第12話 『壺中天』-③




 しかし、建物というか無計画に広げられた都市構造のようなこの空間を、ひたすら上へと登っているつもりでいたがどうにも登っている実感がわかない。


 どうどうと音を響かせ激流が迸る書斎に出会ったり、その源流なのかもしれない泉がちょろちょろと湧きだす坪庭に出会ったり。あるいは空間を圧迫するほどの注連縄をつけた巨大な苔むした岩が鎮座在すギリシャ風の列柱が並び立つ広大な庭園にぶつかった。マグリットのデペイズマンのようである。






 その真上と推測される階層では、何か上を巨大な物が通り過ぎる振動と音が響く暗渠のようなところに出たりと、退屈はしないが己の居る位置がとんと掴めない。


 部屋の形式は日本の昭和風といった感じのどこか時代を感じる安アパートのような雰囲気のところが多かったが、洋の東西、古今問わず様々な場面に出会った。






「天狗の考えることはよくわからん」


 日光山先生が一人で作ったとは思えない場所ではあったが、何の役に立つのか?そもそもどのような意図があって、どのようにお互いに機能し合っているのかさっぱりな空間である。






 人知の及ばないところで何か天の采配があったのだろうという感想だけがぼんやりと浮かぶ。大ブリューゲルの『バベルの塔』の絵を思い出す。ボイマンス美術館の至宝である聖書に題をとった一枚だ。偏執的ともいえる書き込みの構造物だ。


 テッド・チャンの短編集『あなたの人生の物語』に収録されている処女作『バビロンの塔』をも思い起こさせられる。






 しかしテッド・チャンの無限に天と地が循環する塔とは違い、ここは鹿沼の古峰神社の酒甕。


 日光山先生の壺中天のことであるから、どこまでも登っていけばいずれは壺の縁に到達するには違いなかったが、以前「ヒルベルトのホテル」に落ちたときのことを思い出した。


 あちらはアレフ・ヌルだけ部屋があるというボルヘスの作り出した迷宮のような対角線論法的空間である。無間地獄ならぬ、無限地獄である。






 無間地獄は父母を殺した上に、僧侶を殺して、寺院を焼き払い、教義をねじ曲げ、仏法を破壊すると入れる地獄らしいが、そんなエクストリームな奴はなかなか思い浮かばない。


 それはそれでやり込み要素の強いゲームのようですらあるなと思いながら、相変わらずとりとめのないちぐはぐな光景をぼんやりと眺めながらてくてくと歩いていた、しばし時がたち気がつけば学校の廊下のような所に出くわした。






 今までが日常と異質が組み合わさったヘンテコ空間であったが、ここは普通に学校の廊下である。


 なんだか見たことのある光景のようにも思えたが、学校の廊下なんてどこの学校でもそう変わらないものであろう。窓の外にはボンヤリとした霞がかかっていてどんなところなのか今ひとつ判然としない。


 窓を開けてなんか変な生物が入ってきたら嫌なので、開けず近寄らずを貫いた。うっかり窓に近づいて、急にドンとか音を出されたらおしっこ漏らす自信がある。






 上を目指して階段を一歩ずつ上がっていくと、屋上への扉が現れた。


 屋上への扉とはいっても、普段学校で目にするのと全く同じ扉ではあるが、どうせ開けるとまたぞろ南米のエメラルド鉱山のような通路に出たり、謎の石柱が並ぶ世紀末的な空間に出るに違いない。






 そう思いながら扉を開けると、屋上だった。


 真っ青な空の天井が手を伸ばせば届くような所にあるように見える。


 あるいは実際に古峰神社の社殿の奥にあるという、日光山先生の酒甕の縁なのかもしれなかった。




 そして薄暗いところからいきなり明るいところへ出たせいか世界が眩しく感じる。


 はたと気がついて周りを見渡すと、学校の屋上なのには違いなかったが、世間的には夏場だというのに、古くて大きな桜の木が満開の花をたたえて咲き誇っていた。


 ゴツゴツとした瘤がいくつもある桜の古木があちこちに超然と佇んでいる。


 高原の涼風のような風が一陣巻き起こると、ざあと音を立てて桜の花びらが豪奢に舞い踊る。光源のわからない光の粒が降り注ぎ、琳派の屏風を思わせるような絢爛豪華な金色の空気が桜色の花弁と交わり、金波銀波の細波となってあたりに充満する。


