第15話 第七章『ザ・トリステロ』-③
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気づいたら昏々と眠っていたようだ。今晩はストロベリー・ムーンとかいう奴だそうで、夏至近くの月が天辺から地平線ぎりぎりまで近づき、そのため小さな満月が文字通り赤く染まるという現象が拝めるそうだ。
因みに苺は初夏の季語だそうで、ネイティブ・アメリカンの節目の行事にも関わらず、この時期にお誂え向きな天体現象だそうな。
そういえば高い塔に幽閉された二人の囚人は、かたや地面を見つめ、かたや空を見上げたそうである。
どんな状況にあろうとも気の持ちようということであるらしい。
本と世間の柵という牢獄に捕らわれた美少女天矢場栞は天を見つめたが、その日の月は地上付近まで落ちているので、天を見上げているのか地面を見下ろしているのか中途半端な状態であった。
こう言うのをビジネス用語でペンディングにしておくなどといって、曖昧な状態に吊り下げておくという実に玉虫色の状況が好きな日本人らしい事態なのであろう。
なんだか寝起きで目がぼんやりするので、藪睨みになりながら月はどこかと眺めたところ月の中に影が見える。
すわ何事かとよくよく見てみるとフラフラしながらこちらへと近づいてくる。
よく見ればなんてことは無い、日光山先生である。
鳥が空を飛ぶのと同じように、天狗が空を飛んだとて何の不思議もない平常運転の光景である。
しかしながら人型の物体が空を飛んでいては、普通はフライング・ヒューマノイドとして映像媒体に記録され、インターネット上に公開されること請け合いだ。
そんな心配どこ吹く風といった感じでふわふわとやってくる。
モジャモジャの頭が寝起きでモサモサになり、見たことはないが昔話に出てくる山姥のごとくであったが、手櫛でかきあげ玄関まで出迎えに行く。
日光山先生に戸口を叩かれる前のジャストなタイミングで、ガラリと戸を開ける。
「日光山先生、こんな夜更けにどうしたん、うわくっさ!」
赤ら顔で酒気を荒々しく吐きながら、肩を上下させてゼイゼイ言いながら立っている。
「どうしたというのですか先生?そんなきこ召して空を飛ぶと、おそらく何らかの法令に引っかかり、空中浮遊の免許を剥奪されてしまいます」
「相変わらず小癪な小娘だ、何のことはない一杯引っかけてきただけだ」
「どう見ても一杯なんて感じじゃありませんよ。泥酔されてるじゃないですか」
どうにも尋常のこととは思えない。
今日はやっかいごとが転がり込んでくる日だ。
「兎に角く中に入れてもらおうか、茶を出してくれ」
「すぐお出しできるのは、珈琲と台湾のお茶とありますが」
「台湾でも大陸でもどこでもいい、茶をくれ」
「承りました」
大兎嶺という無闇に高級なお茶をだす。
私は普段珈琲ばかり飲んでは、その効用で大腸が活性化し下痢ばかりしているが、母の趣味で中国茶も取りそろえており、店の台所はやたらと高級なドリンクバーになっている。
「冷たいのを頼む」
相も変わらず我が儘なことだと思いながら、濃い目に出したお茶を氷の入った錫のぐい呑みに注ぎ込む。
高いお茶なので味わってほしいものであるが、よっぽど喉が渇いていたのか、グイとばかりに一気に呷る。
「もう一杯」
「承知」
そうして二杯目を今度はゆっくりゴクゴクと飲み干すと、ぶはーと息を吐き出す。
これが噂の加水分解という奴であろう。アルコールを化学的に分解するには大量の水が必要であるらしい。
人間もアルコールが回ると肝臓がハッスルし喉が渇くそうで、天狗にも当てはまるのかどうかは解らないが、先生もガブガブゴブゴブとお茶を飲み干していた。
一息ついて少し落ち着いたらしい。
「今日はとんだ厄日だったわい」と、私が言いたい台詞を吐き捨てる。
放っておきたい気持ちの高まりもあったが、黙っていると機嫌を損ねるので儀礼上の必要性を感じ「どうしましたか?」と、一応尋ねる。
ジロリとこちらを睨めつけ先生が静かに怒る。
「最近のお前はなっておらん」
「何かご機嫌損なうようなことありましたっけ?」
