第10話 『壺中天』-①

第六章







 店のカウンターの下から、天狗をも惑わせて打ち落とすと言われる幻の銘酒「書痴」そして、最近手に入るようになった焼酎「筆禍」を取り出し並べると、思いの外大量にあり思わず満腔の笑みをたたえる。


「よし」そう頷くと、惑い打ち落とされに来る天狗を待つことにした。




 宇都宮の夏の一大イベント「ふるさと宮祭り」が終わった後、日光山先生という飲んだくれて千鳥足どころか、足腰立たない状態の「打ち落とされた」天狗を介抱していた時の事である。






 人にこれだけ介抱させているのだからということで、酔って判断力も何も無い状態の先生に「天狗の秘術を授けてください」とお願いしたところ、快い返事を頂けたので、書面に残しサインしていただいた。


後に何故か先生は激怒したが、般若湯をご進呈申し上げるとの旨お伝えしたら、渋々といった感じで了解いただけた。


 何にせよ、空を飛ぶ以外の新しい秘術を授かれるとのことで思わず私もニッコリ天狗舞である。






 そんなこんなでいつ誰が飲むともしれない、幻の酒を並べ先生を迎え撃つことにしたわけだ。どうだ凄いだろうという所で謎の満足感に満たされているところである。


 この感覚はよく知っている。読みたい本を手に入れて、積んだところで満足してなかなか読まないアレである。






 古本屋としての本分を忘れて、冥府魔道の遊戯に耽るのは、なんとも背徳感に満ちた行為だが、天狗の秘術には抗えない魅力があるのも事実であった。


 私が実際この目にしたのは、普通の鞄としか思えない肩がけ鞄に献上した書痴の一升瓶を六本も詰め込んだり、どう考えても重いそれを軽い感じでホイと持ち上げたりと物理法則を無視したような収納術と飛ぶことである。






 収納の術は科学的に再現できるようで、母の勤める異端教祖株式会社という所から送られてきた「ヒルベルトのホテル」なる謎に満ちた収納箱には、アレフ・ヌル以上に荷物を収納できるということで、我が天矢場古書店ではそこに店頭に出せない貴重な商品を詰め込めるだけ詰め込んでいた。


「ヒルベルトのホテル」が天狗の術と同じ原理かは分からないが、ある一定の水準で科学の力により再現できることには間違いなさそうだ。


 そして、先生に献上するエチル・アルコール類は普段この収納に詰め込まれている。


 今まで図書館警察なる闇の組織から、この古書店の店主である祖父に送られてきた「書痴」や「筆禍」をポイポイ放り込んでいたわけだが、こうして出して並べてみると壮観である。






 これだけ献上すれば、ケチケチせず「まあ!なんということでしょう、これは我が可愛い弟子のために全ての術を、特に修行無しで授けなくては!いや、捧げさせてください!」と、涙もちょちょ切れる感動のシーンが待つこと請け合いに違いない。そうに違いない。


 しかし、なかなかの壮観である。一升瓶を並べただけで謎の満足感に満たされる。


 しかしながら、並べただけで、満足して終わるわけにはいかない。天狗の業の授与という一大イベントが控えているのだ。もう今から気分はアゲアゲの絶好調である。


 日光山先生は今晩日の暮れる頃に来るという。日没までそれ程時間も無い。


 先生の来訪を今か今かと待ちわびるばかりである。


 天狗の業といえば私が出来るのは空中散歩の術ばかりである。


 これはこれで立派な術であり、今まで何度も世話になってきたが、人に見られる可能性もあるため、その使いどころは難しい。






 今度はどんな業を授けてもらえるのだろうか?


 前述の、物をいくらでも収納できる天狗袋の術でもいいし、天狗礫を飛ばしたり、風雨雷火を操り「ふるさと宮祭り」や東小学校の運動会を邪魔してもいい。


 隠れ蓑術は犯罪にも応用がききそうだが、犯罪者にはなりたくないのであまり悪いことには使わずにおこう。






 刑法に触れない程度の多少の不正なら良かろうか?


