレーゲンは」



 そう無線機越しに聞いてくるのは第七偵察隊から共に行動している西野一等陸曹だ。



「別の星なんだからこんな問題はないと思ってたんですけどね」


「いえ、どちらかと言うと地球レベルの文明だとこうした国家間のトラブルは似通るんでしょう」


「でも異世界ですよ。空を飛ぶ人種以外魔法らしい魔法もありませんし」



 異世界では定番のエルフや亜人、魔法の類はこの飛球にほぼない。空を飛ぶ以外魔法的な存在がなく、タブレットに携帯電話、ミサイル兵器に銃とやはり知れば知るほど地球の科学力に似ていて、それゆえに共通する問題も似通るのが羽熊の考えだ。



 そして空を飛ぶ理由を聞いたところ、フォロンの言葉をよく耳にした。詳しく聞くと茶を濁されたため、その原理を知られるのを避けたのだろう。そうなると空に飛ぶのも魔力とか気ではなく、この世界の科学的根拠に成り立った可能性が高い。



 そうであればやはり空と地の違いはあっても共通する問題は同じだ。



「だからこそ対応策を検討しやすいんですよ。何も出来なくても知らないのと知ってるのとでは大きく違いますから」



 まだレーゲンがなぜこの円形山脈に領空侵犯しているのかは知らないが、日本目的ではないだろう。もちろん副次的に日本も目標の一つだろうが、日本が転移してくる以前から領空侵犯していたとルィルは愚痴をこぼすように言ったことがある。とすれば考えられるのは二つ。宗教と資源だ。



 世界地図で見ても円形山脈は一か所しかない。そうなると神が降りる云々、天国に通じる場所云々と聖地化する場合がある。またはこの地には莫大な地下資源的なものが眠っているかだ。



 天に住まい、地球より広大な星に住むのに、たった直径四千キロしかない土地を欲しがる理由は今のところそれしか思い浮かばない。



「そうなると日本は微妙な場所に来てしまいましたね」


「レーゲンにとって日本は三重の意味でほしいですからね。多分イルリハランも同じでしょう」



 イルリハランとしては日本を受け入れ、その条件に格安かただ当然の金額で大量の地下資源を得られれば、爆発的な経済発展が起こる。レーゲンも円形山脈、日本、地下資源と一石三鳥となれば黙って見てはいられない。



 やはり隣の国が発展したり、その国しか持たないものを持たれると羨ましがるものだ。



 ソルトロンは無音航行のままレーゲンの飛行艦へと進み、オスプレイは須田駐屯地へと戻っていった。



      *



「ふぅ」



 ようやく仕事を終え、隊員宿舎にある自室へと戻った羽熊はベッドへと腰を掛けた。



 時間は深夜三時を過ぎて、窓から見える空は満面の星だ。この中にひょっとしたら太陽系の太陽があるのかもしれないが、探す気力は残っていない。



 須田駐屯地は防衛力を上げるために絶えず施設工事を続け、接続地域より先へは眩いライトが点灯して照らされる部分だけは昼間のように明るい。



「睡眠時間三時間ってきっついな。かと言って休みくれとも言えないし」



 日本のことを考えたら月月火水木金金は致し方なくも、もう二時間は睡眠時間が欲しい。食欲はまだあるがそれもなくなればいよいよ危険信号だ。



「早いところ辞書を完成させて丸一日休みたいよ」



 そう言えばタバコもここ数日忙しすぎて吸っていない。室内の多くが禁煙であるため喫煙所までいかないとならず、そこに行くまでの余裕はなかった。



 他の言語学者も須田駐屯地へと来ていて同じく効率よく言語習得はしている。しかし羽熊は異星人と最初に接触した人物であり、言語習得の第一人者だ。そのため省庁レベルに交流が上がるまでは不休で続けてほしいと釘を刺されてしまった。



「寝よ……ん?」



 寝ようとズボンを脱いでポケットの中の物を出していると、ベルトにボールペンのようなものが引っかかっていたことに気づく。



「ボールペン……じゃないよな」



 わずかに湾曲していて、上部は耳にひっかけるようなフックに下部はマイクのようなスポンジが見えた。



「しょっとしてインカム?」



 羽熊の知っているインカムはヘッドフォンにマイクに付いたもの、アメリカのシークレットサービスのような耳にイヤホン、手首にマイクがようなもので、棒状のインカムは見たことがなかった。もちろんそんなものを貰った覚えもない。



「……まさかね」



 棒状インカムには印字がされていて、その文字はまだ読めないがマルターニ語のように見えて不安を覚え、それでも羽熊はその棒状インカムを耳にひっかけた。



「うわ冷たっ!」



 イヤフォンとフック部分がやたら冷たかった。まるで氷を押し付けられたかのように冷たい。



「イルリハランの人はこんなものを耳に着けてるのかよ」



 しかも耳の体温で温まる様子もなく、けれど我慢して特に目立つボタンを普段の感覚から長押しする。


 電子音とマルターニ語でアナウンスが聞こえてその後数秒無音が続く。



『……ハグマ?』



 そして聞こえてきたのは半日前に別れたルィルの声だった。



「ルィル? どうしてこれを」



 思わず早口で日本語で話してしまうだけ羽熊は焦った。これはことによっては重大な問題に繋がるからだ。フィクションでは必ずと言っていいほど大問題に繋がるため、どんな内容であれ秘密にする考えは全く持てない。