「無いのが問題だ!お前は天狗の秘術を懇切丁寧に師匠から手ほどきを受け、いくつかの術を体得するに至ったのにここのところ付け届けが無いではないか!」
「付け届けというのは酒のことですか?」
「無論」
「呆れた、授業料は最初に我が家に保存してある祖父の『書痴』と『筆禍』を全て献上したじゃないですか!あれだけの量全部飲んでしまったんで?」
「当たり前だ、一日に二、三本も空ければあっという間だ!」
「いくら先生が人間ではない魔性の者だからといってそれは飲み過ぎです!そりゃあっという間に無くなりもしますわ!」
「その後はどうした!最初に献上してきた分で術を全部教わろうという魂胆だったとは呆れた強欲ぶり、地獄に落ちるという物だ!実際地獄にも転び落ちて修羅共と戯れていたしな!」
「あれだけの量の酒を飲み干しておいてオカワリ求めるとは、それこそあまりにも強欲じゃありませんか?」
「喧しい!弟子なら察して定期的な付け届けを欠かさないものが出来た姿というべきだろう!」
「確かに私は先生の弟子を自認しておりますが、先生こそほとんど放任で師匠らしく教えを授けて下さら無かったではありませんか!おかげで私は中途半端な文字通りの半端者です。普通の人間からしたら冥府魔道に片足っこんでいる分、余計たちが悪いというものですよ」
「長々と煩いことだ!酒だ!今月の授業料を払え!」
「今月も何も、ここ暫く先生にはお会いしていなかったし、もちろん何も教わって居なかったではありませんか!」
「反抗してくるとは小癪な!」
「そうはいいますがね、先生。あの酒は毎月決まった時期につけ届けられるという物ではなくて、祖父が何かしたのか、それとも新酒の時期が来たのかそういう何か折に触れて届く物ですので、先生に全ての酒を献上して以降一本も無いですよ」
先生はフフンと鼻を鳴らすとあごを突き上げこちらを睨めつける。
「そんな事だろうと思ってな、蔵本に直接行ってきたわ」
ゾッと冷たい物が背骨を走る。
まさか。
「図書館警察とかいったか、お前の学校の地下にある醸造元に酒をくれといいに行った」
本日二度目の頭と膝を抱えるポーズを実行に移す。
いや、日付が変わっているから本日初の頭と膝を抱えるポーズである。
「先生、あれは特殊な秘密の組織というのはご存じですよね?」
「それは人間の道理であって天狗の道理では無い」
「先生……」
「とりあえずお前の名前を出したら追いかけ回してきた」
「先生!」
「駆けつけ一杯とばかりに最後に残った『書痴』を景気づけに飲んでいったら、あのヘンテコな移動図書監なるけったいな乗り物で追いかけ回されたから天狗礫飛ばしてやったわ」
「なんてことだ」
「後な、妙な黒いスーツのノッポとお前みたいなモジャモジャの頭をした二人組が、今度こそ許さんと負け犬の遠吠えをしておったが、こちらはお前達など知らぬと返してやったわ!」
またここで天狗は鼻を鳴らす。
宇都宮餃子組合のイラストにある髭が餃子になった天狗のように、鼻がニョキニョキと立派に伸びている訳では無かったが、その鼻ッ柱掴んでへし折ってやろうかと、一瞬頭の中が突沸しそうになった。
そこから先は牛乳で血を洗うような生臭い戦いが行われたらしい。
正確に言うと生臭いでは無く酒臭い戦いであったそうだ。
学校に正面から乗り込み、羽山先生などの構成員の制止を無視し酔っ払ったまま私とは違う経路で地下醸造所に到達したらしい。
何でも日光山先生には酒精をかぎ分ける能力が備わっているらしく、宇都宮内外の酒の香りには敏感なのだという。
犬か。
天狗というぐらいだから狗なのかもしれない。
さて、天狗の嗅覚を持ってして到達したところは図書室だったそうである。
あのザ・トリステロの根が張っているところでもある図書室だ。
図書室の蔵付き酵母なるものが見えたらしく『グワシャルマ・キャバノルムリエンゾーム・ケスヘス』の酵母以外にも複数の微生物の活動から豊かな香りを醸しているようであった。
そんな「書痴」と「筆禍」の豆知識などは特に必要では無かったが新発見である。
酒の香りに引きつけられ酔っ払いは、既にみんな帰った後の司書室に天狗の術で鍵を開けてズカズカと踏み込んだという。