 その圧倒的色彩の濃密さに息が詰まりそうになる。






 しばし惚けていると、奥の方から何やら楽しそうな声が聞こえてきた。


 噎せ返るような花々の芳香で窒息しそうになりながら、空間を泳いでいくと花見と洒落込んでいるのか幾人かが宴を開いているようであった。


 日光山先生に友人がいるとは思えなかったが天狗の類いの奇人であろうと覗き込む。


「お主何者か?」


 大抵のことには驚かないつもりでいたがギョッとする。


 誰何してきたのは三面六臂の異形の人物である。


「人間?」「人間の娘だ」「何故この様なところに?」


 にわかに場がざわつく。


 ここで怖じ気づくと後が怖いと本能的に察したので、平気な顔をして浮き足立った謎の集団が車座になっている所に腰を下ろした。


「ふてぶてしい娘だ、喰ってしまおうか?」


 喰われてはたまらない。


「名乗りが遅くなり申し訳ありません。私、日光二荒山魔王尊、日光山来電坊が一番弟子、宇都宮の古書肆天矢場栞と申します。皆々様がきこ召しております『書痴』『筆禍』を献上しましたる者でございます」


「おお、このやたらと旨い酒を持ってきたのは貴様か!」


「こんな所まで来るぐらいだ。ただの人間ではないと思ったが天狗共の弟子か、これは面白い!」


 だいぶ長いこと飲んでいたようで、すでに出来上がっており、特に疑義を挟まれることなくなんだかすんなりと受け入れられた。


 日光山先生といい、この連中といい酒には何か抗えない魔力があるのだろう。


祖父に何も言わずに献上して回っていたが、今になって出し惜しみすればもっといろんな術を丁寧に教われたのではないかという考えが脳裏をよぎる。


「ところで皆々様は一体何のお集まりで?」


「我々は修羅である」


「修羅というと阿修羅とかあの?」


「である」


「ここは天狗の壺中天と聞きましたが、何故修羅の皆様が?」


「ここは所謂無可有郷だ。天然自然そのままの原風景が広がる一種の理想郷であるが、確かに日光山来電坊所有の酒甕でもある。しかし、お前の登ってきたなんじゃもんじゃの建築群はな、地獄への入り口なのだ。ここは壺の天辺であると同時に地獄の底と繋がっている。無間地獄というのは聞いたことがあろう?」


「地獄にしちゃ何というか……私のイメージ的にはどちらかというと極楽のような雰囲気の所であるような気がするのですが」


 修羅共が勢揃いで呵々大笑する。






「そうだそうだ、ここは極楽と地獄の繋ぎ目であるぞ!ここが境界なのだ。だから我々はちょいと抜け出して花見の酒乱で馬鹿騒ぎができる」


「無間地獄というのはなあ、何重にも囲われた地獄の底の底だが、すべての物事は表裏一体。地獄の最下層と極楽浄土は実は薄皮一枚で繋がっているのだ」


「釈尊がカンダタを救いなさろうとして糸を垂らしたのもこの境界よ」


「黄泉比良坂で伊弉諾尊が桃の種を投げやったのもここじゃ」


「そういえばあの桃の木はどこにあったかのう」


「さあなあ、千年以上も気にしたことはないわい」


 なんだかよく分からないが、ここは冥土の角の一里塚であり、地獄の底であり、極楽浄土であるらしい。


 もう一度いうがなんだかよく分からない。


「あまり深く考えるな、幽世という奴だ。あの世とこの世、天国地獄その全ての境目だとでも思っておくがいい」


 なんだかよく分からないまま、なんだかよくわからないものを飲み込む。


「昔、『この門をくぐる者は一切の望みを捨てよ』なんてご大層なことをいっていた奴もいたなあ」


 地獄の門の碑文であろうか?