『イロイロと、ハナシ、シタク、テ』


「ルィル、おれ、は、にほん、の、ふり、な、じょうほう、いえない。このこと、は、ぐん、に、はなす、から」



 辞書を片手に普段の十倍近く時間をかけてマルターニ語を話す。



『マッテ、ワタシ、ニホングンノ、ジョウホウ、ホシクテ、ワタシテナイ。アソコ、デハ、キケナイ、コト、キコウ、ト、オモテ、ワタシタ』



「だとしても、ばれたら、もう、きみたちと、はなせない。これ、は、ぐんに、はなす。それで、もって、いいなら、はなすよ」



 危険は冒せない。例えプライベートの会話のみのために渡したとしても、それを知るのは羽熊とルィルのみだ。証拠がないため知られたらもう言語習得の前線どころか、言語学者の職すら失いかねない。



『ソレデ、イイ、ヨ』



 瞼は重いと言うのに寝ている余裕はなく、羽熊は急いで部屋を出た。


 夜遅いため穎原陸将は就寝中だろう。それにこれはトップに伝えるべきか、もっと下位の人に伝えるべきか迷い、迷えば雨宮と考えて雨宮の部屋へと急いだ。



 同じく就寝中である彼だったが、さすがは軍事組織に属しているだけあって反応は素早い。何度か強めのノックをものの数秒で出てきた。



「羽熊さん、どうかしましたか?」



「それが、何と言えばいいのか。ルィルさんなんですが、どうも気づかない間にこんな無線機を忍ばせていたみたいなんです。今さっき気づいて話したところ、あの場では話せない……多分プライベートな話をしたいと思って……」



「イルリハランの無線機? 羽熊さん、まずは落ち着いてください」



 急いできたのと緊張からやや息を切らしていて、雨宮は話を急がせずまずは羽熊の息が整うまで待った。



「電源は今まで入っていなかったので、気づかなかった間の音は多分拾ってはないと思います。と言っても機密な話はしてないので問題ないですが。それでこのことを他の人に話すと言っても、構わないとのことでこうして今来たわけです」



「なるほど。形からして盗聴器よりは無線機で間違いないですね。ですが棒状で無線機とはバッテリーとかどれくらい持つんでしょうね」



「これ、イヤホン部分が氷のように冷たいんですよ」


「イヤホン部分が?」



 試しに雨宮も装着してみると、同じように冷たく顔をしかめた。



「確かに冷たいですね。どうしてここまでつめ――」



 言いかけたところで雨宮は黙り込んだ。



「雨宮さん?」


「いえ、ひとまずこれはこちらで預かります。夜も深いので、今日の交流会で理由を聞いて、その上でこちらで所持するのかを決めましょう。これは向こうの無線機ですが、使い方によってはパンドラの箱になりかねないので」



 たった一本の棒状無線機だが、相手の軍と直通回線が出来たとなれば飛球世界の影響は大きい。対面から無線へと切り替われば、ある種同盟的な考えもできてしまう。それにこの無線機を解析して基盤や諸々を調べることも可能だ。



 単にルィル個人がプライベート会話目的でも問題だが、軍が絡めば大問題だ。



「雨宮さん、でももしルィルさんの独断でしたのなら、彼女は多分規約違反をしてると思うんです。侵略中の国に自国の無線機を渡すなんて、普通しないですよね?」



「……確かにそうですね。ルィルさんの地位は分かりませんが、彼女の独断で渡してバレれば懲戒免職はありえるかもしれません。分かりました。この無線機の真意はこの無線機から知りましょう。多分ですがこれは充電が不要なので電池切れの心配はないでしょうし」



「充電が不要ってどういうことですか?」



「……すみません、これはまだ幹部しか知らされていない情報なので言えないんです。でもいずれはお話しできることなので今は聞かないでください」



「はぁ、分かりました」



 最前線で活動しているといっても羽熊は一般人。さすがに軍上層部しか知らない情報を特別に教えてもらえはしない。さみしい気もするし当然とも思えた。



「とにかく今は休みましょう。明日もまた早いですから」


「そうですね。ではそれはよろしくお願いします」


「はい。にしても羽熊さん、ルィルさんに気に入られましたね。ひょっとしたら史上初の、とかなるんじゃありません?」



 秘密裏に彼女から無線機を渡されたからか、雨宮はにやけた表情で聞いてきた。



「いやいや、地上人と天空人では生活環境が違いすぎますよ。それに、法的に結婚が出来るとなっても、子供ってできるんですか?」


「冗談ですよ。それでは」



 ただでさえネットでは羽熊とルィルが、フィクションのようにくっつくのかと話題と憎悪が渦巻いているのに、現実となれば不安と恐怖しか思い浮かばない。



 そもそも地上を嫌悪する人種が、地上に生きる人種を好むとも思えない。ルィルの行動は羽熊を通した日本であり、羽熊自身は接しやすいだけと言うのが自己評価だ。



 惚れられている驕りもなければ期待もしていない。



 いくらイルリハランの美人兵士だからと言って、人種が違い過ぎれば感情はさすがに湧かない。興味本位から男女の裸体は見てみたいがそれだけだ。



「……寝よう」



 大あくびをしながら羽熊は部屋へと戻ることにしたのだった。

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