天狗の術とは何度聞いても、どれを聞いても小狡い犯罪に使える便利な業である。
司書室からどのような経由をたどったのかはアルコールが大脳新皮質をおかしており日光山先生の記憶は曖昧だったが、結論から言えば地下工房にたどり着いて押し問答になったと。
そして、そこでおそらく私が捕まった時に尋問をしてくれたノッポとモジャモジャらしき人物達との間で大捕物になったそうだ。
普段、移動図書監がどのように運行されているのかは私には解らないし、解りたくも無かったが、地下空間に格納されていたらしい。
日光山先生が追いかけ回されながら酒を探して醸造所をぐるぐると彷徨している合間に、地下から日光山先生を打ち上げるようにし浮き上がったという。
壮絶な光景である。
というか、図書館警察が大人げないのか、日光山先生が酷すぎるのか、あるいはその両方なのか、多分それだと思うのであるが、大事になったものである。
今宵のストロベリー・ムーンの赤は血染めの赤だったらしい。
朱色に燃え上がるストロベリー・ムーンを背景に空中戦である。
移動図書監からは緑色の怪光線が発射される。
そ れを目にするとみるみる内に酔いが回り、初恋の味か胸に甘酸っぱい物がこみ上げてきたという。
甘酸っぱかった物は次第に生酸っぱくなり、口の中は苦塩っぱくなり、ついには胃の腑から胃酸が逆流しかけて全力離脱である。
どうやら暴徒鎮圧用の浴びると気分が悪くなるという不思議なマジカルLEDレーザーを投射されたらしいがそんなことはどうでもいい。
吐き気を堪えたまま、逆上した日光山先生は天狗礫を浴びせたという。
移動図書監の内部に入った身としては、相当大きな乗り物であるようにも思えたがヒルベルトのホテルや壺中天など不思議空間の例を引けば、外観は思っていたよりも小さいのかもしれない。
私が逃げ出したときも、暗い中に白い船体が朧気に見えただけでちゃんと確認できてはいなかったが、天狗礫は効いたらしい。
ガクガクと震えまたもや宇都宮タワーの方に緊急避難をしていき、日光山先生はそのまま吐き気を堪えつつ、天矢場古書店までやってきたらしい。
「おお、テリブル!この世には神も仏もいないものか」
「天狗ならいるぞ」
絞め殺してやろうか。
そして頭の中のアラートが突然鳴り出す。
「先生、まさかとは思いますがこっちに逃げてきたのはバレてはいませんよね?」
「さあ?気分が悪くってそこまで注意は回らなかったからな」
うわ、多分バレてる。
常に最悪を想定して行動しなければならない。
まずはどうしたものかと頭を掻き上げる。
混迷した脳内の表情が頭頂部に現出したのか、髪の毛が自然と捻れ上がり指に絡まる。
ああ、これは元からだった。
時間だけが無情に過ぎていき、私の心配をよそに「茶もいいが、やはり晩酌したいところだな」とすっかり一人だけ落ち着いてしまった日光山先生がつぶやく。
「図書館警察御用改めである!下手人はすぐに出頭されたし!」
早くも我が天矢場古書店が下手人の潜伏先だとバレたらしい。
戸をガチャガチャと叩く音が聞こえ、なんだか大勢の気配がする。
「天矢場栞!名誉警紙総監である天矢場氏の立場もある故、前回は不問に付したが、酒泥棒の片棒を担ぐとは何たることか!羽山先生は泣いているぞ!」
「おーい天矢場!おれは泣いているぞー!」
羽山先生の暢気な呼び声が聞こえる。
縊殺してやろうかと俄に殺気立つが、一旦深呼吸し落ち着きを取り戻す。
なかなかこれでいてクレバーな人間なのである。
なんだか以前クレバーとは賢いというより小賢しいとか、狡賢いとかあまりいい意味では使わないというようなことを、知人のバレエダンサーに聞いたことがあった気がしたがまあいい。
クールな人間、そうクールな人間なのである。
こちらの方が収まりがいい。
以前、光格子腕時計を使って移動図書監の動力炉を凍らせたほどの冷たくクールな人間なのである。
どうにかしてこの場を乗り切ることなど造作も無いに違いない。
と、内なる自分に語りかける。
「天矢場ーっ!お前がなんか怪しげな方法で空を飛ぶことは分かってるんだぞー!」