 いずれにせよ、足下の構築物同様不思議な空間であるらしい。


「ところで、私は天狗の秘術を習得すべくこの壺中天に来た訳なのですが、修羅の皆様は何かそういったノウハウをお持ちではないですか?」


 とりあえず一番最初の目的に立ち返る。


「そうさなあ、天狗共の術というのは儂らには分からん。修羅には修羅の道理があり、天狗には天狗の術理がある。同じ空中を舞うにしても奴らと儂らでは全く違う道筋がある」


 がっくりと来た。


 ここまで『二笑亭奇譚』の如き、いやそれを凌ぐ自然の驚異をも併せ持った奇ッ怪な謎建築を踏破して来た訳である。


 日光山先生のやる気のなさに業を煮やしてフラフラと好奇心に駆られ、無目的にここまでやってきてしまったが、好奇心が猫を殺すとの言葉にあるように、好奇心でつい地獄の底に到達してしまい、何の意味もない時間を過ごしてしまったわけだ。


 なんだか無目的に事を起こして時間を空費するパターンが多い気がする。


 上級者向けマニュアルと格闘してでも、天狗の術をもう少し頑張って練習していた方がよかったのではないか?


 ここまで来たら地獄の修羅共と酒を酌み交わし、地獄の現状を憂い、新しい地獄のアトラクションならぬ拷問を一緒に考えるのも悪くないかもしれないが、私は未成年であり人間の法を破るのも気が引ける。






 新規に地獄の責め苦を考え出して、もし自分が往生したとき「やあ君がこの拷問の発案者なんだね?」とばかりに刑の執行をされては、ギヨタン博士の二の舞ではないか。


 いや、ギヨタン博士は肩の腫瘍が元で亡くなったとかだったかで、ギロチンにかけられたというのは俗説だったか。


 そんなどうでもいいことばかりが頭を巡る。


 そもそも論として、修羅等という連中と仲良く付き合うのもどうなんだろうという疑問がムクムクと沸き上がる。


 天狗に師事している時点で無用の心配かとは思うが、自分なりに整理しなければならないところであろう。


 そうこうしている内に修羅共はガンガン酒を呷っていく。


 出来上がってはいるが、いくらでもアルコールは入るよと言わんばかりにザルのように飲み干す。






 ちゃんと味わっているんだろうか?


 もったいない飲み方をしているもんだと呆れたものである。


 呆れたところで、そろそろ先生の所に戻って真面目に修行しようかと思い始めた頃だ。


 地獄の建築群をまた下っていくのは面倒だしはてさてどうした物であろうかと思い悩んでいた時、颶風が吹き荒れた。


「すわ、何事!」修羅共がぴょーんと飛び跳ねる。


「こんな所にいたのか馬鹿弟子め!」


 日光山先生である。


 しかしその目は据わっており、明らかに飲み過ぎた影響が出ていた。


 ふらふらと飛びながら屋上のフェンスをのたりのたりと乗り越えて、酒気を紛々とまき散らしながらフラフラとやってくる。


 天狗理論物理的に重力の制御に失敗し爆裂四散しないか心配になるが、生来より受け継がれし能力なようでそこら辺は心配ないのか、千鳥足ながらも数センチほど浮かんだ状態でやってくる。


「これ修羅共よ、また私の酒を勝手にガブガブ飲み腐ってからに!」


 日光山先生がメラメラと瞳の奥で紅蓮の怒りを燃やしながらやってくる。


「雷電坊か、久しいな」


「天狗風情が大きな口をたたきよる」


「酒も儂らに飲まれて嬉しがっておるわ」


 と、修羅共が勝手なことを言いながら一斉にガハハと笑い出す。


「地獄に落ちろ!」


「地獄には飽きている。この壺中天は居心地がよいのである」


「そういうお主こそ今ここに居るということは地獄にいるようなものではないか、紙一重ぞ」修羅共が日光山先生を煽る。酔漢同士の争いというのはかくも浅ましいものだと思い知らされ頭を抱え込む。