いや、とらぬ天狗の皮算用はやめよう。何か不正な事にばかりに応用が利きそうな術だらけだが、私は古代中国に生まれていたら、その清廉潔白さから何らかの故事として名を残そうというほどの人物である。そんな不正に使うことなどない。多分ないとおもう。ま、ちょっとは覚悟しておけ。






 ここに揃えたアルコール類と引き替えに天狗の術理を己が物にし、魔道を一切の苦労は無しに極めるのである。


 期待は高まるばかりである。有頂天である。わくわくでドキドキである。


 そうこうしている内に夏の遅い日没も迫ってきた。先生も逢魔が時、空の陰と共にやってくることだろう。文字通り魔の者に会う訳だから、うってつけの時間帯じゃないか。


 やがて夜の帳が降りてくる。


 店の入り口に闇が差すと同時に、黒々とした何かが空からぼとりと降ってくる。


「ごめんよ」日光山先生である。


「お待ちしておりました、ささ、献上の品です。お納めください」


「仕方ない、そうまでいうなら受け取ってやろう」


 わざとらしく渋い表情を作りながらも、素早い動きで肩がけ鞄の中に一升瓶をひょいひょいと詰め込んでいく。


 もう何度も見た光景だが、やはり驚嘆に値する。


 その異常な収容能力もさることながら、特に重さが変化しているわけでもなさそうな所も驚きである。






 我が母の会社であるところの異端教祖株式会社が誇る「ヒルベルトのホテル」は無限収容は出来るものの、しっかりと床に備え付けてあり、一人の力で動かすどうこうということが出来るような物では無い。


それに比べると、日光山先生の鞄は最終的な収容能力がどれほどかは未知数だが、個人で携行するのに容易な大きさと取り回しの良さでは「ヒルベルトのホテル」を凌駕しているといえるだろう。