「羽山先生!信じて下さい。私は無実です」
「無実故に人は罰を与えられるのだー!」
「羽山先生!話がかみ合いません!」
「残念だが話し合いはここまでのようだな。大方ザ・トリステロから空飛ぶ方法を伝授されて、さっきの酒臭い老人の手引きをしたんだろう!あれはザ・トリステロのメンバーなんだな!」
「先生!違います!全然違います先生!」
「うーん、呼んだ?」
当事者中の当事者である日光山先生はいつの間にかウトウトしており、先生との呼びかけに反射的に応じる。
「おーう!天矢場!やっぱり誰かいるんだなー!」
「深夜故、これ以上はご近所迷惑なのでお引き取り願いまする」
「吶喊!」
ご近所迷惑よりも復讐と制裁の方が重要だったらしい。
カウンターに置いてあったインバネスを引っ掴むと、ボンヤリしている日光山先生を便所まで引きずっていき、狭い窓から身を捻り出して夜の宇都宮へとまろび出る。
日光山先生の襟を掴み、ふわりと空を舞う。
襟を掴んで急浮上してしまったため首がガッツリ絞まってしまったらしく「ぐえー」とウシガエルでも踏みつぶしたかのような悲鳴が聞こえたが気にしていられない。
「先生!ご自分で飛んで下さい!」
ようやく体勢を整えた日光山先生は自力飛行に戻り、ギャアギャアと罵詈雑言を飛ばしてくる。
馬耳東風を決め込み辺りを見回すと、書店の方から無数の明かりがこちらへ飛んでくる。
「なんて人数だ」その煌々と輝く明かりの数に戦慄を覚える。
それと同時に図書館警察が本気で怒り狂っているのが分かった。
「先生、安全な場所はどこかありませんか?」
このままフワフワ浮いていても、いつの間にか修理を終えた移動図書監に気分が悪くなる怪光線を投射されて撃墜されるか、まだ見ぬ新兵器のお披露目会にならぬとも限らない。
「奴らに颶風を吹かせ、風雨雷火で地獄を見せつけてやる」やや嗄れた声で日光山先生が呻く。「先生、それは後です。今は一旦引きましょう。移動図書監にやってこられたら事です」
悔しそうに「ぐぬぬ」と腹の底から憤怒の呻き声を絞り出すと、一旦落ち着いたらしくこちらを振り向きもせずポツリと言う。
「古峰神社だ」
「それは鹿沼では無いですか?いくら何でも少々遠いのではないですか?」
「宮島町の猿田彦神社の会所の天袋が壺中天に繋がっているのを忘れたか」
「なるほど」言うが早いか曲師町に背を向け宮島町の方へと飛び去る。
「待て!ザ・トリステロの手先め!」等と完全に誤解を受けている罵声を投げかけられ、そんなに熱く思われているのだと心温まる思いをする。
いや、嘘です。心胆寒からしめた。
ふよふよと飛んで、会所に着くと日光山先生がピッキングの術では無く、正規の手順を踏まずに勝手に作った合い鍵を使いそそくさと中に入る。
安置されている神輿を足がかりにし、天袋から天井裏に頭を突っ込むと、水中から大気中に頭を突き出したかのように一瞬で世界が変わる。
鹿沼は古峰神社のどこかに安置されている酒甕の中の理想郷である。
一種の理想郷であるが地獄にも繋がっている。
ここに来るのは二度目であったが、思わず「はぁ」とため息をつく。
そんな感慨に浸っていると、日光山先生が頭で私の尻をぐいぐい押しやってくる。
「すわセクハラか!」
「師匠の顔の前に尻を突き出してはいかん!さっさと中へ入れ!」
花も恥じらう乙女の尻を、老人の頭でぐいぐい押されてはかなわないので、さっさと壺中天へと転がり込む。
日光山先生も転がり込んできたので、二人してバッテラのように重なり「きゅー」と呻き声を上げた。
「日光山先生、早くどいて下さい。押し寿司になってしまいます」
「煩いわ」
二人してモゾモゾとしながら、ウゾウゾと天井を見上げると相も変わらず、壺中天の空は青々としていて心地よい。
文字通り青天井という奴である。
日頃の喧噪が嘘のようである。
日頃というか、今までの喧噪は嘘であって欲しいと願うが、多分そんなにうまくいかないんだろうなあという確信めいた直感で胸一杯だ。
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