第11話 『壺中天』-②
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それからしばらくの間、パソコンを初めて触ったおじさんのように、あーでもないこーでもないと試行錯誤してみたが、初心者への手引きではなく、いきなり分厚いリファレンスを渡されたようなものなのでちっとも理解が追いつかない。
兎にも角にも、まず天然自然の気なるものを体に感じ取ることから始める。
ここには浮遊の術を教わったとき、日光山先生から注がれた不思議な力なようなものが満ちている。
なるほど、これを感じ取ればいいのかと思い、なんとなく自分の中にLHCが入っているような感じのイメージをして、体の中で気が高速で加速し続けている様を想像した。
そういえば、浮遊術を習ったときは心を空にし、地に足のつかない様を体現しろとのことだった。
今流行のマインドフルネスのように禅僧の瞑想に近い状態に心を移す。
そうすると体内に暖かいものが流れ込む。これだ!この感じだと一瞬気が散った途端に先ほどの感覚が雲散霧消する。
そんなこんなをいつまで繰り返していただろうか?
何時間も過ごしているはずなのに先生の言うとおり、空は青いまま。
太陽すらないのに明るい青天井、快い春の陽気である。
先生はさっきから酩酊しており、鼾をかいては酒臭い呼気を吐き出し、たまに目が覚めたかと思うとまた飴色のぐい呑みになみなみと酒をつぎ、ぐいと飲み干す。
そうしてまた気分が良くなると、酔生夢死とはこのことだと言わんばかりに夢と現の間をこっくりこっくりと船を漕ぎながら行ったり来たりしていた。
そんな先生を見ているとなんだか無性に腹が立ち、上手く行きかけていたように思われる体内での天狗エネルギーの高まりも急に萎えてきたように思えてきた。
いっそのこと酔っ払って海獣の如く横たわっている先生の横腹を全力で蹴飛ばして逃げ出してやろうかとさえ思ったが、破滅主義的な傾向には与しないぞと思いとどまった。
私はなんだかんだで我慢強い、耐え忍ぶ女なのだ。
しかし修行中の横でぐーがーと高鼾をかかれては実に気が散る。
気分を一新しようと思い立ち立ち上がり、あたりを見渡す。
最初に遠くの方に見えた街だかなんだか分からない方に行ってみようと思いついた。
どれだけ時間が経っても外の時間はほとんど経過していない訳だから、ここで時間を潰しても何も気にすることもないだろう。
唯一ある程度自在に使えるのが浮遊術だったが、何故かこれだけはなんとなく使う気になれなかったのでてくてくと歩いて行くことにした。
なんともスケール感の狂う世界である。壺中天と言うことなので遠くの山脈は、酒甕の壁に違いない。
近づいているんだか遠ざかっているんだかなんともいえない風景が続き、モジャモジャの頭がぐにゃぐにゃになる。
気がつくともう目の前に謎の違法建築物群が広がっていた。
とりあえず律儀に「お邪魔します」と誰にともなく言って中へと入っていく。ガラスの引き戸を開けると玄関が来るのかと思いきや、いきなり和式便所があった。
こうなったらとことん付き合ってやると思い、便所の向こうにある扉を開くと六畳半の居間があった。
ただ一つ不思議なのは居間の中央には池があり、池の中には何やら得体の知れない巨大な生物が泳いでいる影がちらついていた。
その後も超芸術トマソンのような、意図不明な部屋が続き上ったり降りたりしているうちに、すっかりどこにいるのかが分からなくなった。
幸い外壁に近い部屋にいたらしく、外をのぞくと結構な高さまで上ってきていたようである。
台所のど真ん中にある、謎の階段を上っていくと今度は何やら不思議な配管だらけの部屋にぶち当たった。
しかし周囲を見渡すとソファーや洗練された調度品が設えてあり、配管がスラム街のように拗くれて広がっている以外はむしろ過ごしやすそうであった。
その上りの階段は、配管部屋の中頃の高さまで伸びており、そこから先は下っていって床に突き刺さっていた。
もう意図を読む努力は放棄していた。
あるときは廊下がどこまでも続く区画に到達し、地下世界めいた場所を当てもなく彷徨った。
なんだかとても古い歯医者や眼医者と書かれたボロボロの看板があったりもしたが、地獄の底を覗くような歯の激痛に襲われたとしても、おそらく入らないだろうという感想が頭をもたげた。
恐らく麻酔など近代的な医療技術などなく、やっとこで片っ端から歯を抜かれるに違いない。眼医者など想像もできない恐ろしさがある。
あちこちでそのような看板や、ひっそりとした商店街などにもぶち当たったが、誰一人として人の気配はなかった。
最も商店街とは言っても、店舗と普通の住宅の一部屋がごちゃ混ぜになったような、例えば独居房のような四畳半の畳敷きの部屋の窓を開けるとそのままアーケード街のようなところに出たり、魚屋のような所に入っていったら一面和式便所が広がっていたりと何が何だかさっぱりである。
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