 この術を科学的に解明できることができれば、日本学士院賞だろうが京都賞だろうが貰ったも同然である。


 そういった天狗の技術が「ヒルベルトのホテル」にも応用されているのかは詳しいところは分からないが、一枚噛んであっても不思議ではあるまい。


 日光山先生が最後の酒瓶を鞄に詰めると、さっきまで雑然としていた店内が広々と開けたような錯覚に襲われる。






 実際一升瓶に圧迫されていた所から見れば、店内は広くなっているが、もとより汗牛充棟雑然とした本の大山脈が横たわっているので大して広くはなっていない。


 そんな雑然とした店内で相対する一見すると初老の紳士、しかも実年齢は幾つだか分からないという怪人物、いや人なのか?と、ごく一般的な読書が趣味というだけの乙女。


 どんな取り合わせだと思わなくは無いがこれで契約は完了である。


「さあ、先生。私に天狗の業をドンドンとご教授ください。高分子吸水ポリマーのごとく吸い取って見せましょうぞ」


 天狗をも惑わす酒の数々である。惑いに惑って、ここはドーンと大盤振る舞いして欲しいところだ。


「そう慌てんでもちゃんと術は仕込んでやるから安心せい。術を学ぶにも順番があるのだ」


「座学とかは嫌です」


「こやつめ、術の難易度が上がるにつれて、その術理の内奥に秘められたる魔道の論理に深く精通する必要がある」


「しかし浮遊術は、地に足をつけない心持ちでプカプカといけましたよ?」


「あれは私の神通力を注ぎ込んだのと、奇跡的にお前とお前の我欲を起点に集中するという行為の相性が良かっただけだ、そう簡単に何でも手に入ると思わぬ事だわい」


「難しいことを考えるのは嫌ですね。脳が糖分を消費します」


「口の減らない事だ。所で明日は休みか?まぁ時間など気にしなくてもよいのだがな」


「ええ、夏休みなので学校は休みです。店の方も特に来客の予定はないです」


「では宮島町の猿田彦神社へ行くぞ」


「あのような何も無いところへですか?まさか今から一杯引っかけようというのではないでしょうね?」




 先生がこれまで見たこともないような更なる渋面を作る。


「業の伝授にはそれ相応の場所という物がある。神域での修行が力を高める」


「神域とは仰いますが、先生の飲み会会場ではないですか。そんなところが神聖なんですか?」


「馬鹿者、酒を飲むというのも呪いに通じる行為なのだ。そのために神域に属する場所で飲んでいるのだ」


 何を言っているのかちょっと分からないがそういうことらしい。







 薄暗くなった商店街を、宮島町の猿田彦神社に向かって二人歩いて行く。


 空を飛ぶほどの距離でもないし、夏も暮れかけとはいえまだ日は長かった。


 猿田彦は天狗の祖先ともいわれているらしく、滋賀と三重に猿田彦の総社があるらしい。


 それに比べると宮島町の猿田彦神社は、慎ましいを通り越して神社らしさといえば鳥居しかない、単なる狭い寄り合い所のようでしかなかった。


 使われるときというと、先生が時々不法に潜り込んでは酒盛りをする以外は、祭りなどで神輿を出したり天狗役の人がでるときの準備、寄り合い所扱いされるときぐらいである。


 てくてく歩き、周りに誰もいないことを確認すると、先生は勝手知ったる自分の寄り合い所といった感じで鍵を開け上がり込む。


 ピッキングでもしたのか鍵を取り出していたわけでもないようであるのに無造作に開けていた。これも術なのか?


 後からついて行くと部屋の中には神輿が次の出番の来るときまで眠りについている。


 先生は神輿によじ登ると、天袋を開け中に入っている荷物を取り出すと無造作にそこら辺に置き、天袋の中に潜っていった。


「栞や、こっちだ」






 天袋から逆さまに頭を出している様は恐怖のビデオそのものであったが、無邪気なその意見を先生に伝えるとご機嫌を損ねること請け合いなので黙っている。


 私も不敬だとは思いながら神輿を足場に天袋の中にもぞもぞ入っていくと、天板が外されており天井裏に行けるようになっていた。


 しかし、神社は天井裏なんてあるんだろうかというスレート葺きの小さい建物であったが、身をよじり頭を天井裏へ突っ込むと、そこには青い空が広がっていた。


 大概のことには驚かなくなっていたが、周辺が暗くなっていただけに、いきなり青い空が頭上に広がった状況に頭が追いつかず、すわ何事かと思い、天井から頭を出したり引っ込めたりする。


「いいから一々驚いていないでさっさと上がってこい」


 先生の声がする。


 のたのたと狭い天井板の隙間から、屋根裏?へ上がっていくと日光山先生が立っていた。


「別乾坤を建立する」


 と、一言。


 広々とした世界には爽やかな風が吹いており、遠くの方には何やら無造作に増改築を繰り返したような奇ッ怪な建物なのか街なのか判然としないものがあり、さらに遠くには山脈がそびえていた。


「古峰神社の私のねぐらにある、酒甕の中だ。お前の知っているとおり『書痴』や『筆禍』などを貯めておる」


「ならば『あるいは酒でいっぱいの海』のごとく溺れていなくてはならないはずでは?」


「壺中天、壺の中の別世界だ。酒池肉林ではないが酒の泉だろうが何だろうが思いのままの仙郷だ。酒を飲み干したときの憩いの場でもある」


「なるほど、これが中国の説話などで有名なあの噂の壺中天」


「そうだ、ここは天狗の力を磨くのに最適なところである。天然自然の気に満ちている別乾坤である」


「たしかにここなら人目を気にせず好き放題に天狗の業が使えそうですね」


「うむ、しかしながら猿田彦神社と、古峰神社の酒甕が繋がっていることは誰にも漏らしてはならん」


「もちろんでございます先生」


「よろしい、では天狗の隠れ蓑の術でも授けてやろうかな」






 万引きに便利そうな術ですねと言いかけて黙った。


 もし言ってしまったら筆禍ならぬ舌禍である。先生の機嫌を損なうことこの上ない。


「最近は便利なもので、口伝でしか伝わらなかった天狗の術理も天狗理論物理なるもので解明されようとしているそうだ。私の知り合いの人間が研究しているのをまとめた教書がある。それを読んでまず勉強してみろ」