 ここは地獄か。


 いや、似たような場所であるが。


「先生、大天狗とあろう者がこんなことで諍いを起こしてはいけません」


「栞!お前も何故この様なところにいる!」


 諫めたら余計なとばっちりが来た。


「私が折角骨を折り天狗の術を仕込んでやっているというのに、フラフラと出歩いてばかりおって怪しからん」


「落ち着いてください先生。大天狗なのですから」


「たわけが、大天狗だからこそ怒り心頭なのだ!小物ならいざ知らず日光二荒山護法魔王尊ともあろう者が地獄の獄卒なんぞになめられてたまるか!」


「天狗如きが儂らを獄卒呼ばわりとは何事か!牛頭馬頭などと我々仏法の守護者である阿修羅王達を十把一絡げにするか!」


「そうだ、徳川なんぞに日光を放逐される程度の小物が不遜であるぞ!」


「たわけ修羅共!私の庭で好き勝手しおって不法滞在者め。しかも秘蔵の酒をガブガブと味も分かりもしないのに好き勝手放題飲みよって」


「味も分からんのはお主の方だろうが、この酔っ払いめ!」


「私は酔っ払ってなんておらん!酔っ払いは貴様達の方だろうが!」


「何を!」


「天狗如きが!」


 もう収拾がつかない。


 酔っぱらい同士がお互いを「酔っ払い」と小汚い古畳を煮染めたような罵詈雑言を浴びせ掛け合い罵り合う。






「我らが弓で打ち落としてくれるぞ!」


「やれるもんならやってみい!こちらこそ風雨雷火を起こして全身丸焦げに焼いてやる!大体貴様ら修羅は禁酒の神ではないのか!」


「禁酒の神」というワードが出たとたん修羅共の間に気まずい空気が流れる。


「え、修羅の皆さんあれだけ飲んで騒いでいたのに禁酒の神だったんですか?」


 不用意に思った言葉がポロリとこぼれ落ちる。


「帝釈天あたりに言いつけてやるぞ!」


「いや、儂らが禁酒の神だったのは仏法に目覚める前の天竺時代のことで、大陸から渡来してからは……」


「おうさ、特に酒を禁じられたわけでは……」


 急に旗色が悪くなる。


「おうおう、人様の般若湯がぶ飲みしておいていい気なもんだな!」


 日光山先生が勢いづく。


「仕事を思い出した!みども地獄に戻るぞ」


「そうだ、天狗如きの相手をしている場合ではないわい」


「帰るぞ帰るぞ!」


 騒いでいた修羅共が虚空に向かって六臂をかざしスイと線を切ると、空間に切れ目ができて、そこから「ごう」ととんでもなく血腥い悪臭が流れ出してくる。


 あれが地獄の入り口か!


 阿鼻叫喚の交響曲が流れ出して頭が割れそうになる。


「ではな小娘」


「また酒を飲みにやってくるからな!精進せいよ!」


 そう言って修羅達はスイーっと音もなく地獄の中に吸い込まれていき、ジッパーが閉まるように空間に開いた穴が閉じていく。


 血腥い空気の奔流がピタリと止まり、あたりには桜の花が舞い散るざあという音だけが響いた。






 阿鼻叫喚の残響もかっ消え静かに風の音だけが穏やかに満ちている。


「栞!塩撒いてやれ塩!」


「塩なんて持ってないですよ、あ、塩あった!」


 修羅共が宴に用意していたつまみが散乱している中に、塩が一掴みほどあった。


 どうやら塩を舐めながら一杯……と、いわずガブガブゴブゴブ飲みまくっていたらしい。


 虚空に向かって、花咲か爺さんの気分で塩を撒く。


「鬼は外、福は内」


「鬼ではない、修羅共だ!修羅道に真っ逆さまに落ちてしまえ!」


 そしてしばし日光山先生と一緒に二人して突っ立っていた。


「酔いが醒めてきた。術を教えてやるから下に戻れ」


 到底酔いが醒めたともとれないふわふわの状態で、なんとなくポツリと呟いた。


 とんでもなく迂遠な回り道をしたがようやく術を教えてもらえる事になったらしい。


「よろしくお願いします。先生」


「うむ。空を飛んで外から壺の底に降りるぞ」


 思わず黙り込んでしまったが飛ぶしかないようである。


 どうにも空を飛ぶ術には苦手意識ができてしまった。


 豪奢に咲き誇っていた桜の木はいつの間にか、どんな時間の進み方をしていたのか季節が巡っていたようで、春から夏へと移り変わっていたようで、青々とした葉を繁らせ、濃い夏の緑の色を撒き散らしていた。


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