「座学は嫌だなあ」


「なんて?」


 いえ、なんでもと、慌てて言葉を引っ込めたが座学は面倒である。


 本を受け取り、パラパラとめくってみると難しい数式のようなものは別表に記載されているようで、理論自体は一般的なポピュラーサイエンスの本のように読み物形式で記載されていた。


 天狗の術理とM理論には綿密な関連性が指摘され云々。


 エドワード・ウィッテンにより提唱されたこの理論はまだ未完成ながらも、非常に強い魅力を備えているようで、この教書の文章から竹林の隠者のような見た目を想像させられる筆者の熱い期待が伝わってきた。






 曰く、浮遊術は十一次元超重力理論と関連しており、三次元を超越した自由な空間の広がりの中で重力子のスピンが天然自然の気の力により反転することにより、強い力が発生し、地球の思惑に外れて空中へと体が投擲されるらしい。


 一歩間違えると原子・分子間に働く相互作用が決裂し重力の繋がりがほどけて、体が爆裂四散する恐れがあるという。


 なんだか恐ろしいことが書いてある。ってか先生もそんな恐ろしい業なら最初に教えてくれとも思ったが、量子力学において、物質が壁を通り抜けて壁抜けすることがあるという例え話を思い出した。






 こちらの場合は非常に小さなミクロの世界では実際に粒子や波が障壁を乗り越えるという、いわゆるトンネル効果が起きるらしいのだが、マクロの世界では確率の値が無限に小さくなるので壁抜け現象が起きないということらしい。


 と、いうわけでその量子トンネル効果を人為的というか天狗為的に起こすのが天狗の通り抜けの術である。


 天狗の隠れ蓑の術はさらに謎に満ちている。


 電磁相互作用を持たず、光学的に観測されない上に、色荷ももたないとされる構成素粒子も謎でありながら宇宙全体の観測される質量の何倍もの質量を持つとされる、空間のそこいらに充満しているらしいという暗黒物質を何らかの力によって集めてまとう。


 この場合天狗の持つ天然自然の気を操る力を持ってして暗黒物質を集めるという、最先端の理論物理学でも解き明かせない神秘の力でもってして、光学的変化を現じせしめ、空間から己の存在を気配ごと消し込むという不思議な術である。


 つまり天狗の術は理論と数式でできているというのがこの教書の趣旨である。


ガリレオの言うとおり、世界を記述する言語というのが数式であるのも不思議ではないのかもしれない。






 ここまで読むのに結構な時間がかかったがなんとなく言いたいことは伝わってきたのでよしとしよう。


 意識して訓練するのと、力の流れる経路も理解せずに訓練するのとでは大違いである。


 一通り読み下して一息つくと日光山先生が横に座っていた。


「ここは外の世界と時間の流れが違う。ゆっくり修行に励むがよい」


「天狗の世界も押し寄せる科学文明の波には逆らえないものですね」


「いずれこの壺中天の神秘のヴェールも剥ぎ取ってしまうに違いない。人間というのは全く知りたがり屋だ」


「エミール・デュ・ボア=レーモンは『我々は知らない、知ることはないだろう』と言いました。それに対してダフィット・ヒルベルトは『我々は知らねばならない、我々は知るであろう』と反論しました。ヒルベルト・プログラムがゲーデルの不完全性定理によって覆されるまで人々はこの言葉に勇気づけられたんですよ。だから私も天狗の術について知りたいと思います。すなわち『我々は知らねればならない』ということです」


「知らないことが明らかになると、また一つ秘密が現れる。そのようにして皮を剥いていくといつの間にか正体がなくなってしまうのではないかと思うな。中心のない虚無という奴だ」


「何にせよ私は天狗の術を己のものにしてみますよ」


「まあ好きにすることだな」


 そう言うと先生はいつの間にか傍らに置いていた酒瓶から、懐に忍ばせていたら益子焼のぐい呑みへ書痴を注ぐと、グビリと一杯やった。見事な飴色のぐい呑みである。

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